日日是試煉日

何かがはじまるとき、試練(試煉)が訪れます。つまり試練とは、正対することであり、実践するということであり、挑戦するということです。

試練(試煉)のことを辞書でひくと、「信仰・決心のかたさや実力などを厳しくためすこと、能力や信仰、気持ちの強さなどを厳しく試すこと。また、その時の苦難。」とも書かれます。

この試練(試煉)の字にある「練」には「繰り返し行う」「精練する」「磨く」という意味があります。「煉」には、金属や心身をきたえることやねり固めることを表します。練習、練磨、鍛錬、修練、そして煉瓦や洗煉などもあります。

練は、煉の書き換え字で使われますが共通するものはどちらも「磨く、鍛える、溶かす、ねり固める」などの意味になります。

「試」の方は、言ったことをはじめるという意味です。試験なども試みる、確かめるというイメージです。有名なものに「試金石」というものがあります。これは貴金属の純度を調べるのに用いる黒色緻密ちみつな玄武岩やケイ質の岩石のことをいいます。この石にこすりつけて条痕色を既知のものと比較して金・銀の純度を試験したことから言われます。

つまり「純度」を試し確かめるのです。

何かをはじめるには、根源としての「純度」がいります。その人の覚悟や決心が試されます。純度がどれくらい澄んでいるのか、純度がどれくらい濃密であるか、純度が玉のように美しいかどうか、真善美が試されそれはもはや信仰とも呼べるほどにです。

試練が来たというのは、純度を磨き上げる時が来たとも言い換えられます。

この世に私たちが誕生し、生き続けるというのは試練の真っただ中にいるということです。だからこそ、誰にでも「生き方」というものが何よりも優先され大切になるのでしょう。

どのような試練を迎えて、どのような生き方を実践するか。

純度が全てです。

私たちは有難いことに、親祖より今に至るまで先祖代々からずっと純度を磨き煉りあげてきました。終わりはなく、永遠に続く道の途上です。

日日是試煉日と、心の持ち方を味わって歩んでいきたいと思います。

同行コンサルティング

コンサルティングという言葉があります。この言葉を調べると語源は、ラテン語の「consultare」だといいます。この意味は「共に話し合うことや協力して意見を出し合う」という意味だとあります。そして「consult」という言葉を分解すると、「con(共に)」と「sulere(取る)」とあり、共に座り考える、また相談するという意味です。

つまりは、一緒に考えて共に歩むということがその言葉の本質です。

世間でいうコンサルティングの仕事は今では多岐に及びます。日常的なビジネスなどでは様々な定義も分類もあります。例えば、一般的には専門的な知識があり客観的に分析したりアドバイスをしてクライアントを導くような仕事。または、具体的に組織の人間関係を含む経営課題を解決に導くために仕事などもあります。

私の場合は、「見守る」という実践を仕事にしてきましたから見守り合う関係を通して一緒に取り組み伴走するうちに次第にコンサルティングの方といわれるようになりました。

そもそも誰かの人生に大きな覚醒や気づきや影響を与えるということは、共に成長していくということで発生します。共にお互い様と御蔭様の心の関係を結んだら、一緒に成長しあっていく。成長する人同士だからこそ自他が一体になりお互いの成長する姿に刺激されることで共に高め合っていくことができるものです。これは自然界も同様に見守り合う中で育ちあいます。

教える側も教わる側も本来は本質として表裏一体の存在であり、これは同志であっても師弟であってもお互いに深い尊敬と成長しあう関係があって成り立っているものだからです。

そして見守る時に最も求められるのは、心を寄り添うという伴走型であるということです。この伴走というのは、共に走っているという関係です。単なる並走ではありません。むしろ見守りに近い別の私なりの言い方では、「同行」ともいいます。この同行も、一緒に行動する、同じ道を歩むという意味です。また四国八十八か所巡礼に同行二人(どうこうににん)という言葉があります。この「同行」と「二人」を合わせた「同行二人」という言葉は、巡礼者が弘法大師空海の生き方、智慧、そして教えや精神を学び一緒に道を歩んでいくことを意味するといいます。

私は本来のコンサルティングという生き方はこの同行二人にこそあるように思います。そして伴走するというのは、同じ心で同じ理念で共に一緒一体になって取り組むということです。

そうすると、一般的なコンサルティングのように専門家による部分最適のみをビジネスのためにやるのではなく常に「全体最適で一緒に人生を生き切るという実践」が必要です。つまりは、実践を通して貢献する。自分の体験や経験や研鑽がそのまま、一緒に同行する相手の成長の糧そのものになるということです。お互い「道」に導かれるように歩んでいくということです。そこには偉大な「場」が誕生します。

こういう関係は、一生涯のうちに滅多に巡り会えることではありません。同行同時のように、同じ人生をシンクロさせるような一期一会の関係を築くことです。一般的にはあまりにもリスクも高く、効率もわるいので世間的なビジネスにはあまり向かないかもしれません。しかし、そもそも人は利他や貢献、そして共生をしたいと心から願うものです。自然にコンサルティングになるのなら、ほとんどはこのような同行二人の境地に入ると私は思います。そして本来の幸福を考えるのならば、私はやはりこの「同行コンサルティング」にこそ深い共感を覚えます。

子どもたちのためだからこそ、子孫に恥ずかしくないような仕事を遺していきたいと思います。

 

ご縁結び~魂の対話~

今年も英彦山、守静坊の「サクラ祭り」が近づいてきました。有難いことに、この季節の宿坊はまるでこの世のものとは思えないほどの幻想的で美しい純白の一本桜の花と薫りが場を包み込みます。

この守静坊の一本桜はひとたび風が吹ば、ゆらゆらと仙人のような佇まいになり夜になれば満天の星空と和合します。今回は、昨年よりもまた充実して周囲に茶席を設けたり、ライトアップしたり、生演奏をしたりとサクラと共に開花の歓びを分かち合います。

元々、霊峰と呼ばれる英彦山は我々のご先祖様たちの魂が居る場所ともいわれ宿坊はその魂の宿直をする場であると信じられていました。お盆にはたくさんの檀家さんたちをはじめご縁のある方々が参拝されお山の静謐で清々しい場でご先祖様たちとの魂の対話をし感謝を通じ合わせていたといいます。

現代は、各家庭にはお仏壇もなくなりご先祖様と通じ合う時間が激減しているといいます。

私たちの今の身体を含め、すべてはご先祖様たちから譲り受けてきて今があります。その証拠に、顔かたちをはじめ身長や体格、持病や性格なども色濃く受け継いでいることがわかります。心を落ち着かせ耳を傾ければ、ご先祖様が今も一緒に私の身体に宿り生きているのがわかります。

その共生するご先祖様の存在を一年に一度、思い出し共に感謝しあって桜の木の下で和合するのがこの「サクラ祭り」なのです。

不思議なことですが、サクラ祭りに参加された方からはご先祖様にお会いできて涙が出たとか、あるいは心の養分が甦り元氣が出てきたとか、他にもすでにご先祖さまにいただいている感謝や幸福を感じ直すことができたなど喜びの声ばかりでした。

年中行事というのは、本来は意味があって行っていたものです。ただのお花見ではありません。この英彦山の守静坊のサクラ祭りは「ご先祖様との邂逅」のために行われてきたものです。

今を生きる私たちが、伝統を継ぎ継承しご先祖様たちとの繋がりや結びを強くすることで自分だけでなく子孫たちをはじめご縁のある方々の幸福に貢献していくことができます。

もうこの年中行事を復活させてから3回目になりますが、幸運ばかりに恵まれご先祖様たちの応援を感じます。過大な宣伝はせずご縁のある方々から丁寧に少しずつ、植物が芽吹いて花が咲き種が増えていくようにご縁を中心にお誘いしています。

今年も、守静坊でご縁結びができるのを楽しみにしています。

日時:2025年3月29日(土曜日)13時より~

場所:英彦山守静坊 (福岡県添田町英彦山731)

詳しくはこちらをご覧ください。

和の徳が溢れる人

昨日、大阪の藤井寺にいる私のメンターの雛祭りの年中行事を見学してきました。全国各地から集めた人形たち、それは古いものから新しいものまで、また伝統的なものから創作したものまでありとあらゆるものが丁寧に飾られていました。

私が最初にそのメンターにお会いしたときに衝撃を受けたのは、その目利きの審美眼と数奇道の生き方です。目利きにおいては、本物や普遍的な美しいものがわかるということです。これは自然観があり、最も調和したものや心が産み出す芸術の真髄を直観できるというものです。そして数奇道というのは、風流人としての道を歩んでいるうということです。この数奇は、元々は好き者ともいい最初は好色な男という意味でしたが中世以降は茶の湯に熱心な人などたとえらます。そして風流は、一般的には人目を驚かすために華美な趣向を凝らした意匠を指し侘び・寂び と対峙する存在だとされました。

つまり数奇道を実践する人は、風流人であり侘び寂びを遊ぶことができるということです。メンターの古民家は、あらゆるところに「遊び心」があります。この遊び心は、今でいう「おもろい」がたくさん入っているということです。

伝統芸能には、守破離という概念があります。基本や型を守り、それを破りそこから離れるということです。そこに私は遊ぶを追加して、守破離遊が大切ではないかと感じます。遊んだ後はどうなるのかといえば、徳が顕現します。そうなると、守破離遊徳ということになります。

道は生き方ですが、一度きりの自分にしかない人生の妙味をどう味わいきるか、周囲の評価よりも自分の好きなことに没頭する人生というのはそれだけで徳を活かす素晴らしい生きざまになるように思います。

現代は、突き抜けた人や遣りきった人は少なく感じます。それだけ純度が高いことにいのちを懸けてまで遊ぼうとする人が減ってきたからかもしれません。

数奇道の生き方は、独立自尊した豊かさや面白さを感じて子ども心にワクワクします。面白い大人になって、子どもたちに和の徳が溢れる真善美を伝承できる背中を見せていきたいと思います。

いつまでもお元氣でいてほしいです。いつもありがとうございます。

聴されて聴く

徳の真髄の一つに「聴されて聴く」というものがあります。この聴く(きく)は、聴す(ゆるす)とも呼びます。私は、聴福庵という庵を結び、聴福人という実践をしています。この実践は、あるがままを認め尊重して聴くという意味と共に自然にゆるされているという徳が循環するいのちを聴すというものです。

私が創造した一円対話という仕組みは、この聴く聴すという生き方をみんなで一緒に取り組んでいこうとしたものです。

そもそも私たちのいるすべては分かれているものはありません。人類は言葉の発明から文字が誕生し、文字を使うことで複雑に無限に分けて整理していくことで知識を得てきました。本来の言葉は、言霊であり精霊や霊性、つまりは自然あるがままでした。

自然からいのちや霊性を切り離して分析し、単なる物質や知識として認識することによって私たちはこの世の仕組みや真理を分かるようになりました。しかし同時に分かることによって本当のことが分からなく、あるいは分かった気になるようになりました。この分けるという手法は、分断の手法です。本来、和合したものを分けて理解する。しかし分けたものは元に戻りません。なぜならそもそも分かれていないものを分けているからです。そのことで、人類は争い続け、お互いを認め合えず尊重できず苦しみや憎しみが増えていきました。

例えば、ご縁というものも分かれていたり切れるものではありません。最初から永遠に結ばれ続けていてあらゆるご縁の導きによって今の私たちは生きています。つまり最初から分かれているものはこの世には存在しないのです。それを仏教では、羅網という道具で示したりもします。私はそれをブロックチェーンや自律分散の仕組みで示します。

私がこの聴すという言葉に最初に出会ったのは、高田山にある親鸞さんの手帳のメモ書きです。そこには、「しんじてきく、ゆるされてきく」と書かれていました。

これは何をいうものなのか、全身全霊に衝撃を受け感動し、そこから「聴」というのを真摯に深め続けて今があります。この聴は、聞くとは違います。徳に耳があります。よく自然や天や自分の内面の深い声を聴くことを意味します。

人類が平和になるには、聴くことです。聴けばほとんどのことは自然に解決します。何かきっと自分にもわからない深い理由があると心で認めるとき、お互いを深く尊重しあうことができます。それが「聴す」なのです。

私の故郷にある聴福庵には、その聴で溢れています。そして徳積堂では、その聴福人の実践、一円対話を場で実現しています。

百聞は一見に如かずです。真剣に対話に興味のある仲間は訪ねてほしいと思います。

最後に、「聴福人とは聴くことは福であり、それが人である」という意味です。

子どもたちがこの先もずっと人になり幸福を味わいゆるされていることに感謝して道を歩んでいける人生を歩んでいけることを祈ります。

生活即信仰

生活即信仰という言葉があります。これは生活文化そのものが信仰になっているという言い方です。あるいは信仰とは暮らしの真っただ中にあるとも言えます。そもそもこの言葉は、切り離せない一つのものして定義されているものです。別の解釈としては、これを伝統文化とも言えます。つまり伝統=文化であるように、暮らし=信仰であるということです。

例えば、朝太陽を拝み一日をはじめます。お水を井戸で汲むときも手を合わせて感謝し、火を熾してじっくりと調理をしそれを食べる時にも手を合わせ感謝します。そしてお互いに思いやり一日を送ります。自然の中にあるものをいただき、自然と寄り添い、健康や幸福を身近に感じながら一日を一期一会に豊かに暮らします。

この豊かな暮らしの中に信仰は息づいているという感覚です。自然に拝み、自然に感謝し、自然と共生する豊かさを味わい感謝で生きていくということ。これが信仰の原点ということです。

何らかの教義を信じるのは、信仰ではないと私は感じます。人間が設けた人間社会だけで完結するような真理はどこか歪んだ解釈が出てくるものです。大自然を先生として学び、大自然の徳の循環や全宇宙や星々の運行に倣い生きていくと信仰は揺らぎません。これは教義ではなく、根源的なものへの畏敬の念です。

最近は、特にお山に深く関わることが増えて法螺貝をよく吹く暮らしを通して山伏たちの生活文化を直観する機会が増えています。先人たちはお山の持つ清々しい霊亀や岩が放つ元氣や結界を通してぬくもりや思いやり、そして凛とした静寂を感じ豊かな暮らしを通して信仰を磨いてきたように思います。

私も少しずつ、そのお山の霊亀の御蔭さまで木々の導きやお水や風のゆらぎを得て真心を感じる機会が増えています。宿坊のお掃除をはじめ、遊行が本来の自己を知り學ぶ機会にもなっています。

お山の岩たちは太古のむかしから変わらずに自然に坐しています。

いのりの記憶を持つ岩たちと共に、暮らしフルネスをさらに精進していきたいと思います。

日子鷹菜

この度、私が受け継いできた1200年続く伝統在来種の高菜をお漬物とスパイスにして社会に送り出すことになりました。名前を、郷里の霊峰日子山からいただき「日子鷹菜」と命名して復古起新します。

この伝統在来種は、自家採取といって代々自分の家で毎年収穫したものを大切に守り継いできたものです。気の遠くなるような永い時間をかけてこの土地に根付き、パートナーでもある人間と共に人間に愛されるように進化してきました。特に冬の保存食がなく苦しかった時期に貴重な青菜として、そしてお漬物として日々食べられ、お互いに一緒になっていのちを支え合い生き延びてきました。もしもこの先、輸入が止まり食糧難が来たり気候変動で食べ物が手に入らなくなっても在来種の高菜は今までそうであったようにその時もまたきっと一緒に生き延びるために変化成長してくれると思います。在来種の種というのは、それだけ歴史があり様々な困難を体験して変化し続けてきた偉大な愛があります。

その愛情たっぷりの伝統在来種は、便利な世の中になり一斉に同じカタチ同じ味にするため人間都合で改良されました。また化学調味料を添加するようになりただの保存料添加物になり、むかしながらプロセスを短時間で行い効率化することで大切ないのちを共に生き延びてきた智慧も省いていきました。遠方からの海外の安い高菜を輸入したことにより、お金に利用され生産する側も消費の亡者のようになり農薬や化学肥料を投入し畑も汚染され値崩れしたことで高菜をつくる農家も消えていきました。

この日子高菜は、むかしながらの製法のままむかしのままの畑でむかしの通りに育てて加工しています。新しいやり方をしておらず、先人の智慧の通りに先人を尊敬し高菜を尊重して愛情をこめてつくっています。資料には、無添加とか保存料なしとか消費期限とか色々と書いていますが本当はそんなことを書きたくありません。法律とルールでそうなっていますが、本来はそんなものはむかしのままにしていたら一つも書く必要はありません。

そもそも添加物とか保存料とか消費期限とかチェックしなくても必要ないからです。人間と共に千年以上この土地で共に生き延びて暮らしてきた存在に、表示すること自体が失礼なことだと私は感じるからです。

植物の力や発酵という菌の力は、私たち人間の健康を根底から支えてきました。その証拠に、私たちの身体は腸内をはじめ菌で構成され植物を取らなければ四季の変化に対応できません。まさにいのちを支え、いのちの在り方、賑わい方を教えてくれる先生のようです。

この日子鷹菜を今までは自宅で近しい人たちと食べて守り継いできましたがいよいよ種を持つ人がいなくなり私だけになったことに気づき、もう一度、むかしのようにみんなで見守っていこうと決心しました。この活動の本質は、人間の問題を解決していこうとするものです。環境問題や様々なお金を中心にした社会問題は、自然のせいではなく全ては人間の心の問題です。心は自然と寄り添っていれば、ブレることはありません。自然から遠ざかり、自然を支配したかのように知識や物質で覆うことによって心は忙しくなり見失います。

むかしにただ戻るのではなく、原点回帰しようということで日子山はヤマトのはじまり、鷹は鷹伝説があり、本来の高天原の高の字が鷹であったことに因んで名付けています。

大量生産は人間都合になるのでできませんが、大切な人への贈答用や病気や心身を傷めている方、この活動に共感していただく伝統や伝承に関わる方への応援、あるいは親孝行や子孫への祈りに用いていただけますと高菜も喜びます。

現代のマネーゲームのようなお金でいのちが消えて物質化させられないように、この日子鷹菜は徳積や喜捨、お布施としてのご提供にします。ブロックチェーンでどのように徳が循環するかを記録し、みんなで思いやいのりが広がっていくのを一緒に見守り続けていきたいと思います。

未来が、むかしのように永遠で悠久のいのちの愛に包まれ続けますように。

正直

私たち日本人の大切にしている徳目の一つに正直というものがあります。この正直さというのは、自分に心に正直であるということです。心には嘘はつけないものです。自分の心が素直に感じたものを正直に取り組むということです。

人間には理性や感情もあります。心のままにといっても、それは我欲のままにということではありません。心と欲望とは異なるものです。大欲に無欲に似たりという言葉もあります。無欲さというのは、心の大きさで物事を考えているということでしょう。

心はいつも全体を観ているものです。心が感じるときは、その心に我欲は混じりません。心は素直に自然全体や宇宙全体の理と合一していきます。よく神人合一という言葉もありますが、あれは心のままに自然体になっているということです。これを無我の境地ともいうのかもしれません。

例えば、霊験なお山の場に入り静かに自然と和していると心が調っていきます。その時、正直さというものは磨かれていきます。自然はそれだけ正直であるということです。海外からは神道は古代からのアニミズムとも呼ばれますが、いのちを尊ぶような生き方は正直さの実践によって成り立ってきたのでしょう。

長い歳月を経て、正直さを磨いてきた私たちの先祖は自然に寄り添って自然に近づいていったように思います。自然と一体になればなるほどに正直に生きていくことを学びます。自然から離れれば離れるほどに不正直、欺瞞、嘘が増えていきます。そして心が消失して我欲に呑まれます。我欲を抑えることを理性ともいいますが、本来は心を大切にしていれば理性は必要ありません。

自然から遠ざかり人間社会のみで生きるようになったからこそ心を見失ったような忙しい生き方をするようになりました。心がなくなると人は元氣がなくなります。元氣を甦生するにも、自然から心を学び直す必要があります。自然のなかで正直であることが人を元氣にするのです。

今こそ、私たちは原点回帰して自然と和し正直の徳を磨く時機です。

英彦山、守静坊にはその元氣の源泉場があります。

子どもたちや心を見失っている人たちが元氣になるようにこれから創意工夫していきます。

いのちへのいのり

古今、人は何を學ぶのかと問われればそれは道を學ぶと応えます。この道とは何かと言えば今では生き方のことです。生き方を學ぶためには、誠である必要があります。この誠とは、文字通り言うことと実践することを一致させるということです。しかしこれはなかなか簡単なことではありません。

人は言葉を喋るようになり、あるいは文字を持つことによって言行一致することが難しくなりました。自分の血肉になっていないものを簡単に語り、自己を含め人心を惑わします。また実践は終わりなく、磨いても完成はありません。常に自己修養の連続でその最中に人に教えていてもその教えはまだ途上です。結局は、未熟さを知れば知るほどに人に教えることはできません。

神人合一という言葉もありますが、この意味は言行一致と似ています。もしもこの世を素直に謙虚に生きるのなら自らの徳を省みて日々の生活を信仰の境地で調えていくのが何よりも和合することになります。

生活即信仰という言葉があります。

これは日々の暮らしが祈りそのものになっているということです。私は古民家甦生を通してこのことを學びました。むかしの井戸をはじめ、古い道具や建物にはいのちが宿ります。そのいのちに接する時、頭で計算して簡単に使えるものはなくどれも真心を使います。日々の生活の中で真心を使うことが増えることで、頭よりも心が大きくなってきます。頭の一部として心があるのではなく、人は心の一部として人であるのです。

心を盡していく生き方は誠の道につながります。

私は法螺貝を日々に立てますが、これは暮らしの一部になっているものです。お山に入ればお山にご挨拶をし、神様にご挨拶をし、自分の身体にご挨拶をし、場にご挨拶をし、貝にご挨拶をし、太陽にご挨拶をし、お水にご挨拶をし、ご縁にご挨拶をしと、永遠にご挨拶をし続けます。またご挨拶には清々しい気持ちで、いただいているすべてに丸ごと感謝していのり呼吸を吹くのです。

もともと暮らしの中にいつもご挨拶がありいつも感謝があります。それは呼吸をするように吐いて謙虚にご挨拶をし吸って素直に感謝をします。それが暮らしです。

暮らしフルネスというのは人の生きる道の実践です。親孝行も、今いる場を調えるのも、周囲の徳を活かすのも暮らしあってこそです。暮らしの中に色々なことがあり、その一つには仕事があったり、その一つにはお野菜づくりやお漬物づくりなど生きていくために必要な糧をえる活動があります。

当たり前の暮らしの中で、当たり前にどれだけいのちへのいのりがあるか。常にこの世で私たちが試されるのは人間性や人間らしさを磨いているかということかもしれません。

今日も一期一会のご縁に感謝して暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

例大祭と5周年

久しぶりの大雪のなか、御蔭さまで無事に例大祭と徳積財団5周年記念を開催することができました。真っ白に光り輝く風景のなかで、美しい奉納音楽や神楽舞、祈りの時間は心に深く遺る有難い時間になりました。

思い返せば、何もなかったところからはじまり今ではたくさんの仲間や同志に恵まれています。それぞれに無二の役割があり、天命を全うするために徳を磨いておられる方々ばかりです。時折、道を生きる最中に場に立ち寄りその努力を分かち合い、苦労を労い合うことは心のエネルギーを充足させます。何かの偉大なものに見守られていると実感する場には、お互いを深く尊重しあう安らぎや元氣があります。

一人一人がそのような安心で健やかな元氣に充ちれば心も解放されます。心を解放していくことは、心を喜ばせていくことです。真のおもてなしというのは、心の解放があってこそです。

この例大祭は、みんなで協力しあっておもてなしの準備をはじめます。同じ釜の飯を食べ、綺麗に場を清め、静かに穏やかに暮らしを調えます。真っ白な雪の中、妙見神社のお汐井川に若水を汲みにいき、桜の薪に炭火をいれて火を熾します。その火を竈に移し、前日からお祓いして汲んでおいた井戸水を鉄鍋にいれてじっくりと昆布や高菜を煮出していきます。直来は、白いものとして御餅や素麺等、そして福茶などご準備します。

自然の恵みと薫りに包まれた仕合せな時間です。

祝詞にはじまり、岩笛、法螺貝、篠笛、そして鈴に太鼓と懐かしい音に包まれます。龍の舞に音楽、お祭りも賑やかで弥栄な一日でした。恵方も偶然にも、龍王山や龍神池、そして神社の方角にピタリと合っていました。5周年でしたが、またこの恵方になるのは次回は5年後の10周年の時です。周期の豊かさも味わう有難いひと時でした。

人間は見守り見守られるという感覚をお互いに持つことで自然と一体になっているかのような同じような安心感を得ていくものです。安心感は徳を活かしいのちを輝く場を創造していきます。どれだけ安心感の種を蒔いていくか、安心の場こそ懐かしい未来であり心のふるさとです。

これからも子どもたちに先人の生き方を譲り遺せるよう精進し、道を確かめ道を手入れし、真の人間らしさや人間性を高める場を弘げていきたいと思います。