免疫の仕組み

コロナによって自然免疫というものが注目されてきています。いくらワクチンを打ったからと安心ではなく、このさき様々な変異株が発生すればワクチンが効かないようなウイルスも沢山出てきます。それはコロナだけではなく、温暖化の影響によって今まで静かに小さな範囲で生きていたものが変異して暴走して世界を席巻することもあるかもしれません。

地球環境の変化と共に、あらゆる虫やウイルスや菌などは新たに変異して急増急減してバランスが崩れていきますからこの先も油断できません。人類はこれまで生き延びてきた中で、様々な困難を乗り越えてきました。そこには気候変動もあり、今回のような病原菌やウイルスの蔓延もありました。時として、かなりの人たちが犠牲になりその期間を生き延びてきて子孫たちに希望をつないできました。

そう考えてみると、私たちには過去に乗り越えてきたという実績があり、実力があります。それが自然免疫として身体に記憶されていますからそのことによって私たちは新たな困難を乗りこえていくことができるのです。

現在は、科学が進み短期的にはウイルスに対応できていますが今までの歴史ではほとんどやったことがない対応策で今回のコロナは乗り越えようとしています。過去の先人の智慧を使わずに、先端科学だけに依存することに危機を感じています。

私たちは自然免疫を持っています。そして獲得免疫というものを持ちます。シンプルに言えば、元来生まれながらに備わっている免疫と、育っていく中で身に着けていく免疫というものです。

この免疫という言葉の語源は、ラテン語のimmunitus(免税、免除)や immunis(役務、課税を免れる)といわれます。つまり疫病(感染症)を免れるという意味で「免疫」となります。

人間の身体は60兆個ものさまざまな細胞でできていますが、もともと自分の身体というものを構成する以外の外敵の侵入により個体破壊されたり寄生しつづけないように自己の細胞と自分のものでない(非自己)の細胞を見分けています。この見分ける仕組みが免疫であり、私たちは一度感染したものを二度と侵入させないようにするようにできているのです。

この仕組みで免疫を働かせて生きていますから、もしも今まで感染しなかったものが来れば平易に感染してしまいます。この世界で生活をしていたら、実は身の回りには無数の病原菌やウイルスが存在します。それを免疫システムによって防いでいるというのは当たり前のようにみえてとても偉大な身体の仕組みであることがわかります。

免疫は、感染してからも早めに対応すれば獲得免疫によって善処することができることもわかっています。常に健康を維持して、心身が常に免疫を保てる状態にしていれば感染しても免疫の仕組みによって乗り越えていくこともできるといいます。

この60兆ある細胞を持つ、奇跡の存在がこの身体にありますから身体を信じて健康を保つための工夫をすることが長い目でみて人類がこの先の子孫と共に地球に生き延びるための智慧であるのは自明の理です。

この世にいるウイルスの種類や数は、発見できていないのを含めると無限に存在します。共生し合う関係をどう保っていくかは、人類の大きな課題であり、地球の調和の中で生き残る智慧の活用です。

子どもたちにも、この困難が転じて福になるように暮らしフルネス™の実践を磨いていきたいと思います。

文化財の本質

文化財のことを深めていますが、実際の文化財というものは有形無形に関わらず膨大な量があることはすぐにわかります。私の郷里でも、紹介されていないものを含めればほとんどが文化財です。

以前、人間国宝の候補になっている高齢の職人さんとお話したことがあります。その方は桶や樽を扱っているのですが50軒近くあったものが最後の1軒になり取り扱える職人さんもみんないなくなってしまい気が付けば自分だけになったとのことでした。そのうち周囲が人間国宝にすべきだと言い出したというお話で、その方が長生きしていて続けていたら重宝されるようになったと喜んでおられました。

このお話をきいたとき、希少価値になったもの、失われる寸前になると国宝や文化財になるんだなということを洞察しました。つまり本来は文化財であっても、それが当たり前に多く存在するときは文化財にはならない。それが失われる寸前か、希少価値になったときにはじめて人間はそれを歴史や文化の貴重な材料だと気づくというものです。

そう考えてみるとき、私たちの文化財というのもの定義をもう一度見つめ直す必要があると感じます。実際に、私は暮らしフルネス™を実践していますが身のまわりのほとんどが伝統文化をはじめ文化財に囲まれてそれを日常的に活用している生活をしています。

これを文化財と思ったこともなく、当たり前に日本の文化に慣れ親しみ今の時代の新しいものも上手に導入して流行にも合わせながら生き方と働き方を一致して日々の暮らしを味わっています。

そこには保存とか活用とか考えたこともなく、ごくごく自然に当たり前に暮らしの中で文化も文明も調和させています。農的暮らし、ICTの活用、和食に文明食になんでもありです。

そしてそれを今は、「場」として展開し、故郷がいつまでも子どもたちが安心して暮らしていけるように新産業の開拓と古きよき懐かしいものを甦生させています。私は文化財が特別なものではなく、先人たちの有難い智慧の伝承を楽しんでいるという具合です。

本当の問題は何かとここから思うのです。

議論しないといけなくなったのは、何か大切なことを自分たちが忘れたから離れたからではないかとも思うのです。山岳信仰も同様に、山の豊かさを味わい畏敬を感じてそこで暮らしているのならそれは特別なものではありません。そうではなくなったからわからなくなってしまい、保存とか活用とかの抽象論ばかりで中身が決まらないように思います。今度、私は山に入り山での暮らしを整えるつもりです。そこにはかつての山伏たちの暮らしを楽しみ、そして流行を取り入れて甦生するだけです。

何が文化財なのかと同様に、一体何が山岳信仰なのかも暮らしフルネス™の実践で子どもたちのためにも未来へ発信し歴史を伝承していきたいと思います。

人間がわからなくなっていくときこそ、初心や原点に立ち返ることです。この機会とご縁を大事に、恩返しをしていきたいと思います。

文化遺産から文化活産へ

前の時代のものや先人たちが遺してきた文化財というものは、前の人たちが築いたものです。それをそのまま引き継いでしまうと私たちは前の時代のものを今の時代のものに変えていくことでそれが単に遺産ではなく一つの活産になっていくのです。

私は古民家甦生をはじめ、あらゆる文化遺産の甦生を試みていますがそれは今の時代に生まれたものとしての使命があると感じているからです。

先人たちのやり遂げたことを尊敬し尊重しながら、それを今の時代でも同じように実践し、前の人に恥じないように甦生させていく。この連続こそが本当の意味での文化であり、伝統を守るということなのです。

それを現代では、遺産を保護するということによってかえって何も手を出すことができなくなり活産のものまで遺産にしてしまうといった本末転倒になってきているものもあるように思います。

文化財を本当の意味で保護するとはどういうことか。私にしてみたらそれはこの時代の人たちが文化を甦生させていくということなのです。甦生なくして本当の意味での保護はないということです。

よく考えてみれば、建物が遺産になっていますが実際にはその時代にずっと長く続いていたその場での暮らしというものがあります。それが守られているからその結果として建物が手入れされ続けて今まで残っているのです。その場の暮らしがなくなれば、当然の結果として建物もなくなります。その建物だけを遺しても、中身がありませんから建物だけを保存するのに莫大な費用が掛かり続けます。

経営でいれば、使わないし投資回収もしないものに資金を投下し続けるということです。それが大事なものであるのなら、きちんと資産にしてそれを活用していく必要があります。その活用の仕方は無数にありますから正解はありません。しかし大切なのは、その文化を磨くことをやめてしまった遺産にしないということです。

例えば、日本人であれば和食というものがあります。その和食を食べなくなれば和食遺産というものができます。その和食を食べることもしないのに、只管和食文化を守ろうとすればどうなるでしょうか。永遠に和食が続くようにするには、和食を食べ続けられるように和食を甦生し続けてその時代に相応しいものに革新していくしかないのです。

日本の伝統工芸もまた然りで、材料を保存するとあってもそれを維持するためにどれだけの費用がかかるのか。その材料を短期的には保護できても、長期的にみたら使わないものをただ生産し維持することが難しいことは誰でもわかります。

本来、当代に生まれた人たちはそれを当代でも活かせるようにしていくことで経済や産業を発展させていく使命があります。時代は巡りますから、また3世代くらい廻るくらいで原点回帰していきます。するといつまでも遺産ではなく、活産として暮らしの中で私たちは伝統文化の恩恵を享受され続けていくのです。

文化を守るためには、その場の暮らしを一緒に甦生させていく必要があります。私が「文化の甦生」と合わせて「場の甦生」にこだわるのはこの理由からです。

活産にしていくことは、今までの祖先の御恩に報いることです。子どもたちのためにも、遺産を磨き甦生させ活産にしていきたいと思います。

 

和菓子のはじまり

落雁のことから和菓子のことも深めています。もともとこの「菓子」は縄文時代、古代の人々がお腹が空くと木の実や果物を採って食べていたのがはじまりともいいます。木の実や果実を間食する、これが「果子」(かし)の原型なのでしょう。

今でも、お菓子といえば間食するものではありますが古代のころは食べ物を加工する技術もなく、果物の甘味はとても特別なものだったように思います。縄文時代の遺跡からは栗や柿などは栽培されていたことがわかります。それを次第に石臼などで加工する技術が発展してきました。

農耕はしていたもののどんぐりなども食べていたことがわかっています。そのどんぐりや木の実はアクが出ますから水にさらしてあく抜きをしてそれを丸めたものが発明されました。これが団子のはじまりともいいます。そして日本最古の加工食品ともいわれる「御餅」も発明されます。貴重なお米を原料にしたのでこれは神様に備える神聖なものとして重宝されてきました。

その後は、中国(唐)との交流や茶道が発展しこの菓子はさらに進化していきます。多様な素材や季節感を取り入れながら日本独自の和菓子という言葉も誕生しました。

和菓子には日本人の美意識や歴史の結晶ということになります。

和菓子には代表的なものとして、お饅頭、お団子、羊羹、上生菓子などあります。この和菓子は材料や製法で分類されることやその水分量によっても分類されることがあります。水分量が多めの生菓子と半生菓子、干菓子などで分かれることもあります。

実際には、全国各地のその風土と風景と一体になった和菓子があり膨大な種類のものが日本には存在します。その土地の名産であったり、饅頭などはその土地土地で材料も味も、見た目も異なります。

多様な風土と和合して和菓子は今まで発展してきたのです。

現代では、和菓子の不人気なども相まってかなりの種類の地域の和菓子が失われてきました。長期保存ができコンビニで買える便利なスナック菓子を食べているうちに、多様な文化と風土のお菓子が消えていきました。

私は柏屋さんの饅頭が理念を含めて大好きですが、日本を代表する伝統和菓子が子どもたちにも受け継がれていけばいいと心から感じます。どんなものにもそのものの始まりと風土、歴史、文化があり、それを食べることで私たちは地域とのつながりや循環を繁栄させていきました。

食べることはただ自分の欲望を満たすためのものではなく、私たちは食べることで自然との感謝や共生、豊かさや幸福などを創造してきたのです。日本を代表する和菓子が、日本の未来を美しく彩るように暮らしフルネス™を通して見守っていきたいと思います。

食の問題

昨日は、土曜の丑の日で全国的にうなぎを食べる人が多かったように思います。私もうなぎが大好きで、炭火を使って白焼きでじっくりと焼いて特製のタレをつくって食べますが香ばしさと滋養で元氣が湧いてきます。

そのうなぎですが、安いもので輸入品、そして養殖、天然とありますが無投薬というものを見かけました。この投薬とは何か、それは抗菌剤を使っているかどうかということです。

食の問題は、農薬をはじめこの投薬残留の事件が発覚するたびに人間のモラルの低さを感じます。それは健康で安全なが抜けていて、売れればいいということが優先されそのことによって信頼というものが失われています。

うなぎでいえば、輸入のうなぎから合成抗菌剤のマラカイトグリーンが基準値を超えて検出されています。これはもともと水カビ病の薬で養殖には使用が禁止されているものです。人間には発がん性があるので食品としては禁止されています。

この抗生物質や合成抗菌剤はあらゆる養殖で使われています。養鶏や乳牛の餌に含まれていたり、生き物にとっては過酷な環境(高密度で汚染、運動不足等)で飼育されるので病原菌が増えたり病気になったりと問題が起きます。これは農業も同じで、すぐに農薬を使って対処していくように養殖でも同様に投薬をして飼育するのです。

それが毎日食べているものの中に残留していきますから、私たちはほんの少量でも日々に食事でこれらの薬を摂取し続けていることになるのです。それが蓄積されることによって私たちも病気になる可能性もあるのです。

ちょうど鹿児島県で養殖時に抗生物質・合成抗菌剤は使用せずに飼育している会社の環境がウェブで紹介されていました。そこでは養殖場責任者の家が養殖場の中にあり24時間鰻と共に暮らしています。霧島のきれいな地下水が豊富にある自然豊かな環境と養殖に携わる者の鰻に対する熱意が無投薬養殖を可能にしたとあります。安心安全にこだわり水を汚さないことを徹底されている工夫があります。

何が大切なのかを忘れないで取り組んでいる人たちは、善いものを後世につないでいきます。目先の利益だけを追いかけて、目的を見失えば因果応報があります。だからこそ、常に目的を忘れないこと、その目的が健康や安心であることは食に携わる以上、もっとも優先するべきものだと私は思います。

私の会社も、無施肥無農薬でむかしの田んぼをしていますし畑などでも農薬を使いません。烏骨鶏の餌も、玄米や雑草、虫たちを与えています。どれを食べても安心で安全、そんな信用や信頼がある社会になってはじめて世の中は豊かさの深い味わいを楽しめるように思います。

子どもたちのためにも、食の問題は私たちの世代のうちに解決していきたいと思います。

場を磨く

私の故郷は、もともと庄内村ですが嘉麻郡を経て嘉穂郡となり飯塚市なっています。この嘉麻郡の由来は日本書紀巻18に安閑2年(535)安閑天皇の条に筑紫の穂波屯倉・鎌の屯倉等を置くというものが由来です。

和銅6年(713)に諸国の郡郷名に好字を付けることが命令されそのときに嘉麻の字になりました。そして明治29年(1896)に嘉麻郡、穂波郡が合併して嘉穂郡となるまで約1,300年間は嘉麻郡のままでした。そしてこの年、嘉麻郡と穂波郡が合併して嘉穂郡 となりました。その後はこの嘉穂郡の一部が飯塚市の中に組み込まれて今があります。

少しだけ前に遡った明治22年ころまでは、庄内村は綱分村、赤坂村、筒野村、高倉村、入水村、山倉村、有安村、多田村、仁保村、大門村、元吉村、有井村で構成されていました。現在まで私が住んでいた場所は、この中の綱分村と有安村です。

この綱分村にも綱分八幡宮を中心に歴史があり、有安にも獅子舞をはじめとした文化が遺っています。

現在、合併を続けていく中で、それまで大切にされていた村やその場所の歴史も次第に失われていきます。小さく分かれていた時は、その小さな中で文化の誇りや遺徳、信仰なども細かく語り継がれてきました。それがなくなっていくというのはとても残念なことです。

合弁して簡単に一つにしますが、本来その場所は風土によって環境も文化も完全に異なるものです。日本国土が自然豊かで多様性があるように、その場所場所は多様性に富んでいます。

地名が一つなっても場所の魅力というのはそれぞれで異なるのです。その場所を知り尽くしている人は、その場所の魅力を知り磨き続けていくことができます。私はこの庄内村出身ですが、この場所のもっている徳や歴史が身体に沁みこんでいます。だからこそ、この場所の活かし方や使い方、もっている魅力を引き出すことができるのです。

こうやってそれぞれの故郷でみんなが魅力を引き出し磨きだせば、日本という国は多様性に富んださらに温故知新された場所に甦生していきます。すぐに東京や大都市圏に憧れてそこにいきますが、本当はその産まれた場所を磨き上げていくことが子孫たちの使命でもあります。

引き続き子どもたちのために暮らしを整え、場を磨き上げていきたいと思います。

そうめんの由来

昨日は、藁ぶき古民家の和楽で息子たちが青竹から準備してくれて「流しそうめん」を楽しみました。まさに夏の風情というか、雰囲気でだけでも涼が味わえ豊かな時間を過ごすことができました。

この「流しそうめん」は、最初は青竹で器をつく井戸水で冷やしたそうめんを食べたことで発想されたものではないかともいわれています。そのそうめんを流すようになったのは宮崎県の高千穂峡の真名井の滝の傍にある「千穂の家」が発祥といわれます。発案は、もともと江戸時代に琉球で薩摩の役人をおもてなすときに那覇湾の崖の上から落下する綺麗な泉流の上源からそうめんを流して、途中ですくって食べてもらうということをやっていたものがありました。このことをヒントに昭和30年頃にこの高千穂峡で本格的に流しそうめんがはじまったのです。

もう一つ、似た名前のものに「そうめん流し」があります。呼び方の順番が逆になっただけですが、実際には違いがあります。これは鹿児島県の指宿市にある「市営唐船峡そうめん流し」として昭和37年に発案されたものです。最初は同じように流しそうめんではじめていますが、途中で当時の町の助役さんが回転式のそうめん流し器を発明しました。回転式ですから、みんなで囲んで丸くなってそうめん流しを楽しめるということで珍しさと面白さと相まって人気が出ました。この助役の人はそのあと町長になっています。

ということで、竹で縦にそのまま流すのが流しそうめんで回転式のものがそうめん流しということになります。

このそうめんの呼び名の由来はもともとは「索麺」と書き、中国大陸から伝わったものです。「索」とは「なわ、つな」という意味でそこに麺が入り、小麦粉を練った細長い食べ物という意味になります。つまり「なわ、つわのような麺=そうめん」と呼ぶようになったのです。

このそうめんが伝来したのは隋か唐の7~8世紀頃(飛鳥時代~奈良時代頃)といわれますが、北宋の時代や室町時代などまちまちです。この「索麺」「索餅」という字が現代のように「素麺」となるのは麺が白いことから白い意の「素」の字を当てたとする説や、「索」の字を書き間違えたとする説もありますが今はほとんどこの「素麺」になっています。

むかしは、そうめんは庶民が食べれるものではなく宮中の七夕などの行事の時に用いられました。それだけ高級で敷居の高い食べ物でした。現在では、どの家でも夏は素麺というくらいみんな一年で一度は食べる夏の風物詩になりましたが歴史が長い食べ物の一つなのです。

こうやって一年で、節目節目に伝統的なものを上手に現代に活かしながらその大切な要素はそのままに新しくしていくことに豊かさを感じます。夏はまだまだこれから暑くなっていきますが存分に夏を味わいたいと思います。

和歌のはじまり

日本最古の和歌集に万葉集があります。これは7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂されたものです。全20巻、約4500首の歌が収められています。和歌には天皇から農民まで幅広い階層で詠まれた土地も東北から九州に及びます。

実際の記録にあるこの万葉時代は天智天皇や天武天皇の父に当たる629年に即位された舒明天皇にはじまり、万葉集最後の歌である巻二十の4516番が作られた759年(天平宝字三年)までの約130年間だといわれています。

この万葉集という言葉の意味は、「葉」は時代の意味で、それが「万」世まで伝わるようにと祈念してできたものとも言われます。この万葉集は、一人の編者ではなく多くの編者と複雑な過程を経て最終的には大伴家持により20巻にまとめられたのではないかといわれます。

また分類としては「雑歌」「相聞」「挽歌」と分かれます。

「雑歌」は行幸や遊宴、旅などさまざまなときに詠まれたものです。そして「相聞」はお互いの消息を交わし合う意で恋愛などのものが詠まれます。もう一つの「挽歌」は人の死に関するものです。

万葉人たちは、人生の節目に和歌を詠みお互いにその心情を確かめ合ったり伝え合ったり、分かち合ったりしたのかもしれません。日本人が情緒豊かである理由もこの和歌から伝わってきます。素直で純粋に美しい心を持ち、それを文章にしていく。美しい四季や自然の畏敬をそのままに言葉にしていったのでしょう。

例えば、天平のころの光明皇后が詠んだ歌があります。この方は、仏教を信仰し興福寺や東大寺をはじめ、仏教を重んじた光明子は民のために悲田院等の慈善活動に邁進された方です。以前、石風呂のことで東大寺の施浴のことを書きましたが1300年前に社会福祉のお手本の実践した方でもあります。3つほど、万葉集に収められています。

「我が背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しくあらまし」第8巻1658番歌

「朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得むかも我が宿の萩」第19巻4224番歌 

「大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち」第19巻4240番歌

意訳ですが一つ目は、夫婦でこの美しく降る雪が眺められたらどれだけ嬉しいものか。そして二つ目は朝霧が出てきた田んぼ我が庵の萩が雁をとどめてくれようか。そして最後は、大船に乗っていく唐の国にいく我が子らをどうか神様見守ってください。というものです。

この3つからも光明皇后の人柄、その情景が心に映ります。こうやって、むかしの人たちは素直に自らの心情を和歌によってあるがままに語り合いました。今では、言葉が膨大に増えてあらゆるものは言葉で説明できるほどになりました。

しかしかつてのようなシンプルで純粋な言葉は失われ、本当の気持ちや心情が読み取れないほどになっています。複雑なものは実は本当はとても純朴な言葉になるのであり、現在のような複雑さはかえって本当のことが見えにくくなっています。私のこのブログの文章もまた、そういう意味ではまだまだまったく研ぎ澄まされているものではありません。

言葉が増えた時代のコミュニケーションと、言葉がなかった時代のコミュニケーション。時代が変わっても、万葉人たちが伝え合ったような言葉を今でも大切にしていきたいと思います。

子どもたちにも、本当の言葉が伝わっていくように和歌を学び直していきたいと思います。

 

富と徳の天秤棒 ~近江商人の初心~

近江商人の生き方をもう少し深めていますが、文化2年(1805)、近江商人の第一人者・初代中井源左衛門という人がいます。この方は長い商いの体験から得た人生訓を、浄土宗を開いた法然上人の一枚起請文にならい子孫に「金持商人一枚起靖文」を書き記しています。

「一、世間では『金を溜める人は、運がいいからで、金が溜まらないのは自分に運がないからだ』と言うが、それは愚かで大きな誤りだ。運などというのは無いのだ。金持ちになろうと思うなら、酒宴や遊興、贅沢をやめて長生きを心掛け、始末第一に商いに励むより方法はない。他に欲深いことを考えると、先祖の慈悲にも、天地自然の道理にもはずれることになる。ただし始末とけち(原文では「しわき」)とは違う
。無知な人は、これを同じように考えているが、けちの光はすぐに消えてしまうが、始末の光は現世の極楽浄土を照らすものだ。二、これを心得て実行する人が、五万、十万の大金ができることは疑いない。ただし、国の長者と呼ばれるようになるには、運も必要で、一代でなれるものではない。二代、三代と続き、善人が生まれて、はじめて長者と呼ばれる家になる。そのためには、陰徳・善事を積むことより方法はない。のちの子孫の奢りを防ぐために書した」

さらに意訳ですが、金が溜まるのは運ではない。質素倹約につとめて長い目で観て事の本末を見据えて謙虚に励むこと。そしてこれを実践すれば長い期間を得てお金は溜まる。それは何代も世代を超えて陰徳を積むから長者が出るのだと。だからこそこれを心得なさいということでしょうか。

お金持ちなったのは、先人たちの遠い子孫を思い、理念を定め徳を積んだ実践の御蔭なのだということでしょう。

例えば近江商人の中井正治右衛門は瀬田の唐橋の一手架け替えを1818年に完成しました。この工事の費用は全体で1千両かかったのですが、さらに幕府に3千両を寄付したとあります。その理由は工事の費用1千両にあわせて、後の橋の補修や架け替え等が必要だと気づき残りの2千両をそのことに使ってほしいという事での寄付でした。

長い目で観て、計画を立てて実行し、陰徳善事を盡していくところにお金持ちになる所以があります。つまり近江商人の実践の素晴らしさは、先祖からの恩恵を忘れずにそれを子孫たちへさらに陰徳を偉大にして受け継いでいくことにあるように思います。

また近江八幡出身の江戸中期の歌人の伴蒿蹊は、家訓として「陰徳あれば陽報ありとて、かくのごとく常々つとむれば、目に見える幸を得て繁盛すべし。此幸を得るためとあてにしてするは陰徳にあらず、無心にてすれば自然にめぐるなり。」と常に陰徳を積むものが富むというその富の循環の道理を語ります。

つまり近江商人はまず徳を重んじて、それ相応の富をまた陰徳につぎ込みながら地域や日本を仕合せにする実践を大切にしてきたように思います。富に相応しい徳があるかどうか、また徳が富に相応しいかどうか。天秤棒を担いで行商をしたといいますが、ひょっとするとその徳と富を常に天秤にかけていたのかもしれません。

今の時代、冨ばかりが優先されてケチになり徳があまり意識されることがありません。しかし本来は、徳があって富があり、冨があるのは徳の御蔭ですから私たちはよくよく日々の事業の本末や始末と正対して天秤にかけて内省していく必要があるように思います。

子どもたちのためにも、近江商人の生き方からの智慧を伝承していきたいと思います。

 

近江商人の智慧

先日、近江商人のことを深める機会がありました。三方よしという言葉で有名な近江商人ですが、この三方よしという言葉も昭和のころに言われた出した言葉だそうです。

一般的にはこの三方よしとは、「売り手よし 買い手よし 世間よし」の三方みんなが善しになるように商売を行うという意味です。

近江商人はあくまで近江に拠点を置き、全国各地で商いをしていたといいます。なのでその土地で商いをはじめるにあたり、長い目線で商いができるようにと配慮していたといいます。つまり末永くお互いに商売をするために、その地域に還元するように利益を正しく得て商いをしていたというのです。

現代では、会社とお客様との関係だけで商売が行われることがほとんです。地域への還元というとその中の一部の会社だけが行われ、地域活動はほとんど行政などの自治体が行われています。しかしかつての日本は、地域活動や奉仕は商売をする商人たちが中心になって行われていました。

治水や橋をかけたり、また森を育てたり、灌漑設備を整えたりもすべて商人たちの利益から還元されていきました。つまり、商人が得た利益は私物化せずにそれはきちんといただいた場所や社会に還元するという意識が当たり前にあったのです。これを商人道としたのです。

近江商人は特にそれが家訓をはじめあらゆる意識の中の基本に根付いているように感じます。いくつかの家訓を観ても、例えば「義を先にすれば、後に利は栄え、富を好とし、其の徳を施せ」というものがあります。先義後利栄ともいいます。また「商売が繁盛して富を得るのは良い事でその財産に見合った徳で社会貢献をすることが重要である」という好富施其徳といいます。

そのどれもがとても長い目で観て、永続して商いができる道を模索していき産み出されてきた家訓と生き方なのでしょう。

これからの時代、先人たちの智慧に倣い、企業がその地域の徳を甦生させていく必要を感じます。これは税金の使い道がどうこうという話ではなく、みんなで本来の商いの道に原点回帰する必要を感じるからです。

如何に地域に還元していくか、そのために利益を正しく設定していくかは具体的な陰徳善事の奉仕によります。みんながそうやってそれぞれ地域で長い目で観て陰徳を実践していけば日本だけではなく世界はより末永く平和が持続して真に豊かな暮らしを享受されます。

子どもたちの未来のことを考えて、今居る場所から易えていきたいと思います。