好奇心と本質

どの道を極めていくにも先入観のなさというのは大切なことのように思います。思い込みというのは、本来の純粋さを失わせていくようにも思います。そもそも最初は、思い込みなどなかったところからはじまりました。それが知識を経て、後からこういうものだと付け足していきました。それは後の人の解釈であり、最初の人は損な解釈をしていません。

これはどのようなものでも同じです。誰かがそういったから、それがいいと思ったというのは自分が最初に思ったのとは異なります。誰かがいったことを認識して、きっとそうだろうと思い込んでいるものがほとんどです。自分の当初の感覚ではなく、誰かの感覚で認識するのです。

現代は特に、知識で塗り固められた世の中で情報過多の時代です。しかも専門家や権威が仕上がっており、最初から考えることもなしにそういう人たちの評価や意見を鵜呑みにしてしまいます。さらにみんながそう言ったからという常識に縛られてしまいます。これでは、本当のことはほとんどわかることはありません。さらに質の悪いことに、専門家ではないことや資格を持っていない、あるいは認可がないや許可もないとなるとすぐに偽物として邪魔をしたり法律違反や詐欺のようにいわれることもあります。

純粋に素直にそのものに向き合う人が減っていくのは、それだけはじめに先入観や思い込みを植え付ける環境が整ってしまっているからのように私は思います。

そういう自分も、先に誰かによって刷り込まれた知識が膨大にあります。そこから考えなくなり感度も下がり、常識のようなものに呑まれては気づかないことが増えました。日々にその思い込みや刷り込みを取り払うだけでも学びが精いっぱいで発見や発明できる驚きの日々にはまだまだ追いつかないほどです。

好奇心というものは、先入観や刷り込みがあることで次第に減退していくものです。何でも初心、はじめは素人と取り組むからこそ本当のことが観えてくるものです。自分の知っているものをそぎ落とし、先人たちのように最初に感じたものに近づいていくのはすべて好奇心がなせる業です。

好奇心のままに、真理に向き合い、実践や行動によって本質を保っていきたいと思います。

タイミング

私はいつもタイミングに見守られて不思議な体験をすることが多くあります。その体験は、その時に今しかないことが発生しそこから示唆を受けることしかないからです。何の意味のないようなことであっても、意味はあり、その意味が教えてくださったことに導かれて歩んでいると次第にタイミングが合ってくるのです。

これを私は一期一会ともいい、ご縁に活かされた人生とも呼んでいます。

久しぶりに鞍馬山に来ています。先週からずっと英彦山でしたが、よく考えると20代の後半からずっと鞍馬山と英彦山の往復をしてきました。何回、往来したかも覚えていないほどです。しかしどちらも天狗がいるお山で、教えがあるお山です。お山という存在を認識したのもこの二つのお山を往来するなかで体験したものです。

このお山というのは、単なる岩や土が盛られたところではないことは誰でもわかります。お山にもいのちがあり、ずっと場が生きている存在です。これは地球としてもいいし、太陽などの星といってもいいものです。生きているというのは、確かな意味を持って存在しているということでもあります。その意味は、自分との関係性や結ばれ方、つながり方で認識し直観するものです。

そしてそれを理解するのは先ほどタイミングというものがとても大切な要素になっていると私は思います。なぜこのタイミングでこの場にいるのか、そういうものを深めていくと自分に確かな意味があることに気づくからです。

私は鞍馬山の御蔭で、いのちというものの存在に深く気づくことができました。そしてそのいのちが輝くということの意味を学ぶことができました。現在世の中では多様性とか公平性とか色々といわれますが人間社会でいうそれと、自然界や宇宙などでいうそれは意味も異なります。

私が鞍馬山で学んだことは、もともと最初からこの世にあったものについてのいのちの存在です。私たちが人間として今、文字や言葉で認識するずっと以前からいのちというものは存在してきました。

そのいのちは、自分の周波数や波長、あるいは意識を変えることで認識することができるものです。それは人間様になっているような現在の環境ではなく、ひたすらに謙虚にいのちと向き合うことで観えてくる境地です。感覚を研ぎ澄まし、徳を顕現しては今というタイミングを生ききること。

そういう生き方の集積によって少しずつ、意識は変容していくように私は思います。そしてそれもまた場数によって変わります。運のいい生き方というのは、出会いやご縁を大切にする生き方でありそれはタイミングの妙を片時も忘れない生き方でもあります。

またこの場にこれたことに感謝しています。善い時期にこうやって導かれ呼んでいただけるのことに天意や神意を感じています。今日も一期一会のタイミングを生きていきたいと思います。

御呪いの伝承

「おまじない」という言葉がります。これは呪(まじな)うから来ていて、そこに御がついて御呪いといいます。語源のまじないは、動詞「まじなう」の名詞形「まじない」に接頭語「お(御)」が付いた語です。意味は、神仏や神秘的なものの威力を借りて、災いや病気を除いたり、災いを起こしたりするようにすることです。

もともとこの呪うの漢字は、形声文字「口」の象形と「口の象形とひざまずく人の象形」でできています。つまり、ひざまずいて祈り何かを言葉にしている姿です。今でも、この姿は祈祷をして祝詞やお経をあげるイメージがあります。

御呪いというのは、むかしから様々な伝承が残っています。一つには、家族の無事の祈り、他には健康や安全、願望の実現や相手を苦しめるものもあります。何か自然界や宇宙にある法則の一部を仕組みにしてその不思議な力を活用したのかもしれません。

そもそも言葉というものも、一つのお呪いです。その音で発することで、その音を象徴することを祈っているともいえます。名前なども最古のお呪いの一つだとも言われます。伝承の仕組みも幼い頃から、指切りや握手、流れ星に祈ったり、手を合わせたりと自然に実践したものです。

今でも全国の神社仏閣などにいけば、護摩焚きや水垢離、護符や巫女舞、あるいはお守りや数珠などお呪いばかり発見できます。それくらい、私たちはこのお呪いというものを普段から取り入れているのです。

しかしそうやって形骸化したお呪いが増えてしまい、本来のお呪いの持つ力はあまり発揮され特別なことではなくなっているように思います。現代では、目に観えるものしかあるいは科学的に証明できる可視化できるものしか信じない世の中になっていることもありかつての伝承は加速度的に失われました。

本当は今でも、そのお呪いの本当の意味や伝承を受けた伝道者たちはその力を発揮できる人も残っているように思います。私も伝統の和紙をはじめ、あらゆる伝統職人たちと関わる中でその不思議な力を垣間見ることがたくさんありました。かつての道具には、それを用いる人のお呪いだけでなくそれを創造する人のお呪いも相まってその人を助けていたからです。

最近の年中行事の桃の節句、ひな人形などもお呪いの一つです。

改めて、このお呪いというものを注目していくつか深めてみようと思います。

スリランカの大臣

昨日からスリランカにあるアーユルヴェーダ省の大臣、シシラジャヤコリ氏とその奥様、秘書と通訳の方が聴福庵に来庵されお泊りになり暮らしフルネスを体験していただいています。

他国の大臣が来庵するのもはじめてで安全面や食事の内容など緊張しましたが、いつも通りの私たちの暮らしの中で安心されとても喜んでいただきました。ちょうど今の季節は桃の節句の行事を実践している時期なのでお祀りしているむかしの人形の場をご覧いただきウェルカムドリンクに甘酒や玄米おはぎなどを一緒に食べ場を味わいました。

その後は、一通り聴福庵の生い立ちや甦生のためのルール、部屋ごとにむかしの懐かしくそして今に新しい暮らし方を説明しました。長いフライトでお疲れでしたので、先に粕漬の樽を甦生した大風呂に入っていただき備長炭を用いた七輪で春の地元の春の山野草を中心に湯豆腐やこんにゃくなどの日本式アーユルヴェーダの料理で古くて新しくした食文化をお伝えしました。

また会食の間にスリランカでの薬草の話や、在来種の話なども大臣からご教授いただきいつかスリランカに訪問の際は大臣が所有している現地の伝統在来種の薬草の畑やそれを活かした様々な取り組みをご案内いただくことになりました。将来的には両国の薬草や種を通して未来の子孫のために交流できるような関係をつくっていけたらという有難いご提案もいただきました。食後にも英彦山に千年以上伝承されてきた伝統の和漢方の不老園をお湯と共に飲んでいただきましたがスリランカの皆さまにもとても美味しいと評判でした。

最後に、伝統の日本の職人の手作りの和布団でお早目にぐっすりとお休みいただきました。朝食には私が聴福庵の地下水で手打ちで打った十割蕎麦をこれから振舞う予定です。初来日ということもあり、懐かしい日本の文化と真心を聴福庵と共にお届けでき仕合せでした。

もともとスリランカは仏教への信仰が厚く仏陀の教えや生き方を今でも大切に実践されております。私も英彦山の御蔭さまでお山の暮らしの中で修験道の実践することが増えて仏陀の教えに触れていますがそのためかとても親近感があり手を合わせる感謝の交流にも心豊かに仕合せを感じます。

親日国といわれますが、私もスリランカのことが今回の交流でさらに深く親しみを感じました。長い年月で結ばれてきたアーユルヴェーダの薬草の関係や伝統医療が今の時代に日本の暮らしと和合し新しくなり、子孫を見守っていただけるようになればと祈りが湧きます。

ご縁に感謝して、暮らしフルネスを丁寧に紡いでいきたいと思います。

おにぎりとおむすび

おにぎりとおむすびというものがあります。これを感じで書くと、お結びとお握りです。一般的に、おむすびが三角形で山型のもの。おにぎりが丸や多様な形のものとなっています。握りずしはあっても握り寿司とはいいません。つまり握るの方が自由なもので、お結びというと祈りや信仰が入っている感じがするものです。

また古事記に握飯(にぎりいい)という言葉があり、ここからお握りや握り飯という言葉が今でも使われていることがわかり、お結びにおいては日本の神産巣日神(かみむすびのかみ)が稲に宿ると信じられていたことから「おむすび」という名前がついたといわれています。

このように、お握りとお結びを比較してみると信仰や祈りと暮らしの中の言葉であることがわかります。形というよりも、どのような意識でどのような心で握るかで結びとなるといった方がいいかもしれません。

この神産巣日神は、日本の造化三神の一柱です。他には、天之御中主神、高御産巣日神があります。古事記では神産巣日神と書きますが、日本書紀では神皇産霊尊、そして出雲国風土記では神魂命と書かれます。このカムムスビの意味を分解すると、カムは神々しく、ムスは生じる、生成するとし、ビは霊力があるとなります。つまりは生成、創造をするということです。

結びというのは、生成や創造の霊力が具わっているという意味です。お結びというのは、それだけの霊力が入ったものという認識になります。いきなり握るのと、きちんと調えて祈りおむすびするのとでは異なるということがわかると思います。

また他の言い伝えではおにぎりは、鬼を切(斬)ると書いて「鬼切(斬)り」からきたというものもあります。地方の民話に鬼退治に握り飯を投げつけたもありおにぎりという言葉ができたとも。鬼をおにぎりにして、福をおむすびにしたのかもしれません。

私たちが何気なく食べているおにぎりやおむすびには、日本古来より今に至るまでの伝統や伝承、そして物語があります。今の時代でも、大切な本質は失われないままに、如何に新しく磨いていくかはこの世代の使命と役割でもあります。
有難いことに故郷の土となり稲やお米に関わることができ、仕合せを感じています。子孫のために徳の循環に貢献していきたいと思います。

道歌の伝承

道歌というものがあります。ウィキペディアによれば、「道を教える道歌とは、随分古い時代からあった。最初から道歌として作ったものと、普通の短歌を道歌として借用する場合がある。借用する場合文句が変化することもある。短歌は日本人の口調に適し、暗誦しやすいので親しまれた。道歌そのものは以前から作られていたが、室町時代につくられた運歩色葉集いう辞典に道歌という字があったという。江戸時代の心学者が盛んに道歌を作った。その後道歌が盛んになった。」とあります。別の辞書を引くと、仏教の教えや禅僧が悟りや修業の要点をわかりやすく詠み込んだ短歌や和歌ともあります。

道徳的な教訓や心学といった道を歩んでいく上での普遍的な生き方を歌に詠みそれぞれが道しるべとしたものです。

私たちの人生は一つの道だといわれます。はじまりから終わりまで道を歩むのが人生で、その中で様々なことを体験し味わい私たちは人間であることを自覚します。これをよく読み直すと、人間がなぜ不安になるのか、欲に呑まれるのか、不幸になるのかなどが昔も今も変わっていないことに気づきます。いくつか集めてみると、

養生は 薬によらず 世の常の 身もち心の うちにこそあれ

孝行を したい時には 親はなし 考のしどきは 今とこそ知れ

めぐりくる 因果に遅き 早きあり 桃栗三年 柿八年

足ることを 知る心こそ 宝船 世をやすやすと 渡るなりけり

強き木は 吹き倒さるる こともあり 弱き柳に 雪折れはなし

日々の健康は日頃の養生、親孝行は今こそすぐやる、タイミングは因果次第、富は足るを知る中に、真の強さは柔軟性など色々とあります。

本当はわかっていても、そう思いたくないという人間の心理もあるでしょう。道歌はそういうことを諦めさせるためにも声に出して詠んだのかもしれません。

人々の長い年月で繰り返されてきた知恵は、今も何よりの徳や宝になり私たちを支えます。先人に倣い、伝承を大切に取り組んでいきたいと思います。

絶妙な柔らかさ

自然界には柔らかいものと硬いものがあります。それは物質的な素材によって異なります。動物や人間においては、産まれたての時は柔らかく、歳をとり死ぬときは硬くなります。柔軟や頑固というのは一生のうちで変化しているともいえます。

昨年、骨折をしてから今はまだリハビリ中ですが折れたところの筋肉が硬くなっています。使っていない筋肉は硬くなっていき変な力を入れてしまうと張ってきます。他にも人間の肉体は炎症を起こすと硬くなります。緊張をしても硬くなり、血流が悪くなると硬くなります。この硬くなるという行為は、ある意味で不自然であることを証明しています。

もともと柔らかいものが硬くなるのは、伸びることと縮むこととの関係性とも言えます。私たちの成長というものは、伸び縮みを繰り返して少しずつ伸ばしていきます。ある意味、少しずつ伸ばしてことが成長とも言えます。

これは身体に限らず、能力や才能も使い育てることで伸ばしていきます。伸ばしていくのは、蕎麦打ちなどをしてもわかりますが粉を塊にしてこねて打ったらあとはのし棒で伸ばしていきます。美味しい蕎麦にするには絶妙な柔らかさの中には適度な硬さを持たせます。

この絶妙な柔らかさというものこそ自然体で力んでいない状態です。人間でいえば、リラックスをして心も体も調和している状態のことをいうように思います。

余計な力が入ったり、頑固に無理をしていて硬くなっていると本来もっているものも発揮できません。自然体というのは、本来の今の自分にあるものを存分に発揮できる状態になっているということです。

そうやって加齢していっても、年々体は死に向かって硬くなっていきますがその分、心のバランスや使い方や用い方の工夫が取れて絶妙な柔らかさは維持できるものです。

私の尊敬している方々もみんな柔軟な感性を持たれておられ、お会いするたびにその絶妙な柔らかさに生き方を学びました。これらの絶妙の柔らかさを持てるようになるには、日々の柔軟性を高める精進が必要になるように私は思います。

その時々の今のありようと正対しては、そのご縁のすべてを活かそうとする努力です。別の言い方では、禍転じて福になるということや人間万事塞翁が馬という境地を体得しているということでしょう。

子孫のためにも、今私が取り組むことが未来への橋渡しになれるように絶妙な柔軟性で結んでいきたいと思います。

場の例大祭 2024辰年

今年も有難いご縁にたくさん恵まれ、場の道場にある妙見神社(ブロックチェーン神社)の例大祭を執り行うことができました。前日から降り続けた強い雨でどうなることかと心配していましたが例大祭中は雨も降らず気温も上がり晴れ間も出て美しい夕陽と竜雲、彩雲が顕れご参列の皆様もとても感動していたのが印象的でした。

ここに神社を建立してから5年目になりますが、何かに導かれるように様々なご縁をいただいてきました。この期間に無二の仲間たちとも出会い、奇跡のような徳積の活動を実践することができました。自分で考えていた以上に、考えてもいなかった素晴らしい御蔭様と豊かさにずっと支えられていました。

この節分から立春という廻りは、春の兆しをたくさん感じます。冬の厳しい寒さと春の柔らかい温かさが交互に空に顕れ、また大地を潤します。寒暖差の中に水や風が揺らぎ場に澄み切った空気感を醸し出してきます。

今回、例大祭では昨年ご縁があった即興ピアニストの今井てつさんに奉納をお願いしました。共通のご縁は、自然農の故川口由一先生です。私もかんながらの道を歩んでいますが、いのちや生きものがいっぱいの自然風景を心に響かせる生き方をしています。今井てつさんの音楽もまた同様な自然の響きを奏でています。

私たちは心に映る風景を、それぞれの思いの波動を通して全体に響かせることができます。その響きは、音楽のように奏でて消えるのではなくそれぞれの場所や意識に影響を与えてその中で一体化して永遠に活き続けていきます。ご縁も音も、そして響きも波動も消えるということはなく食べもののいのちのように身体や精神、心に和合して意識を変化させる素となるのです。

いい人に巡り会うことは、いい人の生き方を宿すことでもあります。同時にいい音に巡り会うことは、いい波動を宿すことでもあります。そしてそれをどう表現するか、感動するかで人と人の間に感動はさらに広がり、その美しい種がまた新たに人々の心や場に蒔かれていきます。これが人徳の魅力です。

そうやって思いの種は最初は小さな種であっても、蒔かれていけばそのうち花が咲き広大なお花畑のようになることもあるのです。自然の有難さというのは、いつも自然があるということでしょう。その芽出度さは日本人の心でもあります。日本人の先人たちは暮らしの中でいつも自然を忘れず自然に感謝して自然と共に歩んできました。今年の例大祭ではよりその自然への畏敬を味わうことができた素晴らしいものでした。

最後に舞の奉納をしてくださった全さきさん、彌樹さん、母娘。それに直来で美味しい料理を準備してくれたまどかさん、お手伝いの恵輔さん。暮らしの音楽を奏でてくれた祐輔さんと晃輔さん、そして雅さん。節分祭から場を一緒に調えてくださった星覚さん、全体を調え石笛奉納までしてくださった奈々子さん。何よりいつもお手伝いを気持ちよく協力してくださる素敵な仲間たちに心から感謝しています。

予祝としての思いに、おめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

思いを大切に

人の「思い」というものは受け継がれていくことで洗練され美しく光り輝いていくものです。何代もかけて丁寧に磨かれてきた「思い」は、密度を高め透明度を増していきます。何度も何度も思うということは、「念じる」ともいいますがそれ自体が創り出す場にはその人が受け継がれてきたものが連綿と結ばれ特別な居心地を創りだします。

そしてこの「思い」というものは、純粋であればあるほどに研ぎ澄まされます。言い換えれば、純粋さというものは透明度が高いのです。別の言い方では澱まず澄み切っているということです。

水というものを想像してみるとわかりますが、いくら混濁して不純物と溶けていたとしても非常に長い時間をかけて静かにしていると不純物は下に沈み透明な水が顕れます。あるいは、水源などの湧水が滾々と流れているところはその透明な水が下から湧きがってきます。

この透明な水が出てくるまでにどれだけ長い時を刻み、そして思いを受けたかと思うと水の持つ性質、その徳に畏怖を感じるほどです。

私も人生の経験から、ある人の思いが気が付くと自分の思いになったことがあります。その方が亡くなる直前に譲り渡され、あるいは気が付かないうちに自分の中に思いが写り、交代同化するのです。相手の思いが自分の思いになっているという感覚です。濁りのない澱みのない思いが、純粋な自分の思いと和合します。

人は純粋な思いに共感し、それを応援したくなるものです。なぜなら、その応援は自分の中にも確かに息づいているものでありその思いを受け継ぎたいと願う思いもあるからです。思いが伝播していくのは、思いに共感しあう思いがあるからでしょう。

この思いを育て醸成することは、私たちのいのちの寿命を伸ばし仕合せを編み込んでいくことに似ています。まるで水のように循環をしあい、色々な思いを呑み込みながらも遂には純粋な思いだけをろ過して顕現させていくかのようです。

「思い」を大切にしていくことが何よりも思いを育てます。人からどう思われても、自分にしか感じることがない大切なその「思い」を生きていく人が増えてほしいと思います。子どもたちにも、思いを育て、思いを応援してもらえるように徳を磨いていきたいと思います。

畜の意味

最近、社畜という言葉を改めて気にする機会がありました。なんとなく世の中で使っている言葉の響きが不愉快だったので調べると家畜を参照して作成された言葉のようです。社畜の意味は辞書を参照すると「日本では社員として勤めている会社に飼い慣らされ、自分の意思と良心を放棄し、サービス残業や転勤もいとわない奴隷と化した賃金労働者の状態を揶揄、あるいは自嘲する言葉」とあります。また家畜を調べると「ヒト(人間)がその生活に役立つよう、野生動物であったものを馴化させ、飼養し、繁殖させ、品種改良したもの」とあります。さらに社員ではなくアルバイトの場合はバ畜と呼ばれ「アルバイトをする学生がバイトに多くの時間と労力を割いてしまう状況を表す言葉」だそうです。

この「畜」という文字の語源は、会意文字で「玄(黒い)+田」の意味で栄養分をたくわえて作物を養い育てる黒い土のことをいいます。この発酵した黒い土がある御蔭で、植物や生き物たちの健康は守られます。

私は自宅で烏骨鶏や犬を飼っていますが、家畜といっても無理やり卵をたくさん産ませようとしたり犬をこき使って働かせようとは思ったことはありません。他にも自然農や田んぼをやっていますが、無理に作物を育てませんしその土を大切にするために農薬なども使ったことはありません。高菜のお漬物もつくっていますが、在来種の種を大切に自家採取してはまたそれを蒔き育て、その高菜で採れる分だけで木樽に寝かせて林の中でお漬物にしています。

私にとっての家畜は、大切な家族で共にこの世で生きていくためのパートナーです。家畜というものを悪いことのようにいうのは違和感があり、その流れで社畜というのはもっと違和感があります。

私は会社の社員のみんなを親戚や家族のように思っています。毎日、顔を合わせては健康の心配、子どもたちや家族や親せきの状態、仕事のこと、暮らしのことを気にしては一緒に語り合い助け合います。みんなで尊重しあえるように話を聴く時間を工夫して確保し、丁寧に一緒に生活の改善を続けています。飼いならすというよりは、みんなで協力しあって暮らしを創っているという感じです。大切にしている畜土(場)は、会社の文化であり、それは連綿と毎日続けて受け継がれてきたみんなの生き方や働き方の歴史が醸成されたものです。社畜という言葉がなぜ悪く言われるのだろうかと不思議でなりません。

結局、この言葉の意味の変遷は時代的な価値観として「いい会社かどうか、いい家庭かどうか」のその話をしているということでしょう。悪い意味でつかわれる家畜も社畜もバ畜も、まるで人間がいのちのない単なる物体のように扱われ、一人ひとりが尊重されない環境のなかで主体性を放棄した状態ということになります。そういうように動物たちや植物などの家畜を扱い、そういうように人間も扱うようになったということでしょう。一方的な奴隷化、搾取、それを飼いならされた状態というのでしょう。

実際にうちの烏骨鶏でいえば、柵も鳥小屋もあるのは野生動物や蛇などの天敵から守るために設けるものです。それに広さを十分に確保し、止まり木があり、発酵土を設け、泥浴びができるようにし、風通しのよい日陰で新鮮な空気があり目が届く場所に設置するのは奴隷化するために飼育しているのではありません。犬も同じく、綱があるのは車社会で飛び出すと危険であることや保健所に連れていかれて殺処分されたり、犬に乱暴に扱う人たちがいることから守るためでもあります。飼いならすことと守ることは違います。大切ないのちを守ろうとするからこそ「畜」はあるのです。

「畜う」という字は、「やしなう」とも読めます。つまりは、大切に育て養い守るということです。そして見守られている側もきっとそれに気づいて安心して育つはずです。そうやって「お互いにやしないあう=見守り合う」ことで私たちはいのちの寿命をのばして仕合せになるように思います。

言葉の使い方の中に、時代の価値観や人々や民衆の感じる不信や不満がでてきます。全部がそうではなく、そしてそうではない生き方の人たちの実践もあることにももっと目を向けて子どもたちのために将来がどうあってほしいかよく考えて今を生きる大人として取り組んでほしいと思います。

私たちも引き続き、子ども第一義、私たちの道を拓いていきたいと思います。