自然に学ぶ生き残る智慧

全世界で大雨や洪水の情報が報道されています。地球温暖化の上、南極の氷が融けたものが一体どこにいったのか。地球は一つの球体ですから、その融けた氷の行先は海と空であることは明白です。

私たちは何億年、何千年も前から地球環境の変化に順応しながら生き永らえていきました。どんなに発展した文明を持ったとしても、それが滅んでいるのは遺跡を観ればわかります。その滅んだ理由は、一つは人間の際限ない欲によって自滅したことと、もう一つは自然環境の大きな変化によるものではないかと私は思います。

太古から、人道と天道のことは様々な学問の書に記され、また先人から語り継がれていきます。日本民族は、アフリカから旅をしもっとも遠くまできた民族であるといわれます。その中で、如何に人道として和を尊ぶことが大切か、天道として如何に謙虚に自然と共生して生きていくかを伝承し自戒して生き延びてきた民族とも言えます。

世界でもっとも自然災害が多い国と言われ、大雪、大雨、津波、噴火、台風、洪水、地震、土砂災害などすべてが頻繁に発生する国土に住んでいます。これだけの災害が頻繁に発生する国だからこそ自然に対して謙虚にならざるをえません。さらには、自然災害が多いからこそ人々が助け合い協力し合い支え合わなければ生きてはいけないことを自覚しています。

つまりは人道としての和、天道としての謙虚を、さらにはその自然の恩恵をもっとも多く受けるのだから自然に感謝する心も育っていくのです。自然を常に観て、自然に沿って自然から学びながら生きていく民族は、八百万の神々といってすべてを「カミ」にし、敬謙な精神を養ってきました。

そのことこそが、もっとも永い旅をし、もっとも永く生きながらえてきた人類の智慧であったと私は思うのです。自然の猛威が増してくるこれからの時代において、私たちの先祖が経験によって得た智慧は必ず世界に必要とされていきます。

だからこそ私たちが近代に染まったり、刷り込みに負けて、本来の自分たちの民族らしさを失うのではなく、こういう時代だからこそ原点に回帰し、自然から学び直して生き方を修正する必要があると私は思うのです。

自然災害の前においてどんなにお金があっても生き残ることができないのは歴史が証明しています。

人類の存続を左右する大事な局面において長い目で観て判断をする人々が目覚めていくのを待つのも大切ですが、自らが行動して身近な暮らしを改善するだけでも自然から学び直すことができます。

引き続き子どもたちのためにも、信念をもって子どもたちに譲り遺していきたい生き方を甦生させていきたいと思います。

和合

昨日は無事に聴福庵での天神祭の実施と勉強会を実践することができました。菅原道真公をお祀りし、場を整え、寺小屋にし学問とは何かについて話を深めていくことができました。

改めてご縁というものの不思議さ、そして初心の大切さを感じる機会になりました。

裏方では、みんなで力を合わせてお祭りの準備を行いました。最初はお祭りのおもてなしとはどのようなものをすればいいのかと悩みましたが、結局はご縁がつながって生まれた物語を辿っていただけでした。

例えば、地域の氏神様が天満神社だったから最初の勉強会と実践が菅原道真公の天神祭になったこと。そして菅原道真公といえば梅を愛したことで有名だったので、梅に纏わる道具や梅料理を用意することになったこと。その梅も太宰府天満宮に信心深い方からの紹介で素晴らしい梅をいただいたこと。その梅を、梅干しや梅酒にしたこと。さらに80年前の梅干しと出会い、その梅干しのみで炊き込みご飯を備長炭を用い竈で炊いたこと。その炊き込みご飯のお皿は神社でお社にかかっている竹を刈りその竹を割って削り創り、室礼もまた境内の参道にかかる紅葉などを用いて飾ることになったこと。ウェルカムドリンクもある染の老舗の方からお譲りいただいた年代ものの梅ジュースを出せたこと。お味噌汁は、地域の方々と一緒に創って発酵した味噌を使い、かつお節も物語ばかりでしたが、その本節を削り出汁を取ったこと。さらには恩師が別の講演会でタイミングよく福岡にお越しになっていたことなど、他にもご縁を辿ればキリがありませんが様々な組み合わせと物語によって出来上がったのです。

これらの偶然が重なりあって、奇跡のような天神祭を執り行うことができました。これらの御蔭様を思うとき、私たちは本当にありがたい貴重な体験をさせいただいたことに気づきます。

当日のお祭りの裏方は何をするのだろうかとわかりませんでしたが実施してみると、みんなで協力して助け合い、まるで昔の日本の寺小屋のように学び合い、ご飯を共に作り合い、食べ合い、片付け合い、手伝い合い、まさに「和合」した姿が随所に垣間見ることができました。

和合という言葉も、ようやく私の心にストンと落ち着いてこの体験が和合であったのかと日本文化の持つ、一緒に働くことの仕合せを懐かしく感じました。

恩師からは「自分の人生のゲストではなく、スタッフで生きていく」ということの大切さをも教えていただきました。これは単に主人公であることを言うだけではなく、みんなで能動的に和合する生き方、つまりは共生と貢献、利他に生きつつみんなで一緒に働きを活かし合って協力して生きていこうとする人類存続の智慧の言葉です。

この天神祭の体験から私は子どもたちに遺し譲りたいもの、人類の理想の形を発見することができました。この奇跡のようなご縁を活かし、世界に大切なことを伝えられるように実践と精進を重ねていきたいと思います。

風土

私たちはそれぞれに住んでいる国の風土があります。その多様な風土の中でそれぞれの文化が発生し、その文化によってその国の人々の暮らしの個性が出てきます。

世界には風土の数と同等数の多様な民族や暮らしがあり、それを継続して発展させて文化にまで昇華したものが伝統というカタチになって遺っているのです。

現在は、世界の国々でもともとあった風土とは異なる文化をそのまま移設しようと試みられていますがそのことによりその風土にあった「場」が失われてきています。同時に、場が失われれば文化もまた減退していきますから民族の個性や暮らしも失われていきます。伝統が消えていくというのは、その国の風土や文化が消失していくということに他なりません。

伝統文化において大切なのは、場と間です。

どのような風土の中で、どのような経過を辿ってきたか、それが混然一体となって和が産まれます。

日本には産霊や結びといった、あらゆるものが混ざり合い産まれる和という信仰があります。これは風土が他を排斥せず否定せず、お互いを尊重し合って一つのものになるということです。

これは日本の風土が、小さな島国の中であらゆる多様な気候の変化を受け容れることにもよります。こんなに小さな場所でも、この日本は非常に複雑で新鮮な風土環境を持っています。それは台風や地震、火山やあらゆる自然の猛威を潜り抜けている場所ともいえることでもわかります。

私たちはこの場に住んでいますが、今こそこの場を改めて見つめ直して学び直し、価値を再構築し再発見をする必要があるように思っています。

なぜなら世界は今、大きな岐路に立たされておりこの先の未来のためにも自分たちがどのように伝統を守りそれぞれの個性を互いに尊重して一和していくかが問われているからです。

風土を無視して同じ色に塗り替えるということが世界が一つになることではありません。多様な風土があるように多様な民族や伝統文化、暮らしがあってそれを尊重し合いながら生きていくことが人類の役割だと私は思います。

地球上で生きるすべての生き物やいのちたちを追い払って自分たちだけになって果たしてその世界は楽しく豊かな場になっているのでしょうか。閑散としたビル群の中での生活は確かに便利で楽でしょうがお金を使うことばかりに創られた都市の中で本当の仕合せはないと私は思います。

あの美しい自然が私たちの心を癒すように、何が本来の姿だったか、懐かしいものを現代に伝承していくことも今の世代の責任だと私は思います。

引き続きこの先に地球に生まれる子どもたちのためにも、風土のあるべきようを究め直し、風土を活かした志事を実現させて和の甦生を実践していきたいと思います。

新しい世界~日本の種火~

昨日、カグヤと臥竜塾生と一緒に合同で新しいプロジェクトのミーティングを行いました。オリンピックへ向けて、日本の文化を見直しそれを発信していくために私たちが誇りにしているものが何か、その原点について語り合いました。

現在は、単にパスポートが日本国だから日本に住んでいるから、遺伝子が日本だからなどが一般的に日本国民だという認識の人が多いといいます。しかし本質として自分は何をもって日本人であるのかと、もう一度深く省みるとき改めて日本ということ、日本民族ということを考え直すように思います。

日本の文化をどれくらい理解し、日本の先祖のことをどれくらい理解し、日本の暮らしを理解し、それを悟りどれくらい本物の日本人であるのか、今の生活をもう一度見つめてみて考え直すと自分自身が日本人としての自覚が薄いことに気づきます。だからこそ世界が一つになるとき、如何に自分たち日本人が偉大かということを自覚し悟れるかが、誇りと自信を持って世界とつながることのように私は思うのです。

そのためにも自分たちがもう一度、日本の文化を掘り起こし再発見しつつ今まで積み重ねて伝承されてきた日本文化を甦生し、体現し、それを世界へと発信していかなければならないように私は思います。

禅(ZEN)を世界に広めた仏教学者の鈴木大拙氏は、西洋と東洋を超えて世界の中での日本を示した先人の一人です。改めて、日本文化を伝え、異文化の融和によって一つになり助け合っていこうとする先人の功績は今も私たちを勇気づけます。鈴木大拙氏が禅を広めようとした動機、つまり初心です。

「西洋の方と比べてみるというと、どうしても、西洋にいいところは、いくらでもあると……いくらでもあって、日本はそいつを取り入れにゃならんが、日本は日本として、或いは東洋は東洋として、西洋に知らせなけりゃならんものがいくらでもあると、殊にそれは哲学・宗教の方面だ と、それをやらないかんというのが、今までのわしを動かした動機ですね」

西洋から学ぶだけではなく、世界の中の日本人として西洋にも伝えなければならないものがあるという信念は深く共感します。そして後を生きる日本人に対してこう言い遺します。

 「日本を世界のうちの1つのもの、としなければいかん。今、日本が、日本がと、やたらに言うようだが、日本というものは世界あっての日本で、日本は世界につつまれておるが、日本もまた世界をつつんでおるということ、これは、スペースや量の考えからは出てこない。そのように考えるためには1つの飛躍が必要とされる。その飛躍が大事なのだ」

この飛躍のことを、英語ではマインドセットといいます。今までにない新しい世界に突如現れる新しい常識、時間でいえばそれをティッピングポイントとも言いますがある時、ガラリと意識が飛躍するような大転換が必要というのです。

そしてこれが新しい世界に入るということです。

私たちは日本人になるには、世界の中の日本であり日本があるから世界があるという境地を体得しなければなりません。そのためにも自国の歴史や文化を学び直し、自分がどう世界の中の日本人として生きるかを決めなければなりません。

自信と誇りもまたそこから生まれ、それを子どもたちが受け継ぎこの先の未来で世界の中で平和をきっと創り出してくれると思います。大和民族とは何か、何をもって和の民と呼ばれたか、今一度、世界が大転換期であるからこそ私たちの役目や役割は大きいと私は信じています。

引き続きこのオリンピックを通して、その日本の種火を世界へと弘げていきたいと思います。

 

 

和が宿る

古民家甦生を続けていく中で、古いものを磨き直し新しくし、さらに手作業手作りのものに入れ替えていくと落ち着いた空間が発生してきます。その空間に入ると、とても心穏やかになりなんともいえない安心感に包まれます。この空間に入ると落ち着くという感覚、これが日本の伝統的な「和」のことです。

和むというのは、心の作用を言います。そして心はそのものと人、人と人、すべてのものが相調和したときに空間に一切の邪魔が入らず無為自然になるのです。これは自然の中に入るのと同じで、あるべくしてありなるべくしてなる。日本の風土に沿って日本の伝統的なものに包まれたとき、私たちは心が安らぎ和むのです。

例えば、都会の喧騒と鉄筋コンクリートの壁の中でのむ一杯のお茶とこの日本の和の空間の中でのむ一杯のお茶は同じ味にはなりません。舌先三寸の味はどれも同じであっても、心が落ち着いて和むのはそのお茶によって周囲の空間に気付けるのであってお茶がそれをなしているのではありません。

私は茶道のことはよくわかりませんが、伝統的な自然な日本民家で鉄瓶でじっくりと沸かしたお茶の味わいは心がよく知っています。その心の落ち着きはすべて和からきているものです。この和とは、日本の道具を使えばいいのではなくそこに流れている暮らしや主人の精神、人と家と道具が見事に調和するときに出てくるものです。

空間とは呼んで字の如く、「空」の「間」です。

その間を如何に空にするか、そこに邪魔が入るような私欲や邪念を一切捨て去って真善美の徳を顕すこと。そういう空間にこそ場が生まれ和が宿るのです。

古民家甦生を通して磨かれるのはその和の精神、大和魂です。

引き続き子どもたちに和の精神、大和魂を伝承できるように真摯に「場」を磨き続けていきたいと思います。

福の世

人間の心は、自然にしていればもともと備わっている善良なものがあるといわれます。孟子はそれを「人皆人に忍びざるの心あり」と呼びました。これは人間には忍びないという思いやりの心があるという意味になります。

この忍びないというのはあまり最近では使われなくなりましたが、私の解釈では相手の気持ちになってかわいそうと思いやるときに出てくる言葉です。もしも自分だったらと共感してしまう気持ち、他人事なのに他人事ではなくまるで自分にあったかのように感じる心の中には思いやりが息づいています。

その思いやりの心につながるものとして孟子は四端という言い方をしました。これは「惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は知の端なり。人に是の四端有り、四體の有るがごとし。」つまり思いやりこそが仁とつながり、不善を恥じることが義とつながり、他人に譲る心が礼とつながり、善悪の見分けがつく心が智とつながっている。つまりは頭・胴・手・足というものが身体にもともと備わっているように人間にはその仁義礼智は備わっているのであるという意味になります。

これが孟子の言う性善説の根本です。

このかわいそうと感じる思いやりはどこからやってくるのか、それは生まれながらにして懐かしい心の中から湧き出てくるものです。生きていればこの世の中にはどうにもならない不幸なことがあります。自然の災害に巻き込まれたり、理不尽な死や病に見舞われることもあります。

そんな時どうにもならないやるせない気持ちとなぜそんな目に遭わなければならないのかと複雑で気の毒に思う気持ちが出てきます。人間にはかわいそうと思う真心が最初から備わっているというのです。

このかわいそうは決して上下や格差の同情のかわいそうという意味ではありません。ここでのかわいそうは、慈愛の心、この世にいのちを創造するものの心とも言えます。

そういう心があるから協力や助け合いがうまれ、より善い循環を行っていこうとする善良な心が働くのです。これらは、現代では科学的にも証明されてきており遺伝子や細胞、その他、生き物たちにはそういう共存共栄して思いやり活き合うという真理が備わっていることが分かってきています。

だからこそ、改めてその四端や仁義礼智の徳を磨き高め世の中にその心が発揮されるような環境を創造していく必要があるように思います。その心が出て来にくい環境とは何か、それは幸不幸ばかりに囚われその中にある福を感じられないことにあるように私は思います。

世界にその思いやりの心を弘げる鍵は「福の世」にこそあります。その真の福世かな社會を創造するためにも一円観、一円対話の実践とその環境の醸成に命を懸けていきたいと思います。

道は続く、歩み続ける

人生には出会いと別れがあります。そして道があります。道は続いていくものだから私たちは道を歩み続けます。道中に仲間ができて一緒に歩めますが、その仲間とずっと一緒に居られるとは限りません。一緒に居られるご縁というのは有難く、それは同じ道を歩み続けられるという奇跡の邂逅です。

私たちの会社の初心伝承ブックのはじめには論語の一文が入っています。

『子日わく、与に共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず。』

これは意訳ですが、孔子は言った「共に同じ道理を学ぶことはできても、共にその同じ道理を実践することは簡単にできるものではない。そして共に同じ道理を実践することができても、同じ認識に立つことは更に困難なことである。そしてたとえ認識を共有することはできても、同じ境地で運命を共にすることのできる人物は、滅多に得られるものではない」と。

私も理念を定め初心を歩んでいく中で、多くの出会いと別れがありました。道を歩むというのは、道の中にある本質や理念を深めて自分のものにしていくということでもあります。しかし実践といっても道理のままに実践できる日もあればできない日もあり、日々に実践を継続する中で実践を省みていくなかではじめて習慣となり心身に染み付いてきます。

さらに道理を実践していたとしても、分かった気になっているだけで同じ認識を持てるようになる人はかなり少なく、共に話しをしていても同じ認識で話せる人はなかなか現れません。それは実践からどれだけ本質や道理を掴んだか、それを捉え続けられるかといった本気の覚悟や決心、自己研鑽と自修錬磨が深くかかわっているからです。

そしてたとえ認識が同じ深さまで来たとしても、その境地を会得したままで人生丸ごと運命を共にでき天命に任せるままに一心同体になれる人はほぼいないということです。

私にはまだまだ自分や情が強くあり、どうしても出会い別れが慣れません。本来は道は続いていくものだから、歩み続けるだけで歩まないものを連れてはいけませんし、別の道を往くものを引き留めることもできません。

しかし思えばご縁というものは、一つの道を歩む中でどこまで道中をその人物と一緒に歩めるかということが道の途中でもあります。人生にはどこに往くのかと誰と往くのかもあります。私はどうしても誰と往くのかの方が興味があるようです。そして誰の人生にも必ず死があり、甦生し、また身体を入れ替えて引き続き道を歩める日が来るまで何度も何度も繰り返し出会い別れと共に歩み続けているともいえます。

そう考えてみると道中の複雑な想いや感情の中でも一緒に歩むことができる同志や仲間の存在が如何に奇跡であるか、そうやって道を共有できることが如何に仕合せであるかを実感するのです。

道縁はやはり無窮なのです。

最後に人生の醍醐味は、決して欲望や願望が満たされるときや結果の報酬や他人から認められることで得られないように思います。辛酸を舐め、諦めずに遣り切ったとき自分に誇りと自信を持ちその時々の道中の思い出が深い味わいを与えてくれるように思います。

いつの日か、ある境地を体得してまた出会える日を楽しみに待ちたいものです。その日に向かって私自身、決してご縁に恥じないような道を歩み続けたいと思います。

ありがとうございました。

 

星は光る

私が尊敬している先人に東井義雄氏がいます。

「教え子に教えられる」という教育思想と実践にまさにこの道の源流や本流を感じます。子ども主体という見守る保育の先生もまた同様に子どもから学び子どもと共に育ちあい学び合い成長していく生き方をなさっています。どの時代も教育を考える前に人間とは何かと深めて道を往く人たちはいつも同じような境地を体得しているのかもしれません。

東井義雄氏の遺した言葉は、時代が経っても私たちの魂に語り掛けてくるものがあります。その眼差しや姿勢、真心の生き方は人間をそのまま丸ごと見よう、そのままであることを信じようといった人間そのものを見つめる純粋で包み込むような思いやりや慈愛を感じます。

『どの子も子どもは星』

みんなそれぞれがそれぞれの光をいただいて
まばたきしている
ぼくの光を見てくださいとまばたきしている
わたしの光も見てくださいとまばたきしている
光を見てやろう
まばたきに 応えてやろう
光を見てもらえないと子どもの星は光を消す
まばたきをやめる
まばたきをやめてしまおうとしはじめている星はないか
光を消してしまおうとしている星はないか
光を見てやろう
まばたきに応えてやろう
そして
やんちゃ者からはやんちゃ者の光
おとなしい子からはおとなしい子の光
気のはやい子からは気のはやい子の光
ゆっくりやさんからはゆっくりやさんの光
男の子からは男の子の光
女の子からは女の子の光
天いっぱいに
子どもの星を
かがやかせよう

私たち人間は簡単に言葉で表せるものではありません。複雑で不思議な存在だからこそ、前提にその存在を丸ごと認めてはじめて人間理解・人間教育の土俵に立つことができるのではないかと私は思います。

一方的な偏見で評価したり、常識や価値観で裁いたりする前に、そのものそのままあるがままを認めることを学ぶ・・本来の人間として生きるということです。そして東井義雄氏はこうもいいます。

「人間の目は不思議な目 見ようという心のスイッチがはいらないと 見ていても見えない 耳だって頭のはたらきだってみんなそう スイッチさえいれれば 誰だって必ずすばらしくなれる」

自分という人間を見ようというスイッチを入れることができるかどうかは、その一度きりの自分自身の人生において一生のテーマであるはずです。人間は内省をすることではじめて自分自身が観えてきます。人間は人間であることを自覚できるとき、その人格が磨かれるように思うからです。

一度きりの人生で「人間とは何かをつかむ」というのは自身の成長を確かめることにおいて何よりも大事なことのように思えます。二度とない人生は道場、人生は修行三昧だからこそその価値を感じずにおれません。

しかし人生は言葉で書けるほど簡単ではなく、文字で言えるほど平易でもありません。艱難辛苦を味わい苦労してみてはじめて理解できるものばかりです。そういう人生の苦しい時に寄り添ってくれる存在は、有難く人生の恩人とも言えます。

「雨がふった日には 雨のふった日の生き方がある」

「一番よりも尊いビリがある」

そのままでいいと認めてくれる存在に私自身も沢山の勇気をもらってきました。

最後に、人生の節目を迎える仲間に”はなむけ”の言霊を祈ります。

 

『自分は自分の主人公 世界でたったひとつの 自分をつくっていく責任者』

 

自分の星を光らせていくのは自分、みんなの人生が道の途中でこれからどんな光を放つようになるかが楽しみでなりません。

いっしょに”これでいいのだ”と丸ごと認める人生を味わっていきましょう。

古民家甦生~時中した暮らし~

古民家甦生を続けていくと古い道具を用いますから技術や感覚は次第に磨き直されていきます。こちら側の都合では道具は使えず、道具の特性や弱さ、また持ち味や使い方を扱いながら学び直していきます。

慣れていないとすぐに壊してしまい、さらに道具もまた活かされないので生活や暮らしそのものを便利なものから不便なものへと価値観ごと転換していく必要もあります。特に今のように水道やガス、電気、家電製品や空調器具がある世の中で敢えて不便に戻すというのはとても勇気がいるものです。

先日もトイレは昔のものに戻すのか、風呂は、洗濯は、冷蔵庫はと矢継ぎ早に質問されました。全部排除してしまえば、それは山奥の隠者のような生活になるのではないかというのです。

確かに目的が、先祖返りのように過去に戻ることならばそうなるかもしれません。しかし時代は過去に戻ることは不可能であり、常に今を刷新し続けていくのが生きるということです。温故知新も復古創新も、決して江戸時代や縄文時代などに回帰しようとするのではなく、何を変え、何を変えないかをその時代の人たちが取捨選択してそれまでの初心や大切な伝統が守られるように継承していこうとするのは子孫である私たちの使命でもあります。

私の古民家甦生も、電気も水道もガスも空調設備もあります。それを全部排除しようとか排除しないとかいう考え方ではなく、長い先を観て大事なものは守り続けようということなのです。

そのためには、その近代に発明された便利なものも活かそう、そして昔から連綿とつながっている文化や智慧も活かそうという、古新を融和融合し、今の時代ならどう暮らすかということを提案しているものなのです。

子どもたちには選択肢が必要です。そしてそれが多様性でもあります。その多様な選択肢は、みんな新しいものに右へ倣えではなく、こういう選択肢もあるという生き方も見せてあげる必要があります。それは極端に右か左か、上か下か、富か貧かではなく、かつての古き善きものを取り入れながら今に活かすという時中した暮らし、生き方を感じてもらいたいということなのです。本来、どちらかに偏らないというのは中心を捉えた中庸でもあり、これはどちらかに偏るよりもずっと難しい挑戦なのです。

私が実践する古民家甦生は、まさに今の時代に古の智慧をどう活かすかという事例を伝道伝承しようとするものです。

引き続き、何を変え何を変えないかを自分の生き方を通して試行錯誤していきたいと思います。

魂の実践に生きる

人生にとってもっとも得難いものに「経験」があります。生まれてきて私たちが得られる唯一無二のものはその体験を味わい経験することができることです。生きているだけで仕合せなのは経験の真っ最中であるからだとも言えます。その一期一会の人生をどのように生き、どのように味わうかは、その人の魂の求めるところに由ります。

先日のブログから魂を磨くことをキーワードに書いていますが、真摯に真心を盡していく中で体験は光り輝き、豊かな経験は永遠の記憶となって宇宙の貯蔵庫に蓄えられていくように私は思います。まるで宇宙空間の中で星が煌めくように、わたしたちのいのちや魂の輝きは空間に宿り生き続けていきます。

魂を磨くという言葉に、京セラの稲森和夫さんがこういうことを著書で記しているので紹介します。

「人生の目的はどこにあるのでしょうか、もっとも根源的ともいえるその問いかけに、私はやはり真正面から、それは心を高めること、魂を磨くことにあると答えたいのです。

昨日よりましな今日であろう、今日よりよき明日であろうと、日々誠実に努める。その弛まぬ作業、地道な営為(えいい)、つつましき求道(ぐどう)に、私たちが生きる目的や価値がたしかに存在しているのではないでしょうか。

現世とは心を高めるために与えられた期間であり、魂を磨くための修養の場である。人間の生きる意味や人生の価値は心を高め、魂を錬磨することにある。まずは、そういうことがいえるのではないでしょうか。

俗世間に生き、さまざまな苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながらも、やがて息絶えるその日まで、倦(う)まず弛(たゆ)まず一生懸命生きていく。そのプロセスそのものを磨き砂として、おのれの人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも高い次元の魂をもってこの世を去っていく。私はこのことより他に、人間が生きる目的はないと思うのです。」(出典:『生き方』)

「プロセスそのものが磨き砂」という表現に多く共感するものがあります。私たちは日々の体験や経験が磨き砂になり自分を磨き、周囲を磨いていきます。その体験を早く終わらせようとしたり、結果さえよければいいと生きてしまうのはあまりにももったいないと思うのです。

一度きりの人生だからこそ、そして人生には必然しかないからこそ、その起きた出来事を誰よりも真摯に受け止め、誰よりも真心を盡して正対していくことが魂を生きたことになるように思います。

生きるということ自体が魂を磨いているのだから、どのような生き方をするかは何よりも忘れてはならない人生の戒訓のように思います。

引き続き、今日の体験もまた味わいながら心を尽くし行動する魂の実践に生きる一日を過ごしていきたいと思います。