変化の本質
世間では人は平均的に何でも過ぎると守りに入ろうとするように思う。
分を超えて余分が生まれるから、安定に入ろうとするように思う。
先日、カグヤの社員研修で小田原にある二宮金次郎の記念館と博物館に伺い色々な講和から学んだり話し合い、彼の人の足跡を一つ一つ辿りながら現在のカグヤの事業を改めて考察する機会があった。
二宮金次郎の報徳仕法の中にある、「分度」「推譲」とは「自分の生きる分」という分を正しくわきまえ、余分は次世代や他のために譲っていくという方法だ。
社会福祉などもそうだが、何でもやりすぎて余分がでると人間の中に社会の弱者ためにやってあげているんだという「哀れみ」の一種のような差別意識的なものが生まれることがある。強者や弱者などと定義すること自体が人間を尊重してないと思うのだが人々はそれを理想と建前に転換し、自身に矢印を向けた自助自立の勤労な至誠を御座なりにし、なるべくやらない方、依存する方にと次第に偏ってくるのだと思う。
一度そうなると、自分ができないのは全て権力者のせいや他人のせい、環境のせい、あわよくば天や運のせいにして、自分自身からは決して何もやろうとしない。そうやって変わろうとしないという悪循環に陥ってしまうのは歴史を見ればやはり人間は都合よく自律できず分度を消化できないからそうなるのかという事実が見通し視得る。
たとえばどこぞのマスコミウケする偉い経営者でも状況や環境が劣悪なときは出来る限りマジメに工夫をしながら周囲の力を信じ尊重して引き出しながら自立していくのに、すぐにお金や環境が整うとよりやろうとする気持ちの現れはわかるが、自分の分度を超えてやりすぎると余分が怠惰な人間の欲望や変化しない安定を求めすぐに逃げたり依存がはじまり本末転倒になるから気をつけないといけないと思う。
どの業界でもそうだし、福祉もそうだがあらゆる奉仕や貢献の根幹にはそれぞれが天から与えられた天分という人間にしかない能力を活かすという本質と人間をどれだけの深みに於いて信じるかが常に自分自身に求められるのだろうと私は思う。
「譲る」という言葉にはとても深い叡智が潜んでいるのだ。
私はカグヤのコンサルティングを含め、すべての商談をしていく中で、「変化」というのを最も重んじて話をしていく。
よく巷や世間では、「変化」とは日毎に過ぎ往く日常の安定した生活の中で突然それが壊れるほどの大きな出来事が起きることを変化と定義している場合が多い。
そしてその反対の意味で使われる「安定」も、大きな事件が起きずに日々同じように繰り返す生活の中で危険がなく安心していられるということを安定だと定義している場合が多いと思う。
しかしこの変化と安定の本質はいったいどうだろうか?
私はそうは定義しない。
変化というのが、世の中がベースとして変わらないのを大前提にして定義しているのか、常に変わり続けているのを大前提に定義しているのではその意味や使われ方、観点はまったく異なってくる。
なんとなく禅問答っぽいが私は後者の、「世の中は変わり続けるのが常なのだから変わらないことを大事にしていくことが変わるということ」なのだと思う。つまり言い換えれば「自分が変わらないために変わり続けること」こそが何よりも変化を受容して安定するということになっているのだと思う。
よく「変わることを恐れるな」という言葉が、保守的な人々へ勇気を出しなさいと使われる場合が多いが私は一切そうは思っていない。
私の中の「カワルコトヲオソレルナ」とは、「世の中は変わり続けるものなのだから変わることを当然にしていると安定するのですよ」と親切丁寧に噛み砕くときに使っているのだ。
「安定」という言葉だって、変化と対象的に使われるがその人が何の定義をもってそれを安定とするのかでまったくその意味や使われ方が変わってくる。
私の中の「安定」とは、繰り返しの日常の中でもその変化がちゃんと視得ていて、そしてたくさんの事件が起きることを予測して日々が激動の中にあって静かに、また穏やかにモノゴトに真実で向きあえている状態のときにそれは「安定」しているのだと思っている。
この「変化」の本質をきちんと知れば、きっと安定するために人間は自靖自献、自助自立の精神で変わり続けることを善しとし、日々怠らずサボらず無限に現れる様々な課題に挑戦し続けることを当然にしていくのが筋道なのだろうと私は思う。
彼の地のお釈迦様だって、死に際に於いて「世の中は移り変わる、怠らず努めよ」と遺訓にして説いている。地球万物流転するのは、誰もが知っているこの世の理であるのに自分に都合が良いように人間が解釈するから自分が廻していると勘違いしているのだろう。それはただ混沌としたブレタ世界で俟っているだけで、決して軸をもってきちんと螺旋的に周っているのではないのだ。
私たちは、循環の理を以て常に自分の分をわきまえ、余剰は推譲し、安定した安住安息の社会を実現するために日々変化を求め続けていないといけないのだと二宮金次郎の教えに私は思う。
同じような日々だって、分かる人にはその変化の本質が視得ている。
何度も繰り返し言うが「変化」とは、一見、世間や一般の人々が生活が安定していると勘違いしているときにこそ自分を戒め、刷り込みに持っていかれずにまさに自分の周囲は激動のままに動き続け変化していると思うことだ。
だから同じ変化という言葉の意味でも受けての刷り込みによってはまったくその捉え方は違って、もしこの変化の本質が見えなければきっと私の言う「ヘンカ」は、きっと他人には怖がられるものになってしまうのだろうと思う。
よく誤解されて表現に苦しむが私は別に脅迫めいて権力者や地位にある人を精神的に追い詰めているわけでもないし、追い込んでいるわけでもない。私は、その人が受けている職業的世間の刷り込みや柵から上手に脱却してもらい、真の安定したそれぞれの自己実現に基づく幸福なその人だけの生の完成において、もっとこうやったほうがいいのではという箴言や助言を至誠に照らし行っているだけなのだ。
「ヘンカヲオソレナイ!」
それは、みんなで変わらないために変わろうということに繋がっている。
まずは子どもたちがこの時代のオトナの刷り込みの犠牲にならないように、大人には目先の一膳から明日の万膳、今の贅沢より明日のための質素を説き、それを最も魅力ある豊かなものへ転換し、子ども達には可能性や信頼というベースのもとに変化の本質を理解してもらえるようなツールを保育環境の中にたくさん開発し提供していきたいと思う。
この今も変化しているのだから、安定した次世代の社会の実現に向けてまずは「私が世界の変化の源になる」ようヘンカを恐れず変化を愛し畏れ、変化を一生涯のパートナーとし変わる日々を大事に歩んで生きたいと思う。
分を超えて余分が生まれるから、安定に入ろうとするように思う。
先日、カグヤの社員研修で小田原にある二宮金次郎の記念館と博物館に伺い色々な講和から学んだり話し合い、彼の人の足跡を一つ一つ辿りながら現在のカグヤの事業を改めて考察する機会があった。
二宮金次郎の報徳仕法の中にある、「分度」「推譲」とは「自分の生きる分」という分を正しくわきまえ、余分は次世代や他のために譲っていくという方法だ。
社会福祉などもそうだが、何でもやりすぎて余分がでると人間の中に社会の弱者ためにやってあげているんだという「哀れみ」の一種のような差別意識的なものが生まれることがある。強者や弱者などと定義すること自体が人間を尊重してないと思うのだが人々はそれを理想と建前に転換し、自身に矢印を向けた自助自立の勤労な至誠を御座なりにし、なるべくやらない方、依存する方にと次第に偏ってくるのだと思う。
一度そうなると、自分ができないのは全て権力者のせいや他人のせい、環境のせい、あわよくば天や運のせいにして、自分自身からは決して何もやろうとしない。そうやって変わろうとしないという悪循環に陥ってしまうのは歴史を見ればやはり人間は都合よく自律できず分度を消化できないからそうなるのかという事実が見通し視得る。
たとえばどこぞのマスコミウケする偉い経営者でも状況や環境が劣悪なときは出来る限りマジメに工夫をしながら周囲の力を信じ尊重して引き出しながら自立していくのに、すぐにお金や環境が整うとよりやろうとする気持ちの現れはわかるが、自分の分度を超えてやりすぎると余分が怠惰な人間の欲望や変化しない安定を求めすぐに逃げたり依存がはじまり本末転倒になるから気をつけないといけないと思う。
どの業界でもそうだし、福祉もそうだがあらゆる奉仕や貢献の根幹にはそれぞれが天から与えられた天分という人間にしかない能力を活かすという本質と人間をどれだけの深みに於いて信じるかが常に自分自身に求められるのだろうと私は思う。
「譲る」という言葉にはとても深い叡智が潜んでいるのだ。
私はカグヤのコンサルティングを含め、すべての商談をしていく中で、「変化」というのを最も重んじて話をしていく。
よく巷や世間では、「変化」とは日毎に過ぎ往く日常の安定した生活の中で突然それが壊れるほどの大きな出来事が起きることを変化と定義している場合が多い。
そしてその反対の意味で使われる「安定」も、大きな事件が起きずに日々同じように繰り返す生活の中で危険がなく安心していられるということを安定だと定義している場合が多いと思う。
しかしこの変化と安定の本質はいったいどうだろうか?
私はそうは定義しない。
変化というのが、世の中がベースとして変わらないのを大前提にして定義しているのか、常に変わり続けているのを大前提に定義しているのではその意味や使われ方、観点はまったく異なってくる。
なんとなく禅問答っぽいが私は後者の、「世の中は変わり続けるのが常なのだから変わらないことを大事にしていくことが変わるということ」なのだと思う。つまり言い換えれば「自分が変わらないために変わり続けること」こそが何よりも変化を受容して安定するということになっているのだと思う。
よく「変わることを恐れるな」という言葉が、保守的な人々へ勇気を出しなさいと使われる場合が多いが私は一切そうは思っていない。
私の中の「カワルコトヲオソレルナ」とは、「世の中は変わり続けるものなのだから変わることを当然にしていると安定するのですよ」と親切丁寧に噛み砕くときに使っているのだ。
「安定」という言葉だって、変化と対象的に使われるがその人が何の定義をもってそれを安定とするのかでまったくその意味や使われ方が変わってくる。
私の中の「安定」とは、繰り返しの日常の中でもその変化がちゃんと視得ていて、そしてたくさんの事件が起きることを予測して日々が激動の中にあって静かに、また穏やかにモノゴトに真実で向きあえている状態のときにそれは「安定」しているのだと思っている。
この「変化」の本質をきちんと知れば、きっと安定するために人間は自靖自献、自助自立の精神で変わり続けることを善しとし、日々怠らずサボらず無限に現れる様々な課題に挑戦し続けることを当然にしていくのが筋道なのだろうと私は思う。
彼の地のお釈迦様だって、死に際に於いて「世の中は移り変わる、怠らず努めよ」と遺訓にして説いている。地球万物流転するのは、誰もが知っているこの世の理であるのに自分に都合が良いように人間が解釈するから自分が廻していると勘違いしているのだろう。それはただ混沌としたブレタ世界で俟っているだけで、決して軸をもってきちんと螺旋的に周っているのではないのだ。
私たちは、循環の理を以て常に自分の分をわきまえ、余剰は推譲し、安定した安住安息の社会を実現するために日々変化を求め続けていないといけないのだと二宮金次郎の教えに私は思う。
同じような日々だって、分かる人にはその変化の本質が視得ている。
何度も繰り返し言うが「変化」とは、一見、世間や一般の人々が生活が安定していると勘違いしているときにこそ自分を戒め、刷り込みに持っていかれずにまさに自分の周囲は激動のままに動き続け変化していると思うことだ。
だから同じ変化という言葉の意味でも受けての刷り込みによってはまったくその捉え方は違って、もしこの変化の本質が見えなければきっと私の言う「ヘンカ」は、きっと他人には怖がられるものになってしまうのだろうと思う。
よく誤解されて表現に苦しむが私は別に脅迫めいて権力者や地位にある人を精神的に追い詰めているわけでもないし、追い込んでいるわけでもない。私は、その人が受けている職業的世間の刷り込みや柵から上手に脱却してもらい、真の安定したそれぞれの自己実現に基づく幸福なその人だけの生の完成において、もっとこうやったほうがいいのではという箴言や助言を至誠に照らし行っているだけなのだ。
「ヘンカヲオソレナイ!」
それは、みんなで変わらないために変わろうということに繋がっている。
まずは子どもたちがこの時代のオトナの刷り込みの犠牲にならないように、大人には目先の一膳から明日の万膳、今の贅沢より明日のための質素を説き、それを最も魅力ある豊かなものへ転換し、子ども達には可能性や信頼というベースのもとに変化の本質を理解してもらえるようなツールを保育環境の中にたくさん開発し提供していきたいと思う。
この今も変化しているのだから、安定した次世代の社会の実現に向けてまずは「私が世界の変化の源になる」ようヘンカを恐れず変化を愛し畏れ、変化を一生涯のパートナーとし変わる日々を大事に歩んで生きたいと思う。
かんながら | comments (3) | -
コメント
普段の生活の中で例えると買い物が想い浮かび、分度を考えずにカードで買い物をすると、後々請求が来ることによって苦しい思いをするので良く考え、
計画的に買い物をしなければならないと感じています。
計画的にという所は生活全体、または仕事にも繋がっていて、先を見据える計画的な行動を考えていきたいと思います。
その計画も分度をわきまえて立てられるようにしていきたい。
自分の身の丈をよく知り、足りないところを伸ばしていくことが、必要と感じています。
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様になると、一つひとつにありがたみを覚え、大変なこともそうでないことにも感謝の
気持ちを持つこと出来、充実した日々を送ることが出来るのだと思います。自分自身の
課題に対して、挑むことを恐れず、充足感を大事に味わうことが大事なことの様に思いま
す。変わり続けることを如何にして楽しむことが出来るか、まだまだ私は安定することが
出来ずその時々に右往左往してしまっています。どうせ変わらない自分の決めた生き方
なのだからともっと覚悟を持ち、逃げずにある意味アキラメて変化を恐れずに挑んで
楽しんで自分の糧と出来るように感じていきたいと思います。
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