コミュニケーション1
インターネットの出現により個々が情報を無尽蔵に発信でき、そして受信できる時代になった。
文字が今までの既成概念のカタチを超え、個々の人生観や思想の影響を受け、日々新しい言語がインターネット上では生まれてそして消えている。
文章のコミュニケーションが変われば、それを解釈する人たちの使う言葉のコミュニケーションも変わっていく。
多様化する社会とは、まずは言語から多様化するものだと私は思っている。
昔の人たちは、単語を共通認識として扱えるように言葉を大事に扱ってきた。そしてそれはその国の歴史や文化などに根ざした『指標や指針』のようなものによって言語の理解を支えてきたのだろうと思う。
その『指標や指針』は、憲法や指南書、立派な人たちの思想の源流に触れたり、発言をかみ締めたり、また親子の道や道徳倫理などに基づく地域での言い伝えなどがまさにそうだ。
しかし、今はこのような指針があまり重要視されず蔑ろにされていて見え難くなっている。
相手が喋っている言葉がどちら側に拠っているのか、その会話がどこの領域から持ってきたのかなどを見極めるのには力がいる。
それは聴き手の理解の幅や倫理などの観点や解釈の尺度に左右されるからだ。
ただでさえ、多様化した言語化社会に於いて何かの共通理解のためにお互いが話し合いをするのに、問題の起点を自分の感情や刷り込みでいっぱいになり、透明な感性や素のままの判断を奪われ尺度を自分のものだけにしてしまうとそれは永遠に分かり合えないということも往々に起こりうる。
そもそもその尺度は、自分の感情で満たした絶対正義を持って自分以外の世界を力技でコントロールしようと無意識にしている利己尺度であることが多いのでは思えるからだ。
よくよく考えてみると、相談や話し合いのうまくいかない場合の理由は「まず自分から」という謙虚な主体性がそこにないものがほとんどだと私は思う。
それはまずその相談する人本人が、自分がまずどうなのかと相談の立場を自分へ向けてくれない限り決して答えも出ないし解決しようがないので本当は相談へのステージすらも準備はできてはいないのだ。
お互いの目的がもしも自分へ向けた矢印に於いて双方が目的に対して一致するものから来ている問題であれば、リテラシーの本質を理解し、正しいコミュニケーションの段階を取ればどんな問題でも解決するのだと私は思う。
解決しないのはすべて、相手をどうこうしてやろうとする短絡的で刹那的に自分を棚に上げた「操作主義」から起きるのだと私は思う。
私もそういう相談は常に勝った負けたの議論になるのでやりたくはない。それは単にコミュニケーション不足が問題だと思えるからだ。しかし大きな会議や決定しないといけない偶然の場に於いてどうしてもやらないといけない場合は、もっと気づきに繋がる話し合いが自分に向けてできたのではないかと深く反省することが多い。
やはり、どんな問題も相手のせいではなく自分の不徳の至らなさが原因で問題は起きているということ。
相手をどうこうではなく、まずは自分を改めることだけを大事にしていくことがコミュニケーションの本質だと私は思う。
しかし、現実は時間という経験や体験という尺度があったり、その人の関わってきた人々のとの関係性からの人生観という尺度があったり、様々なものが偶然奇怪に編込まれているからこそ、何かの出来事や事件を持ってして人間関係のキョリを近づけていくという「ヤマアラシのジレンマ」という心理学用語もある。
これもこの世の縁の不思議を感じざるを得ないことだ。
もちろん、相手のことを深く分かり合うことはできても相手になることはできないのだから私自身は常に自分がどうなのか?、まず自分はできているのか?を相手以上に相手を思いやることを本懐とし、自分の姿勢を徹底して正し、同じことは繰り返さないように常に自省し、成長し続けていきたいと誓う。
まだまだ途上である精神の脆弱さも受け容れられるように、縁と気づきの機会に感謝することを忘れずにかみ締めながら歩んでいきたい。
。
文字が今までの既成概念のカタチを超え、個々の人生観や思想の影響を受け、日々新しい言語がインターネット上では生まれてそして消えている。
文章のコミュニケーションが変われば、それを解釈する人たちの使う言葉のコミュニケーションも変わっていく。
多様化する社会とは、まずは言語から多様化するものだと私は思っている。
昔の人たちは、単語を共通認識として扱えるように言葉を大事に扱ってきた。そしてそれはその国の歴史や文化などに根ざした『指標や指針』のようなものによって言語の理解を支えてきたのだろうと思う。
その『指標や指針』は、憲法や指南書、立派な人たちの思想の源流に触れたり、発言をかみ締めたり、また親子の道や道徳倫理などに基づく地域での言い伝えなどがまさにそうだ。
しかし、今はこのような指針があまり重要視されず蔑ろにされていて見え難くなっている。
相手が喋っている言葉がどちら側に拠っているのか、その会話がどこの領域から持ってきたのかなどを見極めるのには力がいる。
それは聴き手の理解の幅や倫理などの観点や解釈の尺度に左右されるからだ。
ただでさえ、多様化した言語化社会に於いて何かの共通理解のためにお互いが話し合いをするのに、問題の起点を自分の感情や刷り込みでいっぱいになり、透明な感性や素のままの判断を奪われ尺度を自分のものだけにしてしまうとそれは永遠に分かり合えないということも往々に起こりうる。
そもそもその尺度は、自分の感情で満たした絶対正義を持って自分以外の世界を力技でコントロールしようと無意識にしている利己尺度であることが多いのでは思えるからだ。
よくよく考えてみると、相談や話し合いのうまくいかない場合の理由は「まず自分から」という謙虚な主体性がそこにないものがほとんどだと私は思う。
それはまずその相談する人本人が、自分がまずどうなのかと相談の立場を自分へ向けてくれない限り決して答えも出ないし解決しようがないので本当は相談へのステージすらも準備はできてはいないのだ。
お互いの目的がもしも自分へ向けた矢印に於いて双方が目的に対して一致するものから来ている問題であれば、リテラシーの本質を理解し、正しいコミュニケーションの段階を取ればどんな問題でも解決するのだと私は思う。
解決しないのはすべて、相手をどうこうしてやろうとする短絡的で刹那的に自分を棚に上げた「操作主義」から起きるのだと私は思う。
私もそういう相談は常に勝った負けたの議論になるのでやりたくはない。それは単にコミュニケーション不足が問題だと思えるからだ。しかし大きな会議や決定しないといけない偶然の場に於いてどうしてもやらないといけない場合は、もっと気づきに繋がる話し合いが自分に向けてできたのではないかと深く反省することが多い。
やはり、どんな問題も相手のせいではなく自分の不徳の至らなさが原因で問題は起きているということ。
相手をどうこうではなく、まずは自分を改めることだけを大事にしていくことがコミュニケーションの本質だと私は思う。
しかし、現実は時間という経験や体験という尺度があったり、その人の関わってきた人々のとの関係性からの人生観という尺度があったり、様々なものが偶然奇怪に編込まれているからこそ、何かの出来事や事件を持ってして人間関係のキョリを近づけていくという「ヤマアラシのジレンマ」という心理学用語もある。
これもこの世の縁の不思議を感じざるを得ないことだ。
もちろん、相手のことを深く分かり合うことはできても相手になることはできないのだから私自身は常に自分がどうなのか?、まず自分はできているのか?を相手以上に相手を思いやることを本懐とし、自分の姿勢を徹底して正し、同じことは繰り返さないように常に自省し、成長し続けていきたいと誓う。
まだまだ途上である精神の脆弱さも受け容れられるように、縁と気づきの機会に感謝することを忘れずにかみ締めながら歩んでいきたい。
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コメント
相手に思いやりを持つことが現在の課題であって、まずは相手に興味を持つことからはじめ、相手にどうしたら心地よくなってもらえるのかから考え、行動、言葉のかけ方、立ち振る舞いをしていきたいと思うので、今の自分を知り、行動する前に子どものお手本になるのか一度考えてから行いたいと思います。
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過ぎないと言う事が往々にしてあるということをここ最近でも思います。相手に望む
のであれば自分がそれ相応の行動を示すことが出来ているだろうか、と振り返させ
られます。それではまだ相手に依存しているということでもあり、とても自立した
大人ではないということを学ぶ機会がありました。自分に矢印を向けて自分から行動
出来るようにしていきたいと思います。
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