今を生きる

今の自分に発生していることを、ちょうどよかったと思えるというのは今を生きているということでもあります。人は今から離れると、よくないと思い込んだり、良すぎるのではないかと思ったりするものです。今がもっとも今の自分に相応しいと思う中にこそ、物事を活かすヒントがあるように私は思います。

では、なぜ思えないのか。それは自己との対話に問題があるように思います。過去のことを引きずって後悔し自分を責めていたり、未来に対する疑心や不安が入ってきたり、感情が心の眼を曇らせていくものです。本来、心の眼というものは素直であり、あるがままのことが観えるものです。そこに感情が入ってくると、見たくないものは避けようとするし、見たいものしか見ないという欲望が邪魔をしたりして真実が観えなくなります。

感情がピークに達すれば、脳が過剰反応してショートしてしまうものです。脳は、心と感情の調整をしていますからバランスを保てずに病んでしまうこともあります。本来、素直さというのは心と感情がどちらも今に集中するときに行われるように思います。

今、感じたことを心もあるがままに観ている。それがいいかわるいかなどではなく、あるがままにそのままに許される。そのようなとき、心も感情も健やかになります。もっとシンプルに言えば、体験することを素直に喜び味わう状態になっているということです。この喜び味わうというのは、感謝できる境地であるということです。

日々に感謝で生きる人は、今ここに素直に人生を味わっている人のように思います。しかしそれも簡単にはできることではないから、魂の修行、内省の実践を続けて、自己との調和を通して自己を磨いて修養していくということでしょう。

感情が嫌だといいながらも、心はやりたがっていたり、心は嫌だと思っても感情が先に動いていたり、好奇心というのはやっかいなものですがその好奇心があるから人は体験を優先していけるように思います。

時代が変わっても、人の本質は何も変わりません。AIが出てきても、人間は変わらないのです。変わらないからこそ、何が変わるのかを善く見つめ、今を大切に過ごしていきたいと思います。

憧れる生き方

子どもの憧れる社会の一つに、仕事観というものがあります。将来、自分は何をして生きていくか、それが自分の仕合せや喜びにどうつながっていくのかということをわくわくと取り組める社会のことです。

日本は、義務感や責任感が仕事をすることの基本として教えていてあまり楽しそうにしていたり、自由に働いていることを良いことのようには教えません。特に学校というところもハードな仕事で残業もなく、精神疾患などが増えているということもよくニュースで流れています。

本来、憧れる職業の上位にあったものが今ではハードワークの代名詞のようになり担い手も減り、子どもたちもその仕事を夢とはしなくなりました。子どもたちにキャリア教育を指導することも大切かもしれませんが、本来は自分たちがどれくらい豊かに幸せに楽しく働いているか、そんな環境を調えているかということに向き合う方が先ではないかと私は感じます。

そういう私も、日本の社会のなかで目立つとすぐに色々と厳しい指摘があります。どれも有難い言葉として受け取ってはいるものの、子どもたちのこの先の行く末のことを思うと本来はもっと寛容な部分があってもいいのではないかと思うのです。

みんな勇気を出して、人と異なることをしてでも世の中のお役に立ちたいと思っているものです。しかし何か新しいこと、理解できないことをやろうとするとすぐに否定されたり、クレームが入ってきたりします。もちろん、新しいことをやるには秩序が乱れることもありますがそれでも何のためにやるのか、その初心が何か、目的がどうなのかを聴いてみるとそれはこの先の未来に必要なことだったりすることがほとんどなのです。

そういう時は、文句を先に言うのではなくどのようなフォローができるだろうか、どのように見守れるだろうかというのが大人の対応ではないかと感じるのです。子どもたちが同じようなことを挑戦し、新しいことをして世の中や社会をよくしたいと夢に挑戦するとき、自分はどちらの大人でありたいか、どうせ無理だと諦めるように促すのか、それともやったことは必ず意味があるから、フォローしたりカバーするから挑戦してみようと励ますのか。私は、これからを生きる子どもちたちが理想の社会を築いていけるように見守りたいと思うのです。

人は自分が仕合せでなければ、人の仕合せを喜べません。まずは自分自身の幸福、仕合せを感謝で磨いて高めていかなければ他人の成功や成長を支援できないように思うのです。

だからこそ、このいま、この瞬間を大切に夢を生き、夢を味わい、苦労ができる有難さや挑戦させていただける喜びに感謝していくことからが子どもの見本になるように思います。

まず正しいことを教えるよりも、喜びを感じてもらうことの方が生き方は換わるものです。引き続き、子どもたちの未来のためにも自分の生き方で力になれるように精進していきたいと思います。

道をたずねる

日本のルーツを深めていると、縄文時代にたどり着きます。私たちはこの日本で先祖がどれくらい長く住んでいるのか、そしてどのような暮らしをしていたのか、それがどのように現代に結ばれているのかを知ることでルーツが辿れます。

信仰もいのりも、最初はどうだったのか。長い年月で、異国の宗教や信仰形態も混淆していきますが本来はどうやっていたのか。その原点や道のりを辿れば自分というものを形成しているものも感じ取ることができるように思います。

縄文時代はどのような時代だったのか、遺跡からわかっていることが増えてきています。土器なども深めていると、どのような食事をしたのか、また形からもその調理法や活用法なども見えてきます。遺跡からはどんぐりなどの木の実、貝類、あとは動物の骨が出てきています。

現代でも、一部の地域にはむかしから部族が文明にはかかわらずに暮らしているところがあります。そこでは、当然ながら電気や水道、車、便利な家電製品などもありません。今でも狩猟をしたり、木の実などを採取して独特な祭祀を行い暮らしています。

以前、ブログでピタハン族のことを書きましたが抽象概念がない意識で暮らしていたり、あるいは幸福という言葉を知らない、いつも幸福なので意識的にそういうものがない部族があったり、また戦争という言葉もない部族もあります。

彼らの意識は、私たちのような文明での常識が通じず、ごく自然に余計なものがそぎ落とされて存在しています。地球環境も守り、仕合せに助け合い喜びに生きるという単純なものですがそれが何千年も続いているのです。

現代の文明人類側の様相は、核戦争がはじまりそうな終末期で地球環境は公害によって悪化し、個人の争いや不信、またコンピューターによる新たな支配がはじまります。一体、何処に向かっているのか。意識はどのように変化しているのか、もはや彼らの部族たちのような意識を持つことすら難しくなっています。

しかしやはりこういう時こそ原点回帰して、自分たちの先祖やルーツはどのようにしていたのかと学び直すことが大切だと考えます。それは原始人になれという意味ではなく、今にも私たちが憧れた未来、理想の今が先人たちが築いてきたことの延長にあるはずなのでもう一度、見直して改善することはできるのです。

人は迷う生き物ですが、迷えばまた道をたずねて修正すればいいのです。どのようなところを修正するか、それは生き方を見つめて改善できるはずです。最先端のテクノロジーを使いこなすのもまた、それを活用できる徳や意識があってこそです。

子どもたちの未来に、よりよいものを伝承していきたいと思います。

 

木は語る

昨日は、守静坊がある谷に住む方々と一緒に英彦山にある宗像神社の春の清掃と御祈祷に参加してきました。この場所はむかしから地域の方々には弁天様として親しまれている場所です。印象的な巨石が横たわり、見事な景観と清々しい風が吹いてきます。

そして福岡県が昭和39年に指定した天然記念物の菩提樹があります。樹高は約17メートルほど、胸高周囲は1.5メートルほどです。

この菩提樹の菩提とはサンスクリット語のボーディ(bodhi)の音写で、仏の悟りを意味しています。一般的な植物名の木とは異なり、その名の通り「菩提樹=悟りの木」と呼ばれます。

この日本にある菩提樹は、インドにある菩提樹ではありません。厳密にいうと、釈迦が悟りを開いたときに坐ったのはインドボダイジュの下です。このインドボダイジュはクワ科イチジク属の熱帯植物になります。寒さに弱いなどの理由で当時の日本では育てられなかったため、葉の形の似た近縁の中国原産のシナノキ属の木が代用として各地の寺に植えられて菩提樹と呼ばれるようになったといわれています。

日本で菩提樹と呼ばれているアオイ科シナノキ属の木になります。もともとはこれは中国中部の原産で仏教の聖樹としてよく寺院に植えられる落葉高木でした。開花時期は、6月から7月です。昨日も、菩提樹の実がなっていて可愛らしく印象的でした。この菩提樹の実は念珠の材料としても使われています。

仏教に縁が深い木で、その来歴は12世紀半ばに臨済宗の開祖である栄西が、中国の天台山にあったボダイジュの種子を持ち帰ったことを起源とする説と、筑紫の国(福岡県)に渡来したものが全国に広がったとする説があるといいます。

私は後者を信じていて、もともと山苔国、日子山には中国から仏教が善正という人物が志と共に私伝で入ってきた場所ですし忍辱という日本ではじめての僧が誕生した地でもあります。

この場所に菩提樹があることは特に違和感はなく、その当時から人々の手を伝って仏道を歩む方々と共に日本各地へ弘がっていったように私は思います。

その天然記念物の菩提樹が、この場所にありそれが谷の人たちによって大切に祀られているということ。守静坊の枝垂れ桜と共にこの菩提樹はこの地域の宝だったようにも感じます。

木はモノを語ります。人間は政治や宗教、あらゆる時代の価値観や流行、権力や状況次第でどうにでも変わっていきます。しかし、木はいつの時代も変わらずにそこで静かに真実を見つめています。この古木たちは何を物語るのか。非科学的でおかしなことを言うと思われるかもしれませんが、木は語るのです。

この英彦山にある木々から、真実を直観し、本来の伝承を掘り起こしていきたいと思います。

勇気を出す

国家の借金というものは年々増加しています。未来へのツケをまわさないと政治家は消費税や法人税の増税を求めています。その増税したもので、少子化対策や高齢化対策、そのほかの問題をお金で解決しようと躍起になっています。

しかし実際に蓋を開いてみると、もともと大切なことを優先するための倹約しての増税ではなく今のお金の使い方はそのままに増税していきますから、銀行も経済の状況にあわせて日本銀行券が大量に印刷されて増加していくだけです。しかも見通しもよくつかないなかでの行為なのでもしも世界恐慌や金融危機が発生したらどうするのかなども今は先送りしているのかもしれません。

大きいとわからなくなりますが、これを身近な個人であればすぐにわかります。生活水準は落とさないままで、経済状況を改善しようとするのなら借金していくしかありません。しかも借金して返済する前にまた借金をしたり、あるいは返済のための何か新しい挑戦で目途があればいいのですがそれもありません。それでは、いつか限界がきてしまうことは容易にわかります。

私の住んでいる市もそんなに大きな市ではありませんが、経済状況はよくありません。自分たちの市民の税金ではどうにもならないものは国や県からの支援をいただいて進めています。しかしそれももともとは国民の税金で行われます。それが長期的に効果があるものであればいいのですが、単年度で終わるものばかりでしかも評価する必要があるうえに無難なものになるようなものばかりが提供され続けます。もともとあると思っているから、また税金で無償化されているからと麻痺するのかもしれません。

麻痺しているものをまずは改善することが先決であろうと思います。空き家の問題も同じく、これ以上新築を建てたらさらに空き家は増えるとわかっていてもそれは止められません。他にも、石油もこれ以上使っていたら資源が枯渇し温暖化も激しくなるとわかっていても止められません。ありとあらゆるものが、走り出したら止まれなくなっているというのが本当の問題のように私は思います。

止まる勇気というのは、なかなか難しいものです。しかし止まって考えてみなければ、冷静にゼロから考えることができないものです。コロナで止まって考えておかしいと思っても、周りがまた動き出したら考えたことまで捨ててしまうというのはとても残念なことです。

人類の未来に本当の意味でツケを残さないということは、何をすることなのか。子孫たちに、真の意味で未来を譲っていくということは何をすることなのか。それぞれで真摯に立ち止まり考え直すことがこの先の危機を乗り越えられる妙法になると私は思います。

引き続き、この道を磨いていきたいと思います。

本来の伝承

修験道のことを深めていると、時代の変遷を経て様々なものが混淆していることがわかります。はじめは山からはじまり、その山で修業し暮らした人たちが持っていた様々な知恵が里の人を救うための仕組みとして伝道していきました。本来の根源的なものは何だったのか、そういうものに触れることで私たちは歴史から原点を学び直すことができるように思います。

ざっくりですが、修験道をはじめすべての神仏混淆したものはそのはじまりは日本の場合は自然崇拝からはじまります。自然と自分と結んでいるもの、自分の心身を構成しているものとのつながりの中にいのちや、その存在の妙を直感し、自然にいのりはじめたことがはじまりです。縄文時代の遺跡や文化にも、祭祀を行い、自分を活かしているもの、自分のいのちを存続させてもらえる有難い存在、それはご先祖さまを含めて大切にいのり続けたことからも理解できます。

それが時代の変遷を通して、数々の人たちとその時代の価値観と融合してあらたな信仰として変化してきました。自然崇拝からの巫女さんたちが神道に混ざり、そして仏教が入り尼になりと、様々な暮らしの中で信仰が結びついてきました。さらに、政治的な宗教も入り、共同体としての豪族から領主的なものとしての統治に代わるなかでまた組織ができ、信仰も形を変えていきます。また明治に入り様々な宗教が区別されていくなかで、混淆していたものを分類わけして今に至ります。

本来の始まりはどこかということも、今であまり重要視されていません。しかし私は、分類わけして複雑になってそれがいがみ合うほどになっているのなら原点回帰することが自然ではないかとも感じています。それもまた自然の仕組みの一つだからです。

自然というのは、はじまりから終わりまで循環を続けます。ただその循環は何が循環しているのかということが重要です。自然界であれば、いのちが形を変えて循環を続けます。そのいのちがまるで水のように移り流れることで、私たちは生き続けて活かし続けられていきます。

本来のいのちがあるものは、そういう原点や根源的なものを失ってはいないものです。今の時代は、物質文明でいのちを物として扱い、便利さや効率を優先して経済効果を最大化するという仕組みで成り立っています。だからこそ、原点や根源的なものをあまり意識することもなくなってきました。

しかし、山は変わらずに今私たちの前にあります。その山と対話することは、今の私たちが忘れてしまっている原点や根源を思い出す大切な機会になるように思います。

子どもたちのためにも、はじまりから学び続ける姿勢を伝承していきたいと思います。

変化の正体

私たちの日常は同じ日々、同じものがあるように感じられていますが実際には同じというものは一つもありません。同じであるものを探しても、いくら同じ型で大量生産したとしても同じではないのです。時間もたてば、そこで使われている材料やタイミングも異なります。そしてそれに触れた時点で、また同じものではなくなります。

ミクロでみても、人間や生き物も細胞一つ一つは常に入れ替わっていきます。体にいる菌においても、あらゆる組み合わせで一緒に生きています。同じということはありません。またマクロでみると、私たちの地球も時速1,600kmで自転しながら、太陽の周りを時速10万kmで公転しています。しかも太陽系は銀河系の軌道を時速85万kmで公転し、銀河系は膨張する宇宙とともに秒速630km(時速約216万km)の速度で移動しているともいわれます。

止まっていると思っている時間や場所であっても、私たちは猛スピードの中で遠くへと運ばれている最中ということで同じ時、同じ場所はないのです。常に一期一会であり、二度と同じ今はないともいえます。

しかし人間は、妄想というか概念の中に同じものを無理やり構築していきます。同じではないことにクレームを出したり、いつまでも同じ状態が続くことが当たり前だと思ってしまうものです。健康も、いつまでも元気だと錯覚していますし空気や太陽などもいつまでもあるものと思うものです。

それが時として災害や病気、死に直面した時などにバグが発生します。こんなはずではないや、こんなことが起きるはずはないと思うのです。しかし、よく考えてみると同じような日々が送れることが奇跡そのものであり、同じであると思えることが当たり前ではない有難いことであることがわかります。

同じものはないからこそ、同じようなものに感謝の気持ちが湧いてきます。

この今も、今日も、同じようにあることが如何に奇跡であるか。そういうものに気づく感性は、変化に気づく感性ともいえます。変化し続けているものに合わせて、自分も変化させ続ける。そうやって万物は全体と調和し続けています。先ほどのミクロであれば、体の変化に意識を合わせていくこと。そしてマクロであれば銀河や宇宙の動きそのものに意識を合わせていくこと。

人間は自分の都合で変化をやめるとき、知恵から離れます。知識というものは、意識の固定に役立つのであり知恵の活用にはほとんど役に立ちません。私たちの感覚というのは、それだけ変化に適応するように備わっているということです。

この世の中は、感覚といのちが構成されているもので本来は成り立っています。そういういのちの繋がりやいのちの変化にいかに感覚を研ぎ澄ませていくか。これからの時代、人間が社会を切り取って同じであると洗脳する意識のなかで本来の変化に適応する力がそれぞれに求められるはずです。

こういう時代だからこそ、先人が研ぎ澄ませてきた感覚を大切にしていく必要を私は感じます。子どもたちにも感覚の大切さに気付いて、それを磨き直していくための環境をととのえていきたいと思います。

自分らしく自然体で場を調える

自分らしく生きるというのは、自分の心の声に従って生きていくことに似ています。今は心の声や魂などというと、非科学的なものや宗教とかいって嫌いな人もいますが実際には自分というものとの対話は生まれてから死ぬまでずっと行われるものですからそれを否定するのは難しいものです。

この自己との対話を続けていくと、現実と精神世界のような二元的な話になることがあります。しかし実際には、自分のあるがままや自然体でいるというのはある意味では心のままであり魂のままであるから現実も精神世界も一致したありのままの姿に近くなるということでしょう。

そういう意味では、自然界のすべての生き物たち、特に人工的に人間が関与していないいのちたちは自然体そのものであり霊的そのものといえます。

朝になれば、鶯が綺麗な声で鳴いています。そして朝陽をあびてキラキラと光輝いています。これはまさに霊的なものです。ほかにも、雨上がりのあらゆる植物たちが朝露と光で眩く揺らぎます。これもまた自然体であり魂のままあるがままです。

子どもたちも生まれたばかりの赤ちゃんや幼児期のころまでは、自然体で魂のままです。三つ子の魂とも呼んでいるものです。その自然体である子どもたちが、安心して自己との対話ができるように見守ることは、自然の中で循環する幼いいのちたちが自然体であれるように余計なことをせずに環境を調えることに似ています。

本来、人類は万物の霊長と呼ばれるように自然体であるいのちを見守る役割を持っていたように思います。それは上下の関係ではなく、知識や知恵を持つからこそあえて自然のままでそれが壊れないようにと自分たちを律して自然を調和するように努めてきました。

特に縄文期のような時代には、それが果たされ長い年月、地球の調和や平和が保たれていのちが自然体で謳歌していたように思います。今の時代は、自己からも離れ、迷走するばかりです。

大事なことを忘れない、そして忘れていたものを思い出すのは、目覚めに似ています。魂の目覚めともいうのかもしれませんが、自然体ということがどういうことかを気づくところからがはじまりかもしれません。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるよう、場を調えていきたいと思います。

観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

謙虚さ

時間の経過を観察していると様々なことがわかってきます。自然界ではありのままに移るので道理に従っていることが自明します。人間関係においては、どのような思い込みであったのかということも次第に明らかになってきます。人間はそれぞれの観念や思い込み、あるいは自分の価値観で相手を見ますから都合よく認識するものです。

思い込みが発生するのは、自分の感情が大きく影響するものです。ありのままのことをあるがままに受け入れることは素直な感情です。しかしそこに自分の過去のトラウマや、こうなってほしいという願望などが入ってくると現実を歪めてしまうものです。

特に執着などがあれば、その執着ゆえに事実も受け入れられず様々な問題をつくりだしていきます。執着を手放すといってもそう簡単には執着はなくなりません。思い込みもまたこだわりや思いの強さでもあったりするので、善悪で考えられるものでもありません。

しかし真に豊かであったり、真の喜びのさなかに入ればそれぞれの存在を丸ごと味わうといういのちの姿になっていくとき執着も思い込みも中和されていくものです。

真心を盡したり、人を大切にしたり、ご縁を丁寧に結んだりしていく人は、様々なことを調えていくことができるように思います。しかし、強い思いで何かに取り組むときはどうしても心がほかのことに使われてしまいそれができないものです。

謙虚さというものは、そういう時に磨かれるもののように思います。自分の力でやっているけれど、それは大きな力をいただいてさせていただいているという感覚。主語を自分にせずに、主体を全体にして自分もその中の一部になるような感覚。

そういう無我というか、真我の境地のなかにこそ思い込みを超えたやさしさや思いやりがあるように思います。

人生は色々な方法でその境地にアプローチできるように思います。日々の学びを磨き、自分らしく自分のままにいのちを歩んでいきたいと思います。