一つ
先日、代々木公園であった【Earth Day】(アースデイ)のイベントに参加してきた。
このイベントは、毎年同じ日に世界中の各地で「地球の日」を祝い、個人として地球に対するその姿勢を各々で表現する一大イベントだ。
当日の会場でも様々な世界における活動が各ブースで紹介されていた。
足を止めて話を伺うたびに、身近で起こっている日常では視得ない出来事の根源的で本質的な問題を垣間見ることができる。
何かを得るためには尊い犠牲がある。
その犠牲を感じることを已めたことがこのような取り返しのつかない自体を巻き起こした原因だろうと私は思う。
常にニンゲンが何かを得る場合は、覚悟がいるのだと思う。
昔はソレ相応の儀式などをもとに、その多大なる犠牲に対しどうあるべきかの姿勢を遺してきた。
ここでの「犠牲」とは、何かの出来事のために今までのものを変えるほどの大切な決断から生まれる歴史の選択のことだ。
どうやら一部の文明人は、その意味を忘れイマが全てが亡くなるまで続けるつもりのようだ。
歴史の本質は、決してそうはいかないのになと思う。
問題の先送りと過去の負債の返済は、常に「今」を生きる人たちにやってくる。我々は子どものためにも、その責任を「イマ」果たしていかないといけないということだろう。
世の中への活動は、具体的には直接的や間接的にもできる。
ボランティアなどを通した直接的な場合は、多くの犠牲に対し「有難く頂いている」という感謝の心を忘れたらもうそれは社会貢献というボランティアではない。
ビジネスを通した間接的な場合は、多くの犠牲に対し「モノゴトの判断の源流動機が常に正しいか」の心の姿勢という本質を忘れてしまったらもうそれは社会貢献というビジネスではない。
一歩間違えば、「エコ」ではなく「エゴ」になるから気をつけないといけない。
大切なのは、常にそのような問題意識や危機感を日常から持続する継続する意志が大切なのだろう。
弊社でも、社内の様々なものはロハスというか地球のことを意識するものを使っている。これからもそれをずっと永続していくことはカグヤスタッフみんなの共通理解だ。
意味がないものはない世の中だからこそ、意味を付ける力がなければそれは現象として実体がつかないと思うからだ。
昔は当たり前だったものが、当たり前でなくなっている今の世の中だからこそ当たり前である普遍的なものと変えていく勇気をちゃんと持っていこうとすることもボランティアとビジネスを一つに考えたシンプルな思想だと思う。
これからもその「一つ」は、永遠に持ち続けようと私は思う。
ニンゲンもだが生物は何か一つのことしかできないのだから、そのために「命」をどこに使うのかを決めるのが「性」なのだと思う。
なぜなら、「自分だけ」で生きていくことが生き物にはできないからだ。
自分だけのことだけで生きれることがあるなど思うのなら、それが大きな致命的な間違いであると世界へ気づかせないといけない。
「生きる」とは、主体的に他を生きることだと思うからだ。
関係がその都度で終わってしまえば本当にその時だけの自分との刹那的なものになってしまう。
すべての日々は多くの関係と接しながら生きていることを決して忘れてはいけない。
そしてその関係に於いて、目に見え、手に触れられ、耳に聞こえたりする全ての「存在」に生かされていることを教えてくれる。
そのために「五感」がちゃんとあるのだから。
子ども達には、子ども達のときから自然に身近にあるすべてのモノやコトに生かされていくことにちゃんと気づいていければいいと思う。
そして社会に出て都市に塗れ大人になってからも、多くの人たちに生かされることが生きることだと知っていければいいなと思う。
私自身もっと「生きる」ということに子どもと同じように気づいていきたい。
何気ない日々にこそ、何気ない関係にこそ生かされているという真実の実感を大切にしながら、ジブンの足元を深く噛み締め味わいながら揺るがない情熱と信念とともに歩んで生きたい。
このイベントは、毎年同じ日に世界中の各地で「地球の日」を祝い、個人として地球に対するその姿勢を各々で表現する一大イベントだ。
当日の会場でも様々な世界における活動が各ブースで紹介されていた。
足を止めて話を伺うたびに、身近で起こっている日常では視得ない出来事の根源的で本質的な問題を垣間見ることができる。
何かを得るためには尊い犠牲がある。
その犠牲を感じることを已めたことがこのような取り返しのつかない自体を巻き起こした原因だろうと私は思う。
常にニンゲンが何かを得る場合は、覚悟がいるのだと思う。
昔はソレ相応の儀式などをもとに、その多大なる犠牲に対しどうあるべきかの姿勢を遺してきた。
ここでの「犠牲」とは、何かの出来事のために今までのものを変えるほどの大切な決断から生まれる歴史の選択のことだ。
どうやら一部の文明人は、その意味を忘れイマが全てが亡くなるまで続けるつもりのようだ。
歴史の本質は、決してそうはいかないのになと思う。
問題の先送りと過去の負債の返済は、常に「今」を生きる人たちにやってくる。我々は子どものためにも、その責任を「イマ」果たしていかないといけないということだろう。
世の中への活動は、具体的には直接的や間接的にもできる。
ボランティアなどを通した直接的な場合は、多くの犠牲に対し「有難く頂いている」という感謝の心を忘れたらもうそれは社会貢献というボランティアではない。
ビジネスを通した間接的な場合は、多くの犠牲に対し「モノゴトの判断の源流動機が常に正しいか」の心の姿勢という本質を忘れてしまったらもうそれは社会貢献というビジネスではない。
一歩間違えば、「エコ」ではなく「エゴ」になるから気をつけないといけない。
大切なのは、常にそのような問題意識や危機感を日常から持続する継続する意志が大切なのだろう。
弊社でも、社内の様々なものはロハスというか地球のことを意識するものを使っている。これからもそれをずっと永続していくことはカグヤスタッフみんなの共通理解だ。
意味がないものはない世の中だからこそ、意味を付ける力がなければそれは現象として実体がつかないと思うからだ。
昔は当たり前だったものが、当たり前でなくなっている今の世の中だからこそ当たり前である普遍的なものと変えていく勇気をちゃんと持っていこうとすることもボランティアとビジネスを一つに考えたシンプルな思想だと思う。
これからもその「一つ」は、永遠に持ち続けようと私は思う。
ニンゲンもだが生物は何か一つのことしかできないのだから、そのために「命」をどこに使うのかを決めるのが「性」なのだと思う。
なぜなら、「自分だけ」で生きていくことが生き物にはできないからだ。
自分だけのことだけで生きれることがあるなど思うのなら、それが大きな致命的な間違いであると世界へ気づかせないといけない。
「生きる」とは、主体的に他を生きることだと思うからだ。
関係がその都度で終わってしまえば本当にその時だけの自分との刹那的なものになってしまう。
すべての日々は多くの関係と接しながら生きていることを決して忘れてはいけない。
そしてその関係に於いて、目に見え、手に触れられ、耳に聞こえたりする全ての「存在」に生かされていることを教えてくれる。
そのために「五感」がちゃんとあるのだから。
子ども達には、子ども達のときから自然に身近にあるすべてのモノやコトに生かされていくことにちゃんと気づいていければいいと思う。
そして社会に出て都市に塗れ大人になってからも、多くの人たちに生かされることが生きることだと知っていければいいなと思う。
私自身もっと「生きる」ということに子どもと同じように気づいていきたい。
何気ない日々にこそ、何気ない関係にこそ生かされているという真実の実感を大切にしながら、ジブンの足元を深く噛み締め味わいながら揺るがない情熱と信念とともに歩んで生きたい。
コメント
日々、生きていることを感じることにより豊かな人生を送ることが出来るのではないかと思います。
人生は、ろうそくのようだと聞いたことがあります。一度、生という炎が灯されると、ろうそくは短くなっていきます。人生は、止めることは出来ません。一分、一秒、一瞬を大切にしたいと思います。
今まで目に見えていることだけを信じてきました。
目に見えていることではないもっと大切なことの方が本来重要で、人間の根本的なところがあるように感じます。
生きることとは、簡単なことではないので自分が何で生きているのか、何をするために生まれたのか自分がこの世の中の子どもたちに何を残せるのかから考えて、何らかの指名、役割というものを見つけ、自分という人間を探求していきたいと思います。
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いるということを振り返らないといけないと思いました。ついつい自分だけの狭い感覚
に陥ってしまうと、さも自分が遣っていると思いがちになってしまい、自分のエゴで
満たしてしまい一人よがりのものになってしまう。生きとし生けるものの存在を確かに
感じて、その力や自分の驕っている部分など見直していかないといけないということを
思いました。
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