徳の場

すべての物は心を顕しているものです。そしてそれを集めて人はそれを場と呼びます。これは単なる場のことではなく、心の場ということになります。その心の場には、徳が集まります。それを私は徳の場といいます。

この徳の場というものは、人間の心を磨くための場です。そしてそれが学問の道であり、生き方や働き方そのものになります。

それを体験するということが、人生の豊かさに気づくことではないかと私は思います。

聴福庵に来庵される方々は、その場の持つ徳に感動されます。それはその場が心を形にしたものだからです。そしてその場を共に磨くことでその心を学びます。心を学ぶことは、徳を学ぶことです。

なぜ人が徳を学ぶのか、それは忘れてしまった形を思い出すことです。現代は、鋳型に嵌め込まれるように型通りの生き方を押し付けられてきました。本来の自分の持ち味や徳というものは、自らの心が形になっていくものです。そしてそれは懐かしい道具や暮らしなども同様に形として残存してきました。

今ではガラリと変わってしまったその形を、徳の場に来て体験をすることで心の形に気づき直します。

これは一般的な学校や塾で勉強する暗記中心の学問とは異なるものです。つまり実践学問ともいい、自己の徳を学び直す学問ともいえます。古民家をはじめ古いものは単に劣化したものではありません。そこには心の形があり場があります。その場が甦る体験というのは、単に古いものが新しくなったのではありません。

これはむかしも今も「徳の場」になっているということです。

徳の場の体験が、本来の生き方や働き方や人生をよりよく豊かになる学びに結ばれます。人生の豊かさは、徳に気づき、徳を磨き、自らも徳になることです。

この時代の徳を学ぶ場として、世界一の徳の場を体験してみませんか。

面白いことの本質

昨日は無事に英彦山守静坊で夏至祭を行うことができました。天気予報では大雨でしたが、奇跡的に晴れ間が広がり徳積講の仲間たちのと夏至の日の光の浄化を楽しみ味わうことができました。

今朝の英彦山はずっと雨で昨日の太陽がまるで嘘のようです。以前、冬至祭の時もでしたが深く自然への畏敬が通じているのか運のよいことが続きます。

今回の神事もまたいつものように暮らしの中で行いました。みんなで共に祝詞をあげ、一緒に般若心経を唱え、一人ずつ私の発案の備長炭護摩焚きをし、火吹き煤竹で息を吹きかけ音と火の明かりでこの一年の半分のあらゆるものを省みて願い、祈り浄化しました。その後は、西から入る太陽を神鏡に写し、その反射した光を1人ずつ浴びて祈り新たないのちを喜びました。鏡が265年前のものですから、途絶えていた伝承をまた新たに繋ぎ直したことになります。

みんなの顔に光を当てると一人ひとりが神々しくなり、まさに「面白き」状態で喜びと福と仕合せに満ちました。

もともと面白いの語源は、「面白し」という古代の言葉から派生したものともいわれます。目の前が明るくなった状態や火に照らされた顔が白く浮かび上がったという説がありますが、まさに昨日のお祀りはその説そのものを実体験するような”面白い夏至祭”になりました。

毎日、浴びている光を改めてじっくりと味わい一期一会に感謝してみんなで喜び面白くなる。こんな豊かさが果たしてあるでしょうか。行事のための行事や、イベントのためのイベントではなく暮らしの一コマとしてみんなと分かち合う喜びと仕合せは格別なものです。

私はそれを暮らしフルネスと名付けて実践をし、この今、一期一会のその時々を味わい喜び、徳を積みいのちを循環させていきますがその都度、偉大な豊かさが溢れ出てきます。

そもそも現代においての「足るを知る」とはどういうことでしょうか。

それは当たり前のこと、つまりは当たり前と気にもとめない日頃の暮らしを見つめ直しそれをさらに深く味わい盡すということだと私は思います。先人たちがしてきたように、私たちも空氣や水や光や風や火などをはじめ当たり前にある存在に深く気づき初心を忘れずに和合する感性を磨いているということではないでしょうか。

昨夜は一晩中、その太陽からの光の火を焚きみんなで面白くなっていました。

この時代の面白くかる本質は、うれしい、たのしい、しあわせ、ありがたいという暮らしフルネスの喜びを実践していくことです。

子どもたちがいつまでも豊かに生きていけるようにこれから冬至へ向けて、これからまた太陽の光と共に面白く歩んでいきたいと思います。

贈与経済と徳積経済

贈与経済学というものがあります。これはアメリカの経済学者K・E・ボールディングが提唱した経済システム論のことをいいます。これはギフトエコノミーといわれ、一般的には与え合う経済のことをいい、貨幣でのやり取りや等価交換などの資本主義の経済ではなく見返りを求めずに他者にモノやサービスを与えることといわれます。

私は徳積経済というものに取り組んでいますが、その違いが何かということを聞かれることもあります。見返りを求めないという意味では同じですが物やサービスを与えるということは異なります。

現代の資本主義に対して、贈与経済というものでは結局は対比や対立構造が発生してしまいます。価値観というものは面白いもので、対立や対比は違う価値観ではなく実際には同じ価値観の土俵であることがほとんどです。一つの価値観から抜け出すには、別の価値観を打ち出すことですがそもそも理解というものは、同じ価値観の中で行われますから結局は同じ土俵に立っている時点で別の価値観になったわけではありません。

別の価値観になるというのは、理解できないものになっているということです。なので理解できないことはダメなのではなく、理解できないものこそ新しい価値観、新しい経済ということでしょう。

そういう意味で私の取り組んでいる徳積経済は実践はできていても理解はなかなか広がらないものです。現代では、まず理解できてから実践しようとする傾向があります。時間がもったいないと思うのか、情報化社会のなかでまずは分かってからとなっているのかもしれません。

しかし実際には、新しい価値観になるというのは新しい価値観を生きてみて実践した分だけそうなっていくということです。例えば、先ほどの見返りを求めないという実践があるとします。しかしそれはどのくらいの量なのか、貨幣であれば全財産であるのか、サービスであれば自分の生命を懸けたものなのか。その度合いでも異なります。頭で考えているようにはならないのが実践ということでしょう。

私が取り組んでいることもまた、実践が優先されますがそれを理解してもらおうとすると義務のようなものに変化します。義務では徳は動かず喜びによってはじめて循環するものです。

色々と遅遅なる速度でしかも理解し難いと言われますが、価値観の改革というものはほんの小さなところ、また陰ながらの微細な実践から誕生してきたのが歴史からもわかります。

丹誠を籠めて徳積で循環する真の豊かさを伝承していきたいと思います。

徳の周波数~暮らしフルネスの智慧

今、私は水鳥が飛来してくるような場所に住んでいて朝から様々な鳥の鳴き声が聞こえてきます。特にこの時期は、繁殖期でもありとても賑やかです。また耳を澄ますと小さな虫の羽音や植物の葉が風で擦れているような音も聴こえます。池の周りを歩いている人の話し声、車が通りすぎるエンジンやタイヤの音もたまに混ざります。

夜中にふと目が覚めるとそういう音は聞こえてきません。ただ、頭の中に響いているようなキーンという一定の響きだけが聞こえてきます。無音というものはそう考えてみるとありません。そして周波数もなくなることはありません。それはすべてのものは音を発しているということになります。

そして振動というものがあります。二つ以上の周波数が混ざり合って振動するというものです。音楽などはあらゆる音が振動して共鳴することで成り立ちます。鳥がお互いに鳴き合っていたらもはやそれは音楽ともいえます。

また地球上にあらゆる音が流れるとそれも音楽です。海の音、太陽が昇る音、風の音や地震、雷や雪などあらゆるものが自然の音を奏でています。周波数というのは、その存在そのものを顕現するように思います。

これはどんな周波数だろうかと私たちは音を聴きます。それは対話でも同じく、場を味わうときも同じです。そこに流れている周波数を通して、そのものの正体を察知することができるのです。

ある意味、すべての物質も周波数を常に奏でています。そして同時にそれが集まれば振動となります。どのような共鳴をするか、どのような調和をするかは、その周波数を感じる人によって調整、調律されるのです。

私は、手で調整や調律をします。それをお手入れともいいます。一つ一つのものを手で触り、それを磨き調えて適切に配置してそのものがそのものであるように、そして持ち味が活かせるように配置していきます。そのものがもっとも喜んでいるとき、喜びの周波数が出てきます。その喜びの周波数を自分が同時に喜んでいるとき、そこに徳の周波数が発生します。

徳の周波数を大切にすれば、人はその徳に目覚め徳の素晴らしさに感動するのです。引き続きこの知恵を子孫へと場を通して伝承していきたいと思います。

贈与経済2.0の学び

昨日は、ご縁あって贈与経済2.0の講演会に参加してきました。世の中にある当たり前を疑い、その当たり前を考えて問い直すという生き方をされている荒谷大輔さんとお会いしました。ご著書はまだ拝読していませんが、哲学を哲学で終わらせず現実の社会でどう役立てるのかということに取り組まれておられ共感することばかりでした。

この贈与経済2.0はシンプルに言うと、日本銀行券を哲学的に考え見る中で近代の問題に気付きそれを分析したところからはじまったとも仰っておられました。

資本主義経済というものが最初からあったかのように私たちは当たり前にその空気を吸っては疑いもしませんが、かつてはそれとは別の常識やルールもあったということです。資本主義以前の経済がどのようなものか、私たちは正しく歴史を省みて善いものは伝承し、変えるべきところは勇気をもって変えることで次世代への真の贈与が成り立つと私は思っています。

人間というものは、産まれてきて見た世界がはじめからずっとそうであったかのように認識するものです。それだけ環境に依存する動物であるともいえます。さらに教育を施されていき、社会や周囲の大多数の人たちの価値観が当たり前になっていきます。この当たり前というのは、言い換えれば自然というものです。しかしこの自然が本当に自然だとわかるかというのは、この世一生の学問の中心にあるものです。

なぜなら自然というのは、人間が形式知や分別知で理解するものとは異なるからです。むかしの日本人は自然と共生して自然を暮らしに丁寧に編み取り込んでいました。その証拠に日本語はとてもゆるい自然の言葉がたくさんあり、それを先人たちは言霊とも呼びました。現代ではその言霊などというと、怪しい宗教だといわれるのが当たり前にもなっています。日本人の智慧の結晶ともいえる伝統家屋も絶妙に自然との境界を結んでいました。

かつてどうだったかを知るというのは、学びの削除のような刷り込みや思い込みや常識からの脱却が必要です。私たち人間が生きた歴史を学ぶのは、人間の学び直しが必要だからです。知識は詰め込むことだけが学びではなく、むしろ忘れたり本来の原点を思い出したり、感覚を通して世の中を見つめ直したりと気づきを中心に据えた方が真実に近づけるようにも思います。

もしも人間の寿命が1000年くらいあれば、まだかつてを思い出すのでしょうか。私はたまたま幸運にも古民家や宿坊、その他の文化的で歴史的なもの、あるいは1200年以上続く伝統在来種の種を守る活動を通していつも1000年くらいの時間軸を内包する機会をいただいています。

その御蔭で子孫のために代々が自分の生涯を捧げてくださったことで徳が巡るのを実感することができました。また実践を重ねることで自分の代への執着が減り続けています。仕合せというのは、先人からいただいた徳に見守られ、次世代へその徳を推譲するときにもっとも満ち足りるものです。私は私だけど私は先祖そのものであり、そして同時に子孫そのものでもあるのです。

私のこれまでの徳積に学んだ知恵がお役に立てるのは本当に有難いことです。徳は孤ならず必ず隣あるものも生きた歴史です。これからも丹誠を籠めて徳積道を歩んでいきたいと思います。

新たな種~第二創業

創業という言葉があります。これは事業をゼロから創ることです。そして第二創業というものがあります。これは創業して成長し成熟し、そして衰退するときにまた新たな種を蒔き芽を出しまたゼロから成長していくときの節目のことです。

宇宙のなかで地球に住むとこの場所の摂理というものがあります。それは重力や引力があるのも、陰陽がありバランスをとるのも、また呼吸をして水を循環させいのちを保つのも「最初から決められて存在している」ものです。これを「自然の摂理」とも私たちは呼びます。

その自然の摂理の中に、種から芽が出て成長し花や実をつけて枯れてまた新たな種になるという循環があります。私たちが赤ちゃんで生まれてから成長し老化して死に至ることも摂理でありそれは最初から決められているものです。地球が丸いことも、水に包まれていることも、太陽との距離が一定であることも月が傍にあるのもこの場所が持つ摂理です。

摂理というものは、いちいち逆らっても仕方がないのでその中で私たちは最善の体験をして摂理を学びそれを活かし、いのちを繋いでいきます。植物も年々同じ四季を迎えて同じ成長をしているようですが変化し続けているものです。天候、気候も変わり時も経ち周囲の循環すべてが微妙に変化していますから同じであることは不可能です。その同じではないことに対して、どんなものでも小さな変化を続けていきます。それが成長の本質でもあります。

摂理にはサイクルがあり、また新たに生まれ変わるような状況を意図的に創り出します。それが死というものです。ある意味では、私たちの生死とは摂理の中で創り出した自然と共に永続して生きるための最善の智慧であり仕組みです。

そしてこの生まれ変わりというのは、実は日々に発生しているともいえます。毎日、夜寝て朝起きては細胞をつくり毀し新しい自分として甦生させます。これを繰り返していくなかで老いて死ぬまで細胞分裂を繰り返します。そのうち別のいのちと和合して新たないのちを産み出します。それが赤ちゃんです。子どもは瑞々しい産まれたての好奇心を発揮して新たな環境を創り出すのです。それが創業のサイクルです。

永続している老舗やまだ数十年ほどの会社であってもこの創業のサイクルは発生しています。そして自然の摂理に沿ってまた新たに生まれ変わるのです。自然に逆らえばそのまま終焉を迎えます。それだけ自然というのは、循環することや永続することを最も大切な摂理にしているのです。終わることは最初からないということです。終わるのは私たちが摂理に合わせて終わらせているのです。

そう考えてみたら有難いことに第二創業というのは、それまでのいのちが充実して結実し新たな種を創るところまで時間も経験も醸成したということの証です。何もなかったところから、志に導かれ目的を定め理念を磨き、仲間を集め、形として顕現するところまで生育して成長して終わるのです。いわば、次の種を創れるところまで成長してきたということです。

一つの種ができるためには、大切な時間といのちを使う「思いの醸成」が必要でした。種はちゃんとこの思いの醸成という自然の摂理を通らないとできませんから種が新たにできたというのは思いの結晶が誕生できたということです。

その結晶を軸に、新たないのちの芽を出していくのが第二創業です。不易と流行という言葉もありますが、変わらないものを持っているからこそすべてを変えていくことができるのです。つまり摂理が変わらないからこそ、我々が変わっていくことができるのです。世の無常というのは、歴史を鑑が観ても明らかです。人の生死のように摂理はいまでも揺るぎません。新たな門出に、感謝の気持ちがこみあげます。

ここ数年取り組んでいる修験道でも、山伏が峰入りするのは擬死再生や母胎回帰の通過儀礼を意味しますがある意味、第二創業にも似ています。生々流転していくことは仕合せなことであり何よりおめでたいことです。

昨日は、カグヤのクルーたちと共に百年自然酒を酌み交わして予祝をしました。いつも善いご縁、善い仲間、そして徳に包まれて有難い時を過ごしています。

この機会をいただけたこと、そして新たないのちが誕生していくこと、摂理と共に永続していく喜びに感謝しています。子どもたち、子孫たちに徳が譲り渡されていくことを信じて新たな種と共に社業を邁進していきたいと思います。

暮らし=生き方

昨日は、千葉県神崎市にあるカグヤのむかしの田んぼで視察研修を行いました。この田んぼは、取り組みだした13年前から一度も肥料も農薬も入れたことはありません。しかしある研究機関がお米を分析調査していただくと、非常に抗酸化力が高いと驚かれました。また味も美味しく、お米好きな人や本物好きな方にとても好評です。

何か特別な農法をしているのかとよく聞かれますが、実際にやっていることといえば、社員みんなでお田植祭や新嘗祭などをしご縁に感謝して楽しく取り組んでいるくらいなものです。

福岡県飯塚市でも伝統の在来種の高菜を自然農法で育てていますがここもまた同じく肥料や農薬を一切使っていません。しかし市販の高菜と比べたら、味も複雑で濃く、同時にピリリとした辛みと野性味があります。虫にもほとんど食べられることなく、見た目の元氣さも特別です。

ここも特別な栽培方法をしているわけではなく、家族で多少の草取りと作業しながら美味しいご飯を畑で食べたり、音楽を聴いたり歌ったりしながら楽しみ有難い時間を過ごしているくらいです。

現代は、すぐに収量を余計に気にします。それは儲からないからです。大量につくれば多く稼げます。しかしその大量を優先すれば、大量になるような農法をしなければなりません。そこから様々な欲望が芽生えていきます。一緒に育つ大切なパートナーを儲けのためだけに利用するようになるのです。

これは養鶏も養豚も養殖なども同じです。餌に何かを足し、抗生物質などの薬を投与し、大量に育てては安く販売していきます。世の中の経済の在り方が、そもそも安く大量にを推奨してきましたからみんなそのことには疑問にも思いません。いいものを安く買えるのは正義のようになっています。それが現代では、人間にも同様なことが発生して安くて大量な人材ばかりをつくろうとします。

そもそも私たちのご先祖様たちが取り組んできた理想の姿を見つめていると損か得かとか、利益があるかないかではなく、常に「生き方」というものを大切にしてきたことがわかります。

今でも見事な風土や貴重な在来種の種が大切に残っているのは、その種を守るために自分の生き方を磨いてこられた人たちがいたからです。特に何百年や千年を超える老舗を見学するとその磨かれてきた生き方が随所に垣間見ることができます。彼らは、単に儲けのために材料を利用するのではなく、今でも生き方を守り感謝して代々の願いや祈りを伝承して味わって暮らしているのです。

私が「暮らしフルネス」にこだわるのは、生き方にこだわるからです。暮らしをどう定義するのかは色々とあるでしょうが、私にとっての暮らしは生き方です。暮らしを換えるというのは、生き方を換えるということでそれは人生を換えるという選択です。

どのような人生を歩んでいくかは、その人が決めることができます。何を大切にするのかを判断するかは、まさに日々の生き方が決めていきます。時代が変わっても、生き方はそれを伝承していく人たちによって結ばれ繋がり永遠です。

いい土を遺してくださった存在や、いい種を繋いでくださった先人、そういう有難く温かい真心をいつまでも継いでいきたいと思うものです。現在、お米のことを深めてお米を甦生していますがお米には何かそういう先人たちのいのりを感じます。

子どもたちの未来のためにも、暮らしや生き方を見つめ直していきたいと思います。

社會の御蔭さま

息子が関西の大學に入学し、これから一人暮らしをはじめます。あっという間に大きくなって次第に自分の役割をみつけて社會に入っていきます。自分の若い頃を思い出してみると、ただ野心だけがあって早く大人になりたいと焦っていたようにも思います。

競争社会の中で、成功することや勝ち抜くことを考えては他人とは違うことをしようと挑戦していました。今思えば、自分は何者かを早く知りたかったからもしれません。偉人の本や、ビジネス書を読み漁っては世間でいう立派な人や有名な人を目指していたようにも思います。現実とのギャップに苦しみながらも、自分の可能性を信じては色々と試してあちこちと移動していたように思います。

自分というものを知るというのは、人生の大切な一大事です。

このブログもですが、毎日体験したことを振り返って掘り下げて自分と対話を続けていると自分が何が好きで何が嫌いで、どうしたくて何を感動したのかなどがわかってきます。他にも、いただいている恩徳やご縁、またありとあらゆるものへの感謝の気持ちなども湧いてきます。

もう気づけば、新しく生まれてくるものが周囲に増え、同時に亡くなっていくものも増えていきます。中年というのは、その両方を体験でき今の自分がどう感じているのかをより感じやすくなる時期なのかもしれません。

人はたくさん人たちに支えられて生きています。

当たり前の話ですが、水もガスも電気も、そして食材も生活の道具も、勉強も学校も病院もですがどれもが社會を支えながら一人ひとりを助けています。私たちは社會に支えられる御蔭で今のような快適な暮らしを実現できています。

息子の一人暮らしの準備を手伝いながら、一人暮らしといっても多くの人たちに支えられている一人暮らしであることを再実感しました。今ではお金優先で個人主義が強く、孤独や貧しい環境が増えているといいます。これは感謝が循環しにくくなっているだけで、本当はこの日本は水も飲めて島国で親切で環境に恵まれています。

支えられている方を観れば、すべて足りているし感謝を感じればその社會にご恩返しをしたいと思うようになるものです。我々の仕事の本懐は、社會への御蔭様に気づき、その社會へのご恩返しこそが本来の仕事ということなのでしょう。

引き続き、子どもたちが安心して暮らしていける豊かな社會を守る為にも社業を大切に取り組んでいきたいと思います。

真理と生きる

久しぶりに三重県伊賀市にいる私のメンターにお会いしました。コロナもあり、お便りが途絶えていたのもあり心配していましたがご夫婦共にお元氣で安心して嬉しい時間を過ごしました。

いつお会いしてもとても純粋な方で、遠い未来を見つめて深く考えて行動されておられます。世間一般には、気ちがいや変人などといわれていますが私にすればそうではなくあまりにも根源的な智慧に対して正確無比で本質的、そして自然的に真実を語る姿に現代の価値観に毒された人たちや刷り込まれた人たちには理解できないだけです。

よくお話をお聴きしていると、すべては自分の実体験からでしか語っておられず、そして自分の身に起きたことや感じたものを素直に掘り下げてそれを誰よりも素直に受け止めて歩んでおられます。色々な大変な人生を送っておられますが、大変強運でいつも何か偉大なものに助けられておられます。

奥様も大変素敵な方で、実践を味わい感謝も忘れていません。ご夫婦でバランスがよく、なかなか冒険的な人生を楽しんでおられます。人柄というものは、人徳と合わせてにじみ出てくるものです。

今の時代、世の中の価値観が本来のあるべきようと離れて道からズレていたとしても粛々とそれに抗いながらも人類のためにと愛をもって様々なことに取り組んでいく姿にはいつも共感を覚えます。

純粋な方が居る御蔭で、私も多少世の中と調整しながらやっていこうとする気持ちが産まれます。常に希望があるのは、その方が純粋性や夢を諦めていないということです。

今回の訪問でメンターは新たに物事を見極めるモノサシを定義されておられました。そこにはこうあります。

「真理と断定できる条件」

1.生死がない

2.損得がない

3.表裏がない

4.不変である

5.万物に公平公正平等である

6.永久永遠に継続する

これは、よくよく見つめ直すと自然の姿であること。これではないことは不自然であると言っているように私は思います。如何に今の人間や人類が自然の道から外れているのかを物語ります。

人は、人生の最期にこの世に産まれてきて何をしてきたかの総決算があります。それは徳に顕現されてきます。その時、自分はどのように生きたかということを自覚するのです。

私も一期一会、一日一生のこのいのちをどう生きるか、いただいてきたものを感謝で恩返しできるよう徳に報いる人生を歩んでいきたいと思います。

ご夫婦には、純粋さで同志を励ます存在でおられるよういつまでもお元氣で健やかでいてほしいと思います。いつもありがとうございます。

タイミング

私はいつもタイミングに見守られて不思議な体験をすることが多くあります。その体験は、その時に今しかないことが発生しそこから示唆を受けることしかないからです。何の意味のないようなことであっても、意味はあり、その意味が教えてくださったことに導かれて歩んでいると次第にタイミングが合ってくるのです。

これを私は一期一会ともいい、ご縁に活かされた人生とも呼んでいます。

久しぶりに鞍馬山に来ています。先週からずっと英彦山でしたが、よく考えると20代の後半からずっと鞍馬山と英彦山の往復をしてきました。何回、往来したかも覚えていないほどです。しかしどちらも天狗がいるお山で、教えがあるお山です。お山という存在を認識したのもこの二つのお山を往来するなかで体験したものです。

このお山というのは、単なる岩や土が盛られたところではないことは誰でもわかります。お山にもいのちがあり、ずっと場が生きている存在です。これは地球としてもいいし、太陽などの星といってもいいものです。生きているというのは、確かな意味を持って存在しているということでもあります。その意味は、自分との関係性や結ばれ方、つながり方で認識し直観するものです。

そしてそれを理解するのは先ほどタイミングというものがとても大切な要素になっていると私は思います。なぜこのタイミングでこの場にいるのか、そういうものを深めていくと自分に確かな意味があることに気づくからです。

私は鞍馬山の御蔭で、いのちというものの存在に深く気づくことができました。そしてそのいのちが輝くということの意味を学ぶことができました。現在世の中では多様性とか公平性とか色々といわれますが人間社会でいうそれと、自然界や宇宙などでいうそれは意味も異なります。

私が鞍馬山で学んだことは、もともと最初からこの世にあったものについてのいのちの存在です。私たちが人間として今、文字や言葉で認識するずっと以前からいのちというものは存在してきました。

そのいのちは、自分の周波数や波長、あるいは意識を変えることで認識することができるものです。それは人間様になっているような現在の環境ではなく、ひたすらに謙虚にいのちと向き合うことで観えてくる境地です。感覚を研ぎ澄まし、徳を顕現しては今というタイミングを生ききること。

そういう生き方の集積によって少しずつ、意識は変容していくように私は思います。そしてそれもまた場数によって変わります。運のいい生き方というのは、出会いやご縁を大切にする生き方でありそれはタイミングの妙を片時も忘れない生き方でもあります。

またこの場にこれたことに感謝しています。善い時期にこうやって導かれ呼んでいただけるのことに天意や神意を感じています。今日も一期一会のタイミングを生きていきたいと思います。