労を労う

労を労うという言葉があります。労が二つ使われますが、労は心身をつかって努力すること、労うはその苦労や骨折りに感謝していたわるという意味になります。この労うという言葉の語源は、奈良時代の上二段動詞「ねぐ(労ぐ)」で、神の心を和らげて加護を祈るという意味になります。その相手の労苦をいたわる言葉です。そこから「ねぎ(禰宜・神職の一つ、神の御心を休める者の意)」、「ねぎらう(労う」、「ねがふ(願ふ)」の言葉になったといいます。

よく考えてみると、生きていくというのは有難いことの連続です。食べて寝て起きて何かをするにも本当は大変なことです。病気になると余計にその労苦を感じます。当たり前ではないことを身体がやっていたことに気づくと労う気持ちが満ちてきます。

さらに日ごろは気力で何かを為し遂げようとします。志であったり夢であったり、努力をしては挑戦を続けています。その行いにおいて願いや祈りを働かせます。その願いや祈りを神様に届けようとする仲介役をするのなら確かに苦労やその努力に対して労わる心で接したいと思うものです。

報恩や報徳で真摯に努力精進していくことは、それ自体は喜びかもしれません。しかしそのために父母からいただいた身体をどのように大切にしたか。そしてそれを支えてくださっているすべてのいのちやその御蔭様に感謝しているか。そう思うと、この労を労うという言葉は個人に対してだけではなくすべての存在に対して有難くもったいないものへ行われていることに気づきます。

食べ物ひとつとっても、そこにはいろいろないのちの犠牲があります。ご苦労様ですという気持ちと、その苦労に対して供養する気持ち、感謝があります。

みんなが共にいのちとなって一体になりこの世で有難く生きていくということが心を和ませることにもなります。ただ苦労をしたことを思うのではなく、その苦労というものをみんなで行ったことに対する調和が和らげるということかもしれません。

和ませる和らげるという言葉に、和があてられているということが素晴らしいように思います。

和の心は、労を労うことからはじまります。

子どもたちにも和を感じられるような取り組みと場をこれからも醸成していきたいと思います。

人類の甦生

自然というのは毎日変化しています。変化しないものはありません。人間はあまりにも人工的なところに甘んじていくと、変化することを避けるようになるものです。例えば、都会にいけば冷暖房も完備され、大きなビルなどは総合空調です。毎日、建物の中に入ればいつもの温度でいつもの部屋、ビルに入っている飲食店も季節感などはなくずっと同じメニューです。そこに変化はほとんどなく、たまに何かお店が入ったり、人が変わったりすれば変化したと思うくらいです。

このような状況の中で日々を過ごしていると、変化しないことの方が当たり前になっていきます。先ほどのビルの総合空調であれば、温度が少しでも寒いとビル管理に連絡して寒いので温度をあげてと連絡します。昨日と比べて少しでも異なったことが変化ということになるのです。つまり人間は、自分の設定したいつもの状態であることの方が当たり前となってしまうとそうではないことがおかしなことになっているということです。

しかし自然界を観ていたらどうなっているのか、毎日、気候も温度もすべての自然物たちは季節の巡りで変化していきます。特に今の時機は三寒四温で日々に寒暖の変化が激しく、また植物たちも次々と芽生えてきています。その季節の巡りにあわせていこうとすると、毎日が変化です。常に変化する方が自然で当たり前になっているから、その状態に自分を合わせていくことの方が当たり前なのです。

この当たり前の違いというものが、自分の意識にとても大きな変化をつくります。人工的なものが当たり前の常識と、自然的なものが当たり前の常識とでは使っている感覚が異なるからです。前者は脳みそで少し考えて対応すれば終わりですが、後者は全身全霊と感覚を駆使しなければなりません。前者は変化しなくても済みますが、後者は常に変化でいないといけません。

生きる力というものは本来、地球で生き残る力です。大きな災害があったり、あらゆる自然の猛威のなかでも子孫へとつなげていく必要があります。それが世代の使命の一つです。

今の時代は、人工的な環境をつくり変化を止めてあらゆる生き物たちが絶滅しています。人間には都合のよい環境でしょうが、自然にとっては生きていけない変化しない環境を与えられます。自然と共に生き残ろうと選択してきたからこそ、人間の人工化に適応できないのです。

この先人類はどうなっていくのでしょうか。

子どもたちのことを思うと、変化することの大切さを真の意味で学ぶ場が必要だと感じます。私が暮らしフルネスに取り組むのもまた、その理由もあります。そして生き残るというのは実は仕合せになるということに似ています。ただ生きるのではなく、変化と共に生きることの仕合せがあるのです。全身全霊の感覚を使うことはいのちの充実でもあります。そうやっていのちが結ばれつながり地球と共にあるという安心感は格別であり唯一無二のこの世の楽園です。

子どもたちのためにも引き続き、人類の甦生に取り組んでいきたいと思います。

感情と心

怒りというものがあります。怒りには一次感情と二次感情というものがあるといわれます。表面上で怒るのは、自分の思っていたのと違うという感情や自分の価値観では当たり前である常識やこうあるべきというものと異なるときに防衛手段として怒るのです。しかし、その背景やその奥には悲しみや苦しみ、そして自分の心や魂などの叫びなどもあります。感情というものは、ある意味で心や魂の一次感情です。その奥にあるものこそがその発端になっている元にあるものでもあります。

人は感情をバネにして成長していくものです。喜怒哀楽があるように、その感情は心で感じたことを表出させさらにそれを外に出していくことで新たなものが入ってきます。感情をコントロール事が大事なのではなく、その感情を味わい内省することが感情を調えていくことにもなるように思います。

悲しみには時薬というものがあります。ずっと荒波のように荒れていることはできず、海が静かにさざ波だつように心も感情も一つになり修まります。宇宙の心がどうなっているのか、地球の心はどうなっているのか、味わうことは風に吹かれ、雨に打たれ、光を浴び、星々と月の影に触れると心に沁みます。

私たちは常日頃、天候や気候、季節の感情に触れてはそれを味わいその心の奥深さに触れていきます。私たちの心は偉大なものと結ばれていて、その結ばれているものが自然の偉大な恵みを循環させています。

感情を見つめると心が観えます。そして心を観つめていくと天命に気づきます。天命に気づけば穏やかです。目に見える現実を直視することは、真理を探究するのに似ています。その蔭にあるもの、隠れているもの、深遠を辿ると静けさが来ます。

あるがままの弱さ、甘さも受け止めて、その時々の感情の奥にある己心と正対して今に精進していきたいと思います。

カグヤの由来

カグヤという会社の名前はかぐや姫から名付けられています。これは1000年前も今と変わらず語り継がれるような物語を子どもたちに譲り遺していこうと名付けたものです。歴史や物語には、普遍的な本質がありそれが子どもたちの心に深く響きます。自然の篩にかけられて遺ってきた物語には時代を超えた生き方があるものです。その生き方を遺し、それをつなぎ、甦生するというのは偉大な経糸や縦軸の伝承になります。

このカグヤの「かぐ」というのは、古語では光を意味したともいわれます。「かげ」という字も光を意味していて、月影や星影といったように影とはその光の余韻や陰影に映る光全体の様子を顕現したものです。そして火の神様をカグツチと呼び、天の香久山もカグヤマというのはこれも光を顕しています。

ちょうど昨日、天の香久山の歌枕を郷里の香春神社で詠みましたが、近くに銅鏡をつくる場所があり山頂で儀式をして古代には白い光を放ったいたことが想像できました。光を集めて、光を放つというのはある意味今もリーダーの役割であり心の明かりを燈す大切な古来からの徳の生き方です。

私は元々この世に存在したものを徳と呼びます。そしてこの光というものもまた徳の側面です。光はいつからあるのか、それは初めからあります。つまり初心です。その初心を思い出し、その光に感謝すること。これを御蔭様ともいい、御光様ともいいます。

この光の生き方とは何か、それは古代の人たちがしてきた生き方を今も自然に行うことです。私にとっては、鞍馬寺での信楽香仁さまがその一つの憧れた生き方であり御光様そのものでした。いつも天にお任せしてお気楽に極楽でいる生き方。暗闇すらもぬくもりにし、日々のお山の空気そのものに喜びと仕合せを感じておられました。

私たちは初心を忘れています。

改めて、カグヤという名前、そしてカゲという在り方。かんながらの道を邁進していきたいと思います。

実験の醍醐味

血の巡りというものがあります。「血が巡っている」と最初に言った医師はウイリアム・ハーベイというイギリス人医師だといいます。今では当たり前ですが、その当時は結歴は抹消に流れるとそこで消えると信じられていました。心臓に戻ってこず、一方通行で送るだけで消費されるという概念でした。それを実験と観察を通して、血が巡っていることを突き止めたのです。他にもこの医師は生理学に貢献します。それまでは血液が固まって胎児ができると信じられていましたが、動物は卵という共通の源基によって形成されることを突き止めました。

この医師が突き止める手法すべては「実験」にとって行われました。この実験というのは古来より最も大切で、それまで固定概念や常識、思い込みを取り払うことではじめて本質的な観察がはじまります。正解を疑うというより、本当のことを知りたいという純粋無垢な心からです。これらの本質的な実験をする人は真摯に真理を探究する人ですから、観察も洞察も磨かれていくのです。少しでも楽をしそういうものだからと決めつけ当たり前や常識を鵜呑みにするというのは、それ自体が本当の間違いに繋がっていきます。刷り込みのない知性は、子どもの好奇心と同じなのです。

世の中を純粋無垢に観ることではじめて私たちはこの自然の摂理や宇宙の真理に触れていくことができるように思います。そのためには自分を信じ、常識を忘れて実験していくしかありません。私が日々に取り組む実践もまた、実験のようなものです。

この血の巡りでいえば、私たちは人間の動力は水と火でいのちを形成しています。水が固まり、熱を与えれば沸騰する。この簡単な原理ですが、私たちはこれを使って循環をして生命を保っています。すべての内臓や機能は、この血の巡りによって活動しそして入りと出を繰り返しながら循環を保ちます。

水を細かく分析すると、結晶化しますがそこに結晶化潜熱が発生することが現代科学で実験されています。水は熱を放ちながら変化するということですが、これは水が火と一体で活動することを意味するように私は思います。

朝起きたら太陽がでて、そして夜になります。その間、空気をはじめ地面、地球、あらゆるものは熱を移動させていきます。その熱の移動と共に水も火も循環しています。巡り続けているのです。この巡りこそ熱の正体であろうと私は思います。私たちは変化するとき、必ず熱を発します。熱を発するということは、それだけ水と火が和合して変化を繰り返すのです。

目には観えませんが、心魂を燃やしたり、感動して震えたりすることで熱量は放たれます。すると、心臓のようにそのものが巡りはじめるのです。私たちの成長というものは、この最初の巡りからはじまります。そして巡りをやめて固まります。

温冷によって自律神経がととのっていくのもこの原理のように思います。この時機は、三寒四温といって春に入り次第に気温が温冷を繰り返してととのっていきます。すべてのいのち、生命たちもまたこの変化の熱によって目覚めていきます。

もっとも原始的な感覚を通してこの世を観察し、実験を繰り返していきたいと思います。

 

伝統野菜の本質

伝統野菜というものがあります。この伝統野菜は在来品種で地方野菜とも呼ばれているもので明確な定義はありませんが日本各地で古くから栽培されてきた在来種・固定種のことです。

長い時間をかけてその土地で種を繰り返し自家採取して育ててきた遺伝資源でもあります。この遺伝子は、一度失われると二度と元に戻ることはありません。伝統文化の伝承もですが、それだけ貴重なものであるのは間違いありません。

現在、この伝統野菜はスーパーなどではほとんど残っていません。それは戦後に、野菜生産の工業化、F1という改良した種により均質な野菜を中心にした標準化、さらには自家採取をやめ種子販売が中心になったことで伝統野菜は消えていきました。

私が取り組む伝統野菜、堀池高菜もほとんどが大手の種子メーカーが改良した高菜の種になったことで地元でも育て自家採取する人がいなくなりました。その地名になった堀池も、ありとあらゆる大手のフランチャイズ店や飲食店、お菓子屋から薬屋などが乱立し田んぼや畑もほとんどなくなりました。高菜も大量生産の仕組みにあおられ、中国産が入ってきて価格が崩れむかしからの伝統の老舗漬物店もすべて廃業していきました。そして地元の食文化であった高菜離れも進み、戦前戦後は必ず食卓にあがっていた高菜もほとんどなくなり今では一部の農家や飲食店で使われるほどです。

本来、野菜は買うものではなく育てるものです。それは人間も同じです。みんなで育つ中でお互いに必要とし合い成長していきます。それが風土であり、故郷です。自分がどこで何を食べて生きてきたか、その生育歴こそが今の自分です。

人間も本来は、その土地の伝統的な人間であったものが均一化する教育と食事、そして改良された種、そして自家採取ではなくどこかで買ってきたものというようになるのが常識になるのは本当に残念なことですし不自然なことです。

この先の時代、様々な環境の変化、気候変動に対応できるのかと考えたときのリスクは計り知れません。だからこそ多様性や遺伝的な強さを持つそれぞれが個性を発揮することで何かあったときにこそお互いに活用し合い助け合って生き延びようとしたのが共生してきたいのちたちの戦略だったはずです。

一番危険なのは目先の安心安全などに翻弄され、本当にやってくるリスクに備えないことです。だからこそ、今の時代、原点回帰が必要だと私は感じます。言い換えれば常に原点を持っている存在が必要ということです。それが伝統であり文化なのです。

私は堀池高菜を守っていますが、同じようにこの土地でその伝承をする仲間を集めていこうと思います。子どもたちに、未来もかつてのむかしと同じような安心安全を推譲していけるように取り組んでいきます。

聴福人の境地

私が庵主をする聴福庵の実践は、文字通り聴くことです。この聴くというのは、何を聴くのか。そこに生き方があり、場が醸成されています。来られたことがある人は、その意味を理解して皆さんとても感動されます。また一緒に過ごした人たちは、その生き方や取り組みに感化されて変化していきます。

人は聴くことがあって先に、話す言葉が出てきます。言葉が出たのではなく、いのちが声を聴いたから言葉が顕れたということになります。

日々の天候も気候も変化は已みません。同時に何百年も前、もしくは数千年も生きているような心が入ったものはいのちの声を放ち続けています。そういう声を聴ける他人と、何も聞こえない人がいます。

人間の耳は、雑音を遮断する機能が脳についています。都会にいけば最初うるさいと思っていた音が次第に聞こえなくなります。深山のさらに奥深いところにいけば、雑音などはありません。あるいは、冬の高い場所の雪山であったり、洞窟の中なども同様に雑音などありません。静けさのなかに、聴こえてくる音があるのです。

私たちは心を鎮め、いのちの静けさに気づけば耳が働き声が聴こえてきます。どの境地で物事や出来事、そして今を聴くかはその人の心やいのちの状態が重要になります。

暮らしというものは、日々にどのように心の声を聴いているか、いのちを活かしているか、徳を磨いているかということが試されます。暮らしフルネスというものは、そういう生き方や暮らし方の実践の集大成でありそれが自然体やかんながらの道というものともつながっています。

聞きたくないものは感情の中にもあります、そして心の声も内省をどれだけ謙虚に素直に取り組むかでも変わってきます。西郷隆盛は敬天愛人とも言いましたし、吉田松陰や孟子は、至誠通天ともいいました。

聴福人とは、そういう境地に達した人物ということです。

これからも私の天命を確認しながら、丁寧に誠実に取り組んでいきたいと思います。

仲間の刺激

友人が佐賀県の長崎街道の塩田で古民家を甦生しブロックチェーンエンジニアを育成しています。今から2年半前に、色々とアドバイスをしてから地道に自分の手を足と身体を使い工事を進めて形にしてきました。私もやっている自分を客観視することがありますが、まるで自分を観ているようで元氣や勇気をいただきました。

周囲の声が色々とあるなかで、自分の直観を信じるということは大変なことです。特に条件が悪かったり、常識が異なっていたりすればするほどに信じることが難しくなります。しかし着実に一つずつ、形にしていくなかでその人の中にだけある構想や思想、そして夢が現れていきます。

どのようなクニを創ろうとするのか、どのような生き方を遺そうとするのか、それはその人自身の問題です。周囲に合わせて、迎合していけばそれは実現しません。最初は一人であったと思いを決めて、覚悟をもって取り組むことで前進していきます。

2年半ぶりにお会いしたら、別人のように風格も知識も自信も増えていて見た目もですが中身も研ぎ澄まされていました。そしてその姿に感動して仲間があつまり、10人以上のメンバーも増えていました。

私も自分の何がどのように人に影響を与えているのかを感じ直し、自分の取り組む生き方や後ろ姿によって新たな道が弘がっていくのも味わういい機会になりました。

私だけがやっているわけではないけれど、私のいる場所から世界に変化が伝わっていくという事実。人が感動するのは、感動しているまま実践する人の感化力であることも再実感しました。

挑戦を続けていけば、挑戦する人たちの勇気と元氣になります。自分だけではできなくても、みんながそれによって変わっていけばそれが真の復興になり甦生にもなります。

切磋琢磨できるような仲間が増えていくことに仕合せを感じています。刺激をいただいたからには私も結果で応えていきたいと思います。

ありがとうございます。

懐かしい未来

懐かしい未来という言葉があります。この懐かしいというものは、むかしから今も続いているものです。そして未来とは今のことです。今の連続こそが未来そのものになるからです。

本来、むかしにどのようなことが行われていたのか。時間という概念のなかでは過去のことはほとんど覚えていないということになります。しかし時間という概念がないとするのなら、過去のことは今であり今があるというのは過去はないということになります。そうなると今はむかし、むかしは今となります。

つまりは過去がないのだから、今こそまさにむかしそのものを象っているということになるのです。

そういう意味で、神事というものは過去のものではありません。今のものであり、今もむかしと同じことを続けているだけということになります。

私は時間軸でいえば1000年前も100年前のことも覚えてはいません。しかし、そのころに同じ心で同じように場を設け、みんなで一緒に味わっていたであろうことは思い出します。それは今の心から思い出します。過去への推測ではなく、今感じているものに歴史やその当時の人々の心を直観するのです。

私たちは過ぎ去ったものを歴史と呼びます。しかし本当にそうでしょうか、この大きな勘違いと常識によって今というものがわからなくなります。今を生き切る、今にいるということの大切さは本当の自分たちを知り、本来の未来を実現するということです。

懐かしい未来というものは、そういうものであり私が実践で取り組んでいる暮らしフルネスもまた同様にこの今、此処に真心を籠めて生きることでもあります。それは私のいる「場」に来ればすぐに学べ伝わります。

子どもたちに懐かしい未来のままで喜びや仕合せの初心を伝承できるようにこれからも精進していきます。

永遠の今

本日は、妙見神社(ブロックチェーン神社)の4回目の例大祭です。この日は、この神社創建の日であり一年で最もハレの日として盛大に御祭りをしています。ここの神社にご縁ある方、いつも見守っていただいていると感じる方々と共に神様を喜ばせるような清々しい一日を過ごしています。

よく考えてみると、一人の人から祈りがはじまりそれが長い歳月を経て多くの人々が祈る場所になります。この世のすべての神社や仏閣もまた、同様にはじめは一人からはじまったものです。

今では当たり前にどこの神社でも寺院でも参拝できますが、むかしはそこには何もありませんでした。そこに一人の人物が覚悟を定め祈りはじめそこから祈りは広がり子孫をはじめ今も祈りは続いています。

この祈りこそバトンの正体であり、その祈りを通じて私たちは大切な初心を伝承するのです。この祈りとは、まさに行そのものであり今でも実践を通して太古の人々、親祖と呼ばれるはじまりの先祖の真心に触れることができます。

私はご縁があって神社創建の機会をいただき、むかし人がどのような気持ちで信仰をはじめようとしたかも体験させていただきました。ずっと永遠を願い祈ることは、永遠の平和と仕合せをいのることでもあります。

ここは秩父神社から八意思兼神、妙見神社から闇雄神の御霊に御鎮座いただいています。智慧を司る神様と水を司る神様です。不思議なことですが、同じ想いで繋がっていくからかその祈りと共に歩む方々ばかりがこの場に来ていただき一緒にお祈りや御祭りをするようになりました。

今でも私たちは歴史の中にいて、むかしからずっと今にして祈りを続けています。連綿と永遠に道は続くのです。

その大切な日を忘れないことはハレの日を常に甦生し迎え続ける目出度い真心の養生です。みんなで喜び合い仕合せを感じることこそが、この例大祭の本質ではないかと感じます。

永遠の今を味わい、一期一会の喜びに感謝していきたいと思います。