本草学の伝承と甦生

本草学という学問があります。これは元々は古く中国で発達した不老長寿その他の薬を研究する学問のことです。日本には奈良時代にこの学問が伝来したといわれ、江戸時代が最盛期だといいます。この本草は木と草のことを指しますが、古来薬用植物だけでなく薬として用いられる動物や鉱物などの天産物として薬用があるものがほとんど記されていました。

日本にある最も古い本草書は、701年の中国の古典『新修本草』といわれます。そして江戸に入り李時珍の『本草綱目』があり、そのあとは私の故郷の偉人でもある貝原益軒が江戸中期頃に『大和本草』を出版しました。これは貝原益軒が79歳の時に一生をかけて本草、名物、物産について調べた結果をすべてまとめたものです。そしてもう一つが同じく江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』です。これを著したのは大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことが編集の動機であったといいます。もともとは中国の明の王圻による類書『三才図会』を範とした絵入りの百科事典で、約30年余りかけて編纂されたものを参考にしたものです。江戸時代がどれだけこの本草学が充実していたかがよくわかります。これに蘭学が加わり、明治に入るころには植物学・生薬学として受け継がれたといいます。

明治や大正の頃の博物学者、南方熊楠もこの和漢三才図会を前頁書き写したともあります。今の時代のように簡単にプリントアウトできない時代は、一つ一つ手作業で模写していたことを思うと学問への姿勢そのものが違うようにも感じます。

古来からの本草学は、神仙思想と合わさり不老不死を求めてきたものです。英彦山の不老園の歴史を調べると、この本草学の影響を多大に受けていたことがよくわかります。信じられないほどの長い年月を薬草の治験や実証実験を幾度も幾度も繰り返し、そして自然の篩にかけられて改善して磨かれたものだけが残っていきました。

まさに伝統と革新の集積そのものがこの本草学であることは間違いのない事実です。先日からスリランカのアーユルヴェーダ省の大臣も来日され、お互いの国の伝統医療の話など色々と意見交換をしましたが日本の誇る本草学をもっと学び直していきたいと感じる機会になりました。

これだけ研ぎ澄まされてきた学問が、明治以降は残念ながら西洋化の波を受けて失われていきました。これでは先人たちの努力や遺徳への配慮があまりにもないようにも思います。微力ながらこの本草学を私なりの暮らしフルネスの実践で甦生して、多くの方々に本来の日本の薬草の知恵を伝承していきたいと思います。

スリランカの大臣

昨日からスリランカにあるアーユルヴェーダ省の大臣、シシラジャヤコリ氏とその奥様、秘書と通訳の方が聴福庵に来庵されお泊りになり暮らしフルネスを体験していただいています。

他国の大臣が来庵するのもはじめてで安全面や食事の内容など緊張しましたが、いつも通りの私たちの暮らしの中で安心されとても喜んでいただきました。ちょうど今の季節は桃の節句の行事を実践している時期なのでお祀りしているむかしの人形の場をご覧いただきウェルカムドリンクに甘酒や玄米おはぎなどを一緒に食べ場を味わいました。

その後は、一通り聴福庵の生い立ちや甦生のためのルール、部屋ごとにむかしの懐かしくそして今に新しい暮らし方を説明しました。長いフライトでお疲れでしたので、先に粕漬の樽を甦生した大風呂に入っていただき備長炭を用いた七輪で春の地元の春の山野草を中心に湯豆腐やこんにゃくなどの日本式アーユルヴェーダの料理で古くて新しくした食文化をお伝えしました。

また会食の間にスリランカでの薬草の話や、在来種の話なども大臣からご教授いただきいつかスリランカに訪問の際は大臣が所有している現地の伝統在来種の薬草の畑やそれを活かした様々な取り組みをご案内いただくことになりました。将来的には両国の薬草や種を通して未来の子孫のために交流できるような関係をつくっていけたらという有難いご提案もいただきました。食後にも英彦山に千年以上伝承されてきた伝統の和漢方の不老園をお湯と共に飲んでいただきましたがスリランカの皆さまにもとても美味しいと評判でした。

最後に、伝統の日本の職人の手作りの和布団でお早目にぐっすりとお休みいただきました。朝食には私が聴福庵の地下水で手打ちで打った十割蕎麦をこれから振舞う予定です。初来日ということもあり、懐かしい日本の文化と真心を聴福庵と共にお届けでき仕合せでした。

もともとスリランカは仏教への信仰が厚く仏陀の教えや生き方を今でも大切に実践されております。私も英彦山の御蔭さまでお山の暮らしの中で修験道の実践することが増えて仏陀の教えに触れていますがそのためかとても親近感があり手を合わせる感謝の交流にも心豊かに仕合せを感じます。

親日国といわれますが、私もスリランカのことが今回の交流でさらに深く親しみを感じました。長い年月で結ばれてきたアーユルヴェーダの薬草の関係や伝統医療が今の時代に日本の暮らしと和合し新しくなり、子孫を見守っていただけるようになればと祈りが湧きます。

ご縁に感謝して、暮らしフルネスを丁寧に紡いでいきたいと思います。

暮らしの伝承

英彦山の守静坊の周囲は梅の花が満開です。この立派な梅園を味わい、梅の実をつくのを楽しみに待っています。特に梅干しにすると、その美味しさは格別で今では山での暮らしの喜びの一つになっています。

またこの時期は、ミツマタの花が開花しはじめます。桜や梅やミツマタは先に花から開花します。周囲の環境はまだまだ閑散とした冬景色ですが、そこに花が咲くと一際春の雰囲気を醸し出し清々しさを増していきます。

このミツマタという花はあまり知られていませんが、これは和紙の材料になるものです。もともと原産は中国大陸南部のヒマラヤ付近のもので、日本へは戦国時代のころに伝来したといわれていますが定かではありません。俳句の世界では春の季語として詠まれてもいます。

ミツマタは成長していくと枝の先がみっつに分かれていくことでミツマタと名づけられたといわれます。漢字では三椏、または三又などと表記されています。英彦山では、ご祈祷のお札をたくさんの檀家さんたちに配布していたといわれます。

和紙の材料のミツマタを大量に植え育て、和紙をすいてはそれをお札にしていったのでしょう。今でもミツマタの群生地がいくつかあります。守静坊にも、壁面の土手にたくさんのミツマタを植えました。日陰であるのと、土がまだ慣れていませんから成長するのにかなりの時間がかかるかもしれません。

宿坊は甦生していますが、現在は庭や周辺のお手入れをずっと行っています。山のお手入れは不慣れでなかなか思うようには進みませんが、この数年後にむかしの宿坊の美しく懐かしい風景をみんなで味わえるように精進しています。

歴史を伝承するというのは、暮らしを伝承することです。

来月には、念願のミツマタの和紙を秋月の井上和紙さんに甦生していただきこれをお札にして枝垂れ桜と共にご祈祷します。また歴史が甦生するのが今からとても楽しみです。

引き続き、生きた歴史、今でも続いている暮らしを調え、英彦山という存在の素晴らしさを後世に結んでいこうと思います。

おにぎりとおむすび

おにぎりとおむすびというものがあります。これを感じで書くと、お結びとお握りです。一般的に、おむすびが三角形で山型のもの。おにぎりが丸や多様な形のものとなっています。握りずしはあっても握り寿司とはいいません。つまり握るの方が自由なもので、お結びというと祈りや信仰が入っている感じがするものです。

また古事記に握飯(にぎりいい)という言葉があり、ここからお握りや握り飯という言葉が今でも使われていることがわかり、お結びにおいては日本の神産巣日神(かみむすびのかみ)が稲に宿ると信じられていたことから「おむすび」という名前がついたといわれています。

このように、お握りとお結びを比較してみると信仰や祈りと暮らしの中の言葉であることがわかります。形というよりも、どのような意識でどのような心で握るかで結びとなるといった方がいいかもしれません。

この神産巣日神は、日本の造化三神の一柱です。他には、天之御中主神、高御産巣日神があります。古事記では神産巣日神と書きますが、日本書紀では神皇産霊尊、そして出雲国風土記では神魂命と書かれます。このカムムスビの意味を分解すると、カムは神々しく、ムスは生じる、生成するとし、ビは霊力があるとなります。つまりは生成、創造をするということです。

結びというのは、生成や創造の霊力が具わっているという意味です。お結びというのは、それだけの霊力が入ったものという認識になります。いきなり握るのと、きちんと調えて祈りおむすびするのとでは異なるということがわかると思います。

また他の言い伝えではおにぎりは、鬼を切(斬)ると書いて「鬼切(斬)り」からきたというものもあります。地方の民話に鬼退治に握り飯を投げつけたもありおにぎりという言葉ができたとも。鬼をおにぎりにして、福をおむすびにしたのかもしれません。

私たちが何気なく食べているおにぎりやおむすびには、日本古来より今に至るまでの伝統や伝承、そして物語があります。今の時代でも、大切な本質は失われないままに、如何に新しく磨いていくかはこの世代の使命と役割でもあります。
有難いことに故郷の土となり稲やお米に関わることができ、仕合せを感じています。子孫のために徳の循環に貢献していきたいと思います。

日本の醸し文化

日本には古来から食文化というものがあります。その一つに酒があります。このお酒というものは、日本人は古来より家でつくり醸すのが当たり前でした。醤油や味噌などと同様に、発酵の文化と一つとしてそれぞれの家にそれぞれのお酒を醸していました。何かのお祝い事や、あるいは畑仕事の後などに呑み大切な食文化として継続してきたものです。

それが明治政府ができたころ明治32年(1899年)に、自家醸造が禁止されます。この理由は明治政府による富国強兵の方針に基づき税収の強化政策でした。実際に明治後期には国税に占める酒税の割合は3割を超え地租を上回る第1位の税収だった時期もあったそうです。

そこから容赦なく自家醸造が取り締まられ、高度経済成長期にはほとんどお酒を自分の家でつくる人とがいなくなりました。実際にはお酒以外にも酒以外にも、砂糖、醤油、酢、塩などの多数の品目にも課税されましたがこれらの課税はその後撤廃されていてなぜかお酒だけが今でも禁止のままです。

それに意を反して、昭和に前田俊彦氏がどぶろく裁判というものを起こしましたが敗訴しています。その時のことをきっかけに全国でも、おかしいではないかと声があがりましたがそれでも法律は変わっていません。先進国の中でもアルコール度が低いお酒でさえ醸造するのを禁止しているのは日本だけです。発酵食文化として暮らしの中で大切に醸してきたものが失われていくことはとても残念に思います。

ちなみにこのどぶろく(濁酒)というものは、材料は米こうじとお水を原料としたものでこさないで濾過しないものというお酒のことです。一般的な清酒はこすことを求めていますがどぶろくはこしません。しかしこのどぶろくを飲んだことがある人はわかりますが、生きたままの菌をそのまま飲めるというのは仕合せなことです。

以前、私も生きたままのものを飲んだことがありますがお腹の調子がよくなり仕合せな気持ちになりました。アルコールはただ酔うためのものではなく、菌が豊かに楽しく醸しているそのものをいただくことでそういう心持ちや気持ちになってきます。

つまりは生きたまま醸したものを呑む方がより一層、その喜びが感じられるのです。

現在、宿坊の甦生をしていて明治の山伏禁止令に憤りを感じましたがこの密造酒として禁止した法令にも同じように義憤を覚えます。

子どもたちが食文化としてのお酒が呑める日がくることを信じて、自家でやる醤油、味噌など日本の醸し文化を伝承していきたいと思います。

道歌の伝承

道歌というものがあります。ウィキペディアによれば、「道を教える道歌とは、随分古い時代からあった。最初から道歌として作ったものと、普通の短歌を道歌として借用する場合がある。借用する場合文句が変化することもある。短歌は日本人の口調に適し、暗誦しやすいので親しまれた。道歌そのものは以前から作られていたが、室町時代につくられた運歩色葉集いう辞典に道歌という字があったという。江戸時代の心学者が盛んに道歌を作った。その後道歌が盛んになった。」とあります。別の辞書を引くと、仏教の教えや禅僧が悟りや修業の要点をわかりやすく詠み込んだ短歌や和歌ともあります。

道徳的な教訓や心学といった道を歩んでいく上での普遍的な生き方を歌に詠みそれぞれが道しるべとしたものです。

私たちの人生は一つの道だといわれます。はじまりから終わりまで道を歩むのが人生で、その中で様々なことを体験し味わい私たちは人間であることを自覚します。これをよく読み直すと、人間がなぜ不安になるのか、欲に呑まれるのか、不幸になるのかなどが昔も今も変わっていないことに気づきます。いくつか集めてみると、

養生は 薬によらず 世の常の 身もち心の うちにこそあれ

孝行を したい時には 親はなし 考のしどきは 今とこそ知れ

めぐりくる 因果に遅き 早きあり 桃栗三年 柿八年

足ることを 知る心こそ 宝船 世をやすやすと 渡るなりけり

強き木は 吹き倒さるる こともあり 弱き柳に 雪折れはなし

日々の健康は日頃の養生、親孝行は今こそすぐやる、タイミングは因果次第、富は足るを知る中に、真の強さは柔軟性など色々とあります。

本当はわかっていても、そう思いたくないという人間の心理もあるでしょう。道歌はそういうことを諦めさせるためにも声に出して詠んだのかもしれません。

人々の長い年月で繰り返されてきた知恵は、今も何よりの徳や宝になり私たちを支えます。先人に倣い、伝承を大切に取り組んでいきたいと思います。

乾燥野菜の知恵

今年は、伝統在来種の高菜の出来栄えがよくすくすくと大きく育っています。収量が多いことから一部は葉物を乾燥して保存させるために挑戦しています。これは以前、郷里の加工の知恵の一つとして湯通しをして乾燥保存してまた戻して食べるという仕組みを試すものです。

少し前まではスーパーなどもなく、夏場に葉物が食べられないこともありました。また山に入るとそんなに里の野菜は食べれません。なので冬の間に乾燥させて、それを夏に戻して食べるという保存方法です。

野菜を乾燥させて保存する技術の歴史を調べると古代エジプト期から存在していたとされていたそうです。もともとエジプトは雨が少なく野菜が生育しない期間が長かったため乾燥野菜が重要な食料として利用されてきました。また古代ギリシャでも、乾燥野菜が重宝したそうです。それに乾燥野菜は栄養価も高く保存もきき調理が簡単であるため世界中で使われてきました。日本は湿潤気候のためどちらかというと発酵の方が保存では使いやすいようにも思います。

日本の乾燥野菜の歴史では、奈良時代からだそうです。具体的には塩漬けや干し野菜がメインでその頃は生野菜の栽培技術が未熟で長期保存ができる食品がありませんでした。そして戦国時代になると食料がますます不足してきのこや根菜類をたくさん保存食としてつくったといわれます。そして江戸時代は乾燥野菜は身近にあり、明治時代に入り洋食の文化が入り一時衰退しますが世界大戦の食糧難でまた乾燥野菜が重宝されるようになり広がりました。その頃には葉物の乾燥野菜も増えたそうです。兵士の食糧などにも使われたそうです。

歴史を紐解くと、食糧危機や食糧難のときにこの乾燥野菜の知恵は使われてきました。今のような飽食の時代は必要ない技術なのかもしれません。しかし時代を観てわかるように、いつまた食糧危機に入るかもしれません。

先人の遺してくださった知恵を伝承するのは、子孫を守る為でもあります。日々の暮らしの中で伝統を守ることは、将来の危機への備えでもあり子どもたちへの歴史の伝承でもあります。

伝統高菜の御蔭で私もたくさんの知恵をいただいています。引き続き、この時代に新たな暮らしを復古起新して子どもたちにその徳を繋いでいきたいと思います。

 

 

徳や恩に報いる喜び

昨日、木材の声を聴いて木材の寿命を伸ばすお仕事をなさっている方が来庵されました。主に神社仏閣や古民家の古材など、長い時間をかけて大切に時が刻まれ守られてきたものを甦生したり保護したりを生業になさっていました。その方が聴福庵にとても感動していただき、「ここにある木材がとても清らかで凄まじい生のエネルギーを発して木が喜んでいる」とメッセージをいただきました。

目のキラキラした方で、日本の伝統や歴史に深い尊敬の念を持っておられたのが印象的でした。

木材というものは、今では普通に建築の材料の物の一つのように扱われていますが本来は生きている木のことです。木は切ってしまえば死んでいると思っている方も多くいますが、木は眠っているだけで死んでいるわけではありません。古民家の古い松の木は今でも松脂が出続けています。また家は湿気で水を吸ったり吐きだしたり呼吸をしています。他にも、温度の変化で膨張したり縮小したりと形を全体にあわせて変化させています。

私は木材の木目を観察するのが好きで、よく木材を磨きます。経年変化していくなかで飴色に変わってきた木材を蜜蝋などで丁寧に磨き上げているとその木目に心がうっとりします。木材のもともと持っている徳が顕れてくるのです。

木は私たち人間よりも長い寿命をもっているものがほとんとです。古民家などは、すでに数百年経っているものばかりでずっしりと場が沈んでいます。長い時間をかけて木材の強度も柔軟性も、表面の木皮もバリアのような膜を持ちます。長く生きるというのは、それだけ修養するということですからそれだけ木材の徳も磨かれていくのでしょう。

今では古い木材は役に立たないからとすぐに廃棄し燃やします。何百年も経ったものの価値を捨てていきます。先祖代々、大切に守ってきたものの価値は目先の安い木材や輸入材、あるいは便利な合成の化学材によって消えてしまいました。縦軸のいのちの繋がりを切ることでお金を稼ぐようになりました。

このような金銭的価値のみで判断し、目新しいものの価値ばかりが良いものだと注目されて陰ながら私たちをずっと支え続けてくださったものへの真の価値は忘れ去られていきました。もっと別の言い方をするのなら今まで守ってくださってきた存在を蔑ろにして、経済効率を優先しました。今の日本の伝統家屋や文化遺産などを観ると一目瞭然です。これでは先人たちからいただいた恩徳に報いることはできないと私は感じています。

本来の仕合せというのは、先祖から今にいたるまでずっと子孫のためにといのちを盡してくれている存在を感じるときに深く味わえるものです。お役に立ってきたものたちが、まだお役に立てるといのちを伸ばしてこの世に留まってくださっているということ。

そういう存在に感謝することなしに、真の仕合せはないように私は感じます。

祈りというものは本来、そういう存在そのものへの感謝をすることではないでしょうか。私の実践は、今の時代の価値観からすれば趣味の強い人や変人のように思われるかもしれません。しかし、価値観が変化しなければ当たり前のことでした。当たり前のことを忘れることを変化というものではなく、当たり前のことを実践し続けことこそ変化だと私は思います。

引き続き、数百年先の子孫が安心して暮らしていくためにも当たり前のことを実践して徳や恩に報いる喜びを伝承していきたいと思います。

 

道具を磨く

「おりん」という仏具があります。お寺をはじめ仏壇には必ずこのおりんがあります。このおりんはもともと禅宗に起源を持つといわれます。禅は瞑想や坐禅を中心とした修行を行っていて、その瞑想や開始や終了、また坐禅の時間、読経をするときの合図として使われていたそうです。そこから他の宗派に広がっていき、今では家庭の仏壇をはじめあらゆるところで見かけるようになりました。

この「おりん」と似たものに金属製の鉢やお椀の形をしたチベットの民族楽器の 「シンギングボウル」 があります。 シンギングボウル は縁を叩いたりこすって音を出しますが おりんは縁を叩いて音を出すだけでこすって音を出したりはしません。その造り方も異なり、おりんは鋳型に金属を溶かして入れて作りますがシンギングボウルは、金属を叩いて作ります。厳密にいえば、どちらも仏具として使われてきた歴史があるのでどちらを用いても用途に違和感はありません。

あるご縁からネパールのシンギングボウルを分けていただき場での瞑想や坐禅に活用していますがその中にはおりんも混ざっています。ただし、432hzに統一しているのでその帯域ではないものは別の祈祷の際などに活用しています。

実際に楽器や仏具の違いなどは、私からするとあまりないように思います。その人がどのようにそれを用いるか次第では楽器にもなり仏具にもなります。これは全てに言えることで、生き方が道具に反映されるのです。

これは単に仏具や楽器の話ではなく、「場」というものも同じです。その場をどのようなものとして活かしているかで、その場にあるものは変わります。場を感じる力というのは、その場を調える人の生き方が反映されます。

時代の変遷を経て、いつまでも祈りや瞑想、そして供養や浄化に使われてきたおりんやシンギングボウルはそれだけ道具としての持ち味、歴史や伝承を宿しています。

むかしの道具たちを活かすことは、今の時代にも結ばれている生き方を伝承していくことにもなります。私は全ての道具を暮らしの中で活かしていきますから、あまり分別や分類することが好きではありません。そのものの持ち味が活かせるのなら、どう活用してもいいという考え方です。

格式を高めたり、敷居をあげるのも好きではなく大切に日常の暮らしの中で一緒に生きていく存在としてなくてはならないパートナーとして活用していく方を優先しています。

3000年以上前から在り続ける存在に深い尊敬の念が湧いてきます。引き続き、自分の思うように道具から学び、道具を磨いて新しくしていきたいと思います。

絶妙な柔らかさ

自然界には柔らかいものと硬いものがあります。それは物質的な素材によって異なります。動物や人間においては、産まれたての時は柔らかく、歳をとり死ぬときは硬くなります。柔軟や頑固というのは一生のうちで変化しているともいえます。

昨年、骨折をしてから今はまだリハビリ中ですが折れたところの筋肉が硬くなっています。使っていない筋肉は硬くなっていき変な力を入れてしまうと張ってきます。他にも人間の肉体は炎症を起こすと硬くなります。緊張をしても硬くなり、血流が悪くなると硬くなります。この硬くなるという行為は、ある意味で不自然であることを証明しています。

もともと柔らかいものが硬くなるのは、伸びることと縮むこととの関係性とも言えます。私たちの成長というものは、伸び縮みを繰り返して少しずつ伸ばしていきます。ある意味、少しずつ伸ばしてことが成長とも言えます。

これは身体に限らず、能力や才能も使い育てることで伸ばしていきます。伸ばしていくのは、蕎麦打ちなどをしてもわかりますが粉を塊にしてこねて打ったらあとはのし棒で伸ばしていきます。美味しい蕎麦にするには絶妙な柔らかさの中には適度な硬さを持たせます。

この絶妙な柔らかさというものこそ自然体で力んでいない状態です。人間でいえば、リラックスをして心も体も調和している状態のことをいうように思います。

余計な力が入ったり、頑固に無理をしていて硬くなっていると本来もっているものも発揮できません。自然体というのは、本来の今の自分にあるものを存分に発揮できる状態になっているということです。

そうやって加齢していっても、年々体は死に向かって硬くなっていきますがその分、心のバランスや使い方や用い方の工夫が取れて絶妙な柔らかさは維持できるものです。

私の尊敬している方々もみんな柔軟な感性を持たれておられ、お会いするたびにその絶妙な柔らかさに生き方を学びました。これらの絶妙の柔らかさを持てるようになるには、日々の柔軟性を高める精進が必要になるように私は思います。

その時々の今のありようと正対しては、そのご縁のすべてを活かそうとする努力です。別の言い方では、禍転じて福になるということや人間万事塞翁が馬という境地を体得しているということでしょう。

子孫のためにも、今私が取り組むことが未来への橋渡しになれるように絶妙な柔軟性で結んでいきたいと思います。