一生の自分

昨日から宿坊に来客があり共に過ごしています。どの方も、一つの人生をやりきっておられる方で好きなことをして成功されている方々です。人生は会社が終わり仕事が終わったら終了というわけではありません。人生は続く限り、私たちは最後の日までどのように生きるのかが試されています。

思っていたものとは異なるのは、周囲と比較してこういうものだと思い込むことが多いように思います。一般的には、誕生してから学校に入り勉強し社会人になり成功し余生を孫たちに囲まれて送るというものです。その間は、無病息災に大きな事故もなくと、これが平均だと思い込むのでしょう。

しかしそんな人生であっても、紆余曲折を繰り返して思った通りにはいかないものです。大体、思ってもいないことに遭遇して人生は大きく変化していきます。思ってもないことの方が人生ともいえるように思います。

だからこそ、思ってもいないことに挑戦したり導かれたりすることに意味があるように思うのです。そしてそれは出会いによって、養われていくものです。

誰と出会うか、何と出会うか、そしてどの自分に出会い直すのか、すべて出会いが人を変えてくものです。

人生を終わりにできないのは、出会いがあるからです。そして出会おうとする気持ち、もっと別の自分に出会いたいという好奇心や志があると人は青春を続けていけるように思います。

一生青春というのは、一生の自分との出会いということでしょう。

新しい門出に相応しい見守りができるように真心を盡していきたいとおもいます。

役割の尊さ

すべてのものには役割というものがあります。それはそのものにしかないものです。不思議なことですが役割は交代することもあれば、急に別な役割をいただくことがあります。自分がこういう役割を果たしたいといくら思ってみても、あるいは役割が果たせない状態になっていたとしても役割は与えられることがあります。その時々の役割があって、それを体験することで自分というものの可能性を新たに発見していくことがあります。

例えば、器というものがあります。一つのお椀というものでもいいです。はじめはご飯を食べるときに食べ物を容れるものでしたがそれが愛着が湧いて自分の大切な暮らしのパートナーになります、時には汁を容れたり、またある時は子どもの御粥をつくったり、時には保存するものに使ったり、割れたら修繕し、大切な時の縁起担ぎや御守りになったり、そして場をととのえるお花や苔を活けるものになったり、最後は一緒に土になったり、それぞれにその時の役割を全うしていきます。

私は古民家甦生に取り組んでからその「役割」というものをとても強く感じるようになりました。私の身近にあるものは、長いものは数百年の役割をもっていた道具があります。伝来するなかで多くの人たちにご縁があり大切にされ、あらゆる役割を果たしてきました。

色々な役割を経てきたものが持つ美しさや洗練された徳には頭が下がる思いがします。

現代の社会では人間は役割というものを誰かによって決めつけられるものです。あるいは、自分の役割を自分勝手に決めつけては苦しんでいるものです。しかし本来の役割というのは、自然に与えられるものです。

与えられた役割を全うする生き方というのは、仕合せで豊かなものです。他人と比べて幸福の善し悪しを嘆くよりも、自分に与えられた最も尊い役割を実感することで有難い気持ちが満ちてきます。時にはそれが自分の思っていないものかもしれませんし、世間的にはあまりよいものではないと評価されることがあるかもしれません。

しかし不思議なことですが、自分にしかない役割を天が与えてくれていることがほとんどです。それをどう受け取るかは自分次第でもあります。他の誰かにはなれないからこそ、自分の役割を全うする喜びに生きることが大切です。

教育というのは、何かにさせるのではなく、役割に気づいてその役割を全うする中で出会うご縁に感謝していく人を見守っていくことではないかと私は思います。今の価値観では、そして日本の教育環境という空気を吸っている中ではそこは議論の中心になることもなくなっているのかもしれません。

徳というのは、本来は観えないものです。だからこそ、気づく環境を用意して見守るのがある意味での教育者の役割かもしれません。生意気なことを言っているようですが、役割の尊さに気付けることが入り口に立つことだろうと私は思います。

子どもたちに役割があることを丸ごと信じてそれぞれの人生を全うする喜びを伝承していきたいと思います。

真理と生きる

久しぶりに三重県伊賀市にいる私のメンターにお会いしました。コロナもあり、お便りが途絶えていたのもあり心配していましたがご夫婦共にお元氣で安心して嬉しい時間を過ごしました。

いつお会いしてもとても純粋な方で、遠い未来を見つめて深く考えて行動されておられます。世間一般には、気ちがいや変人などといわれていますが私にすればそうではなくあまりにも根源的な智慧に対して正確無比で本質的、そして自然的に真実を語る姿に現代の価値観に毒された人たちや刷り込まれた人たちには理解できないだけです。

よくお話をお聴きしていると、すべては自分の実体験からでしか語っておられず、そして自分の身に起きたことや感じたものを素直に掘り下げてそれを誰よりも素直に受け止めて歩んでおられます。色々な大変な人生を送っておられますが、大変強運でいつも何か偉大なものに助けられておられます。

奥様も大変素敵な方で、実践を味わい感謝も忘れていません。ご夫婦でバランスがよく、なかなか冒険的な人生を楽しんでおられます。人柄というものは、人徳と合わせてにじみ出てくるものです。

今の時代、世の中の価値観が本来のあるべきようと離れて道からズレていたとしても粛々とそれに抗いながらも人類のためにと愛をもって様々なことに取り組んでいく姿にはいつも共感を覚えます。

純粋な方が居る御蔭で、私も多少世の中と調整しながらやっていこうとする気持ちが産まれます。常に希望があるのは、その方が純粋性や夢を諦めていないということです。

今回の訪問でメンターは新たに物事を見極めるモノサシを定義されておられました。そこにはこうあります。

「真理と断定できる条件」

1.生死がない

2.損得がない

3.表裏がない

4.不変である

5.万物に公平公正平等である

6.永久永遠に継続する

これは、よくよく見つめ直すと自然の姿であること。これではないことは不自然であると言っているように私は思います。如何に今の人間や人類が自然の道から外れているのかを物語ります。

人は、人生の最期にこの世に産まれてきて何をしてきたかの総決算があります。それは徳に顕現されてきます。その時、自分はどのように生きたかということを自覚するのです。

私も一期一会、一日一生のこのいのちをどう生きるか、いただいてきたものを感謝で恩返しできるよう徳に報いる人生を歩んでいきたいと思います。

ご夫婦には、純粋さで同志を励ます存在でおられるよういつまでもお元氣で健やかでいてほしいと思います。いつもありがとうございます。

好奇心と本質

どの道を極めていくにも先入観のなさというのは大切なことのように思います。思い込みというのは、本来の純粋さを失わせていくようにも思います。そもそも最初は、思い込みなどなかったところからはじまりました。それが知識を経て、後からこういうものだと付け足していきました。それは後の人の解釈であり、最初の人は損な解釈をしていません。

これはどのようなものでも同じです。誰かがそういったから、それがいいと思ったというのは自分が最初に思ったのとは異なります。誰かがいったことを認識して、きっとそうだろうと思い込んでいるものがほとんどです。自分の当初の感覚ではなく、誰かの感覚で認識するのです。

現代は特に、知識で塗り固められた世の中で情報過多の時代です。しかも専門家や権威が仕上がっており、最初から考えることもなしにそういう人たちの評価や意見を鵜呑みにしてしまいます。さらにみんながそう言ったからという常識に縛られてしまいます。これでは、本当のことはほとんどわかることはありません。さらに質の悪いことに、専門家ではないことや資格を持っていない、あるいは認可がないや許可もないとなるとすぐに偽物として邪魔をしたり法律違反や詐欺のようにいわれることもあります。

純粋に素直にそのものに向き合う人が減っていくのは、それだけはじめに先入観や思い込みを植え付ける環境が整ってしまっているからのように私は思います。

そういう自分も、先に誰かによって刷り込まれた知識が膨大にあります。そこから考えなくなり感度も下がり、常識のようなものに呑まれては気づかないことが増えました。日々にその思い込みや刷り込みを取り払うだけでも学びが精いっぱいで発見や発明できる驚きの日々にはまだまだ追いつかないほどです。

好奇心というものは、先入観や刷り込みがあることで次第に減退していくものです。何でも初心、はじめは素人と取り組むからこそ本当のことが観えてくるものです。自分の知っているものをそぎ落とし、先人たちのように最初に感じたものに近づいていくのはすべて好奇心がなせる業です。

好奇心のままに、真理に向き合い、実践や行動によって本質を保っていきたいと思います。

タイミング

私はいつもタイミングに見守られて不思議な体験をすることが多くあります。その体験は、その時に今しかないことが発生しそこから示唆を受けることしかないからです。何の意味のないようなことであっても、意味はあり、その意味が教えてくださったことに導かれて歩んでいると次第にタイミングが合ってくるのです。

これを私は一期一会ともいい、ご縁に活かされた人生とも呼んでいます。

久しぶりに鞍馬山に来ています。先週からずっと英彦山でしたが、よく考えると20代の後半からずっと鞍馬山と英彦山の往復をしてきました。何回、往来したかも覚えていないほどです。しかしどちらも天狗がいるお山で、教えがあるお山です。お山という存在を認識したのもこの二つのお山を往来するなかで体験したものです。

このお山というのは、単なる岩や土が盛られたところではないことは誰でもわかります。お山にもいのちがあり、ずっと場が生きている存在です。これは地球としてもいいし、太陽などの星といってもいいものです。生きているというのは、確かな意味を持って存在しているということでもあります。その意味は、自分との関係性や結ばれ方、つながり方で認識し直観するものです。

そしてそれを理解するのは先ほどタイミングというものがとても大切な要素になっていると私は思います。なぜこのタイミングでこの場にいるのか、そういうものを深めていくと自分に確かな意味があることに気づくからです。

私は鞍馬山の御蔭で、いのちというものの存在に深く気づくことができました。そしてそのいのちが輝くということの意味を学ぶことができました。現在世の中では多様性とか公平性とか色々といわれますが人間社会でいうそれと、自然界や宇宙などでいうそれは意味も異なります。

私が鞍馬山で学んだことは、もともと最初からこの世にあったものについてのいのちの存在です。私たちが人間として今、文字や言葉で認識するずっと以前からいのちというものは存在してきました。

そのいのちは、自分の周波数や波長、あるいは意識を変えることで認識することができるものです。それは人間様になっているような現在の環境ではなく、ひたすらに謙虚にいのちと向き合うことで観えてくる境地です。感覚を研ぎ澄まし、徳を顕現しては今というタイミングを生ききること。

そういう生き方の集積によって少しずつ、意識は変容していくように私は思います。そしてそれもまた場数によって変わります。運のいい生き方というのは、出会いやご縁を大切にする生き方でありそれはタイミングの妙を片時も忘れない生き方でもあります。

またこの場にこれたことに感謝しています。善い時期にこうやって導かれ呼んでいただけるのことに天意や神意を感じています。今日も一期一会のタイミングを生きていきたいと思います。

懐かしい真心

昨日は御蔭様で、英彦山守静坊のサクラ祭りを無事に開催できました。とても清々しい天気で、朝から夜まで桜三昧の一日になりました。桜は、一日かけてじっくりと観察しているとそれぞれで魅せる表情が異なります。日の当たる角度や風の方向でもそして空の色や周囲の風景とも、そして自分が観る回数や心境でも変化はやみません。そう考えてみると、すべてのことは一期一会でその時にしか味わえない一瞬一瞬の世界を私たちは生きているということです。

今回は、かつてのこの宿坊の歴史を甦生しようとこの桜の時季に懐かしい仲間と集まり、共に地元の氏神様に祈り、ご先祖様に祈り、山の神様に祈りました。氏神様は弁財天で宗像神社ということもあり即興音楽と即興絵画を奉納しました。またご先祖様には、観音経と篠笛、フルートで大和音楽を奉納しました。夜は桜と山の神様にギターの倍音を奉納しました。有難いことに、いつも見守っていただいている存在に何かご恩返しできないかと奉納できる機会に恵まれることは仕合せなことです。

また尊敬する導師の修験者と禅僧と共に祈祷ができたことも喜びでした。裏方でいつも支えてくれる結の仲間たちの御蔭でいつも豊かに楽しく美味しいものもいただき、柔らかで和やかな場ができています。参加の皆様も、善い方ばかりでそれぞれで徳を積まれておられ有難く思います。改めて、いつもの温かい真心に感謝しています。

最後に、この懐かしい未来の景色を観たのはどれくらい前だったでしょうか。私たちは忘れているようで心の風景は忘れることはありません。忘れているようで忘れていないからまた集まるのです。

そもそも懐かしいというものは、懐と書くようにいつまでも守っているということです。何を守っているのか、それは忘れることはない人の思いやりややさしさ、そして真心のことでしょう。

時代が変わろうが価値観がどう動こうが、人として大切にしたいものは変わることはありません。それが懐かしさの本質なのです。私たちが懐かしいものに触れて愛を感じるのは、いつまでもその真心が宿っていることに気づくからです。

この英彦山の宿坊やしだれ桜が守ってきたものは、その懐かしい真心であることは揺るがない真実です。この先も、微力ながらも一つの役割を多くの先人たちからいただいているので大先輩のしだれ桜や宿坊に見守られながら丹誠を籠めて甦生に取り組んでいきたいと思います。

また来年、この時季に皆様にお会いできるのを心から楽しみにしています。

巳の縁日

2024年3月30日の英彦山守静坊のサクラ祭りの日は弁財天の縁日「巳の日」です。この守静坊の谷はむかしから弁財天をお祀りしている場所でとても深いご縁がります。この日に芸能と徳積経世済民ができることに改めて感謝の気持ちが湧きます。

この吉日のひとつである巳の日(みのひ)は、約20日から40日の間に一度訪れる吉日です。この巳の日の巳とは、蛇のことです。この蛇(白蛇)は、弁財天のお使いをする動物です。弁財天との結びつきが強い巳の日は、運気の上昇に加えて、金運が上昇する日としても知られむかしから信仰の対象になってきました。巳の日と己巳の日は、財布を買ったり、神社にお参りしたり、銭洗弁天でお金を洗うと、金運や財運のご利益が得られるとされ各地で祈祷しています。

弁財天は、芸術・芸能・勝負事・学力・学問・財運といった、様々な運気を上げる神とされているのでそのお仕事や志を持っている人たちは大切に信仰してきました。日本は神仏混淆しているため、あらゆる神様が和合していますがもともとこの弁財天という女神は、日本では瀬織津姫や市杵島姫命、龍神とも同一であるといわれます。

もともとこの巳の日といったものは、中国の陰陽五行説に基づいています。十干「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類」と十二支を合わせたものが干支です。陰陽五行説では世の中の全てのものは陰と陽、木・火・土・金・水に分けられると考えられます。具体的には、木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生むという具合です。なので、巳は土、土は金を生むということで財宝や財運が湧くということです。

偶然ですが、純白のしだれ桜に喜んでいただくために音楽や絵画の奉納三昧になりましたが弁財天様にも喜んでいただくことができそうで有難く思います。来坊の皆様に偉大な幸運や幸福、財運が届くように真摯に場を調えていきたいと思います。

一期一会の弁財天様との縁日を、ご一緒できることを心から楽しみにしています。

しだれ桜の妙味

今週は英彦山守静坊の桜がいよいよ開花をはじめます。この数日、雨が降っていますが春霞の風景と老樹が幻想的な雰囲気をつくってくれています。歳月の美しさは、花の中にも顕れます。

花といえば、この雨と花の季節のことを催花雨(さいかう)といいます。これは開花を促す雨のことをいいます。この時期はしとしとと長い時間をかけて雨が降ります。この長雨が植物たちにそろそろ春が来てますよと促して桜もそれに応じて花を咲かせるのです。

他にも春雨や春時雨、春霖という呼び方もあります。そして菜種梅雨ともいいます。これは菜の花(菜種)が咲く時期にまるで梅雨のようなどんよりした天気が続く現象のことです。これは移動性高気圧が北に偏る「北高型」の気圧配置になり普段は北東進する低気圧が東に進みそこに停滞前線が発生するからだといいます。

他にも花の雨や花曇り、花冷えなど花がつく言葉もたくさんあります。これはこの時期のどんよりした寒くなっている風景の中に花が咲いている様子を連想できます。桜や菜の花などが雨にしっとりと濡れて、晴れ間の太陽の間にキラキラと瑞々しい輝きを見せてくれるときに感じる言葉です。

日本語は、美しい季節の模様が入っているものです。

普段当たり前に使っている言葉でも、その中には自然の美しさや変化が宿っているものがたくさんあります。守静坊のしだれ桜の開花を見守る中で、春の美しさ、変化の尊さを味わうことが増えました。

特に英彦山は、山の変化も日々に味わえ自然の放つ美しさに見惚れてしまいます。鶯や山鳥たちが澄み切った甲高い声で春を伝えてきます。

春の桜と長雨は、その雫一粒にも心に花が沁みこみます。

静かに守る風景を春と共に味わい、宿坊は初夏への準備を調えていきます。

サクラ目覚める

英彦山の守静坊でサクラ祭りの準備をしています。このようなお祭りを主催する機会はほとんどなく、遠い山奥まで人は来るのは大変だろうなと感じつつ、皆さんが清浄な場を味わっていただけるようにと掃除を含め色々と調えています。

もともとこの場所は標高が高く、お山の清々しい風が吹いています。お水の音もせせらぎも、鳥の声も周囲の木々も和合して仙人の棲むような幻想的な環境があります。

お山の宿坊周辺のお手入れは2年目に入っても膨大な作務があります。この時期は特に冬の枯木や落ち葉が大量にあり、それを運び燃やしたり一部は薪にとっていたりするだけで一日の作務が終わります。また水路を調えたり、池のまわりを片付けるだけでも一日の作務が終わります。こうやって作務三昧の日々が山の暮らしです。

落ちても落ちても片づけ拾う落ち葉や枯れ木を眺めていると不思議と心が穏やかになってきます。何か忘れていた日々を思い出すようで、この懐かしい時間に心癒されます。

お山というのはとても力がある存在です。

そのお山の中に棲むというのは、いつも以上に自然を感じ、その吹いてくる風にも意識が外れません。法螺貝を吹けばその音は山全体に響き、そのお山の音を感じるとお山全体の気を意識します。

そのお山の中にあり、静かに力を蓄えていた桜が一斉に花を咲かせていきますがお山が目覚めるかのような覚醒の感覚を覚えます。

この「覚」という字は、代々この守静坊のご当主が継いできた名前です。

「覚」という字はむかしの「學」という漢字の省略された学に「見」が組み合わさった会意形成文字です。「 大きな目と人 」の象形から、学んではっきり見える 、「 おぼえる・さとる 」を意味します。漢字の成り立ちは学び舎で教え子たちに指導する、教え子を導く教師の両手を意味しているといいます。子どもたちが目覚めてそしてさとるといった導く人の名前が覚なのです。

どのように目覚めるのか、それはこの守静坊のしだれ桜が導いてくれるように私は感じます。一つ一つの意味を味わいながら、お導きに従っていきたいと思います。

不老長寿の薬菓子

昨年から英彦山の不老園を甦生して本草学を深めていますが、その不老長寿を今の時代に復古起新するために色々と試みています。今回はご縁あってカカオに注目してその効能などを組み合わせています。

今では薬ではなくお菓子として定着したチョコレートですがこれはもともと紀元前2000年前のメキシコでは「神様のたべもの」として非常に大切にされてきました。

もともと「カカオ」という言葉の語源はマヤ語の「カカウアトル」が変化したものです。

このカカオ豆は貴重で 赤道を挟んだ南北緯20度以内のアフリカや中南米、東南アジアなどで栽培されていますが実になる花の割合は200から300に1つしかとれません。とても効率が悪く高価になるのもそのためです。

このカカオは種子の果肉を食べるのですが、とても苦いものを苦いままにこのまま食べたり、焼いて煎ったりすりつぶしたり、水に溶かしたりして飲んだりしていたそうです。それがヨーロッパに伝来したときに砂糖を入れて飲むようになりました。いわゆるカカオドリンクです。その当時も大変貴重で裕福な人や王侯貴族しか飲むことができなかったそうです。

効能は、不老長寿、疲労回復、滋養強壮など多岐に及ぶといわれます。最近でもカカオの種子には多量のポリフェノールがあり強い抗酸化作用をもつ食品として注目されています。

新しい不老園に参考にしたのは、16世紀のアステカ文明のときにこのカカオ豆をドロドロになるまで溶かしさまざまなスパイスや香料と混ぜて「不老長寿の薬」として飲んでいたという伝説です。英彦山の不老園と共通するのは、あらゆる効能を含む薬草や種子を飲むという伝承があったからです。

現代では薬ではないカカオですが、先ほどのポリフェノールの他にもテオプロミンといった脳を調える効果があったり、食物繊維で肌荒れがなくなったり、ビタミンやミネラルも豊富でのどの炎症、胃潰瘍、食欲不振、解熱、デトックス、また恋愛ホルモンと呼ばれるフェニルエチアミンも含まれているのでまさに薬として観た方が効果があるように思います。

今の時代は、薬とお菓子の違いもちぐはぐになっていてむかしの人たちが本来どのようにそれらの食べ物を暮らしに取り入れていたのかも忘れ去られています。暮らしフルネスを実践するなかで、今の時代でも普遍的な意味が変わらないように変えるところは変化して今の時代の価値観でも本質が実感できるように宿坊とともに甦生させていこうと思います。

今度の英彦山守静坊でのサクラ祭りに初お披露目の予定です。

子孫たちへの誇りと先人たちへの配慮を忘れない温故知新の甦生を実践していきたいと思います。