情報リテラシー7
先日、ある園でコミュニケーションについて話をした。
現在の保育所保育指針改定でもコミュニケーション能力はその改定の中では大きなテーマのひとつになっている。園では保護者ともそうだし、そこで働く職員をはじめたくさんの人たちとコミュニケーションをとりながら仕事を進めていくようになっている。
会議もミーティングもその一つだし、長い付き合いの人と短い付き合いの人、役割が異なる人、個性や価値観の差異などみんな多様性を発揮しながらそれぞれの自己実現に向かっていくのが人間なのだからその辺をしっかりと考えて丁寧に進めていかないといけない。
それに表面上のすぐに認識できる比較的浅い内容の打ち合わせや、本質的に真の共通認識を取るお互いの存在を認めあう普遍的なものまでたくさんある。もちろん、両方大事としてそのつど状況に合わせて自らを鑑み使い分けていかなければいけないと思う。
人間はどんな時も一人では生きてはいけないし、みんなで力をあわせていくから大きなことができるし、協力していくことができる。
仕事を心を亡くして忙しくなり、何かの無機質な作業や業務のようにだけなり、命を込めずつい流されてしまうと表面上の認識だけで進めてしまうことも多いと思う。
たくさんのことを考えてやろうとするのを嫌がるのが脳だし、もともとメンドクサイと思わせるようになったのはそういう教育をうけてきたからだとも思う。日々、心を込めて丁寧にやり続けないと物事の初心はぼやけていくのだと思う。
だからこそ経営者やリーダーは常にそこで働く現場の人たちが、平素本質的なコミュニケーションを取れるように環境を創造し、対話の導線や方向性、その継続やテーマの設定、また自らの理念の実践により環境に対して感化していくことを優先していかないといけないと私は思う。
なぜならそういう場を預かる人が創る環境とは、その人の人格や理念を含めて次第に外側に現われて包み込んでいくものだと思っている。
周囲に影響を与えるリーダーや立派な人はそういう場を創る雰囲気がある。
そしてそこには、自然に自分にしかできない自分らしいことができているように見える。
もちろんそういう人のことを真似をすることは素晴らしいことだが、環境というものの定義がその人の外側のモノやカタチだけのものになればそれは本質的な環境になっているのではなく見せ掛けの張りぼての脆弱な環境になってしまうから気をつけないといけない。
自らが実践を通して理念を養っていくから本質的に自の創造する環境ができあがっていくのだと思う。
特に子どもたちにはその環境にあわせて素直に変化していく。直接手を下さなくても環境の情緒が安定しているというのは、トップの心胆が定まっているともいえるからだ。
常に人が創る環境とは、その人の人格の中に根づく不動の覚悟や信念が外側ににじみ出ているものに過ぎないのだと私は思っている。
そしてそれを日々の行動で周囲を感化していくと、みんながその環境が目指すところ、責任の重要さに気づき、惜しみなく協力をはじめるのだと思う。
そこには一種の心地よさが必ずあり、みんなはそれを観ることで遣り甲斐や自分の価値を見出し満足していくのだと思う。
日本社会は、官僚体制サイドから福祉制度をいつも用意するため何かをやるときにすぐにトップダウン周知徹底的なやり方になる。世界では、マネージメントの研究が進んでいて、国から民衆へもみんなでフラットに考えながらプロセスを重視してみんなが理解していくようなやり方になってきている。
人は動物でもなければロボットでもない、人間として見守っていくことが何よりも大前提でないと良い政治はできないと私は思う。
そしてそうなると今度はすぐにやり方ばかりが注目され、それに飛びつき安易に「できている」や「わかった気になる」のが今まで上から押し付けられた刷り込みなのだから、日夜それを取り除きながらそれぞれが理念からの「創意工夫」を続けていかないといけないと私は思う。
未来の子どものために国とともに何かをやるのだから使命ある経営者はつねに「やり方」ではなく「在り方」こそを問いながら自分の答えを探していくことが大事なのだと思う。
あり方の確認の仕方はとても簡単だ。それは自らの周囲への眼差しがどのように相手に運ばれているかで、自らがどれだけ理念を真摯に実践しているのかがよく分かるからだ。
カグヤでは「自分へ矢印を向ける」という言葉があるが、まさにそれで自分自身が相手を責める前に如何に自分の眼差しがどのようになっているのかを反省する方がよほどコミュニケーションの本質になっていると思う。
本質的なコミュニケーションとは、私はやはり「感化」することだと思う。
感化するためにみずからが矢印を自分へ向けて様々なことを語り合い、話し合い、行動実践していく。そしてそれが理解できてはじめて、組織や仲間が同じような方向で一枚岩になっていると定義するのだと私は思う。感化するには、まずは自分自身の心が明確に定まっていないと感化はできない。
私たちカグヤはこれからも子どもたちの未来へ向けて、志の高い人たちとともに推譲の心で輪を広げながら本質的なコミュニケーションを深めて生きたいと願う。
現在の保育所保育指針改定でもコミュニケーション能力はその改定の中では大きなテーマのひとつになっている。園では保護者ともそうだし、そこで働く職員をはじめたくさんの人たちとコミュニケーションをとりながら仕事を進めていくようになっている。
会議もミーティングもその一つだし、長い付き合いの人と短い付き合いの人、役割が異なる人、個性や価値観の差異などみんな多様性を発揮しながらそれぞれの自己実現に向かっていくのが人間なのだからその辺をしっかりと考えて丁寧に進めていかないといけない。
それに表面上のすぐに認識できる比較的浅い内容の打ち合わせや、本質的に真の共通認識を取るお互いの存在を認めあう普遍的なものまでたくさんある。もちろん、両方大事としてそのつど状況に合わせて自らを鑑み使い分けていかなければいけないと思う。
人間はどんな時も一人では生きてはいけないし、みんなで力をあわせていくから大きなことができるし、協力していくことができる。
仕事を心を亡くして忙しくなり、何かの無機質な作業や業務のようにだけなり、命を込めずつい流されてしまうと表面上の認識だけで進めてしまうことも多いと思う。
たくさんのことを考えてやろうとするのを嫌がるのが脳だし、もともとメンドクサイと思わせるようになったのはそういう教育をうけてきたからだとも思う。日々、心を込めて丁寧にやり続けないと物事の初心はぼやけていくのだと思う。
だからこそ経営者やリーダーは常にそこで働く現場の人たちが、平素本質的なコミュニケーションを取れるように環境を創造し、対話の導線や方向性、その継続やテーマの設定、また自らの理念の実践により環境に対して感化していくことを優先していかないといけないと私は思う。
なぜならそういう場を預かる人が創る環境とは、その人の人格や理念を含めて次第に外側に現われて包み込んでいくものだと思っている。
周囲に影響を与えるリーダーや立派な人はそういう場を創る雰囲気がある。
そしてそこには、自然に自分にしかできない自分らしいことができているように見える。
もちろんそういう人のことを真似をすることは素晴らしいことだが、環境というものの定義がその人の外側のモノやカタチだけのものになればそれは本質的な環境になっているのではなく見せ掛けの張りぼての脆弱な環境になってしまうから気をつけないといけない。
自らが実践を通して理念を養っていくから本質的に自の創造する環境ができあがっていくのだと思う。
特に子どもたちにはその環境にあわせて素直に変化していく。直接手を下さなくても環境の情緒が安定しているというのは、トップの心胆が定まっているともいえるからだ。
常に人が創る環境とは、その人の人格の中に根づく不動の覚悟や信念が外側ににじみ出ているものに過ぎないのだと私は思っている。
そしてそれを日々の行動で周囲を感化していくと、みんながその環境が目指すところ、責任の重要さに気づき、惜しみなく協力をはじめるのだと思う。
そこには一種の心地よさが必ずあり、みんなはそれを観ることで遣り甲斐や自分の価値を見出し満足していくのだと思う。
日本社会は、官僚体制サイドから福祉制度をいつも用意するため何かをやるときにすぐにトップダウン周知徹底的なやり方になる。世界では、マネージメントの研究が進んでいて、国から民衆へもみんなでフラットに考えながらプロセスを重視してみんなが理解していくようなやり方になってきている。
人は動物でもなければロボットでもない、人間として見守っていくことが何よりも大前提でないと良い政治はできないと私は思う。
そしてそうなると今度はすぐにやり方ばかりが注目され、それに飛びつき安易に「できている」や「わかった気になる」のが今まで上から押し付けられた刷り込みなのだから、日夜それを取り除きながらそれぞれが理念からの「創意工夫」を続けていかないといけないと私は思う。
未来の子どものために国とともに何かをやるのだから使命ある経営者はつねに「やり方」ではなく「在り方」こそを問いながら自分の答えを探していくことが大事なのだと思う。
あり方の確認の仕方はとても簡単だ。それは自らの周囲への眼差しがどのように相手に運ばれているかで、自らがどれだけ理念を真摯に実践しているのかがよく分かるからだ。
カグヤでは「自分へ矢印を向ける」という言葉があるが、まさにそれで自分自身が相手を責める前に如何に自分の眼差しがどのようになっているのかを反省する方がよほどコミュニケーションの本質になっていると思う。
本質的なコミュニケーションとは、私はやはり「感化」することだと思う。
感化するためにみずからが矢印を自分へ向けて様々なことを語り合い、話し合い、行動実践していく。そしてそれが理解できてはじめて、組織や仲間が同じような方向で一枚岩になっていると定義するのだと私は思う。感化するには、まずは自分自身の心が明確に定まっていないと感化はできない。
私たちカグヤはこれからも子どもたちの未来へ向けて、志の高い人たちとともに推譲の心で輪を広げながら本質的なコミュニケーションを深めて生きたいと願う。
仕事と使命 | comments (2) | -
コメント
どうあるかは自分の心の在り方であり、自分が定まっていないからこそ、周りに
矢印を向けてしまうのだと思います。
自分がどうありたいのか、自分がどの様になっていきたいのか、
「お天道様に見られても恥ずかしく無い」と言える行動を自身が取っているだろうか
と振り返って考えていきたいと思います。
何よりも子どもたちの未来を考えて、子どもたちのために、大人としてどうある
べきか、子どもたちのために、どう貢献できるかを考えて、実践、実行出来ればと
思います。
コメント
今の自分はまだまだやり方ばかりに目をむけそれを大事にしなければいけないと、勘違いしている部分も多くあるのだと反省させられます。やはり何かをやる前に自分自身のあり方は一体どうなのかとしっかりと自分に矢印を向け続ける事も大事ではなかと感じます。又それが本当のコミュニケーションへと繋がるという事を感じました。
日々内省し続けることが相手を感化するということにつながるということも感じました。