昨日は、一日宿坊に籠って法具としての法螺貝の制作をしました。貝を磨くのはむかしからやっていますが、加工して音を響かせようとすると調律が必要です。調律の学校などに通った経験があるわけではなく、とにかく私自身が貝と一体になって様々な貝の善い音を聴いてその貝の徳が顕現するもっとも善い音に近づけるという具合です。まさに一期一会の調律です。
そもそも音の出る法螺貝も法具の音と楽器の音とは異なります。音が出ればいい法螺貝はある程度の知識があれば誰でもつくれます。色々な法螺貝を取り寄せて研究してみましたが音の質自体が異なります。この違いの音を言葉で説明するのが難しいのですが、響きや余韻がまったく異なるのですぐにわかります。貝と作り手の心境が音にすぐに現れます。その法具を正しく法具として使えば、その用い手の心が法具に響き渡るようにできています。どのような場でどのような心境で、どのようなタイミングというのも深く関わってきますし、人生のあらゆるシーンで吹き込めばそれだけ音は美しく豊かになります。
私は法具と似たものの一つに「お札」をつくっています。このお札も、ミツマタから和紙を漉きこみその間、祈り法螺貝を吹き、しだれ桜の木の下に安置し、最適な日に最適な場所で断食をしてつくりこみます。そのお札は、プリンターで機械でできたものではなく塗料も安易に混ぜあわせた化学的なものでもありません。すべて自然の材料で天然の状態でそのもののいのちが宿り続けるように丁寧に手間暇と手作業で効率を完全に無視して一年がかりでつくりこんでいきます。
これは私が紙を単なる物として思っておらず、自然のいのちそのままの存在の紙の徳を活かしそのままに法具(お札)にしようとしているからです。
つまりは法具というのは、最初から法具として徳を損なわないように真心を籠めて最後まで自分の手で丁寧につくりこまれたものだからこそ法具になるのです。そして法具の持つ力は、その法具「そのものの徳が顕現する」から法具としての役割を生きていくことになります。
物としての制作物か、あるいは祈りとしての法具なのか。
最初から最後まで自分で手掛けることができることはとても仕合せなことです。これは自然農の野菜を自然農の田んぼで見守り育て、それを自ら調理していのちをいただくことに似ています。
法螺貝を探し求め供養をし、それを自ら加工して調律してそれを吹きその音を響かせて倍音によって場を清めていく。こんな仕合せなことは他にはありません。
自分で最初から取り組むというのは、自分の初心をそのままに最期まで真心を盡すことができるということです。真心を盡すものには不思議な力が宿ります。宿る物、宿る場、宿る命、その宿るものの中にこそ本物の徳があるのです。
これからも子孫のためにも懐かしい未来のお山の暮らしを楽しんでいきたいと思います。