変化の正体

私たちの日常は同じ日々、同じものがあるように感じられていますが実際には同じというものは一つもありません。同じであるものを探しても、いくら同じ型で大量生産したとしても同じではないのです。時間もたてば、そこで使われている材料やタイミングも異なります。そしてそれに触れた時点で、また同じものではなくなります。

ミクロでみても、人間や生き物も細胞一つ一つは常に入れ替わっていきます。体にいる菌においても、あらゆる組み合わせで一緒に生きています。同じということはありません。またマクロでみると、私たちの地球も時速1,600kmで自転しながら、太陽の周りを時速10万kmで公転しています。しかも太陽系は銀河系の軌道を時速85万kmで公転し、銀河系は膨張する宇宙とともに秒速630km(時速約216万km)の速度で移動しているともいわれます。

止まっていると思っている時間や場所であっても、私たちは猛スピードの中で遠くへと運ばれている最中ということで同じ時、同じ場所はないのです。常に一期一会であり、二度と同じ今はないともいえます。

しかし人間は、妄想というか概念の中に同じものを無理やり構築していきます。同じではないことにクレームを出したり、いつまでも同じ状態が続くことが当たり前だと思ってしまうものです。健康も、いつまでも元気だと錯覚していますし空気や太陽などもいつまでもあるものと思うものです。

それが時として災害や病気、死に直面した時などにバグが発生します。こんなはずではないや、こんなことが起きるはずはないと思うのです。しかし、よく考えてみると同じような日々が送れることが奇跡そのものであり、同じであると思えることが当たり前ではない有難いことであることがわかります。

同じものはないからこそ、同じようなものに感謝の気持ちが湧いてきます。

この今も、今日も、同じようにあることが如何に奇跡であるか。そういうものに気づく感性は、変化に気づく感性ともいえます。変化し続けているものに合わせて、自分も変化させ続ける。そうやって万物は全体と調和し続けています。先ほどのミクロであれば、体の変化に意識を合わせていくこと。そしてマクロであれば銀河や宇宙の動きそのものに意識を合わせていくこと。

人間は自分の都合で変化をやめるとき、知恵から離れます。知識というものは、意識の固定に役立つのであり知恵の活用にはほとんど役に立ちません。私たちの感覚というのは、それだけ変化に適応するように備わっているということです。

この世の中は、感覚といのちが構成されているもので本来は成り立っています。そういういのちの繋がりやいのちの変化にいかに感覚を研ぎ澄ませていくか。これからの時代、人間が社会を切り取って同じであると洗脳する意識のなかで本来の変化に適応する力がそれぞれに求められるはずです。

こういう時代だからこそ、先人が研ぎ澄ませてきた感覚を大切にしていく必要を私は感じます。子どもたちにも感覚の大切さに気付いて、それを磨き直していくための環境をととのえていきたいと思います。

観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

謙虚さ

時間の経過を観察していると様々なことがわかってきます。自然界ではありのままに移るので道理に従っていることが自明します。人間関係においては、どのような思い込みであったのかということも次第に明らかになってきます。人間はそれぞれの観念や思い込み、あるいは自分の価値観で相手を見ますから都合よく認識するものです。

思い込みが発生するのは、自分の感情が大きく影響するものです。ありのままのことをあるがままに受け入れることは素直な感情です。しかしそこに自分の過去のトラウマや、こうなってほしいという願望などが入ってくると現実を歪めてしまうものです。

特に執着などがあれば、その執着ゆえに事実も受け入れられず様々な問題をつくりだしていきます。執着を手放すといってもそう簡単には執着はなくなりません。思い込みもまたこだわりや思いの強さでもあったりするので、善悪で考えられるものでもありません。

しかし真に豊かであったり、真の喜びのさなかに入ればそれぞれの存在を丸ごと味わうといういのちの姿になっていくとき執着も思い込みも中和されていくものです。

真心を盡したり、人を大切にしたり、ご縁を丁寧に結んだりしていく人は、様々なことを調えていくことができるように思います。しかし、強い思いで何かに取り組むときはどうしても心がほかのことに使われてしまいそれができないものです。

謙虚さというものは、そういう時に磨かれるもののように思います。自分の力でやっているけれど、それは大きな力をいただいてさせていただいているという感覚。主語を自分にせずに、主体を全体にして自分もその中の一部になるような感覚。

そういう無我というか、真我の境地のなかにこそ思い込みを超えたやさしさや思いやりがあるように思います。

人生は色々な方法でその境地にアプローチできるように思います。日々の学びを磨き、自分らしく自分のままにいのちを歩んでいきたいと思います。

即興と甦生

私は場を研究し、実践するので即興であることが多くなります。この即興は、辞書をひくと「型にとらわれず自由に思うままに作り上げる、作り上げていく動きや演奏、またその手法のこと」をいいます。また音楽、詩作、舞踊、演劇などの分野では「事前の準備なく、その場で作り、その場で表現すること」を意図して使われるとあります。

これは常識やそれまでの通念よりもその「場」の持つ空氣を優先するということです。世間から常識知らずや刷り込みがないとかも言われ、時として誤解されて批判されることが多いのですがそれでも場からの声や、場が喜んでいるかどうかを優先していきます。

私が古民家甦生するときも、基本は常識に従って丁寧に甦生していきます。町家であれば町家、農家であれば農家のようにと最初は型かた入ります。そのあと、その家の歴史や立地、そしてそれまでの物語やご縁や関係性が出てくるなかでその家の独自性やその家の持つ初心のようなものをくみ取っていきます。その声に従いながら即興で工事や大工をしていきながら最後はその家そのもののいのちが循環するように調えて仕上げていきます。これは場を優先している私の甦生の特徴です。

先人たちの知恵を尊重しながらも、今はこうあったほうがいいというのができるのはその先人たちと同じ心を伝承しているからです。その心の伝承は純度が必要でどれくらい、本気の覚悟で先人とともに歩んでいるかということも問われます。

この時代に今も先人がそのまま生きているとしたら、どうするかということを突き詰めるのです。私が即興を重んじるのは、即興かそうではないかではなく先人ならどうするか、今、私も先人と同じならどのような決断をするかと正対していると次第に即興になり柔軟に判断していくことが増えるだけです。

時代は移ろい、本質もその時々で変化します。本質が変化するのは、それだけ全体快適であるか、どれだけの視野で決めるかが微細に左右されていくからです。最後は、純粋に穢れや曇りのない初心で決断していくしかありませんがその直感に頼るときまたそれが外から観たら即興に感じられるということでしょう。

自分の即興、直感は先人の真心とつながっていると信じてこれからも甦生に取り組んでいきたいと思います。

形骸化と初心

人は自分で考えなくなると形にこだわっていくものです。形を残していくことばかりに囚われると、本質や根源的なものが形骸化していくものです。この形骸化という意味は、誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして形ばかりのものになってしまうことをいいます。

なぜこうなるのかということです。

人は常に初心という何のためということ、つまり目的や意味、その本質を思い出すことによって原点回帰が必要になります。最初がどうだったかのかを思い出すということです。論語の大学にも、「物に本末あり、事に終始あり。先後する所を知れば、則ち道に近し」とあります。常に物事には本末があり、それが結ばれている、繋がっている、言い換えれば物語があり存在するのです。

その物語を結び繋がっている人は形骸化することはありません。問題は、繋がっていたものを忘れ、結ばれていたものを切ってしまうことで初心が失われてしまうことです。

人間の体や脳みそは同じことを繰り返すことを自動で行うことができます。人間の体の構造のように、自律神経が働き色々と内臓や血液、心臓などそれぞれに指示して活動しています。人は忙しくてもなんとかなるのは、それだけ自動化されたことが勝手にやってくれているからです。これは日常生活の中でも同様です。忙しくてもなんとか生活ができるのは、自動化されているからです。

自動化の御蔭で大量の業務をこなせるので、確かに便利で有難い能力の一つです。しかし忙しいという字を書くように、心があまりにも多忙になると心はその忙しさに対してついていくことができません、すると、大量のことに対して心が処理ができず形だけになっていくのです。本来のカタチというのは、心と頭、感覚がすべて統合したものです。そこには今というものに、心も現実もすべてが繋がり結ばれている状態です。頭で処理してしまえば、それは本当の自然ではありません。自然というのは、一物全体、一心同体の状態でもあります。

便利にしていくというのは、心を使わなくてもいいということになってしまうと本末転倒するのは明らかです。心というのは、繋がりや結びつきのところでありいのちの本体でもあります。そのいのちを使う喜びや仕合せが私たちの生きる意味でもあります。

形骸化しないためにも、私は暮らしを調える必要を感じて暮らしフルネスを実践しています。

子どもたちがずっと数百年先も、幸福や真の豊かさを味わえる場を結べるように初心を忘れない取り組みや内省を磨いていきたいと思います。

時間と観察

人は時間をかけて観察していくと、本当のことは次第に浮かび上がってきます。短期でその時だけをみるとわからないものが、時間をじっくりかけるとその人の目指す方向性が出てくるものです。

方向性が同じであればいいのですが、時間をかけて方向性がズレていくとそのうち完全にズレてしまうこともあります。お互いに折り合いをつけながら取り組む中で、明らかに逆の方向に向かっているものはなかなか一緒になることはできません。その方が遠くに飛ぶというような弓のようなしなやかなものであれば別かもしれません。

しかし一般的に進む方向が同じなら情熱が分かち合えますが、別だとエネルギーが纏まりません。もともとエネルギーというのは、それぞれのエネルギーの集合体であるからです。同じ目的や方向に対して、全力で自分のエネルギーに集中することしか、エネルギーを合わせることはできません。誰かに依存したり期待しすぎることはそもそもエネルギーが纏まらなくなるようにも思います。そこには、お互いへの信頼や信用、そして夢の共有などがあります。

その目的を忘れずに自分自身に集中することで、またエネルギーは蓄積されていきます。誰かに無理に合わせるということや、誰かに我慢して委ねるというのはタイプにもよりますがそれでは難しいように思います。

どちらにしても、時間をかけて観察することで本当のことが浮かび上がってきます。そのうえで、内省をし、冷静に素直に改善をすることで最後まであきらめない忍耐力が出てきます。

忙しかったり余裕がない時こそ、視野が狭くなりますからそんな時こそよく自己を見つめ直して静かな心でよく観察することが善いように思います。

改善というものは時間が必要です、まさに時間こそ貴重な投資であり人生の醍醐味を磨き上げる妙法です。

色々とこの一年を振り返りつつ、新たな春を迎え、自分自身の生き方を見つめ直していきたいと思います。

自然と聴く

私が尊敬している教育者、東井義雄さんに「ほんものはつづく。つづけるとほんものになる」という言葉があります。時間をかけて伝統や老舗を深めていると、理念が本物であるからこそ続いているのがわかります。

この本物というのは、自然に限りなく近いということだと私は思います。自然は人工的なものを篩にかけては落としていきます。自然に近ければ近いほど、自然はそれを自然界に遺します。つまりは本物とは自然のことで、自然は続く、続いているものは自然に近いということでしょう。

この自然というものは、人工的ではないといいましたが別の言い方では私心がないということです。自然と同じ心、自然の循環、いのちの顕現するものに同化し一体化しているということでもあります。

私たちが生きているのは、自然のサイクルがあるからです。水の流れのように風の動きのように、ありとあらゆるものは自然が循環します。自然の心はどうなっているのか、自然は何を大事にしているのか、そういうものから外れないでいるのならそれは「ほんもの」であるということです。だからほんものは続くのです。

歳を経て、東井義雄さんの遺した文章を読めば読むほどにその深淵の妙を感じます。生きているうちにお会いしたかった一人です。

その東井義雄さんが遺した言葉に、こういうものがあります。

「聴くは話すことより消極的なことのように考えられがちですが、これくらい消極的な全身全霊をかけなければできないことはない」

私は、聴くという実践を一円観で取り組む実践者でもあります。この聴くという行為は、全身全霊で行うものです。ただ聞き流しているのではなく、いのちの声を聴くこと。万物全ての自然やいのちからそのものの本体を聴くということ。そういう自然の行為をするのなら、この世の中は福に転じます。

私が日本を立て直すという聴くことの本意はこの自然と聴くというものに由ります。子どもたちに少しでも善い世の中にて推譲していきたいと思います。

野性との共生

池の周囲には大量の白鷺(シラサギ)が飛来してきています。この白鷺は、夏は田んぼでよくみかけ川の畔にはアオサギなどをよく見かけます。結構、印象深い野鳥ですが当たり前すぎて気に掛けることも減っています。

むかしの日本は、これに鶴などの野鳥がたくさんいたのでしょう。鶴はもともと江戸時代までは北海道から関東地方でも見られたようです。しかし明治時代になると乱獲され、さらに生息地である湿原の開発により激減して今では絶滅したといわれます。葦などの湿原が多くあった日本の土地も、今ではほとんど失われています。

まだ白鷺などの方は、田んぼやサギ山といった林や森があるので生息地が確保されています。野生動物たちの生きる場所や生活の範囲を奪うと、生きものたちは行き場を失っていきます。

むかしの人たちは、敢えて杜をつくり生き物たちが生息できるような境界をもうけて見守り合っていました。自然というものをみんなで分かち合い生きることに真の豊かさを感じていました。生き物が次第に減っていく姿をみていたら、本当の貧しさとは何だろうかと向き合うことに気づけるようにも思います。

現在、鳥類の8種に1種が絶滅危惧になっているといいます。そのうち、ツバメやスズメも絶滅するのではないかといわれています。日本はこの150年で3分の2以上の野鳥が絶滅及び減少しました。

鳥が減っている理由には様々ですが、人間が原因であることは間違いありません。人間の生活が、ほとんど野生の生き物を無視しているところに起因しています。都会の人間だけの生活に憧れ人間以外を無視してきた生活が田舎の隅々にまで広がっていきます。

実際には鳥の鳴き声で癒され、魚や虫たちの多様性に花も実も支えられている私たちがそういうものを無視して排除してきたことで生き物は減りました。一度、絶滅してしまった生き物は復活することはなく永遠にそこで失われます。

あと100年後の日本、及び世界はどうなっているのか。子どもたちが未来に生きるとき、その時、野鳥をはじめ野生の生き物たちはあとどれくらい残っているのか。心配になります。

子どもたちの未来を思うと、まだ今の世代の責任を果たすチャンスがあります。身近な小さな一歩からでも、野性との共生をはじめて伝承していきたいと思います。

 

日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

当たり前のこと

裏方というものはあまり表に出る事はありません。しかし場をととのえ、全体を支える大切な役割を持っています。表で活躍している人の背景には、裏方で支えてくれている人があってのものです。これは家というものも同じです。当たり前に私たちは家に住んでいますが、家があるというのは本当に有難いことです。

家というものを考えてみると、自分を支えて守ってくれるすべてがととのっています。雨風や寒さ暑さ、虫や動物、他にも精神的なものまで守ります。居場所があり、守ってくれて支えてくれています。自分の身体を安全安心に保ってくれるのも家があってのことです。そういう家の存在に感謝しているかといえば、気が付くと当たり前になってしまいお手入れやお掃除もしなくなっているものです。

年末は、改めて色々な今までの御礼を思い出し感謝を忘れずに丁寧にお手入れしていくことで労をねぎらう時間はとても豊かなものです。

私たちの会社は、よく有難うと言い合う文化があります。ちょっとしたことでも有難うといいます。これはお互いに当たり前ではないことに感謝し合う姿でいようと取り組んできたからかもしれません。

最近は、離れていることが多くオンラインになっているのですが家と同じく家族のように支え合っていますから同様に有難うの言葉が交わされます。家にいて、有難いなとどれだけ思えているか。家族にどれだけ有難いと感じているか。心の豊かさというのは、当たり前のことを深く味わえる生き方のことをいうようにも思います。

心が豊かな人は、心がわかります。

忙しい人は、心のことがわかりません。それがもっとも貧しいことではないかと最近は感じます。忙しいことを平気で自慢する人のなかには、心の疲れを隠して誤魔化し、楽観的であろうとしているような人もいます。本来の豊かさは、穏やか、そして静かさの中にあります。

心静かに一人で内省する時間は、格別な豊かさです。

子どもたちにもそういうお手本になれるよう実践を楽しみ味わっていきたいと思います。