遊行の源流

暮らしの中の遊行巡礼をはじめると、空也上人とのご縁が出てきました。もともとこの空也上人という方は平安時代中期に活躍した念仏僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも呼ばれています。生れは延喜3年(903)とされ、醍醐天皇の皇子とも言われています。

もともと空也上人は、「優婆塞」と呼ばれ、「俗聖(ぞくひじり)」とも呼ばれていました。得度しても僧名の光勝を名乗らず自らは空也の沙弥(しゃみ)を名乗っていたといいます。

「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路や橋、井戸や寺院をつくり町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝承されています。そして遊行のありさまは絵画や彫刻にあるように短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持ち行われていたといいます。この遊行の鑑のような生き方をなさっておられた方でその後の一遍上人などにも多大な影響を与えています。

有名なものに木造空也上人立像があります。死後250年以上経ってから制作されたものですがまるで、目の前にいるかのような一度見ると忘れられない像です。これは運慶の四男 康勝の作といわれます。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで遊行する姿です。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられています。

これは「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、空也上人が阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているからだといいます。

六波羅蜜を遊行を通して実践し、それがその時代の人々の心を癒し苦しみを安らげ、心魂を鎮めたのかもしれません。

また私は鞍馬寺に深いご縁がありますが、空也上人が鞍馬山に閑居されていた話も知りました。その閑居していたときに、いつも鳴いている鹿を愛していましたが定盛という猟師が射殺しました。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったといいます。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったともあります。これは英彦山の伝説とも似ていて共通点があります。そのことから鞍馬寺は浄土教の聖地として発展したといいます。鞍馬山にはその旧跡という「空也の平」という名の場所もあるそうです。

大分では国東に空也上人の開基した興満山興導寺というお寺もあります。また九重町の宝泉寺では空也上人が諸国遊行の途中この場所に経ちより農家に宿泊したお礼として持っていた杖を大地に立てたといいます。その杖がのちの大杉となり、天禄三年(972)この地に大地震がありその大杉が倒れたあと根元より突然温泉が湧出したといいます。そこで驚いた村人たちは、わき出る温泉のほとりに一宇の寺院を建立して空也上人が宝の泉を下さったということで寺を平原山宝泉寺と定 め本尊に空也上人と大日如来を安置したという伝承もあります。

歩きはじめて、まさかのご縁がこの空也上人でした。てっきり法連上人かと思い込んでいましたから、道はやはり歩いてみなければわかりません。引き続き、遊行を深めながら知恵を学び直していきたいと思います。

暮らしフルネスの秋

暮らしフルネスで暮らしを調えることは、病気にならない生き方に似ています。そもそも病気は、病気になってからでは間に合わず病気にならないような日々の暮らしを調えることに軸足を置くことからはじまります。

例えば、当たり前のことですが季節を感じながら五感を調える。生活リズムを自然に合わせる。旬なもの、またいのちが豊富にあるものを丁寧に食べて調える。呼吸を整え、今ここに集中して心身を調える。またよく歩き、重力や自らの身体の動きによって身体を調えるなど色々と暮らしを調えることができます。

医者にも、色々な医者がいます。今は緊急事態で応急処置ができる人がよい医者といわれますが、本来は病気にならないように見守って日頃から病気の根源や原因を防ぐような人がよい医者ともいわれました。今のような保険診療や補助金のようなシステムになってからは、診察や薬を出さなければ生計が成り立ちませんから名医はみんな治療する医者になってしまいました。本来は、病気にならないようにする生き方の模範が名医だったように思います。僧侶やむかしの医師はきっと、健康で長生き、そして精神も心身も調えることを日頃から実践されていた方だったように思います。そしてそういう生き方を目指して取り組まれていたのでしょう。

私も暮らしフルネスを実践していますが、自分が完璧にそれができるから提唱者というわけではありません。自分もそうありたいと挑戦をし、一進一退しながら七転び八起きをしながら日々に取り組んでいます。心も精神も体も調えるというのは、暮らし方を磨き続けていかなればできません。

今日は、昨日よりも少しできた、またはできなかったと反省しながら感覚を磨き、徳を積んでいくのです。しかしそうやって実践していくなかで本当の自分、本来の自分というものを忘れなかった一日はとても豊かで幸せです。

できた人がすごいのではなく、できない人がダメなのではない。大事なのは、先人の生き方を尊敬して自らも暮らし方を見倣って子孫のために精進していこうとする思いや行動にこそあるように私は思います。

引き続き、秋のこの静かで澄み切った月夜や空気に包まれながら晩秋の暮らしを味わっていきたいと思います。

遊行の妙

遊行を実践してみると、一人ではなく二人でいることがわかります。もともと四国巡礼では同行二人という言葉があr、常に弘法大師と一緒に巡っているという意味で用いられます。しかし、実際には自分の中のもう一人の自分、自我と真我という言い方もしますがこの二人が常に対話しながら歩んでいるともいえます。

瞑想も同じく、この二人が次第に静かになって一つに纏まっていきます。すると、次第に静かになり穏やかになります。他にも、五感を調え六根清浄をするときにも一つになっていきます。

つまり歩くことで、別々のものが融和して一つになっていくということかもしれません。

そもそもこの世のすべては、二つが一つになっています。その最小単位は、火や水や風など五元素をはじめあらゆる一文字で語られるものが二つから形成されているからです。

火というものも、二種類のものでできています。熱いものと温かいものです。水もまた固まるものと固まらないものです。これらがバランスよく一つになっているものをみて私たちは火や水を認識しています。

そして二つが一つになるのは、静止しているときではありません。動いている時にはじめて一つになっている様を感じることができます。地球が太陽系をめぐり、自転しているとき私たちは地球を丸く感じられるものです。同様に、動的なときにこそ静止しているように感じられます。

道を歩くというのはその行為に似ています。そしてこの遊行は自らを知り自らになる道でもあります。

子孫のためにも、道を歩んだ人たちのあとを学んで伝承を味わっていきたいと思います。

遊行の歩み

現代は車社会でどこに行くのも車を使います。また都市部では電車などの公共交通機関が発達していて、終始遠くの距離を歩いていくことはほとんどありません。しかし思い返してみたら、むかしは歩くことが当たり前で一部、馬や船があったかもしれませんがそのほとんどは自分の足で歩いていきました。

改めて歩いてみると色々と見える景色だけではなく意識が変わっていくのを感じるものです。

例えば、歩きだすとある程度のリズムが必要になります。一歩ずつ歩いていくなかで、一定のリズムで歩きます。また休憩をいれるタイミング、そしてその場所など様々です。他にも時間帯によっての太陽の位置や風向きなども影響がでます。

特に今は、道路がアスファルトになっているので足も腰も疲れが出てきます。水分補給のタイミングや、トイレなどのこともあります。また歩く目的が巡礼であれば、時々に拝みつつ心を落ち着かせ供養をします。休みも休む場所によって色々と振り返り、また残りの道を歩んでいきます。

歩くときに、歩くことに集中すると人はそこで古からの道に出会います。乗り物にはない、自分の身体にしかない感覚を呼び覚ましていきます。

かつて、西行法師や一遍上人、良寛和尚や木喰五行上人なども遊行僧といって全国各地を巡り歩きながら修行僧が説法教化と自己修行を目的として諸国を遍歴し修行されました。これは行脚修行ともいい、本来の意義は歩き回ったり、経巡ったりすることだともいわれます。

歩き回ることで、その土地との地縁が生まれます。地縁を辿ると、不思議な邂逅があるものです。先人たちも歩いたであろう道、そしてその道すがらに見えてくる景色から影響を受けて懐かしい気持ちになります。歩いている中でしか観えない心の景色があり、その心の景色に心が揺さぶられます。

特に舗道ではなく、むかしの古道はより一層その情景を鮮明にしていきます。人生の旅路も似たようなものですが、自分の足で歩くということに集中してこそ本来の人間の道が観えるのかもしれません。

引き続き、遊行を深めていきたいと思います。

験徳の実践

英彦山で法螺貝の合宿を行いました。法螺貝から人生を学び直すというのは大きな話のようですが、実際には法螺貝から学ぶことばかりでとても深くて追いつきません。先人の知恵というのは偉大で、その奥深さにいつも頭が下がります。

思えば、修験道というものもまたその深さがあります。この修験道という言葉の意味は、行をして迷いを取り除き、徳を顕す道」ということからできた言葉といわれます。また「修行得験」「実修実験」の略語とされ、身体を使って修め、験(しるし)をつかむという意味があるといいます。

この験徳というのは、聞きなれませんが加持や祈禱によって霊験を得ることをいいます。修行とは、山に入り山で修行をすることです。日本は古来より山岳に神霊が宿り深山幽谷に分け入って修行することで魂を鍛え上げ超常的な能力を発揮できるようになると信じられていました。

山伏たちはお山=神様として山に入り行をすることで、擬死再生(ぎしさいせい・生まれ変わり)を果たすと考えられてきました。もともとお山には、魂の故郷、あの世とこの世の結び目でもありましたから、山に入るというのは甦生するということに深く関係していたように思います。

そして山伏は、「半僧(聖) 半俗」 と言われ修験道者としての「山の修行」と、生活者として生業をもって暮らす「里の行」の両方を行き来する存在だったそうです。

宗教としての山伏と、古来からの山と里を行き来する暮らしを生業とする山伏の間では少し意味合いも変わってくるように思います。修験者の多くは、今でも半僧半俗の方が多いように思います。

かえって里の修行の方が、現代のような物質的に豊かで心は貧しくなってきている世の中では修行し甲斐があるかもしれません。お山の生活は確かに、厳しくはありますが心はとても豊かになります。ないものねだりではないですが、両方を知ることではじめて中心に覚るというものかもしれません。

ここ数年の英彦山の関りで、自分のなかの感覚も少しずつ変化してきています。何が徳を顕現させるのか、そして「験」の知恵とは何か、子孫のためにも今しかできないことで復古創新していきたいと思います。

信仰と感謝の暮らし

この時期の英彦山の宿坊は、空氣が澄み渡っていてとても心地よい季節です。あちこちの木々の葉も紅葉づいて秋の静けさに合わせて綺麗な光が差し込んできます。夜の月も清浄で美しく、明けの明星も一際煌めいています。守静坊では、囲炉裏の火がゆらめき、煙の懐かしい香りの余韻が充満していて穏やかです。

季節季節に喜びはありますが、この秋の豊かさは何よりの贅沢です。

そして今の英彦山は、水が少なく井戸の水量が激減しています。いつもは宿坊の周囲の小川もさらさらとたくさんの水が流れていますが今はほんの少しちょろちょろと流れる程度です。

水がなくなってくると、生活に利用するための水をもったいなく丁寧に使うようになってきます。

以前、鞍馬寺ですべての水道の蛇口に「お水さんありがとう」と書かれたものが括りつけてありました。それに感動し、すぐに自宅の蛇口にも同じように括りつけて忘れないようにと実践していました。しかし、水道水は蛇口をひねれば自由に出てくるためそんなにもったいないと感じにくいように思いました。今でも、ついシャワーなどは高温が出るまで出しっぱなしで水のことなどあまり気にしていません。

しかし英彦山の宿坊に来ると、水がなくなるとまた水量が元に戻るのにかなりの時間がかかってしまいます。そこで少しでも水が使い過ぎにならないように気を付けながら使います。すると、自然にお水さんありがというという気持ちになり、お水の使い方も変わってきます。あまりお水を使わなくていい方法を模索したり考えたりするのです。

洗い物や洗濯、水洗トイレ、シャワーなど今では当たり前に水があることが前提の生活用品や生活家電であふれています。水が足りないところでは使えないようなものばかりです。

不便によって本来の当たり前が変わっていくことで、意識も暮らし方も変わってきます。しかしその暮らし方の中に、もったいないと感じる豊かさと有難さがあり、感謝や信仰の仕合せもまた味わえるものです。

暮らしフルネスの一つに、このもったいないというものを味わうことがありますが英彦山の宿坊はお水のことをいつも深く感じられることが多くあります。一年中、水で溢れる梅雨や冬から春までの大雪にいたるまでお水の影響をかなり受けます。お水のありがたさを感じるほどに、また火の有難さも感じる場所です。

都会や都市にはない、真の豊かさはかつての信仰と感謝の暮らしのなかにこそあります。いつまでも大切な恵みを忘れないように、場をととのえていきたいと思います。

生き方と死に方

人には無数の生き方があるように、同様に死に方というものがあります。どう生きるかを常に優先して歩んでいますが、死に方もまたその生き方の一部として存在しますから最期の瞬間も生き方が出てくるのです。

私の親友はとてもやさしい人で、すぐに遠慮するタイプでした。気を遣いすぎてかえって迷惑をかけるようなタイプです。なので大切な人に迷惑がかからないように配慮しながらあまり我儘を言いませんでした。一方的に大量に与えるのが好きで、何かをもらう方はあまり得意ではありませんでした。強いて言うなら、自分勝手なところがあり自分のペースで周囲と同調するのが苦手だったように思います。

集団行動や、イベントなども平均的な参加の仕方がせずにすぐに他所の方へと遊んでいました。他にもオタクでお笑い気質があり、滑稽な写真や動画、ダジャレなどもよく携帯で送ってきました。自分のことや体には無頓着で、余計なことをしてはおかしな怪我ばかりを繰り返していました。何より家族思いで、家族をいつも優先していました。

そういう彼でしたから死に方も両親に聴いたら、まさにそんな死にざまだったようです。

それを聴いて改めて深く気づくことがありました。人は死ぬときはわかりませんが、死に方は自由にできるということを。そして死ぬ理由もまた、その生き方の集積の影響を色濃く受けて死にます。

自分の場合の死に方を想像してみたらおおよその未来の予測がついてきました。もちろん、ご縁の組み合わせでこれが病死なのか、事故死なのか、あるいは何かの死でしょうが死に方はきっと今の生き方のような死に方になるでしょう。

きっといのちを全部出し切って、やりきって電池切れのような感じでしょうか。周囲を思いやり、真心を盡しているでしょうか。あるいは、一期一会に最期まで諦めずに感謝しているでしょうか。

個人的には旅は見送るよりも、先に出ていく方が好みですが最後はどうなるのか。きっといつもの好奇心に任せてなるようになるでしょう。

親友の死は、思い返せば親友らしい死に方でした。だからこそ、生き方を考えさせられる切っ掛けをまたいただきました。どんな生き方をするかは、今の自分でも決めることができます。悔いのないように、死までの残りの人生を生き方を磨いて歩んでいきたいと思います。

思い出と生き続ける

先日、親友のお通夜を幼馴染と友人と4人で行いました。もともとこのお通夜の起源は、釈迦の弟子たちが釈迦の入滅後の7日間、遺体を見守りながら釈迦が生涯をかけて説いた説法を夜通し互いに聞き合ったという故事だといわれます。

今でも通夜の目的は故人の成仏を祈ることではなく、大夜(たいや)に故人の現世での最後の夜を共に過ごすために集まった親しい人々が、遺体を取り囲んで故人の思い出話を語り合うために行われるものです。そして故人とともに最後の食事を行うという意味で通夜ぶるまいというものも行われきました。

今では単なる形式的で儀式的なものだけになり、家族葬などになると通夜の前に焼香だけをしてあとは帰るというものになりました。本来のお通夜の意味も変わってきています。

この日は、天国に逝く前に大切な親友が家族との食事やお酒を酌み交わすことが大好きなこともあったので私たちでお通夜をやろうと彼のよく飲んでいたお酒を用意し、大好きだった雰囲気と食べ物で夜中まで通夜ぶるまいをして生前のことを語りつくしました。

42年間、私は彼と一緒に生きてきましたが想い出が走馬灯のようにたくさん湧き出てきました。ある時はいのちを助けてもらったことも、そして一緒にいのったことも、またあるいは心を分かち合ったことも、全部思い出しました。湿っぽくはなく、笑い声と楽しかったこと、ふざけていたこと、青春の愉快なシーンばかりで盛り上がりました。

過去の思い出を共有している友だちのありがたさ、こんなに過ぎたことをよく憶えていたものだとお互いに感心しました。懐かしい思い出は、今の自分をつくってくれました。今の自分の中に、一緒に思い出と共に生き続けて成長をしていることを再実感しました。

この先の思い出を勝手に想像していたからこそそこに穴があきますが、その穴を共に友と語り合うことでこの先どのように埋めていこうかという希望も出てきます。気が付くと、親友の願いや祈りが希望になっていることに気づきました。

よかったねとこの先、お互いに感じ続けられるように前を向いて物語の続きを綴りつづけていきたいと思います。唯一無二の親友は、唯一無二の機会を与えてくれました。

これからも大切に思い出を味わい、人生を盡していきます。

ありがとうございます、恩返しはこれからです。

よき理解者

昨日は親友のお通夜に参列してきました。取り乱さないようにと心の準備をしていきましたが親友の弟があまりにも本人に似ていてすぐに取り乱してしまいました。亡くなってもう生きている姿に会えないと思っているからこそ、生きているような彼に似た姿に動揺してしまいます。面影というのは、心の中にいつまでも生きていることに気づかされました。まだどうしても存在の面影を追いかけてしまいます。

またそこで15年ぶりに再会した幼馴染と会いました。いつも親友を含め3人で色々な哲学の話や、世の中のこと、そして人生のことなどを語り合った仲でした。親友を偲び、彼の大好きだったお酒を囲んで出会った時からのことを思い出しては昨日のことのように語り合いました。3人で集まるのを誰よりも楽しみにしていた親友でしたから、昨夜はきっと喜んでくれたと思います。

私にとっては唯一無二の親友でそしてもっとも近くにいたよき理解者でした。

私は行動したり実践するのを先にするので、よく周囲に誤解されます。また色々とあることないことを言われることも日常茶飯事です。そのたびに、予想もしなかった人間関係のトラブルに巻き込まれたり本質的ではない政治的な問題などにも引っ張り込まれそうになることもあります。そんな時、真心の自分や本当の目的、そして純粋な願いや純度の高い祈りのような生き方を裏表も全部見守ってくれているよき理解者に心を救われることがあります。

親友は、私にとってのよき理解者でした。ただ、それだけで有難い存在で心強い存在でした。彼とのやり取りを思い返していたら以前、いただいたメッセージが出てきました。

『君の残した足跡は、必ず後世に残り、同じ志しを共有してこの世に残ると思います。ヒントを残し、次世代に伝えましょう。一代で完結は出来ない、増大な出来事だ。』

いつも近くで見守ってくれて大事な時に心から応援してくれていました。どんなに苦しい時も、ただ身体を心配してくれて話を受け止めてくれていました。言葉にしなくても、以心伝心していたように思います。何も言わずにわかってくれている、そして何をするわけでもなくじっと信じてくれている。その存在に何度も救われてきたように思います。

肉体的に存在し共にこの先の愉快痛快の充実した事の顛末を酒を酌み交わしながら見せてやりたかったなと思いますがそれはなくなりました。あとは物語の続きをやりきって冥途の土産話をたくさん持っていきたいと思います。

昨日は、親友の棺の前で祝詞をあげて法螺貝を吹きました。音は親友の魂に無事に届いたでしょうか、きっと聴こえただろうと思います。どうか安らかに、またどこかで巡り会いたいと思います。

一期一会。

これからも自分のよき理解者として自分を生ききり、親友の魂と共に彼の言葉を胸に宿し直向に歩んでいきたいと思います。

永遠の親友

私には幼馴染で親戚、そして親友がいます。何でも言い合え、嫌なことでも真摯に正面から語ってくれる朋です。半世紀近く、別に一緒にいなくても居ると思っているだけでいい存在。その朋が一昨日、私より先に天国に逝きました。まだ信じることができず、心は置き去りのままに涙しながら書いています。

ここ数年、立て続けに私の大切な人が亡くなりました。その都度、心配させないように感謝して前に進もう、そしていただいたものをお返しできるように自分を真摯に生きていこうとしてきました。みんな大切な人で、見返りも求めずに本当に偉大なものを与えていただきました。涙しても、前に進もうと何とかやってきました。

しかし親友の死がこんなに辛いことだとは思いませんでした。

理屈では納得できない深い寂しさがあり、ひどいことをする奴だと悲しい怒りしか出てきません。たわいもないことが悔しいのです。ふざけあった日々がつらいのです。死別を想像していなかったことが苦しいのです。こんなバカなことがあるかと、恕せないのです。

本当にひどい。

ただひどい悲しみと恕りだけです。

自分が先に死んだら後のことを頼もうと色々と考えていました。家族のこと、子どものこと、他にも気になることは全部、、勝手に自分よりも長く生きるはずだと信じこんできました。だからひどいのです。ひどいのはきっと僕です。

いつからこうなっていたのか、思い出せません。

最初にご縁があった時から、ずっと親友で幼馴染で親戚です。ただこの世に存在して生きているだけで他は要りませんでした。その大切な居るだけで存在していることができなくなりました。

本当の親友とは、唯一無二です。そしてこれからもずっと唯一無二です。彼は永遠になりました、永遠に親友です。ひどいけど、もし自分が逆だったら彼は寂しくてきっと酒をあびて死んでしまうでしょう。だから私より先に死にました。親不孝なやつです。でも本当に善いやつでした。唯一無二のいいやつでした。彼を心から誇りに思いますし、親友だった私も誇りに思います。

こんなことなぜブログで書くのかと思う人もいるかもしれません。沈黙すべきだと。しかしこのブログは私にとっての生の一部であり、私の生きる道です。こんな時だからこそ、親友と私のために綴りたいのです。

人の死も生の一部というのは真理です。その大切な一ページもやっぱり感謝で括りたい。

 

朝焼けの 山に降り立つ なみだ雲 天の盃 いのち飲み干す

 

これからお通夜ですが、永遠の親友は自分勝手。勝手に逝った彼と勝手な私で共に自分勝手に労いたいと思います。

感謝と一期一会。