挑み甲斐

昨日は、英彦山の守静坊でこれまでの茅葺職人さんはじめ大工さんらをはじめお手伝いいただいた方々の労をねぎらい感謝と茅葺屋根完成のお福分けを行いました。お赤飯をみんなで食べ、御餅まきも行いました。

茅葺と大工の棟梁もどちらも今までで一番大変な現場であったことを話されました。そういう私も、凍てつく寒さと難工事で今までで一番大変だったかなと思い返していました。そう考えてみたら、何が大変だったのだろうかと振り返ります。

山奥の谷で車が入れずに荷物が運べないことだろうか。あまりの寒さで思考が止まるほどで作業もできず頭痛が酷かったことだろうか。休みがほとんどとれず、土日や一晩中、この甦生に取り組んだことだろうか。トイレも遠くまでいかないとなく、水も凍っていたことだろうか。史跡でほとんど変更できないなかで判断が難しかったことだろうか。いにしえの宿坊ということもあり、間取りも換えずに先人の遺したものをできるかぎり使ったことだろうか。資金がほとんどないなかで、金額を意識せずに本物の素材や仕事にこだわったことだろうか。祈りの場ということもあり、心を常につかっていたことだろうか。家からの往復約2時間を半年間通いつづけたことだろうか。重たい荷物を必死に運び続けたことだろうか。業者さんとの打ち合わせをなんどもなんどもやり直したことだろうか。

いろいろと思い返すと、そのどれもは確かに大変なことでした。しかし、大変だっただけで終わってしまえばそのどれもが命を懸けて取り組んできた自分の精いっぱいだったことであることがわかります。決して、それは嫌々であったことではなく誇りとして胸をはれます。

先ほどの棟梁たちも、大変だったが嫌ではないということは事実でしょう。それは私も同じく、大変な現場だったからこそやり遂げたときよくやり切ったという誇らしい気持ちになり充実した時間を過ごしたことへの感謝があります。

私たちは大変だからと避けるのではなく、大変なことだから挑み甲斐があると思うとそこに大事な時間が活かされるように思います。これからますます子どもたちに先人の智慧や日本の真心を伝承するために挑んでいきます。

これまで本当にありがとうございました。この御恩は一生忘れません。真摯に、徳を磨いていきたいと思います。

守静坊から皆さまへの感謝

一つの偉大なことを為すのは一人の力では成しえません。それはよく振り返ってみればわかります。本当に多くの人たちが助けてくださって、関わってくださってそして一つになります。

つまり一つというのは、みんなで一つということでそれだけ歴史の中で偉業は行われてきたのです。つい歴史の本などには、誰か特定の一人だけがフォーカスされてその人がさもやったかのように記されます。しかし果たしてそうでしょうか。そんなことは絶対にありません。

その当時、その一人に共感してお手伝いしてくださった多くの人たちの人生や願い、想いがあります。それが形になったものが偉業であり、その偉業はその人の名前で為したみんなの偉業ということになるのです。

今、英彦山の宿坊の甦生で本当に多くの方々のお力をお借りしています。本日も、いよいよ茅葺屋根の完成と足場の解体で結をお願いしたら50名以上のお手伝いをいただくことになりました。

思い返せば最初から本当にいろいろな方に関わっていただき、そしてここまで出来上がったのは皆さんが力をお貸ししていただいたことの結晶であり、集積です。それが建物に宿り、いのちを吹き替えてしています。

最初は空き家でボロボロ、シロアリが食べ、野生動物が棲み、暗くジメジメとした廃墟のような状態でした。このままでは、この家は失われて歴史が消えてしまうという声もあり、様々なご縁が背中を後押しして甦生させていただくことになりました。

とても最初は一人では途方に暮れるような話で、不安や心配ばかりでしたが一人、また一人とお手伝いいただいたことでどれだけ心を励ましていただいたかと思うと感謝しかありません。

この後、宿坊でどうするのかというという声もありますが今はそんなことは何も考えられずただただ感謝と恩返しがしたいという気持ちがあるだけです。宿坊が素晴らしいともしもこの先、褒められることがあるとしたらこれは甦生に参加していただいた皆さんが素晴らしいと褒められたということだと私は感じています。

最後まで皆さんの真心に応えられるように、みんなの一人としてやり遂げていきたいと思います。いつも本当にありがとうございます。

当たり前ではない恩恵

私たちが日ごろ当たり前すぎて意識していないものに空気もありますが、同時に重力というものもあります。当たり前すぎてその重要さを忘れてしまいますがこれは私たちの生活において忘れてはならないものの一つです。

たとえば、空気といえば呼吸です。私たちは自分たちの生命を呼吸によって保っています。死んでいくことを息を引き取るというのも呼吸をやめたということです。つまり呼吸をすることで私たちは生命を維持しているということになります。その呼吸は何を呼吸しているのかといえば、空気です。その空気は、目に見える科学的なものとして酸素、二酸化炭素などもありますが私たちは地球の大気に守られているという観点から見直せば偉大な生命の中で他の生き物と一緒に共生しているともいえます。

その空気は、あらゆる風や雨をはじめ木々や微生物まで全体で澱まないように循環させています。循環しながら浄化し、私たちはその浄化システムの一部を担いながら生命を保つような原理の中で生きています。私たちの呼吸は、それだけ地球の一部としての偉大な役割を持っています。

同様に重力というものがあります。これは引力といって物と物が引き合い地球のない分から引き合う力の掛け合わせで発生しています。宇宙にはそれぞれの星々が引き合いながら一つの銀河を形成しています。どんなに関係ない星々とみえても、実際にはお互いに引き合うから一定の距離を保ち関係しながら存在します。そして重力もまた同じように、私たちは地球との関係において引き合うことで存在します。

重力というものの存在に気づくと、如何に私たちの身体や物が重力の恩恵で成り立っているのかがわかります。重力があるから物が安定し、体も保たれ、生命の象るすべての基本が成り立っているのです。これは、家にしても同じ、また木々や植物、あらゆる生き物の姿カタチすべてに恩恵を与えます。

当たり前であることに気づけるか。

この感性こそが、自然体に近づくための大切な真理です。その真理を磨き続け、そん材の妙に気づき、それを活かすことができる人こそ達人ですし、その真理に近づいていく人が自然体になっていく人です。

無駄な力を抜けるというのもまた、重力や引力の法則を学んでいるからです。この世の恩恵をうまくいただきながら、道を歩んでいきたいと思います。

この道を究める

自分の道を歩んでいくなかで、大勢の方から評価されることがあります。その評価は賛否両論あり、それぞれの意見があります。人には価値観があり、それぞれに生き方も異なりますからそのどちらも参考になります。

しかし時折、親しくなりたい方や、大きな影響力をある方、認めてもらいたいと思っている方からの意見に自分が揺さぶられてしまうことがあります。

人が自分を見つめるというのは、こういう時かもしれません。

自分を見つめるというのは、自分というものをもう一度、外の目、内の目、全体の目で観直してみるということです。その中で、自分はいったいどうしたいのか。そして周囲はどう思うのか、自分の初心、役割、天命はどうしたいのかと自分自身を掘り下げていきます。

自分を掘り下げていくなかで、本当の自分に出会います。そして本当の自分の声を聴いてどういう結果になっても悔いのない方を生きようと心で納得するのです。

すると、結果に限らずその人はその人らしい人生を生きていこうとします。つまり自分らしく生きていくのです。

私は子どもを見守ることを本志、本業にしています。なので、試練はいつもそれを見守れるかどうかというものを見つめる機会があります。童心、そして道心を守れるかと自己に問うのです。

子どもが子どもらしくいられる世の中をつくりたい。そして子どもの憧れる生き方を実践したいと決心してから今があります。それは自分の中にある子どもを守れるかという覚悟と一心同体でもあります。

しかし有難いことに、事があるたびに救われるのはその自分の中にある子ども心であり納得していきていこうと約束して決めた二つが一つになった自己一体の本心です。

本心のままに生きていけるように、強く逞しくしなやかに、素直に謙虚にこの道を究めていきたいと思います。

いのりの道

伝統的なもの一つの信仰というものがあります。これは宗教とは異なっていて、むかしから自然と共生するなかで自然に発生してきた祈りの実践です。人は、祈りというものを感覚的に持っています。これは祈りのそのものといのちそのものが繋がっているからだと私は思います。

そもそもいのちというものは、自然から活かされている存在です。これはすべての動植物はじめあらゆる生命エネルギーが万物と共生しあうことで存在していることからわかります。

それが長い時間をかけて循環をし、あらゆるものが渾然一体となって活動しているともいえます。そしてそれは目に見えるものから目には観えないものまで膨大にかつ複雑に存在していますから私たちはその全体の一部としてこの今という世界に生き続けている存在ということになるのです。

そしてそれぞれに役割というものを持ち、いのちをかけてその役割を全うしていきます。一生懸命に自らのいのちに生きるだけで、私たちは自分にしか与えられていないいのちの使命を果たしていくのです。

そこには正否もなく、善悪もなく、そのいのちの全うこそに意味があり価値があります。

そのいのちの全うするなかで、私たちは時折、初心というものを忘れてしまいます。それは欲望や執着がうまれ、目先のことに流されて大切ないのちの存在を忘れてしまうからです。

そのいのちの存在を思い出すことが、伝統的な信仰であると私は思います。

そもそも信仰とは何かという話になりますが、私にとってはいのち=信仰です。これは宗教ではなく、人の生きる道です。つまり、人生道ともいうものです。宗教は真理が外側に存在していますが、信仰はいのちそのものです。そのいのちの存在を思い出すこと、いのちの存在に畏敬し触れようとするもの、そういう自然との一体化、共生のなかに太古のむかしから今も連綿とつながっているいのちの存在にいのるのです。

つまりいのりやいのるというのは、いのちの存在のままでいるということでしょう。

子どもたちにもこのいのりの生き方、そしていのりの道が続いていくことを忘れないように私自身も天命を全うしていきたいと思います。

自然から学ぶ

人はそれぞれに固定概念を持っています。今までの常識があるから思い込んでいるものはなかなか拭えません。特に最初からあったものに関しては、ほとんど疑うことがなくそういうものだと信じ込むのです。

これらの思い込みが執着になり、本質や真実がわからなくなっています。特に知識として誰かに教わって疑問を持たないとよりその思い込みは強くなります。

本当は文字や知識がなかったころ、人は何を見て学ぶのか。それは自然を観察して学んでいました。自然の中で発生する様々な道理や真実を直に観て、その本質を察知していきました。小さな変化から大きな変化、またこうすればああなるというように場数を繰り返して事実を学びました。

今では誰もがそうやって習得しなくても、言葉や文字によって便利になりある程度は理解し合えるようになりましたからその分、かつてのような本質の察知や道理の習得は失われていきました。

しかし、原理原則や道理、真実というのは基本であり基礎であり根本や根源の部分です。応用というのは、その原理原則をもっていることで発展させていきますから物事の道理を習得していた方がこの世の仕組みや知恵を発明するのに重要な役目を得られます。

例えば、私は自然農や伝統文化などに触れていますがそうすると道理や原理原則ばかりを見つめる機会が増えます。自然の原理原則に照らさなければ壊れる仕組みになっていますから、毎回、自然に近づき自然に寄り添い、自然の叡智をおかりしながら取り組むのです。

そうやっているうちに、自分が思い込んでいたものに気づき、大前提になっていた知識や執着が取り除かれていきます。世の中の当たり前を疑い、本来の自然にある当たり前に気づけるようになっていくのです。

こういう学問をしていたら、飽きがくることはありません。毎回、新鮮な学びがあり、気づくことが増えていくだけです。なにに気づくにか、それは自分の思い込みに気づくということ。そして新たな発見や発明に気づくということです。それはその道理や原理原則を応用する面白さに出会うからです。

人間の学問の根本は、この「自然から学ぶ」ことにあると私は思います。子どもたちのためにも、自然から学ぶ姿勢を伝承していきたいと思います。

歴史道

私たちは歴史というものを教科書で学びます。しかし本当の歴史は教科書には書いていないことがほとんどです。その理由は、歴史は勝者の歴史でありその時の勝者の目線で都合よく改ざんされていくからです。事実も、事実の様で事実ではありません。現実はさらに多くのものが関わり、同時に敗者の歴史もあるからです。

真の歴史を知るためには、起きたことを丸ごと理解して受け止めていくような歴史道のようなものがあるように思います。それは今まで連綿をつながってきたものにアクセスをし、それがなぜ行われていたのかをその土地や文化から学び、それを辿りながらかつての人たちの想いをつないだり甦生させていく過程で学ぶのです。

つまり本当の歴史は人々の心を伝えていく中にこそ存在するということになります。これは人の生きる道であり、まさに連綿と続いている歴史です。

歴史は生きているというのは、生き続けているということです。つまり生ものですから保存するには漬物のように漬け直して発酵させ続けていく必要があるのです。保存とは本来、放っておいて保存はできません。そこにはお手入れが必要です。そのお手入れは、物であれば行事ごとに出したり仕舞ったり、片づけたり、そして磨き直して手入れします。これが食べ物であれば、先ほどの漬物のように何度も漬け直して腐敗しないように手塩にかけて守っていくのです。

歴史も同様に、常に私たちが手塩にかけて育てていくものであり、また定期的に古くなり腐敗しないように漬け直していくことで甦るのです。

形だけを残すのなら、ホルマリン漬けや氷漬けにして深い暗闇で光が当たらないところで保管すれば可能かもしれません。しかし、そんな形式だけ残っても何の意味もないのです。

私がやっている歴史の甦生は、形をただ残すことに意味を感じていません。そうではなく、その歴史の道を残すことの方が大切だと思っているのです。そのためには、先ほどの伝統保存食の知恵がそのまま使えるのです。

私が漬物から学んだのは、この甦生や保存の知恵でありそれが和の心であり、すべてにおいて対応できる道の処し方とつながっているのです。

子どもたちのためにも、真の歴史を伝承しその知恵がどの時代でも活用できるように私の役割を全うしていきたいと思います。

 

 

目と心の和合

欲に目がくらむという言葉があります。目というのは眩いものに弱いようでどうしてもキラキラしていると目がくらみます。他にも目の格言を色々と調べてみると面白い言葉が多いことに気づきます。目から鱗がおちるというものがあります。これは何かがきっかけとなって、急にものごとの実態がよく見え、理解できるようになることのたとえです。

他にも、目にまつわることわざはたくさんあります。どれも共通するのは、目というものがそれだけ人間の感情や心の状態を示している部分であることがわかります。目は口ほどにものを言うという言葉もあります。それだけ、この目は影響を与えあっているということです。

日ごろ何を見ているのか、どんなものを見るのかでもその目の状態は心に影響を与えます。人は自分が何を目を通してみているかで写りこむ世界が変わります。

掃除をしたりゴミを拾ったり、磨いたりしたあとはまるで曇りガラスが綺麗になったあとのように世界も鮮明になります。その逆に、都会のネオンや派手な人工物をみていたら目が疲れて澱んでいきます。いくら澄み切った青空があっても、美しい山々があっても、広大な海の前に立っても、その目の状態次第で真実や本質は目には入ってきません。

よく座禅をしていて「半眼」というのを行います。これは目を半分開いて、半分閉じている状態のことです。 つまり目を見開いているのではなく、心の眼が半分、あとは残り半分。つまり全部目でみずに、心の眼で自分を見つめている状態になっているともいえます。

目で追いかけているうちに、人は不安が増えていきます。あまり見すぎてしまうのはかえって余計な疑念を生み、自分の見たい証拠ばかりを目で追いかけてしまうものです。

目で目は見えぬという格言もあります。これは自分の欠点は自分ではわからないということです。そういう時は、素直に謙虚に自分の目がどうなっていますかと、澄んだ心の目を持つ人、または真実や本質を見ようとしている人にアドバイスをいただくのも一つの半眼かもしれません。

子どもたちのためにも、丁寧に目を閉じ、そしてゆっくりと開き、瞬き一つが修行と思って心を研ぎ澄ませていきたいと思います。

 

一期一会の一日

一つ一つの家を修繕していくというのは、一つ一つの丁寧な物語を紡いでいくことに似ています。悲喜こもごもに様々な出来事があり、謙虚に素直になってその物事を見つめます。

いつも大切な局面において試練があり、その試練の意味を見つめます。

そして試練の時こそ、その根本や根源はどうだったか、最初の目的は何であったかを振り返り、自分の生き方や初心、そして信念を修繕する機会になるのです。

そうやって逞しく育っていくことで、様々な体験を経てまたお智慧をいただきます。このお智慧は、謙虚さと素直さです。自然は常にこのお智慧をつかい循環をして已みません。

かつての先達の方々もきっと本質を保ちながら試練に耐え、この世の中でバランスを磨いていかれたのでしょう。穏やかな海のときもあれば、荒れている海の時もある。時折転覆しそうな時もあれば、追い風で一気に進む時もある。人生はこの舟のようなものです。

一つの目的に向かって、偉大な理想に向かって漕いでいきますがその中で様々な試練を体験するようになっています。そうして浮かべた舟ですから、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというようにあとは全託する境地でゆらゆらと大空に吹かれていくだけです。

私は、試練の意味をみつめるとき、その試練に対して全託します。

これがどのような福に転じていくのか、そこに奇跡を感じて好奇心がワクワクします。どこに辿り着いても、大切なのはその心の在り方であり、生き方です。子どもたちのためにも、ブレずに理念を実践し、今日も一期一会の一日を過ごしていきたいと思います。

大局的な生き方

時代には大局というものがあります。大局を見極めている人は、目先のことの影響をうまく乗りこなしていくように思います。私が尊敬する自然農の川口先生も、大局を観ておられたように思います。それは自然を相手にしているからかもしれません。

自然から私たちは大局を学べます。自然は長い歳月をかけて変化していきます。毎年、一年、365日で巡っていきますが確実に変化は数百年、数千年、数万年単位で微細な変化を遂げていきます。

これは石を水滴が穿つように、また陸が海の波で浸食していくように、日々の小さな変化は目にはみませんが確実に変わっていくことに似ているのです。

大局というのは、根源ともいえます。

根源は何か、あるいは偉大な方向性ともいうべきものを如何に直観して自分から近づいていくか。私たちは畏敬の念や謙虚さがあれば、そういうものの存在に気づいて自らの使命や役割を考えていくことができるようにも思います。

結局、進化や変化は私たちがしているものではありますが大局的にみたら一緒に変化しているともいえるのです。一緒に変化しているからこそ、私たちは変化を怠らず変化のために自分自身を努めていく必要があります。

生きていると同時に活かされているこの自分だからこそ、自分の喜びや仕合せがみんなの喜びや仕合せになっていくように徳を積んでいくのです。

子どもたちに伝承したいと思うことは、このことの他にはありません。

暮らしフルネスや、真の豊かさを繋いでいくことは失われたものを甦生するのではなく、もともとあるものに気づかせ甦生することなのです。

私のやっていることは以上のことです。

日々の変化は味わいながらも、大局の変化に内省しながら子どもたちの懐かしい未来を紡いでいきたいと思います。