野見山広明 プロフィール
人は生まれながらにして子どもの心を持っています。この子ども心とは純粋で透明な魂のことです。
これが歳月を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。そうやって曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり本来の魂が何を望んでいたかもわからなくなります。
三つ子の魂百までという諺があります。
私の解釈では、魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまりは普遍的に魂や心はこの世で何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。
しかし実際はその天命をやらせてもらえず誰かの教育によってやってはいけないことばかりを仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによってさらに曇り、自分自身が何をしたかったのかが観えなくなっていくのです。
その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは「魂の父母」が住んでいるところ。
それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と共にその一生を全うしていくことができます。人間が生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。そして子ども心が何かをしたいと思う時、如何に寛大に丸ごと受け止めてくれる存在があるか。そしてその子どものことを丸ごと見守ってくれる存在であるか。
子どもは魂を丸ごと信じてあげることで、信じる道を歩もうとします。
私は子どもの魂のままに生きる道、魂に導かれて生きる道を、「かんながらの道」だと定義しています。
純粋さを最期まで貫くことができること、それを「真心」や「至誠」といいます。人は地球の一部でもありますから自分の原点に生きる、理想の生き方、真実の生きざまを魂は心の奥深くで求め続けて已まないのです。
その真心や至誠の魂が子どもの魂を見守ることで、魂の純粋さは永遠に保たれていきます。
その子どもの魂を見守ることもまた随神の道を志す生き方のお役目であり使命です。
私がそうであったように、子どもたちが「心の原点や心のふるさと」を忘れずに自分の尊いかんながらの道を歩んでいけるように自分自身の純粋な魂や真心を盡して、時の子どもたちの環境づくりに貢献していきたいと思います。