お互いの持ち味を生かす経営

人間には誰にも短所というものがあります。そのことで色々と失敗も重ねますし、苦労することがあります。しかし同時にそれは偉大な長所になる可能性もあります。短所を怖がるばかりに、長所を伸ばさなくなればその人も周囲も大きな損失になるのは間違いありません。

本来、誰にも負けないものを持っているものがその長所でもあります。例えば、プロであればこの分野は自分の真骨頂であると磨き上げられたものがあります。私も、色々と長所がありそれをひたむきに努力して伸ばしてきました。

特に発達の偏りがあるため、集中力が徹底しており一度深め始めるとほかのことはほとんど考えなくその一点を突破するために全集中していきます。しかし同時に、その時は隙だらけであり何かがあればひとたまりもありません。

私の場合はとても運が善いことに、善い仲間にいつも恵まれて常日頃からカバーをしてもらっています。結局、一人ではどうしても強みが出るときは弱みが出ていくように完璧になることはありません。だからこそ、仲間がいて弱みをカバーしてくれてその強みを肯定して活かしてくれるのです。

つまり能力を活かしあう関係というものは、大前提にお互いの弱みと強みを知りそれぞれに得意不得意を共有してともにフォローやカバーをし合って目的に向かって協働する価値観や風土が備わっているということです。

現代では、すぐに一人でなんでもできて当然というような価値観があり組織を蝕んでいます。それは教育によって、一人でできる人をつくろうとしたことで仕上がってきた組織間でもあります。上の偉い人が完璧であることを求めることであったり、カバーし合えばいいものを否定したり指摘したりして無理やりにでも矯正させようとします。

簡単な話ですが、手足が長い人に小さな細々としたことをやらせたり、力が弱い人に無理やり重たいものを運ばせたり、おっとりした性格の人にキビキビと指示管理させたりするのはこれはもうほぼ虐待の類です。しかしその人たちも自分がやらされてきたからかそう思うのか、やられて嫌だったというのにそういうことを他人に強要することが如何に多いかと感じます。

何より、人はお互いにそれぞれ自分にしかない自分らしい能力を持って生まれてここまで来たのです。それを上手に活かし、そうでないものはほかの能力のある人がカバーし合えばみんなでその能力に感謝し合えるような温かい関係が結べるように思います。

お互いの持ち味を生かす経営というものは、お互いの得意分野でやり遂げる覚悟を持ち、お互いの苦手分野はカバーしあう思いやりを持つということでしょう。

子どもたちがそれぞれの持ち味が発揮され、豊かに幸福な人間関係の中で世の中をやさしく平和にしていけるように自分たちがまずそのモデルを示していきたいと思います。

産業革命の進化と人間の真価

産業革命という言葉があります。ウィキペディアには、「産業革命(さんぎょうかくめい、英: Industrial Revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、それにともなう社会構造の変革のことである。 産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程におけるさまざまな技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる」と記されます。

この産業革命という視点から歴史をみると、世界ではこれまでに4度の産業革命が起きているといわれます。その始まりは18世紀後半です。少し整理すると、第1次産業革命は紡績機の発明と蒸気機関の改良です。これはイギリスが植民地から輸入した綿花を綿織物に加工して海外へ輸出するときに紡績機により大量かつ効率的に綿織物をつくるようになりました。それに蒸気機関によって鉄道や蒸気船が開発され、輸出も簡単にできるようになります。そして世界の覇権国家となって世界を席巻するのです。この産業革命はイギリスからヨーロッパ全体に広がり世界を飲み込みました。

そして第2次産業革命は重工業の機械化が実現し、主要エネルギーは石炭から電力・石油になります。同時に自動車や航空機、船舶の大量生産がはじまりマーケットの獲得競争が激化します。そのために必要な原料や労働力、マーケットの拡大が切っ掛けになり帝国主義がはじまります。

次が第3次産業革です。ここでコンピューターが登場します。運搬や溶接を行う産業用ロボットをはじめ今まで人間が行っていた単純作業が自動化され、産業構造における労働が激変しました。今では当たり前になっているインターネットの普及も第3次産業革命のうちに入ります。

ここまででもたかだか百数十年くらいなものです。

私たち人類の歴史の中では、まだほんの少し。ついこの間まではまったく異なる世界が動いていました。それが産業革命によって人類の社会構造は激変し、今ではその産業革命によって出来上がった新たな世界、つまり人間社会をつくりあげています。経済がまわるのもこの産業革命によってであり、その相互依存はもはや密接であり切り離すことも不可能です。

そしてこれから第4次産業革命が誕生するといわれています。簡単にいえば第4次産業革命はこれまで人間が担ってきた労働の一部がさらなる自動化が進みます。無人であることは当たり前であり、労働力である人間の削減が進みます。つまり、人間が働かなくてもすべて機械やITで代替えできる世界をつくりあげようとするのです。

ドイツでは第4次産業革命と似た概念の「Industrie 4.0」(英語では「Industry 4.0」)という国家施策がはじまりました。これは製造業の「デジタル化」「コンピュータ化」を進める(サイバーフィジカルシステム化)ことで、国全体を1つの工場化するというのです。

そして第4次産業革命においては、「IoT(Internet of Things:モノのインターネット)」「AI(Artificial Intelligence:人工知能)」「RPA(Robotic Process Automation:ロボットによる業務自動化・自律化)」が進みます。

つまり第3次産業革命の自動化から第4次産業革命の自律化に向かっていくということです。自動化は、人間がやっていることをプログラミングで自動化しました。しかし、自律化は人工知能をつかって目的に対して自律的に働くようにするのです。つまり、ほぼ人間の状態に近づいていくということでもあります。

目的に対して知恵を出し、目的を達成する。

これは本来、人間が働く中でとても重要なことでロボットであったこととの大きな違いであったものです。しかしロボットに知恵が入り、人間でしかできなかったところにまで機械やITで可能になったということです。

これにより産業構造は激変することは間違いないことです。

ここまでで百数十年、ということはこのさき十数年でこの世界は変わっているということも意味します。その時、私たちは何のために生きるのかという問いと向き合うことになると私は思います。

私の取り組む暮らしフルネス™は、まさにこの第4次産業革命時代にこそ必要な生き方になると確信しています。

引き続き、未来を見据えて子どもたちにとって最善な生き方と在り方を深めていきたいと思います。

アライグマとラスカル

藁ぶきの古民家のアライグマを駆除することをしながら深めていると、すぐに世界名作劇場のアニメのラスカルのことが出てきます。このアニメの作者は、まさか日本で大量輸入されて害獣になっていくとは思いもしなかったと思いますがあの可愛いイメージとは裏腹に凶暴で現代では人間にとって大きな問題になっています。

そもそもこのラスカルは、ニッポニカ(日本大百科全書)によればこうあります。

「アメリカの作家スターリング・ノースSterling North(1906―74)が1963年に発表した自伝的小説。作者11歳のときのウィスコンシンを舞台に、彼とアライグマのラスカルの出会いから別れまでを月ごとのエピソードを連ねて語っている。最大の魅力は、光るものの好きなラスカルがダイヤの指輪を失敬し、それをさらにカラスが巣にもっていき、少年が取り返すといったラスカルにまつわるできごとだが、のんきで心優しい父親ほかの登場人物たちや小さな町もくっきりと描写されていて、物語の牧歌的雰囲気を高めている。作者はこの小説の舞台ウィスコンシン生まれ。新聞記者、新聞の文芸欄の編集者などを勤めながら約30冊に及ぶ著作を残した。」

このスターリング・ノースが少年時代に出会ったアライグマがモデルでできたアニメです。ただ漫画のことはあまりよく思っていなかったとも記述されています。日本の「あらいぐまラスカル」でここまでアニメで認識されているとも思ってもいなかったはずです。

このラスカル「rascal」とは。意味や和訳。[名]1 ((戯))いたずら者,わんぱく小僧;悪ガキ2 〔通例修飾語を伴って〕(…な)やつa merry rascal陽気なやつ3 ((やや古))人でなし,悪漢,悪党,ごろつきという意味です。

実際の話でも、大人になったアライグマに手を付けられなくなり、最後は湖畔、森に逃がしてしまいます。ペットブームで年間1500頭が輸入されそれが野生化してしまい、年間2万頭を超えるほどに捕獲されています。

もはやここまでくると駆除もできず、まさにラスカルという具合に農産物を荒らしまわっています。人間はこのように、先のことを考えず今さえよければいい、お金になればいいと欲に任せて動いていますがそれがあとになって本当に大変な目にあっていることがわかります。

自分たちの代ではそこまででなくても、子孫の代になって本当に大変な事態にまで発展してしまうことがほとんどなのです。だからこそ、海外から輸入するものは特に気を付けなければなりません。グローバリゼーションで、世界の隅々のものが近所のスーパーに陳列する時代。どんなウイルスや病原菌が混ざってしまっているのかもわかりません。

少し先の時代を予測して、今から私たちは暮らしを見つめ直す時機に来ていると実感します。子どもたちのためにも、未来に向けて選択と決断をしていきたいと思います。

自然との共生

野生生物と人間との共生の問題は、避けては通ることができない問題です。現代では、見なかったことにするかのようにその問題はどこか別のところ、もしくは田舎の一部で発生している問題のように扱われますが地球全体の問題であり、人類が滅ぶかどうかの岐路に立っている問題でもあります。

大袈裟に思われるかもしれませんが、現代は恐竜大絶滅時代に匹敵するほどにあらゆる生物が絶滅していっています。現代は人間の産業化の影響で一日に約100種類の生き物が絶滅しています。このままでは、生物多様性と循環が途切れ、人間を含む一部の種だけが画一的に存在する場所になっていきます。そうすると、滅ぶのは時間の問題でありまた復活するまでに数万年単位の時間がかかってしまいます。

この大量絶滅はいつからはじまっているのか。野生動物と人間の共生はいつからおかしくなってきたのか。その期間を歴史を遡って推察するとまだ60年くらいなものです。なんとこの60年の間に、人類は取り返しのつかないほどの自然を破壊し、そして絶滅危機を迎えているということです。

日本でも第2次世界大戦後の1960年代の燃料革命によってエネルギーの主体が化石燃料となり木炭需要が急減して森林の利用が止まりました。そうなると森林の手入れができませんから野生動物はますます増えていきました。さらに減反政策によって耕作放棄地が増え、山の野生動物たちは人間のいる場所に近づいてきました。そのため1950年から60年代の半ばまで3~4万頭だった捕獲数も、16年度には61万頭に達しています。

エネルギーが化石燃焼になってから地球温暖化はとどまることを知りません。今では南極や北極の氷も解けて、山や海にまで人間の自然汚染が続き、絶滅のスピードは加速しています。

そもそも化石燃料だけが問題ではなく、人間が自然との共生をやめたことが本当の原因だと私は思います。田んぼにも農薬をまき散らし、河川、海、その他を人工物で塗り固めて便利にしていったことでより自然破壊は進みました。それもこれも、乱獲、乱開発によってです。人間の利益を優先して競争してきたことのツケが、人間全体に及んできているということです。

産業革命が切っ掛けになり、人間の欲は資本主義とともに成長の一途をたどっています。もはや、何かしらの大災害が地球規模で発生しない限り止まることはないでしょう。しかし、生き方として本来の自然との共生を生きようとすることは子どもたちのために必要なことだと私は思います。

資本主義がもっとも破壊してきたのは、自然との共生、つまり暮らしです。この暮らしの破壊が、人間本来の自然の心も破壊していきます。暮らしフルネス™に取り組む理由は、この暮らしを甦生させていくことで本来のあるべきように原点回帰していこうとする実践でもあります。

子どもが、この豊かな地球でいつまでも仕合せに暮らしていけるように地道に実践を積み重ねていきたいと思います。

甦生業

藁ぶき古民家の甦生もまもなく最終段階に入ってきていて家の徳が引き出されてきています。ご近所の方や通りすがりの車が止まり声をかけてくださいます。その声は、一様に「だんだんと家が善くなってきていますね、楽しみです」というものです。

それは動画で配信しているサイトのコメントでもたくさんいただき、身内や仲間からも喜びの声をいただきます。その言葉に励まされ、信念を強くして真摯に家に向き合って修繕を続けています。

考えてみると、人はみんな何かが甦っていくことに希望を感じるように思います。

もう御終いだと思っていたものが復活して、それがさらに以前よりも元氣になって美しく生命を輝かせていく姿に偉大な何かの存在を感じるように思うのです。

それは病気からの恢復、あるいは壊れた機械の修理、よくお手入れされた道具、これらのものに触れると人は善かったねと喜んでくれるのです。徳を積むということは、この甦えらせていくことに似ているのです。

今まで荒れ地で捨て去っていたものを甦らせてそこで作物を育て農地を役立てること、経験豊富な高齢者や職人たちが後世の若い人に技術を伝承していくこと、他にも古井戸や古民家を甦生して新しい役目を与えて人々を潤してもらうこと、こういうこともまた徳になるのです。

徳は事業ではなく、お金儲けではありません。なので無理にお金のためにするものではなく、みんなが喜び、自分も喜ぶことを真摯に取り組んでいくことに似ています。自他一体に全体が幸福になるというのは、自然循環の摂理であり自然の徳の仕組みでもあります。

この徳循環を支えるもの、それが「甦生」なのです。

甦生業が私の取り組みですから、甦生したものが役に立てるように場を創造していくこともまた使命です。挑戦すれば喜びも多いですが苦しみもまた同時に発生します。それを味わいながら、今、できることに真摯に挑戦を本気のままに続けていきたいと思います。

 

運気を磨く

昨日、久しぶりに田坂広志先生の講演を拝聴する機会がありました。新著「運気を引き寄せりリーダーの7つの心得」のお話が中心でしたが共感するものが多く学ばせていただきました。

想えば20年以上前に東京で田坂塾でお会いしたのがはじめてでしたが、ほとんどお変わりなく一期一会に真摯に講義されるお姿に生き方を垣間見させていただき刺激もいただきました。

あの頃は、「メメント・モリ」という死を想うという生き様を実践する大切さを語られていました。今日が人生最期の日と定めて生きていくことの大切さ、当たり前ではない時間に気づいているかという問いを発して一期一会に生きることを伝えておられました。

そして今回は「運気」ということでしたが、運は決して宗教的技法の祈りではなく、科学的技法としての祈りであると定義しています。つまり単なる神秘的なものではなく、これは実証されているという事実であると。現代、量子論を含め科学がその神秘の世界を可視化してきています。その時、これは単なる偶然ではないということがわかってきているのです。

それをあらゆる角度から分析し、リーダーというものの真の役割について語れています。古今、リーダーはすべて「運がいい」ということが絶対条件だといいます。その理由は、リーダーを含めた組織全体を導いていく使命があるからです。運がよくないリーダーについていけばいくらその人が良い人でも組織は運を逃して悲惨なことになることもあります。

運のよさというのは、その人だけではなくその周囲も幸運に導いていきますのでリーダーはその運気というものへの心得を持つ必要があるということでしょう。

田坂先生のいう心得の詳細は、GROBISのサイトで拝見できます。

私もいつまでも実践と改善を積み重ねて、運気を高めて子どもたちを導いていけるよう徳を磨いていきたいと思います。

腸活を楽しむ~智慧食~

私たちの郷土料理の中の一つに「ぬか炊き」というものがあります。ぬか漬けの漬物を知っている人は多いと思いますが、そのぬかを使って料理して味付けをし煮込んだものがぬか炊きといいます。

そもそもこの「ぬか」は、玄米を精白する時に出る、胚芽(はいが)と種皮とが混ざった粉のことをいいます。それを壺や木桶などに入れて、塩水を加えて練れば「床」ができます。そのぬかの床ができるから「ぬか床」(ぬかみそ)とも呼びます。このぬか床は人間に有益な微生物や乳酸菌などの棲家になりそこでの発酵の循環で産み出されたものを摂取することで人間にとっても豊富なビタミンやミネラル、栄養価を得られます。

この微生物と人間との調和、そのものを「発酵」と呼び、私たちは伝統文化として暮らしの中に取り入れてきました。野菜等の保存食としても最適でもあるためこの智慧を伝承されてきたのです。今では冷蔵庫=保存するものになっていますが、自然界にはそんなものはなく微生物と共生することで私たちは生き残るための智慧を獲得してきたのです。この時の保存は単に傷まない腐らないための仕組みではなく、「永続的に健康でいられる仕組み」まで入っていたのです。

以前、確かこのブログでも書きましたがぬか漬けの歴史は奈良時代の「須須保利(すずほり)」という漬物がルーツだともいわれます。米糠のことも734年(天平6年)の正倉院文書の尾張国正税帳にあるといわれています。それだけぬかを使った暮らしには歴史があります。

その「ぬか」を使った「ぬか炊き」は一般的なぬか床のような漬物として使わずにぬか床を調味料にして青魚のサバやイワシをぬか床で長時間炊くのに使います。つまり「ぬか+炊く」から「ぬか炊き」ということなのです。このぬか床を長時間炊くことで保存期間が延びさらに青魚特有の臭みも消えぬか床のうま味が魚に入り絶妙な味わいが得られます。健康になる上に、寿命が伸びるという発明食です。福岡での伝統郷土料理としてのはじまりは小倉藩主の小笠原忠政公が前任の信濃国から保存食用としてぬか床を持ち込んだのがはじまりです。

今の時代、添加物をはじめいのちの入っていない便利なサプリや加工食品ばかりが広がっている中で腸内環境を整えるといった「腸活」が流行ってきていますが現代社会でも心身の健康恢復の救いになるのがこの「ぬか漬け」と「ぬか炊き」であることは間違いありません。日々の暮らしの中で如何に腸内フローラを活き活きさせていくか、それは暮らしの中の日々の食の智慧と工夫にこそあります。

つまり伝統保存食は単なる長期間腐らないものではないのです。本来の伝統保存食とは、健康な暮らしを維持継続させるための智慧食のことです。私たちは日々に心身が整っていけば、それだけで仕合せを感じます。日々の暮らしは、私たちの人生を美しく彩り、明るくしていきます。

「食」という字が、なぜ「人が良くなる」と書くのか。それは食によって人間が磨かれていくからです。そしてそれは「腸内環境」からというのはまさに的を得ていると感じます。

コロナウイルスのことで、暗く辛い報道も増えていますが、いつまでも子どもたちが安心して元氣で健康で幸せになれるように私も腸活を楽しんでいきたいと思います。

 

渋い生き方

昨日、藁ぶきの古民家の壁に伝統的な渋墨の塗料を使い塗装していきました。松煙を使った黒い塗料ですが、塗った後の板の木目がまさに「渋い」感じてうっとりとしました。

この渋いという言葉は、室町時代の「渋し」が起源であるといわれ未熟な柿のような酸味、苦味の事を元来は意味していたといいます。

そこから「渋い」、現代でも「落ち着きがある」「趣がある」といった意味とし使用され、現代でも渋いことは格好良いものの一つとして使われています。

この渋さは、ただ見た目だけのカッコよさをいうのではないのは古民家甦生に手掛けてわかるようになりました。聴福庵では5年前に施した渋墨の板壁が今では本当に黒光りして磨き上げられた壁のように艶があります。

これは長年をかけて熟成されてさらに雰囲気があり格好よくなっています。渋いことに似た言葉に「いぶし銀」というものもあります。時間をかけて磨き上げられた美の魅力を表現する言葉です。

この「いぶし銀」は「銀」の持つ性質のことをいいます。一般的に金属の中には錆びていきますが「銀」の場合は、化学反応によって硫化し表面が硫黄銀で覆われていきます。すると黄味がかった色が黒へと時間をかけて色合い・風合いが出て魅力が上がっていきます。いぶし銀は、ピカピカするような輝きは失せまずがその分、「渋い」感じが出てくるのです。

この「いぶし銀」の持つ渋さや奥行きになぞらえて、「いぶし銀の活躍」などという言葉のように「魅力的な人」の代名詞になっています。

このいぶし銀の持つ、渋さは本物の実力を兼ね備えた人ということです。渋い人というのは、真の魅力を持っているということの意味でもあるのでしょう。私は、古民家甦生をするときによくこの渋い黒を用います。黒が好きということもありますが、私は正確にいうと熟成されていくのが好きなのです。なので発酵も大好きですし、時間をかけて醸成させていくのにもっとも興味があります。

9年物の高菜漬けを漬け続けるのもまた熟成されたものでしかでない芳醇な香りと品のある味を学ぶためでもあります。

「渋い」というのは、一つの生き方でもあります。

渋い生き方ができるように、伝統や日本人の美意識から学び、子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

尊重する世界

世界にはまだ100以上の外界と接触していない民族や部族があるといわれます。アマゾンの奥地であったり、山の高地であったり、あるいは孤島の中であったりします。そこには独自のユニークな文化や生活様式を発展させ、少数ながらもその風土に適した暮らしを実現しています。

グローバリゼーションの中で、世界はあらゆるところに行けるようになりあらゆる文化や生活様式を一変させてしまいました。工業製品などは、安くて便利なものがあらゆるところに行き渡りその土地の生活様式を変えてしまいます。

今までよりも便利なものが外から入ってくればそれが今まで風土に合った手間暇かかるものよりも価値があると欲を優先してしまうのでしょう。そうやって日本も江戸時代から明治にかけて西洋文化や工業製品などが膨大に流入してそれまでの文化を手放していきました。

特に若い人たちは携帯電話をはじめ、目新しい道具を使って力を手に入れることに敏感ですからあっという間に広がっていきます。そうやって世界はどこにいっても、同じような価値観の社会を広げてきたのです。

しかし同時に、外界と関係を断っていた民族は外からやってくる病気やウイルスに対する抵抗力もありません。なので、あっという間に蔓延して絶滅したところもたくさんあります。またその反対に、今まで関係を持たなかった地域の危険な風土病が世界に広がっていくということも発生します。

お互いを尊重してそっとしておくような関係が維持できれば、その場での平和は保たれるのでしょうが現代のグローバリゼーションはそこに資源を取りにいき、経済成長のために浸食していく仕組みですからそっとすることは不可能です。このまま最後は、世界のあらゆるところに隙間がないほどに入り込んでいきます。

そのうち、宇宙人というものを地球外に見つけそこに向かって移動していこうとするでしょう。そして現在の少数民族とのやり取りのように病気を持ち込み資源を奪い、また経済成長のためという大義をもって浸食していくということは簡単に予想ができます。

よく考えてみると多様性というものは、尊重されることで維持されるものです。尊重せずに浸食すれば多様性というものはありません。その尊重は、無理やり折り合いをつけるのではなくお互いの最適な距離感の中で見守りあっていくことであろうとも思います。これは自然界の仕組みそのものでもあります。

世界は、何で一つになるのか。それがいよいよ人類に問われている時代だと私は思います。

後悔しないように子どもたちの憧れるような生き方を譲り遺していきたいと思います。

結友の仕合せ

昨日は、また藁ぶきの古民家で結友の仲間たちと掃除やべんがら塗を行いました。大変な作業もみんなで助け合って取り組めば心地よく、家も人もみんなが元氣になっていく感覚があるものです。

また人は一緒に何かをすると、その人の個性や人間性が観えてきます。対面で相手の様子を伺うよりも、一緒になって作業することでお互いの特徴や人柄、そのほかの得意不得意などを知り、心が通じ合っていきます。

掃除の効能は、一緒に取り組むことでお互いを尊敬しあうことができることです。一般的には現在はすぐに比較や競争、評価ばかりが重んじられていてなかなかお互いを尊重して認め合うことができません。一緒にやるよりも、個々の専門分野の人の役割のように配置されているものです。しかし実際には、自分にはない多様な能力や個性がありますから力を合わせた方がいい仕事をすることができます。

ここでのいい仕事は、決して完璧に仕上げることではありません。豊かさやつながり、また楽しみや喜びを感じることができるいい仕事になるということです。一緒に取り組むというのは、それをたくさん味わう時間が持てるということです。

私は、結果よりもプロセスのタイプでみんなで一緒に取り組んだり、味わったり、振り返ったりする方が楽しいと感じるタイプです。終わらせることや目標を達成することだけがいいのではなく、そのプロセスが如何に豊かであったか、仕合せであったかを確認するものです。そのためには、お互いを認め合い、一緒に取り組むという体験を増やす必要があるのです。

それは別に能力があるかないかだけではなくです。昨日は、小学生や大学生が来ていたり、シェフや主婦の方などがそれぞれで一緒に作業しました。みんなで取り組むことで、その人の仕事ぶりが観えてうれしくなります。それはその人がここがダメだとか、ここは直さないととか評価は全く入りません。むしろ、下手でもその人が主体的に取り組んでいることが楽しいのです。子どもたちも最初はみんな上手い人はいません。みんな下手です。そのみんなが協力し合って取り組んだものは下手でもそこには楽しみや喜びがあります。それはみんなの心を通じ合わせて取り組んだからです。

本来の価値とは何か、それは人が仕合せになることです。その仕合せになるために、結果があるのだからあまり上手いとか能力があるかとかにこだわる必要は私はないと思っています。

なぜなら、それが認め合い尊重することになり慢心を戒め、人が謙虚に感謝しあい助け合うための基礎になっていくからです。本来の教育とは何を教えるものか、それは評価や比較ではないと私は思います。なぜならそれで幸福を感じにくいからです。幸福を感じるためには、みんなで下手でもお互いで教え合い知恵を出し合い許しあい、認め合い、助け合うことです。

結友の集まりはいつもそれを実感させてくれます。

こういうプロセスを経て仕上がっていく藁ぶきの古民家は心のふるさとです。子どもたちのためにも憧れるような生き方を増やしていきたいと思います。