各地域で他園とのオープンな交流が活発になり、様々な方々とのディスカッション、
意見交換の現場が多くなっています。
そのような場に立ち会っていると、いかに他者とのコミュニケーション能力の質が
学びの質に直結しているのかをまじまじと実感します。保育現場の先生方も私と同じで20代や30代前半の若い方が多く、これまでご自身で身に付けられてきたコミュニケーションの質に差が大きくあることを感じます。
私が学生ぐらいのときからコミュニケーションツールが徐々に増えてきました。
学生のころからポケベルに始まり、卒業するころには携帯電話を持つようになり、
インターネットで何でも検索できるまでに時間はかかりませんでした。
今ではMIXI、TWITTER、FACEBOOKなど次から次へとコミュニケーションツールが
生まれ、発展しツールを通じて、いつでもどこでも人との繋がりを持てるように
なった半面、人と直接会って話を深める機会が少なくなり、対人関係は希薄になって
いることが伺え知る現代の状況として、
20代~30代の男女では64%が特定の
パートナーがいないという現状だそうです。
またインターネットの様々な書き込みサイトを閲覧すると、誹謗中傷する投稿が多く
見られますが、新たなコミュニケーションツールを与えられた利用者のモラルが追い
ついていないことを強く感じます。
明治維新以来、近代日本の教育は欧米の様々な知識・技術を日本が導入することから
始まり、江戸後期に日本で盛んにおこなわれていた和算も近代教育には取り入れられ
ませんでした。
教師側は欧米の知識を学生達に伝えることを長い間、重点を置き、学生側もそうした
知識を吸収し、テストでいい点を取ること、立身出世することが勉強や学習の目的と
なってしまう面がありました。
文化的な要因としては、日本を含む東アジアでは、例えば論語における
「子曰く・・・」のように、先生の言われることに従順に従おうという傾向があり、
歌舞伎や能、狂言といった世界でも師から弟子に伝授される関係性が継承されてきま
した。
文化的土壌では学校教育も一方的な知識の伝達に偏りがちであり、議論や対話を行う
といったことの重要性をあまり考えられなかったのだと思います。
平たく言えば直接会って「話す」「聞く」という人としてのコミュニケーションの
基本的な大前提が心を通じ合わすとなると一層、深いものになることではありますが、そこには一定の決まりのようなものがあるのだと思います。それは、他人への礼節や
他者への尊重といった習慣を育てることにあり、お互いの話しをよく聞く、傾聴する
ことが大切なことのようです。
古代ギリシャのソクラテスは人々に無知の知を自覚させたが、同時にそれを自覚させ
られた対話者達から敵視され結果、公開裁判の場でアテネ市民はソクラテスに死刑判
決をくだしその後、ソクラテスは獄中で自ら獄中で毒杯を飲んで死んでしまったこと
を思うと、正義を武器に人を非難し、追い込むことに何の意味も無いこと、人を幸せへと導くことにはならないことに気付かされます。
昨今の世界的な変化を見ても、人類にとってインターネットの普及に伴う情報化社会へ大きな変化が生まれています。情報が国家や権力を超えていくことで、今までは情報の受信者だった人が発信者へと役割が移り、モノが世界的に動くだけのグローバルではなく、本質的なグローバル時代を迎え、急速に異文化や価値観がぶつかり合い、交わっていきます。
「一体どのようにして、世界中のあらゆる地域、異なる文化から来る問題に対して
お互いに学び合い、お互い話を聞き、今後重要になってくる問題に対して、お互いに関心を持つことを可能とするようなグローバルな公民的教育を提供するのか」という問題と言えると思います。
この世の中は人が創っているということから考えれば、情報過多社会になればなる
ほど、結局のところ、人へ尊重、尊敬の念を持って向き合い、意見を交わし合うことに時間を割くことが必要になってきていること。
そこに21世紀の協働的な世界の再構築へと繋がっていくように思います。
オルタナティブコンサルタント
田上貴士