命の経済と徳の循環する経済

ジャックアタリ氏という人物がいます。この方は、1943年、アルジェリアの首都アルジェ生まれで思想家、経済学者、文筆家と言われます。具体的にはフランスのミッテラン元大統領の経済顧問を務めた後、欧州復興開発銀行の初代総裁、経済成長に関する仏政府委員会委員長などを歴任されています。

最近、「レコノミー・ド・ラ・ビー(命の経済)」という著書が出て早速購入してみました。すると、私の目指している徳積循環経済や暮らしフルネスに近いことが書かれていて驚きました。

知の巨人による近未来の予測は、現実的には歴史に則ったもののように私は思います。ジャックアタリ氏も、利己主義がつくりあげた経済ではなく利他的なものが必要ではないかと、私は二元論は嫌いなのですが敢えて両輪という言い方をし、片方だけではなく同時にもう片方の車輪をまわしていく必要性を実践で伝えています。

ジャックアタリ氏の命の経済にはこういう文があります。

「私が今後の世界で鍵となると考えるのが「利他主義」だ。他人のために尽くすことが、めぐりめぐって結局は自らの利益になる。例えばマスクを考えてみよう。他人を感染から守るために着けるが、同様に他人も着ければ自分の身を守ることにつながる。「利己的な利他主義」の好例だ。自らに利益がなければ、人は利他的になりにくい。外出制限は利他主義の対極にある。自己の中に閉じこもるだけの愚策であり、経済危機も引き起こした。パンデミック後の世界は他者としての将来世代の利益を考慮しなければならない。何が将来世代にとって重要なのか。政治家らも考える時だ。人類の安全保障や将来のため、生活のあり方や思考法を変えて「命の経済」に向かわなければならない。新型ウイルスに限らず、気候変動による危機なども叫ばれる中、国際社会には総力を挙げた取り組みが求められている。」

言い換えれば、もっと子孫のための経済をつくろうということです。縦の糸のことです。本来は、縦軸という連綿と続いてきた人類が最初からずっと大切にしてきた徳の循環があってその中に横軸としての地球規模というものがあるということです。

利己的というのは、今の自分たちの世代のことしか考えず判断したり行動することです。それぞれ一人一人が、己に打ち克ち己を律するのは子どもたちや子孫のことがあるからです。

将来世代のことを思えば、自分たちはもう一度今の暮らしそのものを見つめ直す必要があると感じています。それが私の提唱する暮らしフルネスです。暮らしを変えていけば、おのずから生き方も変わります。暮らしは、人の生き方の顕現したものであり、どのような暮らしを続けるかは子孫に譲り残していきたい徳を積むことになります。

まさに今の時代は、誰かに依存したり特定のリーダーや国家に命を委ねるのではなく自らの命を自らが責任を持ち、いのちが喜び合うような社会づくりをみんなでできるところから実践していく必要を感じます。

暮らしフルネスの実践を使命感をもって取り組んでいきたいと思います。

場の伝承

むかしの遺跡に巡り会うとそこには色々な人たちの思いが結ばれている痕跡があります。かつての人がどんな思いを持ってその場に関わったのか、そこには物語があり歴史があります。

静かに思いをその場所に佇み、巡らせているとその場所から聴こえてくる音があります。この音こそ思いの本体であり、その音を聴くことによって人々は心が結ばれ調和していくようにも思います。

この音とは、物語でありその物語をどのような心境で聴いたかという生き方が顕現したものです。私たちは生きていると、手触り感というものを感じます。体がある感覚であり、それを触れるという感触です。いのちはこの感覚を通して生きていることの実感を得られます。物語というのは、まさにその感覚の集合体でありその物語に触れるときに人は感覚が目覚めるともいえます。

遺跡というものは、触れることによって目覚めていきます。教科書や本に書いているものをみても伝わってはきません。その場所にいき、お手入れをしてこそ感じられるものです。

そもそも修養するということや、修行をするというのもその場所によって磨かれるものです。その場所とご縁を結び、その場所から感得したものを共感し伝承していくなかで顕在化していきます。

その感性は、五感や第六感と呼ばれるものによって得られており知識ではなく知恵であることは自明の理です。

本来のあるべき姿、人々が何千年も前からどのように様々な知恵を伝承してきたか。その仕組みは、知恵を知恵のままに感受するものです。

子どもたちの未来のためにも、本来の伝道や伝承が知識にならないように実践を継承していきたいと思います。

即興と甦生

私は場を研究し、実践するので即興であることが多くなります。この即興は、辞書をひくと「型にとらわれず自由に思うままに作り上げる、作り上げていく動きや演奏、またその手法のこと」をいいます。また音楽、詩作、舞踊、演劇などの分野では「事前の準備なく、その場で作り、その場で表現すること」を意図して使われるとあります。

これは常識やそれまでの通念よりもその「場」の持つ空氣を優先するということです。世間から常識知らずや刷り込みがないとかも言われ、時として誤解されて批判されることが多いのですがそれでも場からの声や、場が喜んでいるかどうかを優先していきます。

私が古民家甦生するときも、基本は常識に従って丁寧に甦生していきます。町家であれば町家、農家であれば農家のようにと最初は型かた入ります。そのあと、その家の歴史や立地、そしてそれまでの物語やご縁や関係性が出てくるなかでその家の独自性やその家の持つ初心のようなものをくみ取っていきます。その声に従いながら即興で工事や大工をしていきながら最後はその家そのもののいのちが循環するように調えて仕上げていきます。これは場を優先している私の甦生の特徴です。

先人たちの知恵を尊重しながらも、今はこうあったほうがいいというのができるのはその先人たちと同じ心を伝承しているからです。その心の伝承は純度が必要でどれくらい、本気の覚悟で先人とともに歩んでいるかということも問われます。

この時代に今も先人がそのまま生きているとしたら、どうするかということを突き詰めるのです。私が即興を重んじるのは、即興かそうではないかではなく先人ならどうするか、今、私も先人と同じならどのような決断をするかと正対していると次第に即興になり柔軟に判断していくことが増えるだけです。

時代は移ろい、本質もその時々で変化します。本質が変化するのは、それだけ全体快適であるか、どれだけの視野で決めるかが微細に左右されていくからです。最後は、純粋に穢れや曇りのない初心で決断していくしかありませんがその直感に頼るときまたそれが外から観たら即興に感じられるということでしょう。

自分の即興、直感は先人の真心とつながっていると信じてこれからも甦生に取り組んでいきたいと思います。

いつまでもご縁

人生は出会いと別れの連続で存在しています。生まれる前から出会いが始まり、死んでも別れは終わりません。常にご縁に生き、ご縁に死に、生死をめぐるご縁というものがあるだけです。そのご縁は、いろいろな理由をつけては関係性が結ばれますがある時には親子になり、またある時には夫婦になり、またある時には敵味方に分かれていきます。

その関係の中で、お互いに生き方を重ねながら学びあっていきます。学びあうというのは、成長しあうということでもあり一緒にご縁を磨きあっていのちを分け合っていきます。

このいのちの分け合いというのはご縁の本体でもあります。どのようにお互いのいのちを分けたのか、分け合ってきた歴史こそご縁の軌跡でもあります。その分け合ったいのちが、次の何のいのちに結ばれていくのか。それは出会い別れを繰り返しながらかたちを変えては循環していきます。このいのちの循環こそが、ご縁の素晴らしさであり奇跡です。

この今も、私たちは何かを食べ、そして飲み、空気を吸って吐いてはいのちを保っています。これも何かのご縁でそうなっていて、また私たちはそのいのちを分け合い新たないのちに甦生させています。

そもそも甦生というのは、いのちが循環することをいいます。私はいのちとしてそのものを感受し、そのいのちを新たないのちとして結び直すことを意識して暮らしを紡いでいます。本来、自然がわかるというのはこのいのちの道理や仕組みのままで存在しているということであり人間はそのとき、真の仕合せに気付けるように思います。

そしてそれを私は徳を積むとも定義しています。もともと存在するもの、そのいのちに感謝して新たないのちのご縁でいる。

いつまでもご縁であると思えば、この今のご縁を深く味わうことこそが人生の醍醐味であることに気づきます。子どもたちとのいのちのご縁がどうなっていくのか、とても楽しみです。

龍の徳

今朝がた、龍の夢を観ました。この龍は、想像上の生き物ですから私は実物は見たことがありません。なので夢の中の龍も水だけです。よく水墨画やアニメなどに描かれている蛇やワニのような姿ではなく私が観る龍はいつもその活動の余韻の方です。

例えば、今朝がたであれば龍が深い水の淵に潜んでいて水面に落ちたものを深く静かにゆっくりと吞み込んでいきます。すると、水が動き始め滑らかに緩やかに滑るように大きな揺らぎや流れをつくります。その水の流れ方が、まるで蛇のように蛇行しそしてぞっとするような静けさと佇まいを放ちます。まるで、とても大きなものが動いたような水の動きです。その時、私はそこに龍が潜んでいるのを直観するというものです。これは夢ですが、似たような経験を何度も深い池の淵や山間の溜池、大きな川の深いところで感じたことがあります。

この龍というのは、水の化身のようなものです。この時機は、七十二候では雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)に入ります。これは春雷のことです。この春雷を呼ぶのは何か、それは龍であるといわれます。

秋の終わり頃から冬の間、深い淵に潜んでいた龍が雲の上へとあがっていきます。春霞のうちにきっと天に昇ったのでしょう。そして雲の上で活動をし、雷をつくるのです、この雷は稲を助け、田んぼに豊作の兆しを導きます。そして田んぼを見守り秋になると、雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)となってまた水中に帰ってきます。

この水の運行をむかしの人たちは龍と呼んだようにも思います。水のカタチは一つではありません。雨だけでも千差万別の様相があり、霧や霞、そして川の流れ、滝、海に至るまでその姿は微細なものからダイナミックなものまであらゆる姿に変化していきます。

まさにその姿こそ龍の本体であり、その本体を人が直観するとき龍を観たとなったのではないかと私は思うのです。人間の身体も水が流れていますし、すべてのいのちは水が橋渡しをして結んでいきます。

4月1日ですから、エイプリルフールでもあるので今朝龍を観たといってもみんな笑って聞いてくれると思います。みんなの龍はどのような龍なのか、それぞれの龍をもつ人たちがその水の徳に感謝して偉大な龍の流れを味わっていけたらいいなと思います。

この日本に産まれ育ったこと、そして新たな一日になることに感謝しています。

初心伝承の人生

誕生日を迎え、多くの友人たちからお祝いのメッセージをいただきました。思い返せば、あっという間にこの歳まで過ごしてきました。日にちでいえば、赤ちゃんとして外の世界に出てきてから17194日目になります。また今日もその日に一日を積み重ねていきます。あと何日、この世で体験できるのか。そう思うと、貴重な日々を過ごしていることを思い大切にしたいと願うようになります。

誕生日というのは、そういう日々を過ごす原点を思い出しこれまでの日々に感謝する日かもしれません。どの一日も、よく考えてみたら当たり前の一日ではなく尊い日々です。

その時々の人と出会い、語り、何かを共にする。いのちを使い、いのちを守るために、他のいのちをいただいて暮らしを紡いでいく。どの日々もつながっていないものはなく、どの日々も結ばれていないものはない。

一日一日をリセットしているようで、それはリセットではなく新たな一日をさらに新しく体験させていただいているということになります。そして身体も衰え、次第に死に向かっていきます。死を想う時、この今が如何にかけがえのない一日かは誰でもわかります。

一日を何に使って生きるのか、自分のすべての日にちをどんなことに懸けて生きるのか。

有難い一日にかけがえのない喜びを感じているとき、人は仕合せに回帰します。どのような一日であったとしても、その一日は二度と戻ってこない一日。一期一会だからこそ、生き方を見つめ、生き方からいのちを発して光を放っていきたいと思います。

我が初心伝承の人生。

残りの日数で、できる限り真心で尽力していく覚悟です。

先祖返り

先祖返りという言葉があります。これは一般的には何代も前の先祖がもっていた遺伝上の形質が、突然その子孫のある個体に現れることをいいます。人間以外でも、植物や虫、動物などにも起きる出来事です。この先祖帰りというのは、原点回帰ともいえます。本来の姿がどうであったのかを思い出すのです。

もしも歴史を巻き戻すとしたらどうなるか、そうするとみんな先祖返りします。その時の先祖になるのです。時代は何回もそれを繰り返し、歴史を新しくしてきました。歴史が新たになることでまたやり直してきました。文明実験というものは、人間の一つの挑戦でもあります。

過去の遺跡が世界中のあちこちに遺っていますが、どれもむかしは大きな文明が栄えた跡です。その跡をみると、なぜ今、こうなっているのか。その時は一体どうやっていたのかということに思いを馳せます。

考古知新というのは、そのむかしを思い、そして今を知るために必要なことです。そして先祖返りとは、今を見つめ直しこの先の未来のためにもう一度、歴史から学んだ最も徳で治まった豊かで幸福な時代に原点回帰して結び直そうというという試みです。

こういう試みを遺伝子を含め、いのちは生き残るために何度も繰り返してきました。変化成長し、発展するようにできていると同時に原点回帰できるようにもなっているのです。それが変化そのものの本質であり、私たちがいのちのリレーをし循環のなかで生きている証拠でもあります。この多様化というものは、変化に適応するためです。この変化は、環境の変化もありますが精神の変化というものも同時にあるように思います。

これから精神がどう変化していくのか、環境問題とは別に精神問題というものがあります。だからこそ私たちは、かつて先祖たちがどのような精神で真の豊かさを築いたていこうとしたか、子孫に何を祈り、徳を積んできたのかを学び直す必要性を感じています。

世界にとって日本という場所と日本人は、とても大切な役割を果たします。子孫をことを考えれば、ツケを遺す生き方ではなく徳を遺す生き方に転換していきたいものです。先祖返りはもっとも尊敬する偉大な先祖の心に触れるところからはじまります。人間的にも成熟し、知恵を磨き、徳を養う、そういう先祖に近づけるように先祖返りの人々と志を合わせて結を繋いでいきたいと思います。

徳の道

天道と人道というものがあります。天の運行に対して、人の定めともいうのかもしれません。その中心にあるものは徳です。そしてその徳の循環を道とも呼びました。この道徳というものは、すべての根源でもあります。そして天と人を結んでいるもの、それを道徳と経済ともいいました。

本来、自然の循環と一緒一体になりながらその中でどのように私たちは暮らしてきたのか。自然の利子をいただいて、その分だけを有難くいただき足るを知り倹約をしてその豊かさの真実を観るというのが徳の道に入る原点かもしれません。

私は幸運なことに、自然のいのちが喜び合う風景を何度も観る機会をいただいています。すべてが喜びあう世界は、とても調和しそこには徳が満ち溢れています。羅網のような結び合いとつながりの世界です。

本来、むかしの人は目の前の小さなご縁が宇宙全体に結ばれているのを直観していたのではないかと思います。夜空の星をみては、その星の結びつきを感じる。そして身近な小さな植物の変化で気候の全体を直観する。それくらい私たちは身近なものの徳を感じ、その徳が循環するなかで如何に日々を暮らしていくかを考えていたのです。

本来、経済という言葉は経世済民であり世の中を自然になるように修養することです。自然であるというは、自然の循環を邪魔せず如何に調えるかということです。山が調和して神聖であるように私たちの先祖は自然の調律を丹誠を籠めて感謝し調和させていた暮らしをしていたように思います。

現代は、なんでも人間の都合を優先し効率第一で画一化、均一化したことでその循環は見事に破壊されていきました。その結果として、徳が失われていきました。この徳というのは、日々の小さな心がけがもっとも効果があります。そしてそれは自分のいのちを調え、健康に仕合せに生きるためにも必要なことです。

未病と言って、病気を未然に防ぐにも日ごろの暮らしをととのえていくのが一番であるように徳もまた得だけを回す車輪にならないように徳と得の両輪を丁寧に回していく必要があります。

その両輪が走るところは道です。その道は、元々あった普遍的な道があります。その道が逸れてしまいそうなら軌道修正してまた元の道に戻る必要があります。そうやって今も私たちは歴史を創っているからです。

先人の人たちの歩んできた道を尊敬し、子孫たちのための道を尊重する。そのために今の私たちはどのような道を歩んでいるのかを反省し改善する。この繰り返しで、徳は醸成されていきました。徳の道を精進していきたいと思います。

人間らしさ

人間らしさとは何か、それは感性を磨くことで顕れるように思います。もともとの姿が最初にあって、それが次第にわからなくなってくる。その分からなくなってきたものを思い出すためにも私たちは原点を学びます。その原点の中に、真の人間らしさがあるように思います。

例えば、私たちの五感や六感という感覚があります。この感覚は、頭ではわからず体験を通して実感するものです。体験というのは、全身全霊で感じるということです。それをしているうちに、自分がどういうものであるのか感じているさなかに驚きと共に実感できるものです。そこには心がありいのちがあり、繋がりなどもあります。

言語化するというのは、ある意味この体験を形式知にして分類分けするものです。そうなると体験そのもののままでないため、人間らしさというものから遠ざかっていきます。

私たちの身体的感覚というのはとても正直で他の動植物や昆虫のように本能のままに存在します。私たちは手を使いますが、この手もまたなぜこのように動くのか、そしてその手をどのようなことに使うのかでその人の人間性をはじめ人間らしさとなるのです。

自分の根源的なもの、その原点のようなものを人間が感じられるときにこそ人間らしさが出てくるということでしょう。

最近は、あまり感覚を使うことがなくなりそれを機械や便利な道具にさせることによって余計に人間らしさが失われてきているように思います。感覚が失われた世界が、新しい世界だとすると人間らしさはますます消失していくように思います。

AIや道具ができないこと、それは人間らしさでしょう。人間も自然の一部ですから、自然から離れずに人間の感覚を大切にして進化発展していきたいと感じます。

子どもたちにもこの体験というものを通して、人間性や人間力、人間らしさが磨けるように場をととのえていきたいと思います。

不思議さ

一昨日から長いお付き合いのあるメンターの方が場の道場に来られています。御年85歳ですが、まったく年齢を感じさせず目もキラキラとまるで10代のようです。一期一会の哲学を教えていただいてからメンターとして尊敬して、何度か生き方をみせていただきました。その御蔭で、私も将来、どのように生きていけばいいかの指針をいただきました。

メンター自身も親の介護があり、またコロナもあったのでほとんど移動もせずに生活していたこともお聴きしました。しかし、相変わらずの好奇心であらゆる体験を大切に学び、体験から得られた驚きをたくさん私にしていただきました。

この体験からの驚き、まさに好奇心ですが英語ではセンスオブワンダーともいわれます。この解釈は色々とありますが、神秘的な体験としてもいいし、五感をフル稼働して直観的に得られる体験でもいいですがそのどれもが不思議だという驚きと共にあるものです。

私たちは生きていく中で、不思議だと思う感覚や驚くことが減ってくるものです。知識が増えれば増えるほどに、経験をすればするほどに驚きは減っていきます。

私もよく文章や言葉で伝えることも多いのですが、不思議さが観えない人たちはよくだいたい分かったという言い方をします。何がだいたい分かったのかもよくわかりませんが、そのだいたい分かったという言葉が不思議な言葉だなと感じることもあります。

そもそも不思議なことを不思議なままに理解するというのは、純粋な心が必要です。まるで子どもが最初にこの世の自然の道理や現象に触れた時のように驚きの連続です。

冷たいものを触って冷たいと感じる、誰かに声をかけられて耳に音が入ってくる、そして目に映像がうつってくる、そんな驚き、不思議さに触れた感動です。

そういう感動をいつまでも忘れないことは、私たちがいつまでも瑞々しい感性で神秘や不思議を追い求める子どものような心を持っているということでもあります。

私は子ども第一義を理念に、子どもに遺したい憧れた生き方や働き方、あるいは子孫への徳を伝承したいと思っていますからこのメンターの実践は尊敬し私もそうありたいと思うものです。

一期一会に生きるというのは、不思議さや神秘性、そしてご縁を結んでいく生き方です。いつも有難い邂逅とご縁に感謝しています。これからも驚きを味わい、豊かで仕合せなご縁を結んでいきたいと思います。