恩を労う

人生の中で、大切なことに挑戦するときいつも周囲の方々が大きな力を貸してくれます。大義があり、真剣に取り組むからこそみんなその努力に共感し手を貸してくださるのです。

そのうち大勢いの方々が参加してくれて応援してくれますが、いつも有難い気持ちに充たされます。今まで振り返ってみると、身近な人たちから特に苦労をかけています。苦労をかけて手伝ってくれていますが、気が付くとそれが当たり前のようになってしまうこともあります。

心では感謝を思っていても、いつも過ぎることで労をねぎらうことを忘れてしまうのです。しかし実際には、もっとも身近で苦労をかけているのですから感謝しているのです。

敢えて、労をねぎらうことはお互いの努力や苦労を分かち合う機会になるように思います。いわなくてもわかっていることを敢えて言うことや、しなくてもいいことを敢えてすることでその労に報います。

私は上手にそれを伝えていることはできているのだろうかと思うことがあります。時に、人によって苦労に対するねぎらいの質量も異なりますからその人がどれだけ頑張ったかを感じる機会は見守るときに感じるように思います。

まだまだ私は身体が動くので周囲と一緒に取り組んでいきますが自分を含め労をねぎらうことをさらに磨いていきたいと感じます。

今日も、英彦山の宿坊の甦生に取り組みまた今回もご縁のある方々と身近な仲間のお力をお借りします。こうやって一つひとつの苦労を分かち合いながら歩んでいけることに仕合せと徳積みを実感しています。

子どもたちの未来のためにも、恩を労い徳に報いる日々を創造していきたいと思います。

心の風景

時間というのは、変化のことです。どんなに変化がない物質であっても、必ず微細には変化しているものです。変化しているからこそ、変化を感じることで時間を捉えることができます。私たちは時間というものを人生の中の時間と認識しますが、本来の時間というものは変化そのもののことをいうように思います。

その変化は、現実に外界が移り変わっていくもの。また内面の世界が移り変わっていくものがあります。その両方が合わさって時となりますから、この時間というのはとても矛盾に満ちていて同時に不安定なものです。

私たちはその時々の組み合わせから一期一会を感じるものです。

この一期一会は、組み合わせともいえます。その組み合わせは変化の組み合わせから産まれる偶然の一瞬のことです。その一瞬は、外側の変化の一瞬に合わせて内面的な心の状態が組み合わせられ自分にしか見えない景色が現れます。

その景色に心は感動し、今この一瞬に目覚めるのです。

今朝も雨の晴れ間に一瞬、美しい虹が出て心の風景を映しました。

美しい景色をみても何も感じない人もいれば、その景色に涙する人もいます。私たちは景色を磨いていく生き物であり、人生とはどのような景色を産み出したかといっても過言ではありません。

心の景色を大切に過ごしていくことは、変化を味わい変化を愛おしむように生きていくことです。二度とない人生だからこそ、悔いのないように大切な初心のために生きていくこと。

人生の純度を高め磨いていくことは、この心の風景をより鮮明に美しくしていくことです。

一期一会を生きていきたいと思います。

経済と道徳の再一致

「ほら吹き」という言葉があります。これは現代では、大袈裟なことをいうことや嘘つきなどのことを言われます。実際にはこれを調べると、小さな貝でも驚くほどの大きな音がすることから言われたのではないかという説もあるそうですが実際の法螺貝を吹く修験者が嘘をつくということはありません。

先日、インドの学生がBAに視察に来られたときに法螺貝の話をするとインドでは毎朝法螺貝の音で目覚めますと言っていました。法螺貝が身近にあり、いつも法螺貝の音を聴いて暮らしているとのことでした。

もともと法華経の中でも法螺貝の話が出てきますし、釈迦が説法をするときに法螺貝でそれを知らせたともいわれます。釈迦の説法がほら吹きと思った人があったのかもしれません。しかし本来は、法螺貝を吹くのはそこに宇宙の真理がある、またこれから幸福の道を説くという意味もあったのではないかと私は思います。

幸福の道で釈迦は世に三長者ありといいました。つまりこの世に三通りの豊かな人物があるというのです。

一つめは、家の長者といいお金や財産に恵まれている人のこと。二つ目は、身の長者で健康に恵まれている人。そして三つめは心の長者で弥陀の救いにあい、絶対の幸福になった人といいます。その中でも釈迦は「家の長者より身の長者、身の長者より心の長者がよい」といいます。

心の長者とは、シンプルに言えば心が豊かな人ということです。もっとも裕福なのは、心の長者ということです。

例えば、どんなにお金持ちで健康であっても心が貧しくてはそれは豊かではありません。逆を言えば、貧乏でも不健康であっても心が豊かな人は足るを知りどんな境遇や環境下でも豊かさを見出すことができるということです。

現在、資本主義経済の中で確かに世界人類は物質的も恵まれ裕福になっていきました。もちろん貧しい国もありますが、私たちの日本は発展したといわれます。しかし気候変動や環境問題、格差社会などあらゆる別の問題が発生してきて次第に心の貧しさの問題が拡大してきているようにも感じます。

お金をもっと増やそうと躍起になり、身体を健康にしようとサプリを飲んでも心の貧しさは変わりません。どうやったら心が豊かになっていくのか、そこにこれからも人類の方向転換がはじまります。

心の事業をこれから甦生し、経済と道徳を再一致させていきたいと思います。

最善観の覚悟

昨日、「最善観」という言葉を改めて知りました。これは教育者、森信三先生が語った言葉です。この意味は、「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然である共に、またこの私にとっては、最善なはずだ」という根本原理に沿ったものです。

この最善観、私は「禍福一円観」という言葉をよく使いますがほとんど同じような意味に感じています。人は自分に色々なことが毎日発生してきますが、それを自分勝手に左右に分類してはこれはいい、これはよくないと決めていきます。

しかし、そのどれもは本当は現実には自分に最も相応しいことが発生しているのだと実感する人と、これは自分には相応しくないと分別している人がいるだけです。

本当はすべて必然であり、自分の身に発生したことはそれが現実ですからそれを素直に受け取っていくところによりよい人生が開けていくように思います。つまりいいかわるいかではなく、そこに大切な意味があるという生き方でもあります。自分にとって必ず通る道だから天命として絶対安心して歩んでいけということもあります。

これを西洋ではオプティミズムともいい、楽観性と表現します。積極思考ともいうかもしれません。また別の言い方では、「これでいいのだ」という言葉にも似ています。

最初から自分に与えられた自分だけの人生は、他と比べられるものもなく自分自身が体験しながら自分の道を自分の足のみで歩んでいくものです。その道は誰でもなく自分にしかない道、自分にのみ与えられた道だから善悪関係なく「すべて最善」なことだと覚悟して生きるということです。

時折、何で自分がとか、誰かがやるだろうとか、他の人の方がなどと思うこともあるものです。もしくはなぜ自分がや、どうしてこんなことにと悲嘆にくれること、もしくは自分にはもったいないや、自分にこんなにもという恩恵もあるかもしれません。しかしそのどれもをそのままあるがままに受け容れることで最善観を持つことがその人の人生を真に生きることになるように思います。

私はよく考えてみると、まだまだ世間の刷り込みが多く入り込み自分自身というものを正しく認識することができないでいるように思います。というよりも、日々の刷り込みの中で本当の自分、主人公としての自分を日々に顔を洗い目覚めていく鍛錬が不足しているようにも感じます。

自分にしかできないことをやるには、誰とも比べられない自分を生きる必要があります。森信三先生が日々の実践に生きたように、私自身も絶対必然、最善であると自分を鼓舞して素直に謙虚に生きていきたいと思います。

この世のすべての御縁を一期一会と共に歩んでいきます。

ありがとうございます。

場力

世界には同じようなことをやっている人がいるものです。昨日もアメリカから2名の方が、聴福庵に見学に来られましたが通じ合う話が多く楽しい時間を過ごすことができました。

不思議ですが、似た人たちや同じ目的を持っている人はいつも同じことを考え波動もまた似ているものです。しかし、同時に似ているからことお互いの異なりから発見することも多くあります。

つまり何が似ていて、何が似ていないのかが合わせ鏡のようにわかるということです。その似ているものの普遍性が何で、似ていないものからたくさんのことを発見し学ぶことができるのです。

私自身も昨日は、何か力になればとオープンにお伝えしましたが私の方が学ぶことが多かったように思います。

場づくりというのは、その場で何をするかということに由ります。

つまり何のためにその場をつくるか、そして何がその場で発生していくようにするのか。そこにはその場の思想というものがあるのです。その場の思想は、思想が先か、場が先かというとこれは表裏一体です。

なのでその場がどうなるかは、常に思想と場に磨きをかけて光らせ続けていく必要があるのです。場力があるとよく人に言われるのは、その主人の思想力があるということでもあり、同時にそれは場によく反映されているということです。

この場は、その思想全体の集中する舞台ですからその舞台には役者が集まるのです。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるようにここから変化を伝道していきたいと思います。

場と智慧

日本の神話で最初の合議によりアイデアを出して実行して世の中を明るくしたことに天岩戸伝説というものがあります。この伝説の中心人物が、私の運営するBA(場の道場)に御鎮座する神さま、八意思兼神(オモイカネ)です。この神さまは他にも、国譲り・天孫降臨など重大な局面で智慧を出してみんなで物事を解決していく「場」を創造していきました。

この天岩戸伝説は御存じの人の方が多いと思いますが、簡単に言うとアマテラスの弟のスサノオを悪さをしてショックを受けたアマテラスが岩戸の中に隠れて引きこもってしまった。そのことで太陽が消えたように世の中が暗くなり混乱が起きた。それを解決するためにすべての神様が一堂に集まり、場で話し合いをし智慧を出した。そのファシリテーション役がオモイカネが行い下記のようなアイデアにまとめました。

一つは、常世の長鳴鳥(ニワトリ)を集め、鳴き声で夜明けを知らせること。二つ目は天安河の岩と、金山の鉄で鍛冶屋の天津麻羅に鍛えさせること。その鍛えたもので伊斯許理度売命が「八咫鏡」をつくること。三つ目は玉祖命が「八尺瓊勾玉」を繋いだ珠を作ること。四つ目が天児屋命と布刀玉命が雄鹿の肩の骨を抜きとって朱桜の枝で焼くという占いをして事をはじめることなどです。

実は三種の神器の勾玉と鏡はここの智慧で出てくるものです。

それを使って神様たちが作戦を実行しアマテラスを岩戸から出てきてもらいます。有名なのは実際にはアメノウズメノミコトが岩戸の前で必死に踊っていたら裸踊りになってしまいそれをみた神さまたちが笑い転げているとその様子にアマテラスが気になって岩戸から出てきたという具合です。それで鏡をつかいアマテラスの純粋な美しさに気づかせ真榊と勾玉で出てきたところを岩戸を開けて戻らないようにみんなで頼んだという話です。オープンに協力して持ち味を活かし、神さまたちの笑いが「和来」(わらい)となって、みんなが心和むことでまた調和が訪れて世の中がまた明るくなったというシーンでしょう。それから禍が転じて福が続いているという日本人の親祖たちの智慧で今があります。

本来、場と智慧があって禍福が一円になっていくものです。

私の取り組んでいる場が、現在の世界の課題や問題を解決していけるように真心を込めて磨き上げていきたいと思います。

 

真の教育者

宇宙の星々の中に優劣というものはありません。その光にもまた光り方があり、それぞれに特有の徳を備えた光があるものです。私たちが夜空をみるとき、夜空に特別に明るい星があったとしてもその星が一番ではありません。つまり星々に一番はないのです。

これは地球上の植物でも同様です。当たり前のことですが、いのちはそれぞれに花が咲きます。その花はどれもが徳性がありどれもが独自の魅力で輝いています。それを一つのかたちで決めて、それに他を合わせようとすることは本来の姿ではないのです。

私たち人類は人口が80億人を超えています。同じ顔が一つもないように、同じ指紋がないように私たちはそれぞれに別々のものをもっています。これを時代を遡れば、さらに大勢いの人々がそれぞれの徳性を輝かせていたことがわかります。

それぞれのいのちにはそれぞれの役割があります。その役割を一つしかないと思うところに問題があり、差別が発生します。生まれてきた以上、必ずなんらかの役割をもっていて役割がないものは一つとしても存在しないのです。

他と比べては、他と役割を奪い合うような環境になっていますが本来はもっと自分の徳性に集中し自らを光らせていくことに注力していく方がいいのです。

教育というものは、本来は可能性を引き出す行為であることは普遍的なことです。それぞれの徳性をもっと引き出させる。そうやってそのものの徳性が一番になってしまえば役割はその中に存在します。

みんなその徳性で誰かに喜んでもらいたい、みんなが仕合せになってほしいと光るのです。その理由は、自らの光そのものが喜びになり、その喜びがあふれ出てみんなの喜びになるからです。

この世の中というのは、そうやってみんなで仕合せを享受し合える天国もあります。それぞれが自分自身を知り、自分自身で生きられるように可能性をつぶさずに可能性を信じてあげる存在こそ真の教育者でしょう。

子どもたちの未来のためにも、自分自身が固定概念を毀し、新しい価値を創造していけるように精進していきたいと思います。

デジタル証明書の未来

役所にいくと今でもたくさんの証明書の発行が必要になります。本人の確認できるものとして使うものとしては現在は、免許証や保険証、パスポートなどもあります。マイナンバーもはじまり少しずつIT化していますがまだまだ進んでいません。

時代の流れでもうすぐ紙の証明書がなくなっていくことは予想されますが、なかなか今までのものが変わるというのは難しいことです。誰もが電気が止まったらどうするのかや本当に本物かどうかを専門家が確認したのかなど、偽物であっては困るものはこれでもかというくらい確認するものです。

よく考えてみたら印鑑なども5000年も前のメソポタミアではじまっていてそこでも証明をするものを用意していたことになります。

人類にとってこの「証明」というものがこれだけ時代を経てもなくならないのはそれだけ証明は人類にとっては重要なことであるということです。

現在はデジタル証明書というものが出ています。このデジタル証明書はインターネット上で行われる取引に関する事実や価値の真偽を証明するために発行された電子ファイル全般のことです。

紙での契約書を電子契約書にし、署名も電子署名になり、それが本人のものであることを証明するためのものです。

このデジタル証明書は、紙での証明書と同じく第三者機関によって発行さることがほとんどです。これをは「認証局」と呼びます。その認証局がデジタル証明書が本物かを認証します。インターネットでいうSSLなどの仕組みも同じです。

このウェブサイトは、本物かどうか、この商品の売買は間違いないかとうかなど認証局を通していれば安心という具合です。それだけデジタルの世界ではコピーが容易く、なりすましや偽装などができるということでもあります。しかし認証局を通さない複雑なやり取りなどがある場合は新しい解決方法を用意しなければなりません。

そこでブロックチェーン技術の登場でこのデジタル証明書が誕生しています。

ブロックチェーンは書き込んだ情報を変更できないことやブロックチェーン上に分散管理することもできること、さらにそれがいつまでもコストをかけずに保存できることができよりデジタル証明書としての機能が発展しています。

これからのデジタル証明書の可能性は、人類が今まで続いてきた偽装や改ざんなどの歴史の中で如何に信頼性を高めた社会にしていくかという課題と紐づいているように思います。それは権力というものがあるからでもあります。

本来、私たち日本人は信用第一にする民族ですが世の中が変われば対策を立てて取り組んできました。それは印鑑、サイン、方言、合図、家系などあらゆるものに出ています。

近未来の社会実験の実証実験を子どもたちの未来のために挑戦してみたいと思います。

感謝を磨く

人間は一生のうちで多くの出会いと別れがあります。そのどれもが一人ひとりの道であり、それぞれの人生です。思い返すと、多くの人たちの真心や親切によって私たちは暮らしを豊かに彩ることができます。

自分一人が生きるのに、どれだけ多くの人たちが関わっているのかと思うと私たちの生活のすべては親切で成り立っているといっても過言ではありません。

あの時、あのタイミングでお世話になったとか、あの時、あの場所で出会ったおかげで助かったとか、まさに人の親切は重なりあいます。

だからこそ出会った時の喜び、別れの悲しみがありますが同時に感謝が結び合っていることに気づくのです。あの出会いも、別れも感謝であったと思う人生は親切を感じやすいように思います。

親切を感じる人は、感謝を感じる人でもあります。

そういう人にとっての出会いもまた別れもも感謝が結びます。感謝を磨いていくというのは、その一期一会の出会いに際にして感謝を忘れないようにしていくことです。

人は頑張り過ぎたり無理をし過ぎると感謝を感じる力が鈍っていくものです。それは自分というものを出し過ぎているからです。本当の自分というものは伴侶であり、とても親切で陰ひなたから自分自身の存在に常に寄り添って見守ってくれているものです。

自他に素直に親切にすることができる人は、他人にも親切にできる人でもあります。そうやって自他との関係が親切にできる人は、感謝を持ち続けていきます。感謝は自他を結ぶ仕合せの絆です。

誰もがいつか人は必ず死ぬ時がきて、それまでに多くの出会い別れを繰り返します。その引き際や別れ際にその人の生き方が出てくるものです。引き際を感謝でというのは人生においてはとても大切だと感じます。

感謝を磨いていくと今まで自分自身そのものの存在が与えてくださった偉大な恩恵にも自然に有難いと感じることができ喜びと仕合せを感じます。私にも2年前から共に感謝を磨こうと、一緒に取り組んでいる同朋がいますが私は本当にまだまだです。

最後に、ローマの哲学者キケロの格言です。

「感謝は最大の徳であるだけでなく、全ての徳の源である。」

徳の源泉、それは感謝。

子どもたちのためにも徳を目指して、精進していきたいと思います。

 

徳の醸成

昨日は、各地から大勢いの方々が手伝いにきてくれて無事に宿坊の掃除や片づけを終えることができました。雨の予想でしたが、作業している間は不思議に雨もなくみんなで気持ちを一つにして片づけることができました。

振り返ってみると、皆さん清々しい人ばかりで一期一会に貴重なご縁をいただいているのを感じます。煤汚れや重労働、大変な作業の中、笑顔で助け合い協力して一心一体になって身体も心も合わせていきます。

誰が指示するわけでもなく、最初に方向性だけ伝えるとあとはそれぞれの役割が自然に分かって自分のいる場所に配置されていきます。

これは懐かしいむかしの人たちの協力の仕方の甦生でもあります。

以前、宮大工の西岡棟梁の話に飛鳥時代の人々はみんな主体として協力し合って建物を建てていたと言っていました。それは建物を観ればすぐにわかるとのことでした。まさに、全員棟梁という言葉を使っていました。

今の時代は、棟梁は一人であとは職人という構図ですが本来は誰もが棟梁の気持ちで家に取り組んだということでしょう。これは神社でもみんなが宮司という気持ちで場を整えていたのと同じだと私は思います。これは国民一人ひとりが国の主という気持ちで働くこととも同じです。実はみんが主体として働けることこそが仕合せなのです。

昨日の片づけではみんなが宿坊の主と思うくらいに丁寧に、隅々まで真心を込めて取り組んでくれました。御蔭様で終わってからの余韻もまた清々しく、「場」が美しく整ったのを実感しました。

そして作業が終わるころには、信頼関係がより深まります。一緒に汗をかいて取り組むことで、人の心は通じ合い、豊かな心を醸成します。こうやって徳を積むことをみんなで体験できることこそが仕合せであり、未来そのものを引き寄せていきます。

真の豊かさとは何か、それを体験するには徳を磨くための「場」が必要です。

これからもこの英彦山を活かして場を用意し、この山に来た人たちが一人でも多く豊かさを味わえるように徳を醸成していきたいと思います。