今の心をととのえる

万葉集を詠んでいると、むかしの情景が思い出されます。現代は、情報化社会でありとあらゆる他人の人生や価値観が無尽蔵に流入してきますがむかしは人の心の奥ゆかしさのようなものを交わしあっていた時代であったように思います。

情報は、二つの側面を持っています。

一つは、流行や時代の変化など生き残っていくために必要といわれるような情報。現在の情報革命はこの情報をインターネットを用いて誰もが持てるようになってきたことです。一部の人しか持つことができなかったものも、ITの媒体を用いて全体が平等に持つことができるようになってきました。

もう一つは、心の情景や情緒、共感や共鳴といった思いを通じ合わせて仕合せになっていくために必要な情報です。これは万葉集の時代も、今の時代も、お互いの心配りや心遣いを通じ合わせていくものです。

人は何のために生きるのか。

1500年も2000年も前から、ある意味今と似たような日常を過ごしていました。ただ今よりもむかしの方がゆっくりと過ごし今に集中できていたように感じます。それだけ時間というものや社会も複雑ではなかったし、自然との共生や文化が醸成されシンプルだったからです。現代はスピード社会で、振り返る暇がないほどに毎日情報が入ってきてはスケジュールに追われるように生きていて社会全体が忙しくなっています。

旅をするときに、何が旅の醍醐味だろうかと思います。多くの観光地を矢継ぎ早にたくさんまわって次々と見て回るというものもあります。同時に、ゆったりと人の息遣いや文化を感じて心を通じ合わせて語り合い深く共感し人生を豊かにしていくようなこともあります。

どちらがいいとか悪いとかではなく、大事なのは今をどう大切にしているか。今はどうなっているのか、今の心をととのえていくことだと私は思います。

今の心をととのえていくと、自分の一期一会の人生の妙味を感じます。

人は誰にしろ、喜び、悲しみをはじめ侘び寂びなどの感情があります。同じ人間として、分かち合う、分かり合えることは人がこの世に生まれてきた仕合せの境地です。

子どもたちにも、今というものをどうととのえていくことが仕合せに近づけるのかを身近な実践から伝承していきたいと思います。

やまと心の甦生

万葉集を深めていると古代の日本人がどのような信仰を持っていたのかに気づくことができます。また現代で変わったこと、また変わらないことも感じることができます。自分たちのルーツを辿っていく中で、どのような感性を持っているのか。そして感じてきたのかを、時空を超えて味わう中で心の故郷を感じることができます。

これは過ぎ去った古代の探求ではなく、今も続いている古代の心を感じる道の実践でもあります。

古代の心というのは、今もある人間の普遍的な深い情緒です。喜びや悲しみ、幸福や不幸などあらゆるものを心で味わい、それをそのままに詩にしていきます。その気持ちは、誰でもが持っているもので心情に通じるものがあります。

またその歴史的な背景を知ることで、私たちは状況を想像することができ共感するものです。自然に鳥が鳴くように、雷が轟くように、音を発します。その音は、古代から今も変わらずに続いており、それを聴くこと、詠むことで今も同じ時を過ごしていることを直観できるものです。

万葉集に触れていると、先祖たちの生き方や生き様が垣間見れます。また美しい心、切ない心、感動する心や童心など、感じ方、心の機微を味わえます。

よく考えれば、祖父母がどのように今の自分の歳に何を感じていたのか。あるいは、子どもの頃はどのような気持ちでいたのか、そういうものに耳を傾けると自分の今につながっている想いや心を感じます。

万葉集に感じる懐かしさというものは、まるで自分が生前にそれを味わったかのような余韻を感じます。どうにもならないことこそ、そのまま受け入れるしかないものこそ、そのまま言葉になります。その言葉は、時代を超えて語り継がれていきます。

なぜならそういう言葉こそ、真実の言葉であり解釈もできず分類もできず、理屈もなく、純粋な心そのままを帯びた言葉だからです。

大切な我が子をなくしたり、愛する人と別れなければならないこと、理不尽な不幸が訪れたり、自然災害ですべてを失うこともある。言葉にできないからこそ、言葉にするのです。そうやって人は、その事実を味わい人生を盡してきました。同時に、出会えた喜びや、無上の感動、奇跡のような幸福や、当たり前ではない仕合せを感じて言葉にします。それもまた、事実を味わい人生のかけがえのない妙味を感じてきたのです。

生きるということを、先祖からどのように倣っていくのか。今のような時代だからこそ、先人の生き方を参考にしていくことが私たちがいただいた財産であり宝であろうと思います。

私のこれから取り組む、やまと心の甦生は遠大で無限、終わりなき旅です。古代の人々の想いをつなぎ、徳に報いていきたいと思います。

日本という存在

日本という存在の面影というものを色々なところで見つけることができます。まだ有難いことに私たちの世代は西洋化の影響を受けてきた変遷、またそれでも遺っているあらゆる文化や伝統の両方を味わうことができています。

変化を見つめて味わうなかで、原点をよく見つめて五感を研ぎ澄ませていると日本人とは何か、日本という存在は何かということを直観することもあります。釈迦が因果律を語るように、本来、はじめに種がありそこから繰り返し変化を続けて生き続けています。

土というものに触れ、水と太陽、つまり自然というものと共生をしてきた歴史、そして何をもっとも大切にしてきたかという歴史、これが民族を形成していることは間違いない事実です。

神話から今に至るまで、それを何度も繰り返し辿りながら似たようなことをやり続けます。これが託された人生でもあり、天命という仕合せと結ばれている生き方でもあります。

小泉八雲という人物がいます。ギリシャ生まれの新聞記者、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者で1904年に亡くなられました。純粋でニュートラルな目で、ありのままのこの日本や日本人を捉えられた方です。

忘れてしまっているものを思い出させてもらうことは有難いことです。これは空気の存在、いのちの存在なども同様に当たり前で絶対的だからこそ意識しなくなるものです。

しかしこれがなければ生きていけず、気づかなければ幸福にならないものです。

小泉八雲はこういいます。

「日本の将来には自然との共生とシンプルライフの維持が必要」

「日本人の精神性の根幹には祖先信仰がある」

まさに、日本と日本人とは何かということをはっきりと観えておられます。私の暮らしフルネスのまた、同じような感覚で取り組まれているものです。

そしてこうも言います。

「日本人ほど、お互い楽しく生きていく秘訣を心得ている国民は、ほかにちょっと見当たらない」と。

お互いに楽しく生きていく秘訣を心得ている。そうあるとき、私たちは日本人なんでしょう。日本人よりも深く日本を愛したといわれる人が、そう思う境地を私も味わってみたいものです。

誰かに教え込まれた日本人ではなく、もっと緩んで開放し、自由にすべての束縛を手放し、まっさらの無垢な心で子どもたちには生きてほしいと思います。

ルーツから

私たちは知らず知らずのうちに自らの価値観の中に歴史の影響を受けています。産まれて育った風土は、原初からずっと今まで続いておりそこに人々が暮らしを営んできました。時間軸でも、100年前も1000年前も、また数千年前もここで誰か人々が生活を営んできたのです。そして今も自分も同じ場所で生活をしています。

もしも1万年間ずっとカメラがその暮らしを撮影していてそれを数倍速で見たとしたら今の自分がこの風土に大きな影響を受けていることに気づくはずです。例えば、外国人で肌の色が違かったり姿カタチが異なるのもまたその風土の影響があってのことです。それに価値観や文化、食べているものの違い、得意不得意なども育った場所、そして生活様式、それらの影響も風土が決めます。国民性の違い、国民の特徴などもまた歴史や風土です。

つまり私たちは、何かを学び始めるずっと前に本来の自分たちは一体何者で何処からきて何をして目的は何かなどはじまりやルーツを知る必要があると私は思います。日本であれば、神話がありそれが国家になっていく歴史の変遷もあります。あとは、この日本の風土でどのように生活をつむいでどのように助け合ってきたかという経過も大切です。

そういうものを学び、知ることではじめて自分のルーツを知り日本という姿、日本人であるということを自覚できます。世界との交流がますます進むこれからの未来において、特に大切なのはこの「自分を知る」という教育なのです。

しかし残念なことに、現在は机上の学問が優先され地域や郷土、風土から学ぶという実践体験も失われています。同時に、ルーツはほとんど知らされず途中からの年号の歴史を学びます。今もつながって存在しているという生きた歴史ではなく、ショーケースに入ったような歴史を暗記しては受験のために使います。

すべての学問の原点でありルーツである歴史を学ばないというのは、未来に大きな禍根を残していきます。

キャリア教育とかSTEMとか流行りもありますが本当は何のために学ぶのか、そして自分とは何かという普遍的なことをもっと大切にしてほしいと思います。そのための歴史であり、そのための故郷があるのです。

子どもたちのためにも、私のできるところで真摯に取り組んでいきたいと思います。

波動の徳

私たちは音というものを感じます。その音は、あらゆるところに無限に満ちています。音はそのまま正直であり真実です。音を聴けば、その物の本体や本性もわかります。音は波動です。

この波動というのは、一部では目に見えないから怪しいとか胡散臭いとか言われますが現在は量子力学が波動を解明していることもありその存在を明らかにしはじめています。しかし実際には、科学で証明できないものも全部含め波動と呼んでいますから解明されたとしてもあくまで一端が見えるだけです。

眼に見えないものの方がこの世には多くあります。これは脳の構造も同じく、人類がいくら科学を進歩させてもほんの数パーセントもわかればいいほうです。宇宙のこと、いのちのこと、一端を知識で得てもそれを感得し気づくためには今のアプローチだけでは限界です。

その歪さからか、世の中や社会情勢も歪になっていきます。本来の原初、原始には何があったか。そういうものは哲学のように語られますが、本来これは当たり前のことではじまりを知ることで人は今につながります。

眼に見ないものの中にこそ、そのはじまりの答えがあります。答えを生きるためにも、私たちはもっとその自然的なもの宇宙的なものも否定せずに全身全霊で味わい語り合っていくことが必要だと感じます。

波動といえば、音の波動の話を先ほど書きました。そもそも音はとても不思議です。耳に聞こえるものだけではなく、全身全霊で感じる音もあります。その音は、イヤホンで聞こえる音ではなくまさに波動を感じる音です。

そもそも波動とは何か、辞書をひけば 「1 波のうねるような動き。 2 空間の一部に生じた状態の変化が、次々に周囲に伝わっていく現象。 水の波・音波などの弾性波や、光・X線などの電磁波などにみられる。」とあります。よくエネルギーなどもいわれます。

私たちの意識も、心臓などの肉体もすべては海の波のように呼吸をしています。自然界の天候や気候、宇宙の星々にいたるまでその波が重なり合ってお互いに影響を与えているということです。

どのような調和をするのかで波動も変わります。例えば、人間にも波動の善い人という人物がいます。周囲がその人といると和み、居心地が善く仕合せになるのです。その人が日ごろ発している波動は生き方です。生き方を磨き徳を高めている人の周囲は落ち着くものです。

波動をどのようにととのえているのかは、物質だけではなく人の周囲にも顕現していきます。音は、それを響かせたり増幅させたり感受させたりする触媒の一つでもあります。

一つの人生のなかで私たちは様々な音や波動に触れて変化していきます。変化を味わうのは音を味わいことであり波動を味わうことです。

様々な体験によって人間が気づき変わっていくのも波動の本質かもしれません。人の出会い、ご縁を楽しんでいきたいと思います。

古代の知恵

最近、古代のことに触れるたびに様々なつながりが増えてきています。世界には似たような神話や歴史があります。不思議なことですが、そのどれもが類似性がありその知恵も同じです。

もちろん風土や環境によって少し変わっているところもありますが、どれも似ています。これは何が考えられるのかと少し掘り下げてみるとはじまりは一つであったということの証であろうと思うのです。

そもそも始まりがあるから今があります。今は始まりの連続の中にあり、この今に思いを馳せれば太古の時代から連綿と生き続けてきた歴史があります。この歴史は、目に見えるものと見えないものがあります。最近はDNAを調べられるようになり、起源がどうだったかが辿れるようになってきましたが遡れば同じ遺伝子を持つことがわかります。

いのちが多様化していくのは、その風土と一体になっていくからです。私たちの意識も体もあらゆるものは、形を変え続けて何度も甦っていきます。同じようにみえて少しだけ変化していく。それは意識が交わり、遺伝子も、生命もすべては渾然一体に重なっていくからです。

まるで網で編まれたような羅網の世界です。

そこは誰が統治するのではなく、統合させようとしなくても自然に渾然一体に調和していきます。この調和というものこそ、知恵の結晶です。

今に生き切るという言葉があります。

この今というものの今は、一体なんのことをいうのか。今とは、縦軸と横軸、すべてがととのっている状態のことをいうように思います。それはすべてに主体性が発揮され、自立していて協力し合っているいのちのハタラキの姿です。

古代というものは、そのいのちのハタラキを存分に発揮していたことは直観的に感じ取れます。多様化してきて、原点が観えなくなってきたからこそ今こそルーツを辿る必要があります。

明日は英彦山で仙人苦楽部がありますが、これは子どもたちのために知恵を遺し、共に学び気づき合い、それを暮らしのなかで活かしていこうとする取り組みの一つです。

今回は音を使った波動の体験になりますが、かつての古代の人々が音をどのように感じ取っていたのか、実体験を通して今につながる知恵を甦生させていきたいと思います。

道の元

昨日まで同志の禅僧と一緒に過ごしていたからか道元禅師のことを懐かしく思います。道元禅師の言葉には今になって読み直すと改めて深く共感するものが多く、有難い気持ちになります。

そもそも原初の問いとして私というもの、この目に見えるもの見えないものを含め一体誰が創造したのか。それは私が産まれるずっと前からあったものであり、私の身体も持ち物もすべては私が創造したのではなく創造させてもらえているものです。

言い換えれば、古代のずっとむかしよりただ存在したものの一部をお借りしてこの世にいるということになります。それを使って何をするかというのが道であり、本来の自然のハタラキのままにこの世で生きる仕合せを味わえるという幸福を得ているものでもあります。

いくつか道元禅師の言葉に触れていきたいと思います。

「山川大地日月星辰これ心なり」

昨日も美しい月や光や雫にうっとりしましたが、この世のハタラキはすべて魂がありそれには心があります。心は心を通して自然や宇宙を実感させてくれるものです。

そして食事のお話は、よく私もおむすびやおかあさんなどでする「お」の話です。

「いはゆる粥をば、御粥と申すべし」

「食をして法と等ならしむ」

私たちが借りているこの身体でいただいているものもまたお借りしているもの。すべての道理は日々の知恵や生き方が決めます。原初の人類がどのような心で食べてきたか、それを日々に確認することで私たちの道を示してくれます。

「結果自然成」

結果というものは、実力が結ぶものです。それは種を蒔き、芽がでて花が咲き、実をつける。つまりその結ばれたものとは本来、自然が生成したものです。無理をして移植をしたり、どこからか買ってきたり、即席で取り繕うものは結果ではなく不自然であるということでしょう。自然にその時が来るのを待つ境地というものこそが、自然に生きる、自然体ということで謙虚である姿です。

「坐禅は静処よろし」

静かになることは豊かさを味わうことです。道元禅師の遺誡に八大人覚というものがあります。これは小欲(しょうよく)、知足(ちそく)、楽寂静(ぎょうじゃくじょう)、勤精進(ごんしょうじん)、不忘念(ふもうねん)、修禅定(しゅうぜんじょう)、修智恵(しゅうちえ)、不戯論(ふけろん)です。

この境地は、静かさの中にあり座禅の境地を語ったものではないかと私は思います。人の道を歩んでいくなかで、一つずつ内省し自己を磨いてきた知恵の結晶の言葉です。到底及びませんが愛と光をいただきながら、遠大無限の道を同じく内省しながら前進していきたいと思います。

最後に、

「仏道をならふというは自己をならふなり」

そもそもこの自己というものは、誰が創造したのか。それは人間でもなく、神でもない。最初から在ったものです。だからこそその自己を学ぶことは、元初の道を学ぶことでもあります。

自己を突き詰めていくなかで、はじめて宇宙のような偉大なものに触れ自分自身の中にそれが宿ることを知ります。知ってのち、それを捨てるなかで偉大な存在と一体になった場所に至る。

目の前に美しい花があり、風があり光がある。そのものを美しいと感じる清らかで無垢で澄んだ赤子のような心が自己と共にあります。

私はこのなんとのいえない元の心に深く魅かれ、感謝が湧いてきます。日々の暮らしの中にこそ、古代からの道が宿っているのです。暮らしフルネスの実践を通して、徳の循環の妙味を感じていきたいと思います。

ありがとうございます。合掌

お掃除の仕合せ

昨日は、禅僧の友人と一緒に宿坊でお掃除をしました。お掃除に取り組む姿勢にはいつも感銘を受けます。お掃除には生き方が出てきます。そしてその人柄も出てきます。

私は暮らしフルネスの実践をするなかでいつも掃除ばかりしています。なので人から見れば、一緒にいると掃除ばかりしている人になっています。しかし実際に私は10年くらい前までは掃除はほとんどしないタイプでした。それが気が付くと、掃除ばかりの人生になっています。

掃除をするとき、一緒に掃除をすることも増えてきます。すると、お互いに掃除をしながら生き方を学び、人柄を感じます。丁寧に拭き掃除をし、人がしないところまで片づけたり、見逃さずにその時に拭き清める。そんなことをしているうちに、心がととのい場も清められます。

場というものは、その人の生き方が凝縮したものです。その場にその思想、生き方、熱量ありとあらゆるものが宿ります。だからこそ、その場のお手入れが必要でそのお手入れをもっとも効果的に行っているのがお掃除というものです。

心が荒んでくると場が乱れます。そういう場をみていると埃だらけであったり、雑然として散らかっていたりします。きちんと片づけて掃除をしていれば、何が乱れているのかがわかります。しかし乱れていることが分からないくらいになっているからそれが場に現れてきます。

自分自身がお掃除をすることは、自分自身が気づかなくなっている初心や本心、志を確認する大切な時間にもなります。そして自分自身を場に投影し、自分を磨いていく大切な時間にもなります。

日々のお手入れ、日々のお掃除は、生き方のお手入れ、人格を磨いていくことなのはやってみるとすぐに気づきます。

遠方より朋がきて、一緒にお掃除ができる仕合せに感謝しています。

ありがとうございます。

本来の子孫

私の志は子どものためです。この子どもは、子孫とも言いかえれます。自分がここまで生きてこれたご恩に対して報いたい、そういう感謝の気持ちがあります。同時にこうしてくださった親祖から先人たちへの尊敬と感謝もあります。続いていくもの、繋がっているもの、結ばれているものに永遠の徳を感じるからです。そういうことから、私は初志や理念を子ども第一義と掲げてきました。

しかし周囲は何のために今、これをやっているのかというのはそんなに見えません。やっている行為や具体的な事象のことから、きっとこうだろうやああだろうと決めつけられそういう人になっています。そのうち、勝手に期待されたり噂されたりするものです。そのほとんどは当たっていないのだから気にはしないのですが、人間は周囲や身近な人が影響を受けると悲しくもなるものです。

江戸時代の儒学者に佐藤一斎がいます。この方の言志四録は、西郷隆盛、吉田松陰なども座右のように学んだとあります。その言葉には、志を貫くために必要な知恵がちりばめられています。私も海外に留学するとき、または仕事をはじめてすぐのころは何度も読み返していました。しかし、壮年になった今でもその知恵は燦然としています。

志は、自分自身が見失いそうになるものです。それだけ目の前のものや周囲の言葉、心の安逸に流されていくからです。志を立てているからこそ悩み悶えます。しかしその時こそ志は成長し、磨かれ、研ぎ澄まされていきます。まるで人生の砥石のように志が自分を研いでくれます。

子孫のためにと取り組むとき、大切な知恵が言志四録の89条にあります。

「当今の毀誉は懼るるに足らず。後世の毀誉は懼る可し。一身の得喪は慮るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」

これは自分自身に対する世の中の評価などは恐るに足りないが、後世までもその世の中の評価が遺ることは恐ろしいことだと考えなければなりません。自分自身における利害得失などは心配しなくてもいい、しかし子孫の代までの利害得失はよく考えなければなりませんと。

子孫のためにと決めているのなら、今の時代の自分のことなどはたいしたことではありません。だからこそ今の世の中の評価や嘲笑など気にはせず、至誠を貫きなさいということです。

私が尊敬する吉田松陰も、そして二宮尊徳も同じように先の時代を見据えて、その時代を生き切りました。私も心に同志がいますから、同じように生きたいと願っています。競争や比較、そして評価にさらされてきた子ども心はそれだけ世の中を気にする人を増やしてきました。

そうではない世の中にしようと社業を立ち上げ、今では徳を立てようとしています。それは社会がよくならなければ、子孫を守ることができないからです。自分の子孫ではなく、世の中の子孫が本来の子孫です。

世界の子どもたちは今、どうなっているのでしょうか。

子どもの純粋無垢な心はどれだけ尊重される世の中になっているでしょうか。子孫たちの繁栄を願う時、私たちは両親の慈愛の真心に触れるものです。

古の同志の言葉に救われながら、この道をまた一歩踏み出していきたいと思います。

徳の本体~暮らしフルネスの妙味~

洪自誠という人物がいます。この方は中国明代の著作家で本名は洪応明といいます。有名な著書には儒仏道の三教を融合した随筆集『菜根譚』、仙界・仏界の古典のなかから逸事や名言を抜き出して編集した『仙仏奇蹤』四巻というものがあります。

この人物が生きた時代は、儒教道徳が形骸化し、国の道筋を示すべき政治家や官僚たちが腐敗していたといいます。誰もが派閥争いにあけくれ、優れた人材が追い落とされ、ずるがしこい人物だけがとりたてられていたそうです。政治のニュースや世の中の大衆流行の世相を眺めるとどこか今の時代に類似しているところを感じています。

この菜根譚の「菜根」という言葉は、「人はよく菜根を咬みえば、すなわち百事をなすべし」という故事からです。これは「堅い菜根をかみしめるように、苦しい境遇に耐えることができれば、人は多くのことを成し遂げることができる」という意味になります。普遍的な生き方を目指して実践した人物の言葉は暮らしフルネスを実践していくなかで、とても共通するところがあり心に沁みます。

そのいくつかをご紹介します。

「幸福は求めようとして、求められるものではない。常に喜びの気持ちをもって暮らすことこれが幸福を呼びこむ道である。」

「自分を反省する人にとっては、体験することのすべてが、自分を向上させる栄養剤となる。」

「静寂な環境のなかで、得られる心の静かさは、ほんものの静かさではない。活動のなかで、心の静かさを保ってこそ、最高のあり方を体得した者といえよう。」

「太陽が沈んでしまっても、それでもなお夕映えは美しく輝いている。だから、人生の晩年に当たって、君子たるものは、さらに精神を百倍にも奮い立たせて、りっぱに生きるようにすべきである。」

孔子は、世の中がもしも道徳的で素晴らしい状態のときに誰にもとりたてられないのであれば恥だと思えといったといいます。その逆に、世の中が不道徳なのに出世してとりたてられたら恥だと思えとも言いました。

君子は、常に静かさを保ちます。この静かさとは本当の仕合せを生きているともいえます。常に人の道を見失わず、人間として自分に与えられた真実の生を全うするのです。

幸福とは、単に誰かと比較して富をもっているとか、健康だとか、あるなしの基準で得るものではありません。自分のたった一度の与えられたその役割を味わい噛みしめ、その生に対して素直に謙虚に感謝と喜びで生き切るということです。

そしてこうも言います。

「せっかちで心が粗雑だと、一つの事さえ成し遂げられない。なごやかで平静だと、多くの幸いが自然に集まる」

「最も高遠な真理というものは、最も平凡なものの中に宿っており、至難な事柄は最も平易なものの中から出てくる」

「古人の書物を読んでいながら、聖賢の精神にふれなかったならば、それは単なる文字の奴隷であるにすぎない」

どの言葉も、魂に響きます。まさに普遍的な生き方から出てくる言葉は、理屈ではなく本質です。言葉の奴隷、文字の奴隷、周囲の奴隷、時代の奴隷、人は縛られているものばかりです。しかしそういうものを開放するとき、心は本来の真心に回帰します。

人生の中で、文字や言葉には何度も出会いますが聖賢の精神は日々の当たり前の暮らしの中で出会います。それが暮らしフルネスの本懐でもあり、徳の本体です。

子どもたちのためにも、徳を磨き、徳を積み、徳を高められるように当たり前の暮らしから反省と改善を継続していきたいと思います。