情報リテラシー5
現在、ITの世界ではWEB2.0というのが主流になっている。
今までのWEBの定義の枠では収まらないので言葉を変えて改めて定義して2.0としたのだという。
確かに、数年前はWEBというとホームページで情報をただ公開したり、それを使ったりしただけだった。それが最近のように、SNSなどを通して情報が知恵を創発したり、双方向から価値観の融合による新たな文化を創ったり、権力が上から下へ移行したりともうきりがないほどここ数年で大進化している。
もちろん、この後はweb3.0になり、4.0になりとずっとこれは続くのだろう。
「情報」という膨大な目には見え難い「変化」のことをそうやって「区切り」、そして無理やり言葉に定義し「2.0」と表現したのだろう。
人間の脳はきっと、そうやって区切り毎回白黒つけないと理解できないようにできているのだろうと思う。これも言葉の持つやっかいさというか、常に情報はそうやってそのまま受け取りながら時と人と環境とともに物事はズレていくのだろう。
自然のものや目に見えないものを区切りたくなるのは科学の妙だ。しかし、そうやってでも目には見えないものを観ていこうとする姿勢は両義性という観点から見ればとても素晴らしいことだとも思う。
しかし闇雲ではいけない。
まずは、「変化」という「意味」をどのように感じ尽くすか?
変化とは、大が小であり、小が大だと知るようなものだと私は思う。
変化とは、全体が一部であり、一部が全体だと知るようなものだと私は思う。
つまりは、全体の「調和」に於いてそれを観るために他の部分の見方を自らが変えること。
同じものであるのに、見方を変えてまったく違ったものに化けるようなもの。
本質はひとつであるのに、目に映るものが違うということ。
きっと、それを別の表現では「バランス」というのだろうと思う。
バランスが悪いと平常心を維持できず、物事があるがままにならない。
このように「変化」とは、その逆、つまり変わっていることでむしろ安定するという真理が潜んでいるのだろうと思う。
現象や実体、身体や精神、すべては「変化」というもので語ることができると思う。
その変化とは、言い換えれば「調和」のこと。
片方に偏ったものを、もう片方へ偏らせるその「中庸」のようなものなのだろう。
今、世界を見渡せばどれだけの変化という調和があるのだろうか・・・
ニンゲンはどちらかというと、保守的に自分を守ることだけを考え、変わった変わったといいながら何も変えようとしない。
時の惰性に流されるだけで未来を予測し不安だけを思い、自らが未来を創造しようとはあまりしない。
目に見えるものばかりに常に心を囚われ執着し偏っていく。
離れて観るとこの今も、また同じ歴史の教訓のサイクルの中で過去の同じような出来事の中に入っているような気がする。
きっとそういう時は、大衆心理や権力者のトップが一斉に視野が狭くなるのだろう。
これも「情報の変化」がそうさせているような気がする。
たとえ地球がもし善も悪もすべて吸収しているとしても、時代的な魂の成熟を考えるとそれもまたここではちゃんとした情報の「バランス」が問われるのではないだろうか?
われわれは、どちらを選び変化すべきなのか?その決断の時に今もあるのだと思う。もうそろそろ成熟した精神に於いて認知する機ではないのだろうか?この日本にはそれができる土壌も人材も揃っているのにと思ってしまう。
私の尊敬する経済人にソフィアバンクの田坂広志氏が居る。
いつも講演や著書を拝聴し拝読している心の師の一人だ。
その方が下記のようなことをメールマガジンで仰っている。
これも情報リテラシーの要諦だと私は思った。
〜
「子供の喜びと大人の喜びとは、何が違うか」
との問いを掲げ、
「成熟した精神」(Mature Mind)は、喜びについての
「三つのパラドックス」を楽しめるということを語りました。
すなわち、成熟した精神は、
(1)「予期せぬ事」(Unexpected Event)を楽しめる
(2)「人生の矛盾」(Contradiction)を楽しめる
(3)「一度かぎり」(Once-ness)を楽しめる
ということ、そして、そうした深みある精神は、
「縁」(Enishi)、「菩薩」(Bosatsu)、「一期一会」(Ichigo-ichie)
「感得」(Kantoku)、「働く」(Hata-raku)、「有り難い」(Ari-gatai)、
「言霊」(Kotodama)
といった、日本における様々な「智恵の言葉」(Words of Wisdom)
の中に、象徴的に示されている・・・
〜
私なりに解釈すると衣食住足りた「足るを知る」謙虚な成熟した本来のこの国の持つ和の精神に於いて、予期せぬことを慈しみ、人生の矛盾と正対し、一度限りの命を生き切る。
命の本質ときちんと正対し子どもたちへ明徳に伝える時代なのではと改めて思う。
きっとこれからすぐの未来はあっという間に「情報調和」のステージへ時代が次々と移っていく。
常にそれぞれ一人ひとりが自らの役割と使命を粛々と受け止め、自らへ矢印を向けて静寂を保っていき自分軸という信念と理念をきちんと醸成していく情報本質の時代へ入ったのだろう。
明日は、三重県の津市で青年部合同研修の講演がある。
ここでもいつもと同じように、できることの限りを尽くし誠心誠意を持って自らが掴んできたことすべてをオープンマインドでしっかりとお伝えしていきたい。
この一期一会を、永遠の邂逅としまた素晴らしい出会いに感謝していきたい。
今までのWEBの定義の枠では収まらないので言葉を変えて改めて定義して2.0としたのだという。
確かに、数年前はWEBというとホームページで情報をただ公開したり、それを使ったりしただけだった。それが最近のように、SNSなどを通して情報が知恵を創発したり、双方向から価値観の融合による新たな文化を創ったり、権力が上から下へ移行したりともうきりがないほどここ数年で大進化している。
もちろん、この後はweb3.0になり、4.0になりとずっとこれは続くのだろう。
「情報」という膨大な目には見え難い「変化」のことをそうやって「区切り」、そして無理やり言葉に定義し「2.0」と表現したのだろう。
人間の脳はきっと、そうやって区切り毎回白黒つけないと理解できないようにできているのだろうと思う。これも言葉の持つやっかいさというか、常に情報はそうやってそのまま受け取りながら時と人と環境とともに物事はズレていくのだろう。
自然のものや目に見えないものを区切りたくなるのは科学の妙だ。しかし、そうやってでも目には見えないものを観ていこうとする姿勢は両義性という観点から見ればとても素晴らしいことだとも思う。
しかし闇雲ではいけない。
まずは、「変化」という「意味」をどのように感じ尽くすか?
変化とは、大が小であり、小が大だと知るようなものだと私は思う。
変化とは、全体が一部であり、一部が全体だと知るようなものだと私は思う。
つまりは、全体の「調和」に於いてそれを観るために他の部分の見方を自らが変えること。
同じものであるのに、見方を変えてまったく違ったものに化けるようなもの。
本質はひとつであるのに、目に映るものが違うということ。
きっと、それを別の表現では「バランス」というのだろうと思う。
バランスが悪いと平常心を維持できず、物事があるがままにならない。
このように「変化」とは、その逆、つまり変わっていることでむしろ安定するという真理が潜んでいるのだろうと思う。
現象や実体、身体や精神、すべては「変化」というもので語ることができると思う。
その変化とは、言い換えれば「調和」のこと。
片方に偏ったものを、もう片方へ偏らせるその「中庸」のようなものなのだろう。
今、世界を見渡せばどれだけの変化という調和があるのだろうか・・・
ニンゲンはどちらかというと、保守的に自分を守ることだけを考え、変わった変わったといいながら何も変えようとしない。
時の惰性に流されるだけで未来を予測し不安だけを思い、自らが未来を創造しようとはあまりしない。
目に見えるものばかりに常に心を囚われ執着し偏っていく。
離れて観るとこの今も、また同じ歴史の教訓のサイクルの中で過去の同じような出来事の中に入っているような気がする。
きっとそういう時は、大衆心理や権力者のトップが一斉に視野が狭くなるのだろう。
これも「情報の変化」がそうさせているような気がする。
たとえ地球がもし善も悪もすべて吸収しているとしても、時代的な魂の成熟を考えるとそれもまたここではちゃんとした情報の「バランス」が問われるのではないだろうか?
われわれは、どちらを選び変化すべきなのか?その決断の時に今もあるのだと思う。もうそろそろ成熟した精神に於いて認知する機ではないのだろうか?この日本にはそれができる土壌も人材も揃っているのにと思ってしまう。
私の尊敬する経済人にソフィアバンクの田坂広志氏が居る。
いつも講演や著書を拝聴し拝読している心の師の一人だ。
その方が下記のようなことをメールマガジンで仰っている。
これも情報リテラシーの要諦だと私は思った。
〜
「子供の喜びと大人の喜びとは、何が違うか」
との問いを掲げ、
「成熟した精神」(Mature Mind)は、喜びについての
「三つのパラドックス」を楽しめるということを語りました。
すなわち、成熟した精神は、
(1)「予期せぬ事」(Unexpected Event)を楽しめる
(2)「人生の矛盾」(Contradiction)を楽しめる
(3)「一度かぎり」(Once-ness)を楽しめる
ということ、そして、そうした深みある精神は、
「縁」(Enishi)、「菩薩」(Bosatsu)、「一期一会」(Ichigo-ichie)
「感得」(Kantoku)、「働く」(Hata-raku)、「有り難い」(Ari-gatai)、
「言霊」(Kotodama)
といった、日本における様々な「智恵の言葉」(Words of Wisdom)
の中に、象徴的に示されている・・・
〜
私なりに解釈すると衣食住足りた「足るを知る」謙虚な成熟した本来のこの国の持つ和の精神に於いて、予期せぬことを慈しみ、人生の矛盾と正対し、一度限りの命を生き切る。
命の本質ときちんと正対し子どもたちへ明徳に伝える時代なのではと改めて思う。
きっとこれからすぐの未来はあっという間に「情報調和」のステージへ時代が次々と移っていく。
常にそれぞれ一人ひとりが自らの役割と使命を粛々と受け止め、自らへ矢印を向けて静寂を保っていき自分軸という信念と理念をきちんと醸成していく情報本質の時代へ入ったのだろう。
明日は、三重県の津市で青年部合同研修の講演がある。
ここでもいつもと同じように、できることの限りを尽くし誠心誠意を持って自らが掴んできたことすべてをオープンマインドでしっかりとお伝えしていきたい。
この一期一会を、永遠の邂逅としまた素晴らしい出会いに感謝していきたい。
コメント
今までのやり方でうまくいかないのであれば根本的なあり方から変えて、工夫して取り組むことが大事だと思っています。
まずは自分といういう人間が理解していないので、自分という人間を理解するためにも自分に向き合って、新しい人間として変化していく必要があると感じます。
そのために何事にも挑戦し、新しいことを吸収して、自立に向かって子どもたちのお手本になるように日々努力をして実践し続けたいと思います。
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無数の情報に目を向けなくなってしまい、素直に受け止めるということが出来なく
なってしまう。これでは本当にやりたいことができなくなってしまい、様々な機会の
損失にもなってしまう。そこに向かう自分の在り方、姿勢によってそう引き起こして
しまうことは何とも勿体無い様に思います。オープンに行きたいと思っていても
出来ない自分があり、周りの気にし過ぎてしまうという自分の姿勢を省みて
いきたいと思います。
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