歴史を創る

この世の中には、ずっと残るものと残らないものがあります。それは歴史を学べば気づけるものです。例えば、建築物であれば長いものでは1000年以上もありますがほとんどのものは100年持つことは現代ではあまりありません。記憶も同様に3代くらいは口伝などで引き継いでもその前の代のことを覚えている人はほとんどありません。こうやって時代には、残るものと残らないものが篩にかけられて選別されていきます。

私たちは今を生きていますが、前のことでは生きてはいけません。過去の栄耀栄華がしがみついて生きていくことはできず、常に今を刷新して前進し続けることでこの世に存続することができています。

一見、時代的に長いものを観たとしてもそれはずっと同じままでいたことはありません。つまり、その時代時代に変化し続けて手入れをしているから今も持つのです。

あの法隆寺は1300年建っていますが、これも何もしていないのではありません。それをずっと守るために信仰を絶やさずに手入れを怠らないから今でも建っています。つまりは、その時代時代にそれを守る人が出たからといことです。そして守るためには、単に維持していけばいいのではありません。

時としては攻めて変革をしたり、またある時は守りに徹して粛々と大勢の批判に耐えながらも本質を貫いたりと、真摯に手入れをし続けてきたのです。

この手入れが悪いと、そこまでで途絶えてしまいます。今でも甦生し続けているものの手入れはなんでもいいわけではなく、常に本質を守りながらその時代の価値観に対応し続けるという初心を忘れない温故知新の知恵を持つ人たちが挑戦が必要なのです。

それが歴史を創るということなのです。

歴史は残すだけのものではなく、創り続けるものなのです。だからこそ新しく創めることに挑戦していく必要があります。今までのものを創新するのです。

私が取り組んでいることは、なかなか理解されないことですがそのうち時代が変われば理解されると思います。それまでは挑戦を楽しみ味わい、新たな未来のために歴史を掘り起こし、甦生し、磨いて創り続けたいと思います。

徳循環の社会実験

今週末はいよいよ徳積堂のオープンです。徳循環の社会を創造すべく、念願が叶いいよいよ「徳」を甦生させる活動を本格化していきます。今の時代の徳とはどういうものか、それぞれの時代で徳の大切さは語られてきましたがこれから新しい時代の幕開けに際しここから新たな徳の真価を発信していきたいと思います。

「徳」においての私の先生といえば、二宮尊徳です。私は二宮尊徳を非常に尊敬していて、30代の10年間はずっと二宮尊徳の遺した言葉や遺跡を歩き、またその言葉の意味をなぞるように学んできました。どの遺した言葉も私の魂に深く響き、それを社業にも反映させていきました。

例えば、「一円対話」というのは二宮尊徳の一円観を参考にしたものです。聴福人は、桜町陣屋の近くの親鸞上人の高田山でのメモ帳にあった言葉で閃いたものです。また今の時代の人たちが捨てるものを拾い集めて甦生するようになったのも二宮尊徳の生きざまから学んだものです。実は他にもこれから私が取り組むもののほとんどは、似たようなことを実行していくかもしれません。

金融に取り組むのも、積小為大からでもあり、至誠、分度なども今の会社経営だけではなく、あらゆる私の取り組みの根底を支えています。それはこの世の自然の真理を活かしたというところに深い信頼があるからだろうと思います。

いよいよ徳積堂を始動するにあたり、既存の価値観との融和するためにその土を醸成していきます。そのためにまず取り組むのは、「推譲」の真価です。

二宮尊徳に「譲って損なく、奪って益なし」があります。

言い換えるのならこれは、みんなで譲っていくことは徳になり、奪うのをやめば徳になる。徳の循環を実現するために、ここから温故知新した社会実験をスタートさせていきたいと思います。

塞翁が馬の会

故郷の旧庄内町(飯塚市)に「塞翁が馬の会」というものを新たに立ち上げました。これは、「結」といった日本の伝統的な互助の知恵を現代に温故知新して甦生させるためにはじめたものです。

この「塞翁が馬」という言葉は中国の有名な故事の言葉で正確には「人間、万事塞翁が馬」といいます。この塞翁は、人の名前ではなく国境の塞(とりで)付近に住む老父という意味でその馬のことを指します。

この故事の内容を日本語に現代語訳すると、「辺境の砦の近くに、占いの術に長けた老父がいた。ある時その人の飼っていた馬が、どうしたことか北方の異民族の地へと逃げ出してしまった。人々が慰めると、その人は「これがどうして福とならないと言えようか」と言った。数ヶ月たった頃、その馬が異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来た。人々がお祝いを言うと、その人は「これがどうして禍をもたらさないと言えようか」と言った。やがてその人の家には、良馬が増えた。その人の子どもが乗馬を好むようになったが、馬から落ちて大腿骨の骨を折ってしまった。人々がお見舞いを述べると、その人は言った。「これがどうして福をもたらさないと言えよう」一年が過ぎる頃、砦に異民族が攻め寄せて来た。成人している男子は弓を引いて戦い、砦のそばに住んでいた者は、十人のうち九人までが戦死してしまった。その人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、父とともに生きながらえる事ができた。このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は深淵で、見極める事はできないのである。」とあります。

まるで「禍福は糾える縄の如し」のように、縄をあざなえば上下が交代で発生するように禍福もそのようなものであるということです。この禍とは何か、それは福のことです。そして福とは何か、それは禍のことです。つまり禍福の本体とは一つであり、自分のものの見方と心の持ち方でどうにでも観えているだけということです。

自分を中心に物事を考えていけば、自分にとって禍だとするときそれは周りにとって福になることもあり、自分にとって福であるのは周りにとっては禍であることもあるのです。そしてそれは自分の人生においても同じく、禍福は常に入れ代わり立ち代わり交換しながら訪れてきた半生でした。

例えば、一人の人生においては苦難や失敗があったおかげで気づかなかったことに気づき、それを努力し乗り越えて転じるとき、善いことになるものです。または逆に、楽をして上手くいったからと福を満喫しているうちに見落としたことが増えて気が付くとそれで転落することになるものです。かつて二宮尊徳は、余話の中で「禍福二つあるにあらず、元来一つなり。」といいました。それをこういう話で例えます。

「包丁で野菜を切るときは福だが指をきれば禍になる。柄をもって切るか、指を切るかの違いだけだといい、次に水を使った田んぼの畦の例えから、畦があれば田んぼは肥え、畦がなければ田んぼは痩せる、その違いは水は同じでも畦があるかないかのみとしました。さらには富も、自分のために使えばそれは禍になり、他人のために使えば福になるとし、同じく財宝も貯めて使えば福になり、貯めて使わなければ禍になるのだ」と。

結局は、ここでも禍福とは同一のものでありそれはその人の転じ方次第であるといいます。つまり禍福が問題ではなく、如何に「活かすか」にかかっているということです。

私は「活かす」というのは「禍いを転じて福にする」ことだと定義しています。そして禍福を一円のように丸く融合させるとき真の平和が人々に訪れます。

「塞翁が馬の会」と名付けたのは、物事に対してそういう初心を忘れないで取り組んでいこうという気持ちからです。偶然に発足した会ではありますが、この会の生き方や心の持ち方が故郷の人々、そして風土、暮らしを甦生して日本、世界を平和に導いていけるように禍福を豊かに味わっていきたいと思います。

甦生の目的

藁ぶきの古民家の甦生が中盤に入ってきました。傾きを直してからは床板から天井板の設置をはじめ梁の修復や柱の補強をしています。どれくらい前から傷んでいたのか、まさに満身創痍ですが一つ一つ丁寧に修繕されていくたびに家が喜び甦ってきているのを実感します。

一つの家を甦生するのには本当に多くの人たちの手が入ります。むかしは専門の業者さんたちだけが取り組むのではなく、近所の人たちや縁戚関係、他にも仕事仲間や地域の方々などが手伝ってくれて家が建っていたのだろうと推測できます。

棟上げの際の御餅まきも、直会も手伝ってくださる方が多かったから存在していた行事であったことがわかります。このプロセスそのものが家を建てる中に入っていたように思います。

一つの家を建てる、そして一つの家を直す。これは家を守ることを学ぶだけではなく、家族を守ること、地域やふるさとを守ること、そして国を守ることを学んでいた大切な教育と伝承だったのでしょう。

その教育や伝承の仕組みが失われれば、同時に守ることを学ぶ仕組みも消失したことになります。今の日本の問題はこの家をみんなで直すということがなくなったところから始まっているような気もしています。

これは単にリフォーム業者にリフォームを頼めばいいという話ではありません。それでは先ほどのお金で家を業者に建ててもらうだけの話と一緒になるからです。以前、ある古民家を甦生した際に、家主さんが近くに住んでいるのにほとんど一度も現場に見に来ることがないことがありました。

その際、日ごろあまりものを言わない大工棟梁が家主さんに自分の家に愛着がないのかとなぜ見に来ないのかと諭していたことがありました。家は単に物ではなく、深い愛情をかけてはじめて建つものです。愛情のないものを建てても、そんなものが大切な家族を守ってくれるはずはありません。

家は、大切なものを守ろうとします。その家を治すということは、その守りたいと強く願う家を守りたいというさらに強い思いによって甦生させていくのです。私の取り組む甦生は、単に家をリフォームするものではありません。

一体何を甦らせているのかということを感じてほしいのです。

今、私たち人類は大きな節目を迎えています。物に溢れて経済成長し続けて豊富な資源を使い切る寸前まで贅沢な生活をお金によって得ています。しかし自然界では、この人類のつくってきた幻想的な豊かさは本来の姿ではないものです。今は、まだギリギリでお金によって幻想を保つことができていますがそれもまもなく終焉を迎えるほどに資源が枯渇してきています。

私たちは何が本当の豊かさであるのか、そして何が仕合せであるのかを真に問われる時機に入っています。

私の甦生は、単に古民家再生して利活用するためにやっているのではないのはそもそもの初心や目的が異なっているからです。子どもたちのために、何を譲り遺してくのか。今の世代の責任をどう果たしていくのか、それをプロセスすべてて伝道し伝承していきたいと思っています。

新たな甦生が、世界を易えていけるように真心で取り組んでいきたいと思います。

やり遂げる力

運とは何かということを考えることがあります。幸運を持っている人と、不運を持っている人。どちらにしても運というものは誰にしろ存在するものです。ただし、その中に運を活かす人と活かさない人があるというのは現実としてあります。

この時の運とは何かを定義してみると、それは機会でありチャンスのことです。つまり運は別の言葉にすれば機会やチャンスのことでありそれを活かすか活かさないかというだけであることはわかります。ここからの文章は運をチャンスという言葉に置き換えて書いていきます。

チャンスというのは、そもそも挑戦する機会のことです。毎回、挑戦する機会がありますが今がその時かどうかをまずはよく観察して耐え忍ぶ必要があります。これは季節でいえば、今が蒔き時なのかもしくは収穫の時なのかを見極める目のことです。蒔き時に収穫しようとしてもその時は実がなく、収穫時に蒔いても実がなることはありません。

自然にリズムがあるように、私たちはその時を捉える力がなければチャンスを掴むことができません。これが一つの幸運というのは事実です。そしてもしも掴んだならば、それをやり遂げなければチャンスはものにすることはできません。掴んだら何が何でも話さずにやり遂げるといった強い思いが必要になってきます。簡単に手放してしまったら、チャンスは逃げていきます。

チャンスが逃げないようにするには、何が何でもやり遂げるといった強い思いと実現するための力が必要です。その力が発揮されてはじめて私たちは運を活かしたといえるのでしょう。

ゴッドファザーの映画で有名な小説家のマリオ・プーゾがこういう言葉を遺しています。

「運と力は、切っても切れない関係にある。運がめぐってきたら、やり遂げる力がいる。また、運がつくまで待つ力も必要だ。」

つまり運を掴んだなら、あとはやり遂げる力次第ということでしょう。

また熊沢蕃山の遺した歌にこうもあります。

「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」

今の私の心境は、これに近いように思います。チャンスはまるで絶望の中の希望のような明るさがあります。例えれば闇夜の中の星々のような存在です。その一つの星を掴み、それを光らせて輝かせるのが私たちの役割のようにも感じます。この存在が宇宙の大きな役割の一端を担います。

子どもたちのためにも運を活かしてやり遂げる力をつけていきたいと思います。

思考を止めない

久しぶりに東京入りして明治神宮をゆっくりと散策する機会がありました。コロナの緊急事態宣言が解除されてから街中は人があふれています。3密を避けてといっても、駅の周辺やデパートなどは行列ができています。変わったのは、すべての人がマスクをつけていることくらいな感じです。

人間は、他人の様子に合わせて多数派の意見や誰か専門家や権力者の発言に依存すると思考停止してしまうものです。簡単に言えば、自分で考えることを止めてしまうという具合です。

本来、現状はコロナの問題は何の解決もしたわけではなくワクチンも接種したわけでもなく、さらに状況は変異株や感染数は増えて悪くなる一方です。しかしみんなコロナ前の日常に戻ってきています。ひょっとしたら自粛して解除までは我慢したのだからとその反動が来ているのかもしれません。もしくは、マスコミの情報を頼りすぎて自分の感覚で判断するのをやめてしまったのかもしれません。

どちらにしても、思考停止してしまえば悪い方の状況がそのうち常識になってしまい何が最善で何が本質なのかもわからなくなってしまうようにも思います。

自分の感覚を信じるというのは、自分で考え続けるということとイコールです。誰かの意見は参考にしても、大切なのは自分の感覚を大切にするということです。

人間は一つの災害に対応するだけでも精いっぱいで、二つ以上の災害に対応するのはほぼ不可能です。感染症が流行しているときに、他の自然災害などが発生すれば悲惨な事態になります。これは歴史を観ればすぐに理解できますが、地震などのあとに死者が増えるのはそのあとに感染症や飢饉などが発生するからです。

連鎖的に何かが発生する前に、何かしらの対処を早急にして次の災害に備えるというのが大切なことだという教訓です。

リスク分散、これは危機回避をするためにみんなで力を合わせて支えあう仕組みでもあります。ブロックチェーンは、DAOといって自律分散の仕組みです。何かあった時のために、いかにそれぞれが自律して支えあうか。お互いの役割を信頼を築いて協力して助け合い生き残る智慧でもあります。

私はコロナだから今の判断をしたのではなく、自分の感覚を信じてずっと今までやってきました。自分の嗅覚、聴覚、触覚などの五感、そして手と足と運を信じて歩んできました。その中で、今はこうすると自分の信じる道を直観して決断をしてきました。それは思考を止めないための工夫だったように思います。

刷り込まれていく世の中で、刷り込まれないことこそが生きるための本当の知恵だと今、私は確信しています。子どもたちが、いつまでもこの地球で仕合せに暮らしていけるように刷り込みを少しでも取り払い、刷り込まれない環境を創るために思考停止する世の中に暮らしフルネスの楔を打ち込んでいきたいと思います。

徳を磨くチャンス

徳積堂が間もなく始動するにあたり、初心を確認する機会が増えています。自己との対話を通して、改めて心の調整を丁寧に紡いでいく毎日です。

徳というものの正体は、なかなか現代では伝わりにくく構想だけを話すとすぐに感謝ポイントや恩返しシステムなどと脳が判断できるもので理解されていきます。私はもともと実践を重視するタイプですが、世の中に現代の言葉で甦生し、今なら何をすれば徳を積めるのかの具体的な事例を伝え、仲間や同志たちと一緒にその豊かさを伝道していきたいと取り組む中で様々な葛藤も生まれます。

特に親しい人や、尊敬できる人たち、また親切な方々になかなか伝わらないときは時機ではないのではないかや、これで本当に良かったのかと自問自答することもあり、その時は静かに元の場所に回帰して徳についてまた自分なりの整理をしていきます。

目に見えないものを語るとき、現代ではそれは宗教の類であると分類わけられます。しかし、この世の中はご縁も同様に目には観えない「つながり」によって存在や関係が結ばれているものです。そしてその空間的にも歴史的にも深く結ばれた縁起によって私たちは自分の道を体験していくことができています。

徳というものもまた中庸であり、実態はわかるようでわからないものです。今朝がた、また整理しているとふと常岡一郎さんのことを思い出しました。この方もまた、徳を積み、自分を磨き切った人生を送られた方でした。同じ福岡県出身の方です。こういう言葉があります。

「徳と毒はよくにている。徳は毒のにごりを取ったものだ。毒が薬ということばもあるではないか。毒になることでも、そのにごりを取れば、徳になるのである。どんないやなことでも、心のにごりを捨てて勇んで引き受ける心が徳の心だ。いやなことでも、辛いとかいやとか思わないでやる、喜んで勇みきって引き受ける、働きつとめぬく、それが徳のできてゆく土台だ。ばからしいとか、いやだなあというにごった心をすっかり取って、感謝と歓喜で引きうけるなら辛いことほど徳になる。」

「とく」に濁点が入ることで、「どく」ともなる。多少の毒は薬になり、良薬苦しともいえる。何も毒がないものは徳にもならない可能性もある。大事なことは、その毒の濁りを洗い清め禊ぎ祓い、徳にしていけばいいのである。最初から毒だからと避けて清らかなところにだけいてもそれは徳にはならないものかもしれません。泥沼の中の美しい蓮のように、私たちにとって大事なことはただ清らかなところで善いことをすればいいのではなく、それがたとえ自分にとっては苦労であっても勇んで訪れてきたご縁に素直な心で取り組んでいくこと。やりたいことのためにやりたくないことを我慢するのではなく、やりたくないこともまた喜んで勇んで引き受ける。あらゆる我執をも手放して、濁った心を見つめてそれを磨いて光らせる正直な想いで引き受けて至善に転換していく。そういう取り組む姿勢や実践の積み重ねによって感謝と歓喜が湧いてきてこそ徳になるのだと。つまり、毒を自分の身体を通して徳にしようという祈りの心の中にこそ徳を醸成する要諦があるということなのでしょう。

これは私の意訳ですから文章をどうとるかは、それぞれの人の解釈ですが徳積みとは禍を転じて福にすることであり、故事の人間万事塞翁が馬のような生き方をするときに出会えるものだと私は思います。つまり素直さこそが明るさであり、その明るさによって濾過されたものが人々の幸福を増やしていくのです。

初心は常に子どもたちの未来のために取り組んでいますから、すべてのご縁を活かし徳を磨くチャンスに換えていきたいと思います。

暮らしのリズム

暮らしのリズムというものがあります。これは単に、自分の生活リズムのことを言うのではありません。この暮らしのリズムは、自然と調和するリズムのことです。暮らしフルネスではこの暮らしのリズムを中心に据えています。

例えば、私は伝統的な高菜漬けをつくっています。高菜をつくるためには、まず種どりをしなければなりません。今の時期は、花が咲いています。菜の花ですが、高菜はその名の通り高く伸びて花を咲かせます。私の背丈ほどの高さまで伸びていき花が咲きます。

その花が梅雨前には種になり、その種を採取して秋の風が吹き始めるまで冷暗所で保存します。その後は、秋に種を蒔き冬の間に育つのを見守り桜の花が咲く前によく育った高菜を根っこだけ残して新芽が出る前に収穫をします。あとは先ほどの花が咲き種を取る分だけを残しておきます。

そこから高菜漬けに入るのですが、収穫したものをよく天日干しをし仮漬けをします。この仮漬けは塩をまぶして重しを載せて1週間ほど水に漬かるまで丁寧に漬物石と塩を調整します。その後は、本漬けといって杉樽にまた塩をまぶし、ウコンを混ぜて漬けていきます。すると秋前には漬かった高菜漬けを食べ始めることができます。冬の貴重な食糧であり、ご飯がとてもすすみます。

暮らしのリズムというのはこのように、自然のリズムに合わせること、そしてそれを具体的に私たちの身体に取り込んでいくリズムの和合によって成り立ちます。まず、土に触れ、植物の一生にかかわること。そのうえで、それを上手に取り込むために自然の生き物、ここでは発酵ですから微生物のめぐりにかかわること。それらの自然物との一生とつながりながら生きていくこと。

これが私の言う、暮らしフルネスでの暮らしのリズムを言います。

現代人は、暮らしのリズムがなくなってきました。簡単に買い、自然とも触れず、自分たちの都合でリズムを組み立てます。そうすることで、季節感もなくなり、巡りも歪になり、生活リズムも整うことがありません。これでは、自然の無限の恩恵を授かることができなくなりその分、またお金を使って無理をしてととのうための試行錯誤ばかりをしなければなりません。

ととのうのにサウナも流行っていますが、私はサウナはあくまで一時的にととのう環境を与えますが暮らしが整わなければ結局はまた同じことの繰り返しでお金と時間ばかりを使い調和することが難しくなります。

私が石風呂を使うのは、一時的に五感の調和をととのえるのですが本来はそこから暮らしに導入させていく必要があると思っているのです。暮らしのリズムをととのっていくためには、自然と一体になった暮らしの中に入りながら日々の人間社会での生活を味わう環境をととのえていく必要があります。

そこで私は「場」を用意し、暮らしフルネスの体験からそれに気づき改善する環境を提案しているということです。暮らしのリズムは、暮らしフルネスにとって大事な要素です。

引き続き、子どもたちが暮らしのリズムで生きる仕合せや喜びが実感できるように丁寧に自分のいるこの場を整え続けていきたいと思います。

 

暖簾の奥深さ

徳積堂のオープンに向けて着々と環境を仕上げています。昨日は、黒く染めた麻の暖簾を玄関先にかけました。むかしから「暖簾」は日本人には馴染みの深いものです。少し深めてみようと思います。

この「暖簾」は、日本独自で発展してきた文化の一つです。発祥が定かではないようですが平安時代の絵巻物にはすでに暖簾が出てきます。実際に「暖簾(のれん)」という言葉が使われるのは鎌倉時代末期だといいます。禅宗と共に中国からもたらされた禅林用語で、暖かい簾(すだれ)という意味だったそうです。具体的には、禅堂の入り口に夏場の暑い時にかける涼簾に対して、冬場の寒さを防ぐためのものが暖簾です。中国語では、ノンレンとも呼びますからそれが今の「のれん」になったのでしょう。

それが時代とともに親しまれるようになり、日本では中を割って人が通りやすいようにしたり、そこに絵や文字、文様や家紋などを入れてわかりやすいものにしたりと自分たちの文化に取り入れていきます。

ウィキペディアでさらにこの発祥の説を調べてみると

「日本の家屋では戸口にかけて日光や雨などを遮る障具の素材として最初は筵(むしろ)を用いていた。暖簾は古語で「たれむし」といい関連も指摘されている。暖簾が現存する資料に現れる最初のものは保延年間の『信貴山縁起絵巻』で現代の三垂れの半暖簾と同様のものが町屋の家に描かれている。保元年間の『年中行事絵巻』には大通りに面した長屋に三垂れの半暖簾・長暖簾がみられる。 また、治承年間の『粉河寺縁起絵』には民家の廊下口にかかる藍染の色布がみられる。」とあります。つまり最初は、筵(むしろ)だったという説もあります。暖簾の古語が「垂蒸(たれむし)」であり、「垂れ筵」であったともあります。

つまり最初は、玄関に光や風が入ってくるのを防いで寒暖を調整していた道具の一つとして発明されたものということかもしれません。ドアできっちりと開け閉めするものではなく、内外の境界を柔らかくしきったものとして重宝されたのかもしれません。

それが、次第に時代を重ねるうちに商店等の営業の目印とされるようになっていき、開店とともにこれを掲げ、閉店になると先ずは暖簾を仕舞うように使われました。これが転じて屋号のことを暖簾名や暖簾と呼ぶように変化してその商店の信用・格式をも表すようになったといいます。

よくむかしテレビや映画で、暖簾に傷をつけたとか、暖簾を台無しにしたとかのセリフがありましたがこれはそれまでの開け閉めして培ってきた信用や信頼を壊したときに使っていました。他にも暖簾分けといって、その信用や信頼を使わせてもらえることを暖簾で表現しました。暖簾は、単なる寒暖の道具を超えて生き方や生き様にまで昇華してきたということでしょう。

今では暖簾は、看板や宣伝、表札などのうにも用いられています。派手なものからシンプルなもの、カラフルなものもあります。こうやって時代を超えて親しまれ続けているものがあることが日本の伝統文化の醍醐味でもあります。

徳積堂では、黒色の麻の暖簾です。木綿などもありますが、麻はよく風を魅せてくれます。そしてよく暖簾の奥を覘かせてくれます。暖簾越しに観える美しい世界、その境界線の妙を感じてもらうための工夫もしています。

また風情があり、冬は冬の暖かさを演出し、夏場は夏の涼の演出もします。丈夫で長持ちもし、修繕もできます。風化して色が褪せていく様子もまた、独特なわびさびを表現してくれます。暖簾は便利な道具ではなく、まさに日本人の心の情景を豊かにあたたかくする存在なのです。

徳積堂の歴史を、暖簾とともに歩んでいきたいと思います。

藁ぶき古民家の土壁の解体と再生

昨日、藁ぶき古民家の甦生で土壁の解体をしましたが中から百数十年前の竹小舞が出てきました。この竹小舞とは、土壁の下地に使う細い竹のことをいいます。 土壁の下地のことを小舞といい、竹で格子状に編み込んで構成します。

この小舞の下地は法隆寺の建立の時代から存在し、竹が小舞として使われるのは鎌倉時代以降だといわれます。正確には、この壁の工法は「竹小舞下地壁」といいます。

この竹小舞に使う土を荒壁土といいます。これは良質の荒木田土に押し切りで切った藁を混ぜ練った物を寝かして発酵させたものを使います。ほとんどの藁は溶けていきますがこの発酵することによって強度も増えますし持ちもよくなります。そして出来上がった土にさらに藁を足して練り込んで塗り込んでいきます。

実はこの荒土壁は、何度も何度も再生することができます。例えば、500年の古民家であればいろいろな風雨によって傷んでもまた解体して混ぜて発酵させて塗り込めば元通りです。永遠に再生可能な材料によって家が保たれています。

またその土壁の中の竹だから腐らずに傷まずに朽ちずに使い続けることができます。先人の知恵は偉大で、現在では持続可能などと叫ばれていますがむかしはそもそも永遠であることが当たり前だったのです。

地球に住んでいるものたちは、常に循環するものを観続けてきました。ちゃんと廻ってくるものの邪魔をせずに自然の恩恵を享受されていました。現代は、消費文明ですから捨てるものばかりつくり、再生できないものばかりを流通させています。

本来のこの日本の土壁の再生から学ぶことが多いと私は思います。この土は、田んぼの土や河川などの粘土質で発酵するもの。藁も発酵を促していくものです。発酵する技術があることで、いつまでも腐敗やカビなどが発生せずに家が長持ちします。

漆喰もアルカリ性ですからカビが生えません。この辺も先人の知恵で、高温多湿の日本の風土では水が澱むことを厳禁にしていました。なので、風水を重んじ、古民家周辺の地域も風がよく通り、水がちゃんと流れるように設計して配置されていました。まさに澱まない仕組みと智慧で環境を構成していたのです。

今回、この荒壁の土をまた再生してひび割れや壊れた場所を補正していきます。そしてまたいつかこの古民家を再生するとき、子孫たちは私たちがどのように再生したのかを観て家が大事にされていることを知るように思います。

こうやって言葉だけではなく、先人の生き方で私たちは文化を伝承してきたように思います。子どもたちのためにも、今の自分たちが譲り遺していきたい未来を丁寧に紡いでいきたいと思います。