草莽の朋と歩む

本日は、英彦山の宿坊「守静坊」の片づけや掃除を有志の方々と共に行う予定です。この宿坊は、山伏研究の第一人者でもある故長野覚先生のご実家の宿坊です。生前の御縁でお会いしたのはたったの3回ほど。そして期間もわずか3か月ほどのものです。

しかし、気魄と眼光の鋭さ、そして智慧や見識の高さ、どれをとっても偉大な方でした。最期にお電話した時の言葉が今でも耳に遺っています。私を全面的に信頼し、宿坊を託され、後のことを任されたあとにお亡くなりになりました。

きっと来春の枝垂れ桜の咲くころに宿坊が見事に甦生し、エバレットブラウンさんと共に温故知新した山伏の姿、またこれからの英彦山の明るい未来への兆しなど一緒に宿坊から見たかったはずです。誰よりも山伏たちの未来を案じ、誰よりも英彦山を深く愛した人ではなかったかと私は感じていました。

この遺志は、未熟ながら私が責任をもって果たしていきたいと思います。

振り返ってみると私の人生は、いつもこうやって遺志を継ぐことばかりに導かれてきました。道を歩んでいく中で、後を託されます。どう考えても、私の方が先に死んでもおかしくないくらい毎日すべてを絞りつくして生きていますがなぜか先に朋ばかりが逝きます。託されたあとは、任されたことに報いるように、またみんなが喜ぶように真摯に徳を磨きます。

この遺志を継ぐというのは故人が果たせなかった目的や願いを引き受けること」をいいます。

一代で果たせる夢というのは一体どれだけあるものでしょうか。ほとんどの夢は、何代もかけて果たしていくものばかりです。その夢を託す人は、決して身内だけということではありません。

志を共にする同志たち、草莽の朋たちが一緒に道を歩んでいます。

お金があるからとか、地位や名誉、そして権力をもっている人はアテにはなりません。保身ゆえに行動することができません。もちろんそれぞれに役割がありますがやはり古今、歴史を鑑みても事を為し遂げる人物は草莽の志士たちです。

日の目を見ず、誰にも相手にもされず、それでも只管に一途に志のために邁進する。それはその先に偉大な夢が待っているからです。道は無窮です。だからこそ後を継ぐ者、繋ぐ者、やり遂げるまで諦めない者が現れるのです。

故長野覚先生の分まで、情熱を燃やし、天国までその光が届くようにこの宿坊を世界一の場所に磨き上げてみたいと思います。

改善する

よく反省している人は改善もよくする人です。その理由は、自分の成長のために何が変えることができるかと自分を見つめることができるからです。相手や周囲を変えようとしても、外圧的に変わることはありません。自分が変われば周囲も変わって観えますからそのためには自分の価値観や考え方、在り方を改善することで周囲を変えていくという仕組みがもっとも近道です。

しかしそれができないのは何かに固執するからです。自分をこうしたいと思っているのが自分であるから余計に反省することがありません。自分に素直に反省するには、現実を直視する自信が必要にもなります。

その自信は、足るを知るところからはじまるように思います。

自分が如何に恵まれた存在であるか、如何にいい人たちとご縁をいただき機会を与えられているかと、文句ばかりを言わずに足るを知ることからはじめることのように思います。

もっと言えば、感謝の気持ちが強い人ほど反省もまた深いように思います。逆を言えば、感謝の気持ちが薄い人はあまり反省することもないという具合です。

反省とは謙虚さが必要で、固執しないということ。今の自分に感謝する自信があることで素直さもまた引き出されていきます。

不平不満ばかりを持つと、さらに我執は強くなっていきます。

相手か自分かではなく、自分の現実を直視して自らを省みることを繰り返していくことで何が最善であったかと変化し続ける生き方が改善するということでしょう。不平不満の反対のところに改善があるということです。

日々は一期一会で、その時は二度と戻っては来ません。不平不満よりも足るを知り、今、できる最善を尽くしていきたいと思います。

新旧の調和~原点回帰~

宗像国際環境会議の御蔭で私はとてもユニークな方々とのご縁をいただいています。それはお会いする方々も同様にそれを話しますから如何に豊かな広がりになっているかが毎回わかります。

人を結び合うということはまさに場であり道です。

そしてその場にどのような想いを醸成していくか、まさに祈りの場が甦生し続けていきます。この祈りの場が人を呼び、そしてそこに巡礼の道ができてきます。人が歩いていくところ、人が立ち止まるところ、古くからその道理は変わっていません。

最初の祈りはいつからだったのだろうかと思うと、自分のいのちを結んでくれたものへの感謝からはじまったように思います。自然に道を歩み、いのちを繋いでいく。特に私たちは水がなければ生きていくことができませんから、山に入り水が飲めるとき、空から雨が降るとき、地下から水が湧くときそこに感謝したように思います。

水場には人が集まり、そこで様々なものを交換しあってさらにいのちを生き伸びさせてきました。そこで出会った人たちが結ばれ、家族になり、あるいは一生の友人になり、またあるいは村を形成したかもしれません。

今では水はコンビニでも自販機でもどこでも買えますし、水道をひねればすぐに出てきます。そのことで、水に対する自覚が失われていって感謝もまた失われています。

こうやって本来、非常に価値があったものもあまりにも人間にとって便利になりすぎることで価値が失われていきます。しかし感謝という本体は実際には何も変わってはいません。水がまたなくなれば、誰もがその水を有難く思い感謝するからです。

存在というものは、時代の価値観と共に変化していきます。

シンプルに言えば、存在価値があるかないかが必要不必要によって選別されていきます。気候変動であれば、今は危機で重要ですが少し前まではあまり重要なことではありませんでした。

つまり目先の変化で一喜一憂しながら価値もまた変化し続けていくのです。しかし本当に大切なこと、真に重要なことは普遍的で何も変わってはいません。それに”気づいて”いるか、それに”目覚めて”いるかが実は人間にとって重要だと私は思うのです。

真理というものは、常に身近にあり人間を守ってくれています。その真理に気づいているか、そこが原点であり、道理です。

価値観が多様化多重化することばかりに対応して日々に目まぐるしくスピードアップばかりをやっていますが、子どもたちの未来のためにも原点や道理から大きく外れていかないように新旧の調和、その原点回帰に取り組んでいきたいと思います。

ご縁に感謝しています。

当たり前の真実を直視する

無事に今年の宗像国際会議が終了しました。天候にも恵まれ、上手にコロナ対策をし、人との結びつきや繋がりも生まれ見事な3日間に感動しました。実行委員会の方々をはじめ、いつもおもてなししてくださっている関係者、配慮ある裏方の皆様、そして神社の皆様には心から感謝いたします。

昨日は、安宅和人さんと黒田玲子さんとのセッションでしたがとても学びが多く有難いご縁になりました。現実をあらゆる方法で伝えてくださり、そこではじめて今、世界で起きていることを知る人もいたかもしれません。

環境問題は、地球に住む私たちにとっては本当に重大な問題です。この環境がある御蔭で私たちは営みをつくることができますが、環境がなくなれば元も子もありません。

「当たり前」の真実を直視するということは、私たちが第一歩を踏み出すためにはとても重要だと私は思います。

人間は、今の環境を変えたくないとき当たり前(現実)を直視することをやめてしまいます。特に今の状況があることが当然だと思い込んでいるのであれば尚更に、自分は変えずに何とか周りを変えることができないかと方法を求めようとします。

しかし現実を変えるというものは、まず本当のことを知ること、現実を受け止めること、そして自分が何を変えればいいかと受け容れることができてはじめて実現するものです。

例えば、環境問題は環境のせいではなく自分自身の問題、自分のせいであること。これは現在の環境問題は人間がやっている問題なのだから、そうなります。なので、根源治療は人間を変えることしかありません。対処療法は永遠に増大していきますが、対処できなくなるまで続きます。それでは環境問題を解決するためにかえって環境に負担をかけて消耗していく本末転倒にもなりかねません。

人間の数も増えて、どうにもできないから対処療法になるのですが遠い未来から今を逆算してみて、まず自分自身からお手入れしていくしかありません。歴史を変えてきたのも、人類の方向を変えてきたのも最初はみんな「一人」からはじまっているからです。

そして自分が変われば、世界も変わるということを歴史は証明しています。

人間はみんな「欲」という病が備わっていますから、うまくその病と付き合うためにもなるべく未病になるようにし、一病息災の健康を保つように養生していくのがいいと思うのです。

それは心の豊かさ、徳を積むことで実現すると私は思います。

一人一人の心が豊かであれば、そしてみんなが徳を循環するような譲られたものをそのまま磨いて子孫に渡すようにすれば人間の心も、そして環境も、足るを知るように永遠の循環をめぐります。自然界に見習えばそうなります。

気を付けるのは対立概念や物質的なものの見方にもっていかれないことかもしれません。あっちかこっちかではなく、あるがままの当たり前(現実)を観ること。みんなで当たり前が何かをもう少し議論できるようになれば、当たり前のところから変えていけると変化もまたスムーズです。

もっと自分の手や足や感覚で、世界で起きていること、自然に発生していることを実感することからだと私は思います。都市の中でなんでも自由に人間の思い通りになる便利な場所を離れて、山に来てほしいと思います。山に来れば、色々な当たり前に気づきます。

今日からいよいよ日本三大修験場の一つ、英彦山で最古の宿坊「守静坊」の甦生に入ります。宿坊と一緒に在る200年以上の枝垂れ桜のご神木も今か今かとお待ちいただいています。

徳を積むことを、実践を通して伝え、みんなで世の中の当たり前を変えていけるようにまずは私自身、自分自身を変え続けていきたいと思います。

ありがとうございました。

 

 

場を守る意味と価値

その土地にはその土地特有の歴史があります。それは言い換えれば、その土地で発生してきたご縁と物語があるということです。私たちは、今いるところが前なんだったのかは想像でしかわかりません。もしも遺跡などが遺っていたら、なんとか想像できますが痕跡もないような状態の場所になれば想像することもありません。

例えば、ある場所では祭壇があってずっと祈りの場であったところがあったり、また或いは戦争でたくさんの人がそこで亡くなっていたり、それは何百年も経てば更地になっていたり土に埋もっていたりしますから今、そこにいても目には見えませんからわからないのです。

しかし、その土地には必ず何らかのご縁や物語があり消えているようで消えずにそのままその土地に紐づいて記憶として遺っているように私は思うのです。

それをふとした時に実感することがあります。

それは懐かしいと感じる場所であったり、なぜか身震いするような嫌な気配があったり、そこに来ると祈りや癒しの空気に包まれ眠くなってきたり、それはその土地、その場所特有の何かが働きかけているからだと私は思います。

まもなく量子力学など、他にも場を科学的に分析して可視化できる技術も整ってくれば、これらの土地や場所には何かが存在したままにあることが解明されるように思います。

むかしの人たちは、そこに存在しているご縁や物語を感受し感知することができたからこそそこにお社を建て、お祀りすることをしてきました。また権現といって、神様が顕現されているということを人々に可視化できるようにしていました。

私たちは知らず知らずのうちに、その場所の歴史と紐づき、その影響を受けているのです。だからこそ、私たちは「場」を整え、大切に甦生し続けていく使命があります。

私は甦生に取り組みますが、場所との出会いは歴史との出会いでもあります。どう古代、いやもっと前、何千年、何億年も前から続いてきた偉大な何かとアクセスし、その力やご縁を結んでいく。すると、そこに引き寄せられるように人々もまたふれあい、物語をつないでいくのです。

宗教的だとか哲学的だとか、もしくは変人だといわれるような架空仮想な話のようではありますが、確かにその場所には私たちが目には見えない物語が連綿と生き続けているということです。

子どもたちにも、場を守ることの意味とその価値を伝承していきたいと思います。

真に尊重し合う世の中へ

昨日、結果平等や結果公平の話が会議の中でありました。もともとこの平等や公平性などは誰かによって押し付けるものではあってはいけません。なぜならこの平等や公平性は、あくまで「受け手」がそれを感じるかどうかが重要だからです。

例えば、食料で平等といって同じものを与えることや、公平といって分配するということをやったにします。しかし個々人には好き嫌いもあるし、それに体の大きさ、病気の有無、アレルギーなどもあります。与え手がいくら同じものを同じ量与えたとしても受け手がそれを必要としない、もしくは何らかの理由で欲していない場合はその平等や公平は成立していないからです。

お互いの尊重し合う社会というのは、相手の意見をよく聴いて尊重してお互いに配慮し合う中で実現していきます。それはどんなに小さな意見でも一理あると傾聴し、またどんなに弱い立場の人の話でもそれも一理あると大切にしていくところに存在していくのです。

先ほどの平等や公平性を考えて一方的に押し付けるというのは、まさにやっていることの本質としては不平等や不公平を一方的に押し付けたということになっています。多様な意見や状況を尊重しようとしていないところにすでに不平等も不公平もあるのです。人間は正論だけでは解決できないことはあるのは当然です。なぜならこの世の中に正しいということはないからです。同時に間違っているということもありません。それが自然界であり、宇宙の道理です。

だから私たちはどんなことにも配慮し、尊重し合うことで調和しこの世で持続可能ないのちの循環をみんなで分け合い助け合いながら暮らしていけるようになったのです。それを人間の一方的な押し付けで、正論を掲げ、人類の中でしか通じないルールを押し付け、一方的に不平等や不公平を広げていくのは単に誰かだけによって独裁する世の中に仕上げていくだけのように私は思います。

独裁の中では本当の意味で自立や協力し合うような自立分散の平等や公平の世の中になることはありません。私たちは、平和を持続させていくためにも各々が尊重し合う世の中を目指していく必要があります。

私がブロックチェーンのテクノロジーにこだわりそれを昇華させて徳を積むというような実証実験に取り組むのもその原点はこのいのちのありのままの姿を可視化して気づきを与えるキッカケを創ろうとする実験でもあるのです。

子どもたちには、見守る保育のようにお互いに尊重し合いながら助け合う環境の中で本来の人間社会の在り方、自然との共生や貢献を学び合ってほしいと願います。引き続き、自分のやるべき使命に没頭していきたいと思います。

耕さないことと耕すこと

自然農を実践していますが耕すという意味がまた少しずつ変化していくのがわかります。もともと自然農では耕さない、虫も草も敵にしないという一つの概念がありますが実際には土の表面を削り草を取りますし、野菜の種類によっては耕すことがあります。そして虫も大量発生すれば、手で取り除いていきます。

つまりこれは形式的な概念ではなく、その背景があるということを意味します。例えば、虫や草を敵にすると農薬で全滅させようとします。自然界には当然、分解者がいたり、共生者がいたりして全体を循環させていますから何かだけを取り除くとすぐに別の問題が出てきます。つまり、「敵」にするのか、「和」にするのかではその取り組み方が異なってくるということです。

自然農では、敵ではなくどう調和していくのかを重要視します。言い換えれば、他の生き物たちへの配慮や思いやりを忘れないということです。つまり敵ではないというのは「優しくある」という姿勢です。自然に対して相手を敵にするのは視野が狭く、相手も生きていくために理由があり生きています。自然界では取り過ぎないのはそういう道理を知り分を弁えているからでもあります。人間界はそれを無視してでも取りすぎますから道理から外れてしまいます。すると自然農では具合が悪いことが次々と発生し健康な畑や農作物が育たなくなるのです。

もう一つ耕さないというのは、農業で耕すのは土を拡販して肥料を足して収量をあげていくためです。一つの土地で収穫できるようを増やそうとすればそこに肥料を足す必要があります。そしてその肥料を土の中に攪拌すれば栄養過多になり作物が大きくなり実をたくさんつけます。栄養過多ですから病気にたくさんかかりますし、その栄養を分解するために虫たちがたくさん発生します。それを防ぐために抗生物質や農薬を散布して対応するのです。また耕すと土中環境が乱れます。具体的には、土の中や野菜の周囲で育っている菌類や虫たちの住まいを崩してしまいます。土の中に住んでいる生き物たちの生態系が豊富で循環がめぐっていたらその代謝物そのものが肥料になります。つまり生き物たちの生きている日々のプロセスが他の生き物たちを活かす肥料になっていくのです。

耕さない方がいいというのは、土の中の生態系まで配慮していこうとする生き方の表現でもあります。環境問題が色々といわれますが、作る段階から環境に配慮していこうとするのが耕さないということもあると私は思います。

ではむかしの人たちは耕すことで畑が醸成され豊かになるといったのは何かということです。これは畑を攪拌すればいいという意味ではなく、その畑でたくさんの野菜を育てて活かし続けるという意味だったと感じます。つまり「耕す=活かす」ということです。

二宮尊徳にも心田開発がありますが、これは心を耕すという言い方もしますがこれは真心を活かし続けるという意味でもあると思います。つまり活かし続ける、使い続けることこそが耕しているのだということ。

自然農の耕さないというのは、言い換えればむかしの人たちは耕すということ。時代が変われば、その言葉の表現も変わっていきますからむかしの言葉を言葉通りだけで認識するのではなくその言葉の本質や本意が何か、それを理解していることが重要なのです。教科書に書いている通りを額面通りに理解するのは、本質を理解したのとは異なるのです。

子どもたちには、本質や本物の体験を幼児期からしてもらう機会や場があることを望みます。実践を磨いていきたいと思います。

生き方の選択

環境問題というのは人間の問題であることは以前このブログでも書いています。そもそも温暖化の原因は人間の影響を受けてのことであり、理由はわかっていても変えることができないでいることでより問題は深刻化してきました。

よく考えてみると、私の幼い時から環境問題のことは言われ続けてきました。レーチェル・カーソンの沈黙の春で農薬や化学物質のことが記され日本でもこれらの問題に気づいて行動していく人も増えていきました。

実際には、ゴミ問題と同じで明らかにゴミの増える量がゴミを出さない量を凌駕しているため問題が深刻化します。ゴミになるものを作るところから解決しないといけないのですが、大量生産大量消費という前提を変えるわけではありませんから問題の原因そのものの根本を解決していないのにいつまでも対処療法ばかりしていてもキリがありません。

そしてこの原因そのものを突き詰めていくと、人間そのものの問題であることにたどり着くのです。それをロボットなどで解決しようとしても、そのロボットをつくっているのも人間であり、人間が関わるから原因はやはりなくなりません。なのでこれは持病がある人間のように病気とうまく付き合っていくしかないように思うのです。

人間は病気を持っています。病気があるからこそ、気を付けることで健康を維持していくこともできるものです。若い時は何をやっても元氣で病気など気になりませんが、歳を経ていくとあらゆる病気にかかっていきます。免疫も下がっていきますから、健康的な食生活、運動、睡眠、心の状態、感情を整えていくような暮らしが必要になっていきます。

私たちの先祖たちは、人間の持っている病気、言い換えれば欲などにも向き合って調整してきました。何でも思い通りにはならない自然の中で謙虚さを学び、生死を尊び、素直さを学び、教えといった智慧をみんなで分かち合って助け合い暮らしてきました。

日本の伝統工芸や伝統文化の中でもその智慧の仕組みが入っているものを感じます。今の時代はスピードが急速にあがり、10年後の未来には何が起きているのかということがあまり予測できません。子どもたちの時代ではさらにスピードは加速していくはずです。

だからこそ、子どもたちのために何を選択するかは私たちの世代の責任でもあります。日々の暮らしの小さな決断が未来を易えていくことを知り、その生き方の選択をしていきたいと思います。

文化の正体

日本の現在の文化は、他国から流入してきた文化を日本で作り替えてきたものです。例えば七夕、節分、お月見にからバレンタイン、クリスマスなどもあらゆる年中行事がむかしからあるものと最近できたものも混在しているほどです。

お月見でいえば、最初のルーツはどこだったのかわかっていません。わかっているところでは縄文時代に里芋など秋の収穫として神様に感謝を籠めてお祀りしたところからではないかといわれますがその後は中国からの文化が入ってきて月餅が月見団子になり、十三夜といって2回お月見をするようになりと変化していきます。

日本人はそう考えてみると、他国の文化を融和して取り入れるということができる文化を持っているということです。それは八百万の神々の思想にあるように、私たちはすべてのいのちや文化を尊重し合うという前提の意識があるからにほかなりません。

聖徳太子の時に、和をもって貴しとすると定めてからずっと私たちの先祖たちは尊重し合うにはどうすればいいかを突き詰めてきました。本質さえ一致するのならば寛容さや許しによって認め合っていこうとしたのです。

海外にいくと、それぞれが自己主張して批判し、戦いますが日本人はディベートなどもあまり得意ではないように思います。その分、助け合いや協力などは得意な民族です。

文化というのは、その国の人たちの生き様であり生き方ですから日本という文化をよく観察するとき私たちは仲良くしていくにはどうすればいいかと突き詰めてきた文化を持っているということになります。

現在、世界は身近になり国同士の関わりもとても密接になってきています。権力闘争も、今までのアメリカ一強の状態が崩れ、中国の台頭と共にそれぞれの国々が新しい時代の経済、軍事、政治に入れ替わり新旧が入れ替わってもきています。

そんな中、気候変動をはじめ地球規模の災害が増えてきてますます人類はどのように同じ地球で暮らしを営んでいくのかを考える時機が近づいてきています。そんなに先の未来ではなく、間もなくそれも訪れます。

だからこそ私たちはどのような文化をもっている民族であるか、何が得意でどのような役割を担っていくのかを見つめ直す必要があるようにも思います。私たちの会社では一円対話を実践していますがこれもまた私たちの文化が創造した実践の一つです。

子どもたちに、日本人としての得意が世界に貢献できるように着実に実践を磨いていきたいと思います。

想いの本質

私たちは先人たちの想いを継いで今に存在しています。その想いを継ぐのは、血のつながりもあるかもしれませんがそれ以上に想いで繋がっていくものです。人の一生はあまりにも短く、あっという間に人生が終わってしまいます。

そういう意味では、みんな志半ばで斃れていくのです。だからこそ想いがあるのです。つまりこの想いで人が繋がっていくというのが想いの本質なのです。そしてそれは決して死んでしまったから終わるのではなく、死んでからも続いているものであり生きているから繋がらないのではなく、生きていても繋がり続けるのです。それが道ということでしょう。

人生は誰もが想いを持てば道半ばです。

私の今の取り組みも、多くの方々の想いが繋がって実になっているものです。そしてこの先もずっと同じようにあらゆる人たちの想いが集まってさらなる成果を結んでいきます。

そのご縁のつながりこそ、決して金銭では交換できないかけがえのない豊かさであり私たちの仕合せの本体ということでしょう。

もしもこの世に金銭がなくなったとして、何がもっとも大切だと感じるか。それは私は「ご縁」であると、そしてそのご縁を結ぶつながりの「想い」であると私は思います。

人は想いとご縁で結ばれているものであり、これが仕合せを積み重ねて未来を希望にしていくように思うからです。

だからこそどのような想いを日々に醸成していくのか、どのようなご縁を結び活かしていくのか、そして如何に豊かな幸福の場を創造し続けていくか。ここに生成発展の万象繁栄の根本があるように感じています。

想いは形がないものです。しかし想いこそ、いのちの発する偉大なかたちでありご縁こそそれを結ぶいのちの綱です。今でも目を閉じると、志半ばで去っていた人たちの想いが私に宿っているのを感じます。そして耳を傾ければ、この先の未来で私を待っている想いが溢れています。

子どもたちのためにも想いを力に換えて、私の役目を全うし道を切り拓いていきたいと思います。