魂の詩

私をずっと支えてくださっていた恩人の詩があります。その恩人はいつも一行詩を私に贈ってくれました。いつまでも心に薫り続けるのが詩です。今思えば、詩を贈ってくださった真心に涙がでます。

もうこの世では、お電話することも詩を贈ることもできませんが心の中で詩と共にいつも一緒にこの先も歩んでいきたいと思います。

詩「暮らしフルネス」

「かつて日本には自然と一体となった

モノにも礼儀を正す循環型の美しい暮らしがあった

その象徴が藁葺家

自然と共生し

仕事と暮らしを一体化するかんながらの道

暮らし方を変えることが

働き方を変えることになり

新しい豊かな社會を創造する

子どもも大人も育つはたらき方

和の文化と場の文化の甦生

仕事場は仕合せ場

日々を新たに 心を磨く それが 暮らしフルネス 」

清水義晴

ご冥福を心からお祈りしています。変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから、決して奢らず謙虚に素直に憧れた背中をこれからも歩み続けていきたいと思います。

魂の詩、ありがとうございました。

似て非なるもの

この世の中には似て非なるものというものがたくさんあります。例えば、本物には決して足さないような添加物を入れたり、作り方も正直ではない効率や小手先の技術で胡麻化すようなことをしたり、文章や宣伝、広告で過剰に悪いところを除いてさも本物のように表現したりしている偽物と本来の本物は同じものではありません。

しかし今の時代は、偽物が本物に挿げ替えられ本物はさも偽物のように表現されています。これは偽物でも、大勢の人たちが買うものが本物であるといった経済詐欺の仕組みが世界全体の価値観に浸透しているからです。民主主義といったものの、その実態は大勢の民衆が正しいといえばあるいは信じたのであればそれは本物であるといった刷り込みにほかなりません。

環境の影響で刷り込まれれば、似て非なるものがわからなくなります。何が本物で何が偽物かがわからないというのは、致命的な感性や感覚のズレを起こします。つまり事実まで歪められるのです。

この偽物を本物にする技術というのは、現代病の最も大きな根本原因になります。そしてこの現代病を推し進めてきたものが金融経済、あるいは現在のマネー資本主義です。

本来は、事実や実体というのは嘘がないものです。むかしから自然と共生していたころに発明された道具をはじめすべての物は正直に自然にできていました。自然物を用いる技法は、本物です。しかしそこに、まったく別のものを持ち込みそれを本物の代わりにしました。わかりやすいものでいえば、畳などもイグサを育て用いて編み込んで藁をいれてつくるものが今では合成のプラスチックとスポンジをいれて商品名はカビの出ない畳としてホームセンターで「畳」という名前で売られています。隣に本物の畳が置いてあるのならまだしも、もう商品の陳列コーナーにはこのプラスチックの畳しかありません。

それを購入する人は、安くて便利で畳だからとマンション向きのこの畳風のものを畳として認識して子どもたちに教えたりします。そのうちこの似て非なるものが本物になるのは時間の問題です。

こういうことは果たして罪ではないのかと私は思います。それなら別の名前にしてせめて畳風プラスチック床や、もう畳という言葉をいれずにカビのでないマットでもいいのではないかと思います。それに畳という言葉をいれて、畳という商品で販売する、そして購入者もそれを畳として認識して使うというのに問題があると思うのです。

これがOKとなるのなら、マグロでもマグロに切り身が似てればマグロにして、お米もお米風の別の種でもお米に似てればもうお米でいいとなり、そのうち見た目さえ似ていれば全部本物みたいに規制も緩和し企業の利益優先でどんどん無法状態で勝手に宣伝して教育していたら文化など一瞬で滅んでしまいます。

子どもたちの未来のことに対する責任として、社会や教育に関わる人は最低限で絶対的にこの似て非なるものの環境からまず何とかしなければならないのではないかと私は思います。環境が人をつくるのだから当然、環境をまずなんとかするのが真の教育者ではないですか?皆さんはどう思われますか?

私の親しい覚悟をもった伝統職人たちをはじめそれぞれの仲間は誇りをもって本物を保っています。彼らこそ真の教育者です。もちろん現代の発明や道具は時代に合わせて用いますが、●●風にはしないように特に厳格に生き方を常に反省して日々に注意して克己復礼して取り組んでいます。

仲間たちと共に、本物を次世代へと譲り徳を守っていきたいと思います。

安心と信頼

私たちは、生まれてすぐ赤ちゃんからはじまります。自分だけでは生きられず、親など信頼できる存在があることで生きていくことができます。

ほんの小さな子どもが親がいないと必死に探し回るように、親がなければ不安で生きていけないからです。それだけ、私たちはまず信頼する存在、安心できる存在を求めます。

自然界では、その期間がとても大切な循環の仕組みになっているようにも思います。

この安心や信頼は、この世で成長していくための原動力になります。はじめてこの世に出てから、この世は安心できるや信頼できると思うと自分でいられます。そう考えてみると、自分であること、自分でいるのとは全て安心から始まっているということです。そして、そうさせてもらえる存在によって信頼が始まるのです。

不安や不信はもっとも成長を阻害していきます。

だからこそ、安心や信頼の環境は成長を見守ることにおいて何よりも大切で優先されるものです。

子どもたちや子孫のためにもその環境や仕組みを場で伝承していきたいと思います。

暮らしの中の遊行

ここ数日、遊行を行いました。そもそも遊びというのは、とても奥深いものがあります。子どもは遊んで育つものです。それが次第に大人になって遊ばなくなっていきます。この遊ばなくなることを大人になったといわれることもあります。しかしそんなことはあるはずがありません。人生というものは、遊びがあってこそ喜びや豊かさがあるからです。

この遊びとは何かということです。

遊びとは、遊び心から産まれます。遊び心は、何もないところから発生します。何もないことが楽しいということ、つまりはないことの中に遊びがあるということです。

現代の価値観では、予定があることや何かする理由がないことはしてはいけないような空気感があります。何をするにも何かをするためにあります。何もしないために何もしないということはありません。

本来は、遊び心はその理由がないところから自然に発生してくるものです。何もないから遊んでいるだけという具合です。遊びは無の境地ともいえます。無であるというのは、単に何もないのではなく無尽蔵に遊べる中にあるということでもあります。

遊びの大切さは、行の実践の中にこそあります。その遊びの行とは、一期一会の今のなかですべてを深く味わう境地でもあります。改めて道中をぶらぶらと歩いていくところに、すべての発見や成長があるということです。

子どもたちを見倣って、暮らしの中での遊行を味わっていきたいと思います。

場の記憶

本来、聖域や神域というものは誰でも入れるところではありませんでした。これを結界ともいいます。それだけその場には、特別な何かが宿していると信じられていました。

例えば、穢れというものを入らせない場というのはそれだけその場を大切に守ってきた場面というものがあります。以前、鹿児島の富屋旅館で兵士たちが家族と最期のお別れをする和室の居間があってそこにいくと凛として佇まいを覚えました。これはこの場所を聖域として大切に守り続けてきた人たちの意識と、そのかつての場面の大切な何かがこの場に宿っていると信じられているからです。

場所というのは、その場所でかつて何が発生したか。そしてその場所のその思い出や場面をどれだけ真心で守ってきたかという「場」の記憶があるのです。

場の記憶こそ、本来の場で守るもので私たちは今でもその場の記憶に感覚的に触れることができます。

肉体や精神や色々なものは生まれ変わることで失われていきますが、記憶というのはその空間にいつまでも宿しているものです。消えたのではなく、その場に永遠に遺るのです。しかしその記憶は、乱雑に穢せばその記憶が感じることができません。雑然として物に溢れかえった部屋で何かを探そうとするのと似ていて見つけられないのです。

しかしシンプルにその場が調っていれば、その記憶を直観することができるのです。

場を調えることが分かる人は、記憶を蘇らせることができる人ともいえます。私の甦生家としての本懐はこの一点に由ります。

引き続き、この時代の役割を果たしていきたいと思います。

もったいない

昨日は、BAのお庭にある自然農の野菜を収穫して手間暇をかけて調理をしてみんなで食べました。採ってすぐのものを、そのままあるもので調理をする。当たり前のことですが、採るところから調理して食べてそれを味わい振り返る喜びは食の仕合せを実感させるものです。

毎日の食事をどのようにしているかは、毎日の生き方をどのようにしているかということと結ばれています。

むかしの人たちは、今のようにスーパーに気軽にお金で買い物をするという具合ではありませんでした。特に田舎では、そんな便利な場所はすぐに近くにはありません。というより、家の庭で採れるのでその方が便利といえば便利だったでしょう。

今のようにパソコンやスマホで1クリックすればすぐに品物が届くなどという奇妙な便利さなど存在することはなかったでしょうから便利の意味も変わってきます。便利が人間の欲望にあまりにも近づいてくると、不便というものが敵のようになってきます。

本来は、便利は不便という豊かさを感じさせる大切な要素で敵ではなく仲間のような存在だったように思います。手間暇をかけることは敵ではありませんし、滅多にないものは貴重な体験だと大切にしたように思います。

なぜこうなっているのかというと、忙しすぎるからです。なぜ忙しいかというと、忙しくあることが価値があると社会的に信じられているからでもあります。そういう忙しくしている人々のために便利さは開発されていきました。不便だと敵なのは、より忙しくなると思われているからです。

この時代、物理的にも忙しくなるのは仕方がないことともいえます。しかし心まで忙しくなる必要はありません。心を忙しくしないと決めると、敢えてする手間暇やお休みはとても豊かな時間になり喜びになります。

そしてそれは日常の足元にある不便さに気づくチャンスでもあります。不便というは、それだけ何かをする行程が増えるというものです。しかし、一度しかない人生で一期一会のご縁と時間でそれを達すると終わってしまうと思えば少しでも味わいたいや覚えていたい、楽しみたいと願うものです。

駆け抜けるように振り返りもしないまま、ただやることを増やして前進するというみんなで忙しい社会や環境づくりに没頭していたらとても「もったいない」ことをしているかもしれません。

この「もったいない」とは、単にまだ使えるものをもっと大切に使おうとすることや単に捨てないということではありません。これは豊かさの本質に気づけずにもったいないという意味もあるように私は思います。

暮らしフルネスも今の時代は、なかなか理解できないこともあるかもしれませんが本来は暮らしがあるだけで充分という仕合せの話です。子どもたちや子孫たちに、徳を譲り遺していけるように実践を楽しんでいきたいと思います。

新たな食育

エネルギーというのは、不思議なものでその活用において等価交換するものではありません。少しのエネルギーでも大量の活動をすることもあれば、膨大なエネルギーでも少ししか活動できないものがあります。

エネルギーにも気力体力精神力というようにそれぞれの力のエネルギーが存在します。エネルギーは、他にも徳力や場力、生命力など様々です。

私たちの暮らしではそのエネルギーをあらゆるところから転換して活用しています。これは自然界も等しく、すべての自然はそれぞれにエネルギーを発揮しあい交換しながら循環させています。つまりエネルギーは、私たちの活動のすべての根源ということになります。

このエネルギーという言葉の由来を調べるとギリシャ語で「仕事」を意味するergon(エルゴン)とあります。そして活動している状態のenergos(エネルゴス)を古代ギリシャの哲学者アリストテレスがenergeia(エネルゲイア)と創作したといます。アリストテレスは、種のように動きのないものを「デュナミス」、花のように活動しているものを「エネルゲイア」と呼んだのが起源です。

このエネルギーを一般的に私たちは力とも呼びます。「力」という漢字の成り立ちは、畑を耕す農具である「すき」の形をかたどった象形文字です。そしてこの力のことを私たちは別の言い方で「はたらき」ともいいます。そのものに元々具わっている活動力のことです。

力はそれぞれに性質も種類も異なりますが、すべてのいのちははたらきを以って活動しています。

一汁一菜や一汁三菜というものがあります。これは日本の和食の生き方が形になっているものです。今のように西洋の栄養学が当たり前になっている現代では、高カロリーで肉食をはじめ贅沢なものを摂取することでエネルギーが発揮されるといわれます。しかし実際には、日本人の古来の食文化の方がエネルギー効率も活動も現代よりも数倍から数十倍発揮されます。

私たちは一つのエネルギーを何によって増幅するのか。その一つにお米があります。むかしの人は玄米のおむすびと梅干しやお漬物があれば、相当な活動ができたといいます。

私たち現代人がなぜ疲れたりだるかったりするのか、そこには本来のエネルギー転換の仕組みを忘れてしまっているからかもしれません。本来の食育の伝承は生き方の伝承だったはずです。その一つにこのエネルギーが関係していることは間違いありません。

子孫たちのためにも、古来からのエネルギーの生き方を伝承し、新たな食育を実践していきたいと思います。

大好きなお水

昨日、ようやく浮羽で手掛けている古民家甦生の井戸水が湧いて出てきたのを確認しました。困難続きだった井戸が甦り、お水が湧いてきてくださって心から感動と感謝がありました。

お水はとても澄み切っていて、冷たく、そして清らかでどこか厳粛さのようなものも感じました。私はむかしからお水への感覚が鋭敏のようで少しの違いでも見分けることができます。

特に鋭敏になったのは、30代のころに体調をひどく崩してずっとお水しか飲めなくなったときにその中でも飲めるお水と飲めないお水があることがわかりそれ以来、お水を飲む感覚が鋭くなりました。また肌感覚の方は、3年前に滝行をはじめてから肌で触るとそのお水の感覚が分かるようになってきました。もともと温泉が大好きで、温泉の香りや成分も感じやすい方でしたから今では触るとなんとなくお水の特性のようなものを実感できます。水気や湿気については、石風呂をつくり蒸気をたくさん浴びているうちに空気中の湿気の密度や濃度、また状態なども気づくようになってきました。

特に古民家に住んでいると、お水の質量は一日中変化をして已みません。そのお水の変化を感じながら過ごしていると、次第に風通しや水分補給のタイミングが分かります。湿気においては、蕎麦打ちをしだしてから微細な湿気が蕎麦の水分の影響を与えるので普段から意識するようになりました。また自然農で田んぼや畑をしていると、水はけのよい土を観察しているうちにちょうどいい水分量というものを理解するようになってきました。

またお水の豊かさにおいては、非常に純度の高い鉄瓶のお水を飲んでいるうちにお水が火で変化していくなかで実感しました。

そう考えてみると、私はお水のことが大好きです。お水の御蔭で私があるともいえます。何が好きですかといわれたら、お水が好きですと即答できます。お水の生き方は、私の尊敬する生き方です。

これから新しい井戸とお水と、いよいよ新たな御米のお店作りに入ります。心強い支援を受けて、いよいよ勇んでチャレンジしていきたいと思います。

お米に親しむ2

私たち日本人はお米をずっと食べ続けてきました。日本の気候風土にも適応し、私たちの暮らしを根から下支えしてきた存在こそお米です。

お米は、元氣を育てるものです。この氣の元ともいえるお米を食べることで私たちはご神氣というものをいただき氣を補充できるともいわれます。むかしから「一粒のお米には七人の神様がいる」とも言われてきました。具体的には「太陽」「雲」「風」「水」「土」「虫」「人」といった自然の恵みであるともいわれます。他にも七福神などという説もありますが、確かにお米はこのすべての存在があってはじめて実をつけますからそれを神様が宿っているといっても過言ではありません。ここでは詳しくは書きませんが、むかしうちの会社のクルーがブログで書いていた記事を紹介します。

日本人が氣力が漲っていたのもまたお米にあるといわれます。そのお米を弱体化するために、農薬や肥料で田んぼを弱らせ、改良された種と育てかたで元氣が失われていったともいわれます。

私は自然農法で、伝統在来種の高菜を育てていて初めて気づいたこともたくさんあります。先ほどの七柱の神様は、お米だけに宿るものではありません。高菜にも同じことがいえます。この太陽、雲、風、水、土、虫、人は、すべてが役割分担して野菜のいのちが育つのを見守ります。

野生のものには人は入らないかもしれませんが、他はそれも存在します。人が栽培するときに、人の真心や手間が神様になります。

特にお米は、八十八の手間がかかるといわれます。お米という字も、八と十と八の合体してできている字です。もともと八というのは、末広がりの意味もありそれだけ多いや大きいという意味にもなります。つまり大量の手間がかかるということで八十八の手間がかかるといいます。

この「手間」という言葉は、元々は動詞「手まねく」から派生した言葉です。 手まねくとは手を用いて何かを作り出したり行動したりすることです。つまりお米作りは、それだけの作業が発生する大変な作物ということです。

お米作りに比べると、高菜の方がそんなに手間はかかりません。冬野菜で葉物、それに高菜は逞しく強いので手間はかかりますがそこませ繊細ではありません。しかし元氣が漲る味があるものは、やはりこの七柱の神様と人の手間がちゃんとかかるものです。

そう考えてみると、私たちの食べ物はすべてこの元氣に通じています。元氣というのは、私たちには決して欠かせないものです。医食同源ともいいますが、本来は私たちは元氣溌剌に活動するためにご飯を食べます。元氣のあるお米やご飯は、私たちのいのちや暮らしを根底から支えていくものです。

お米に親しみ、お米を尊重し、お米を新しくしていきたいと思います。

徳を積む生き方

アメリカからの懐かしい友との話の中で「発酵道」につて語り合いました。もともと酒蔵、寺田本家の二十三代目の当主、寺田啓佐さんと親しかったこともあり色々と生前のことをお聴きしました。

私はどこか生き方が似ているところが多いようで、共通点がたくさんあります。微生物についても、むかしからずっと親しくしていてお漬物などの発酵食品づくりをはじめ、自然農の田んぼや畑、また会社経営にもその発酵の仕組みを取り入れています。

自然界は腐敗と発酵というものがあります。しかしこれは腐敗VS発酵ではなくどちらも大きな意味では発酵です。腐敗も自然界に循環するための大切な発酵の一つということです。しかし人類にとって悪い作用を施すのを腐敗と呼んでいるのです。実際には、腐敗も一つの浄化作用ともいえます。この辺になってくると、どれが善い悪いではなく愛と調和の話になってきます。

発酵道のなかでもその辺はよく語られています。以前、俳優の窪塚洋介さんが私のいる聴福庵や場に来られたとき私の実践する「腸活」の体験をしていただきました。諸事情があって彼の番組にはなりませんでしたが、腸が活き活きしすぎて大変なデトックスになったととても喜んでおられました。本質的に腸活になったこと、発酵の一期一会になったことを覚えています。

もともと私はこれらの実践を発酵という言い方ではなく最近ではもっぱら「徳」という言い方をします。私にとっては発酵=徳という定義です。発酵について、寺田啓佐さんはその著書「発酵道」でこのような言葉を遺しています。

「それは決して嫌々やっていることではなく、微生物にとってそうすることが快くて、自分の好きなことをしている。そして、楽しく働いている。私には、そう感じられる。生命のおもむく方向へ、自ら進んで行っているのではないかと。きっとそうやって自分らしく生きることが、微生物にとっては自然なのだろう。まさに微生物というのは、本当の意味で自分のために生きている、「自分好き」なのだ。こうやって微生物の世界をのぞいているうちに、生命のおもむくまま、「自分にとって最も快いことを選択していく」ことが、実は自分を生かす最良の生き方なのではと思うようになってきた。」

ここからわかるのは自分の喜びそのものが全体の喜びになっているのが発酵ということです。そして自分が好きなこと、喜びになることに専念している、その自分自身を深く愛しているからこそ自立して自由にこの世界を素晴らしいものにしていく生き方となるというのでしょう。

これが発酵する生き方、私にすれば徳を積む生き方のことです。

自他を活かす、全体快適に生きる、まさに嬉しき楽しき有難きという仕合せないのちの響き合いです。酒造りの智慧は、生き方の智慧ともいえます。日本酒がなぜ神様の大切な供物の一つなのかはここからも気づけます。

今年はお米のことに深く関わる機会をたくさんいただいています。何よりもかたじけなく有難く思います。引き続き、徳を精進していきたいと思います。