三種の神器の本質

日本には「三種の神器」というものがあります。これは日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝器 であるところの鏡と剣と玉(璽)のことです。詳しい名前は八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種類を言います。

その一つ一つに物語がありますが、この3つには共通するものがあることに気づきます。それはどれも「磨いてひかるもの」ということです。

古来より、神器は至宝とされてきました。この至宝である理由は、それがいのちの根源であることを知っていたからです。いのちの根源は、魂であり、その魂に対して何をして生きることが宝であるか。

それを子孫たちに伝承するための道具がこの神器の存在であると私は思うのです。

先祖たちは、みんなその神話や物語を通して何をもっとも大切に生きていくべきか。その理念や初心をこの神器の存在によて奥義を伝承していきました。今の日本人たちが徳が磨かれているのは、この先祖の真心、勇気、慈愛をカタチどったものを心にもっていたからです。

そしてこれを「常若」といって永遠に甦生し続けるためには、先祖と同じように徳を磨くしかありません。原石を至宝に仕上げていく責任は、自分にあります。自分の一度きりの人生をこの真心、勇気、慈愛をもって切り拓いていく。その中に、和の心が醸成されていくのです。

徳は、とてもシンプルなものですが現代では徳の意味がわからなくなってきています。以前は当たり前であったことを忘れてしまって、当たり前がわからなくなっていますから徳もまた同様にその時代の人たちが磨き伝承しなければ現代人のようにわからなくなってしまうのは自明の理です。

だからこそこの時代でも、先人たちと同様に先人たちが磨いてきたように徳を積むことで子孫たちはその日本の和の心や生き様や生き方を理解し、この日本人の根底にある養分を吸い上げて本物の日本人になっていきます。

私のやっていることは、とても小さなことですが同時に命を懸ける価値のあるものだと信じています。子どもたちが懐かしい未来を生き、これからも永遠に日本人の徳を持ち続けられるように真心と勇気と慈愛で甦生に取り組んでいきたいと思います。

鶴と亀

「鶴は千年、亀は万年」という言葉がります。鶴は千年亀は万年とは、長寿や縁起を祝うときの言葉です。この鶴と亀は、日本の古道具や着物、風呂敷などの染め物によく見かけます。むかしから縁起のよいものとして重宝されてきました。最近は、あまりこの鶴と亀を見かけることは減ってきました。改めてこの鶴と亀の由来などを深めてみようと思います。

この鶴は千年、亀は万年の由来は、古代中国の百科事典「説林訓」において「鶴歳千歳、亀歳三千歳」といわれています。

まず鶴は、死別しない限り相手と一生を添い遂げる鳥だといわれ夫婦鶴とも言われます。子育も一生涯、協力し合い一つひとつ子どもたちが生きていく力を丁寧に教えることでよく知られています。その姿は理想の夫婦像のモデルとされているともいいます。

実際に生きている期間は、20年から30年、動物園では50年ほど生きたとも言われています。その言葉が日本に伝来したころの当時の人たちの平均寿命は33歳くらいでしたから人間よりも長生きする鶴に長寿を肖ったのかもしれません。鶴のように夫婦で添い遂げて子どもをしっかり撫育して天寿を全うしたいと願った人たちの祈りや想いを鶴に見立てていたのかもしれません。

鶴という生きものの生き方に憧れた人たちの美しい心も感じます。

また亀の方は、古代の中国より蓬莱山に住む仙人の使いであると信じられてきました。亀は本当に長生きで、100年くらいは生きて250年を超えるものもあるそうです。実際に、ずっと前の先祖が観たときからずっと生きている亀をみたら如何にそれが神がかっているのかを感じたはずです。長寿の象徴、長生きの神様として崇めてその力に肖ろうとしたように思います。

現代は、平均寿命も80歳を超え、鶴が長生きとは思わなくなったものです。それに鶴もほぼ絶滅してしまい、身近に見かけることもありません。亀も田んぼにいなくなってきていますから身近な存在でもなくなってきています。

人間だけが何よりも長寿になった現代、いのちを持続し続けることができなくなって果たして本当にめでたいと言えるのでしょうか。みんなが長寿を祝うというように、それぞれが持続可能な世の中にしていくことで私たちは本来の長寿の仕合せを感じられるように私は思います。

「鶴は千年亀は万年、我は天年」とは、仙厓義梵(せんがいぎぼん)の言葉があります。千年、あるいは万年生きられるかわからないが、天から授かった寿命を全うしようという意味ですが長寿の本質はここにあるように私は思います。

天寿を全うするために長壽を祈る。

子どもたちが安心して健やかに暮らしていける懐かしい未来のために、鶴と亀に祈りつつかんながらの道を進んでいきたいと思います。

プログラミングのはじまり

プログラミングやモノづくりで自動化のことを思い返していると、日本にも古来から自動化されてきた道具や仕組みがたくさんあったことに気づきます。例えば、少し前に見たものでは水車を改造し脱穀・精米・籾摺(もみすり)農作業の動力源がセットになったものがありました。

水のチカラを借りて自動化するシステムです。他にも風力や火力など、あらゆるものを用いて自動化する仕組みをエンジニアたちは考案していきます。コンピューターは電力で自動化できるものです。

人間が人間以外のチカラを上手く活用して、人間の代わりに働くように活用していくという概念。歴史を省みれば、それを発展させていくことで便利な世の中にしていったように思うのです。

私は分散型のブロックチェーンに関わる人間ですから、エネルギーを分散することも工夫しています。一つだけのエネルギーの活用だけでスマートだとはまったく思ってはおらず、ここでは水、ここでは火、ここでは風、ここでは土、ここでは木、ここでは菌、ここでは光など、ありとあらゆるものを効果的に活用しています。

まさにモノづくりの原点や根源のような暮らしを営んでいて、その中で電気はどう活かすのかということを考え続けています。

本来、私たちは便利さということにおいて自動化をしてきましたがそもそもこの地球のエコシステムほど自動化されたものはありません。みんなで共存共栄しながら発展し続けて調和する仕組みの中で働いているのです。

ここには一切の無駄もなく、最高の便利と共生しています。

便利の定義が、人間の狭い個人の世界だけで語られればその便利は地球や全体にとっての不便です。そして個人的な不便さは、実は全体に対しての最大の便利になることもあります。

私たちは何を中心に自動化するか、それをまずよく思案し思想を持ち、そういう人物が本物というモノづくりをするのだと私は信じています。

この「場」の学校において、和と場をつかったモノづくりの粋を楽しみ味わっていきたいと思います。

 

侘美寂美

日本人には長い年月で醸成されてきた美意識というものがあります。これはその国々の風土と歴史によって美醜の別が顕現してくるものです。それを別の言い方では美学とも言います。

私は古い懐かしいものに触れる機会が多くあるからか、侘びや寂びのようなものに触れるご縁も多くあります。これは一つの日本の美意識ですが、それが何かというものを一言で言うことはできません。

美意識に触れることで自分の中にあるものと触れ合っていく、まさに記憶との連結であり、懐かしい何かがそれを美しいと感じさせるのです。それは例えば、ものの形状や書、詩や風景、音律、もしくは生き方にまで至ります。

どの切り口からも侘びや寂びを語ることができ、その時、私たちは自分の深淵にある民族の感性や感覚、魂がその美意識と語り合っているということです。

鈴木大拙氏がこのように侘び寂びを表現しています。

「わびの真意は「貧困」、すなわち消極的にいえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。貧しいということ、すなわち世間的な事物(冨・力・名)に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること、これがわびを本質的に組成するものである。」

「美とはかならずしも形の完全を指していうのではない。この不完全どころか醜というべき形のなかに、美を体現することが日本の美術家の得意の妙技の一つである。この不完全の美に古色や古拙味(原始的無骨さ)が伴えば、日本の鑑賞家が賞美するところのさびがあらわれる。古色と原始性とは現実味ではないかも知れぬ。美術品が表面的にでも史的時代感を示せば、そこにさびが存する。さびは鄙びた無虚飾や古拙な不完全に存する、見た目の単純さや無造作な仕事ぶりに存する、豊富な歴史的な連想(かならずしも現存しなくてもよい)に存する、そして最後にそれはくだんの事物を芸術的作品の程度に引き上げるところの説明しがたき要素を含んでいる。」

侘びや寂びとは、本来の洗練された価値のままであることだと私は思います。自然のもつ素朴さの中にこそ真実の美がある。つまり自然の美こそが美の至宝であると実感していると思うのです。

自然は葉っぱ一枚、生物の姿かたち一つがまさに芸術そのものです。複雑にみえてその実は大変に洗練されたシンプルさがあります。素朴にシンプルが観えるということは、この侘びや寂びもまた観えているということだと私は思います。

私のブログの文章は思いつきで書いていますから長いしシンプルではありません。しかし何度も何度も真理を見つめ心と対話し磨き続けていけばいつの日か大変シンプルなものになる日も来るかもしれません。そんな侘美や寂美を楽しみ味わいながら歩む人生もまた美意識の一つかもしれません。

子どもたちに譲り遺していきたい生き方を実践していきたいと思います。

徳積堂 

世界にカフェがあるように、日本にも古来からカフェの役割を果たしていたところがあります。それを御堂ともいい、茶堂ともいいます。

むかしよく時代劇などを見ていたら、村の小高い場所や、みんなの集まりやすい場所にはお寺やお堂があります。そして峠や辻などの境界には茶堂があります。

四国はお遍路さんがあったので多いといいますが、その建築物は茅葺の小さな建物でその三面に壁がなく、いつでも誰でもどこからでも上がれるようになっています。ここには、 村人たちの憩いの場であり、通行人や旅人、商人たち、あらゆる人々が村人からお茶などのおもてなしをうけたり情報交換をした憩いの場であったといいます。

禅語で有名な「喫茶去」がありますが、これはいつでも、どこでも、誰にでも同じ心でお茶を点てることを意味するそうです。つまり「特別なことをしようと思わず、いつも通りに平常心にお茶を点てることが大切である」ことを説いているといいます。

穏やかな心で、いつも通りにお茶を点てることでみんなが安心するのです。

私は茶堂や御堂は、いつも心を開いて平等に分け隔てなく刷り込みなどもなく「いのちそのもの」を尊重し合う信頼の場ではないかと感じています。

お茶の接待を受けるということは、裏表のない真心でお茶を点てるということです。そしてそれはご縁を大切に一期一会で巡り合えた奇跡に感謝し合うことでもあります。

私たちは少しでも時間や場や関係がズレればお会いすることはありません。このブログもまた、御縁がなければ目に留まることもありません。それだけご縁は縁尋奇妙であり、そのご縁の仕合せを私たちは全身で味わうことができるのです。それを一杯の差し出したお湯やお水でというのが根源的なつながりを直観させるように思います。

仏教には、山川草木悉皆成仏という言葉があります。この世のありとあらゆるものは、仏そのものであるということをいいます。そして神道には、八百万の神々といってこの世のすべては神様であるともいいます。つまりは、分け隔てなく遍くものをあるがままに認め合う世の中を創造しそれぞれのいのちを自然のままによろこばすこと。

私は「かんながらの道」とも言いますがこれを実感することで人は大切な懐かしい何かにふと気づくように思います。そして「徳」もまたこの普遍の真理そのものを顕していると私は思います。

これから新たに開く伝統の「徳積堂(とくつみどう)」では、同じ祈りを生きる人たちと共に、かつての御堂や茶堂を今の時代に復古起新して子どもたちにそのご縁を伝承していきたいと思います。

時代のターンテーブルのようにここから新たな懐かしい未来のクニづくりがはじまります。

五徳の場

私はよく火鉢を用いて火を熾しますがその中に「五徳」というものがあります。現代の人はあまり見かけることがないと思いますが、鉄瓶や鍋などをのせてお湯を温めたり料理をする際に用いるものです。

その形状が〇に足がついたもの、それが逆さになって爪のようなものが3本~5本くらいついたもの、色々とありますがとても五徳という名前になるようには思えないのです。

そこで少しこの五徳について調べてみました。

まず、山田宗徧という方が書き記したの「茶道要録(ちゃどうようろく)」に仏書にある自在徳、熾盛徳、端厳徳、名称徳、吉祥徳、尊貴徳の六徳があり、その自在徳を除いたことで五徳を由来とするとあります。

この自在徳というのを除く理由は、この五徳という直接火鉢や囲炉裏の中においてある五徳では重たいものや重心のバランスが取れない、火加減を調整するのが難しいなどがあり自在鉤というものが発案されたことからだそうです。

この自在鉤というのは、ひょっとしたらどこかの田舎の古民家で見かけたことがあるかもしれませんが天井から鉄棒や竹などを吊るし鉤のところに鍋などを引っかけて上下に調整して使うものです。五徳を使わないところではこの自在鉤がありますから、本来の六徳であったものの一つを取り除いたから五徳となったということです。

そもそも私はサウナをつくった時にも感じましたが、茶室の源流は仏教にあると確信しています。また五行の徳といって算命学では万物は五行(木・火・土・金・水)で成り立っていると信じられてきています。具体的には、木が福、火が寿、土が禄、金が官、水が印です。順に行けば、幸福、寿命、財、名誉、智慧です。この5つの徳を調和させ一度に活かす場所、それが囲炉裏であり火鉢なのです。

私は日々に火を熾してその徳を磨き、徳を高める実践をしますからこの五徳は常に意識しています。そう考えると、むかしの人たちはこの囲炉裏や火鉢によって心を整え、五徳、もしくは六徳を実践してきたのです。

今回、新たに手掛ける徳積堂はこの五徳と火鉢が茶堂の中心に据え置かれます。千利休がもしも生きていたら、この世の中の心の荒みをみてどうするだろうか。私は千利休ではありませんがきっと私のやっていることに深く共感してくれるのではないかとも信じています。

引き続き、暮らしフルネスの中心にこの五徳があることを念じ、徳積の活動を真摯に取り組んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの本当の価値

現在、働き方改革でオフィスをなくしていく会社が増えています。そもそもこのオフィスとは何か、オフィスをなくすとは何か、深める必要があると私は思います。私たち日本人は古来から、職住一体型の生き方をしてきた民族です。暮らしの中に働くことがあり、私たちは仕事のために働くのではなく暮らしの一部として働いていました。

オフィスがはじまりサラリーマンになり、なんとなく会社に行き仕事をして給料をもらうことが目的のようになっていますが本来はみんなで協力して楽しく豊かに稼ぎ暮らし通して世界人類をはじめ自然と共生してみんなが仕合せになるために働きました。

改めて少しこの辺を整理してみたいと思います。

例えば、私たちは小さいころから学校というものに通いはじめ学校で勉強を教わってきました。しかし学校を卒業したらそれまで義務教育のように誰かが教えてくれる環境や管理される環境がなくなりますから自分で学問を深めていく必要が出てきます。

私も最初に学校というところを卒業してから、それまでの学びと実社会に出てからの学びが全く別物であることを実感しました。勉強をするのではなく、学問を深める。言い換えれば、手段としての勉強ではなく目的としての学問、つまりは道に入るために道を見出し、道を歩み、道に達するための学び方に換わってくるのです。

そうすると、1週間で2日が休みだから何もしないとか、夏休みだから仕事をしないとかそういうレベルの話ではなくなります。このブログのように日々に休むこともなく、道を探求して歩みを続けていくのです。それは学問を楽しみ味わい、一度しかない人生に導かれながら道を切り拓いていくという生き方と暮らし方に転換されていくのです。

そうやって日々の暮らし方が換わっていくとすべての日々の仕事は「ライフワーク(天職)」になりそして人生の目的は「ライトワーク(魂を磨く)」ことになります。そして真の自己の人生そのものを真摯に歩むこと自体が丸ごと世の中のみんなの仕合せそのものつながっていくという境地に入るのです。

そうすると日々は常に学びそのものであり、暮らしはすべて感謝そのものに換わっていきます。学校にいくから学ぶのではなく、学ぶ場のすべてが学校になるのです。つまり自分のいる「場」が人生の道場と化すのです。

私が言うオフィスをなくすというのはこのことに似ています。つまりオフィスをなくすというのは、それまでの仕事をやめて暮らしそのものにするということです。暮らしを豊かに仕合せにすること、暮らしフルネスともいいますがそこは自他一体、すべて分かれているものがない一円合一されている状態になっているということです。

自分の日々の生き方がまさに働き方になり、それが暮らし方として世の中を仕合せにする=暮らしフルネスなのです。これは人類が本来あるべき理想の姿であり、私たちは協力して自律し合ってはじめて暮らしを整えて共存共栄してここまで助け合って生きた存在なのです。

オフィスがあるから大切なことに気づかないのなら、一度思い切ってオフィスをなくしてみればわかります。そしてなくしたオフィスの代わりに何をはじめるのか、何が変わるのか、それを具体的に私がカタチにしたのが「暮らしフルネス」なのです。私と一緒に体験をすれば私の存在から何かを感じ取れると思います。天人合一や真の自己、そして神人一体は生き方と働き方の一致、暮らしの革命によって実現するからです。

何かをやめてみてはじめてそれが何だったのか、必要だったのかがわかります。みんな始める勇気が必要なようにやめる勇気も必要なのです。何をやめることで何がはじまるのか、オフィスをやめれば何がはじまるのか。

私はそれを子どもたちの未来のために、勇気を出していち早く実践してきましたから今のコロナ禍が転じて福になってきているのを実感します。世界人類の仕合せな未来のためにここから一石を投じていきたいと思います。

月への信仰

昨日は、里芋の収穫をしてみんなでお味噌汁にいれて食べました。とても美味しく、心も体にも沁みわたりました。もともと里芋は、むかしから私たち日本人が食べていた主食であり稲が入るまではずっと私たちの暮らしを支えてくれていたものです。

自然農の畑でしっかりと順応して野性味が溢れる味わいは、他の雑草たちに負けじと一生懸命に生きたいのちがずっしりと入っています。

昨夜は月明かりがとても眩く、目が覚めてしまいましたがこの里芋を収穫する時期の月を「芋名月(いもめいげつ)」といい、むかしから里芋を月にお祀りしていた風習があります。十五夜は芋を供え、十三夜には栗、または大豆を供えます。なので十三夜は栗名月、豆名月ともいわれます。

里芋の収穫儀礼は懐かしく、今の稲のように収穫を祝い祈りそれぞれが月に信仰していたのでしょう。この月の信仰においては、私たちはかぐや姫の名前を社名にしているのもありとても深い関係があります。

そもそも日本人がの月の信仰は縄文時代よりもずっと前からはじまっているもので特に縄文時代の人々は自然に宿る精霊と共に暮らし、月は月の満ち欠けによる潮の干満や、女性の月経周期が月とも関係していることから月は自然神の象徴として信仰していたといいます。満月の明かりでお祀りをしていたことが遺跡などからも見つかっています。

日本は、太陽と月、そして天津神、国津神、天孫族や出雲族のように別の2種類の民族が相調和しあい交互に交流してこの国を守り続けてきました。そして長い間混ざり合わさって助け合って今の私たちがあります。

太陽の時代があれば月の時代もあり、本来は太陽と月は昼と夜、天照と月詠が交互に守り合う世界ですから対立しているのではなく調和している存在です。

太陽には太陽への信仰の行事があるように、月には月への信仰があります。現在は、太陽が強く太陽ばかりを信仰することで明々として目に入る眩い光ばかりを照らす世の中になっています。

しかし月は、陰を映す存在であり、薄明かりの中で照らされる徳を顕現する世の中です。私はこの月を深く信じる生き方をしており、月のもつ陰徳を信仰しています。その象徴として、かぐや姫の物語を社名にしており、ロゴマークも月、そして実践は徳積みが中心、さらには行事などもお米作りや発酵、炭を用い、お餅を搗きお供えなどもします。

西洋人は月に対してはあまりいいイメージはありません。死の対象であったり狼男などが出るともいいます。私たち日本人は、月は神様であり、美しく澄んだ光をはなつ月詠、もしくは輝夜姫です。

この時期は、私にとっても特別に月を愛でて味わい月と共に暮らしを楽しむ季節です。子どもたちにもこの月の存在がいつまでも心の徳を照らし続けてくれるように古来からの月への信仰の行事も甦生させていきたいと思います。

お堂の甦生~徳積堂~

徳積カフェの建築が進む中で、この場の名前を復古起新しています。現在、深めているものは「お堂」です。この堂という字は、会意兼形声文字です(尚(尙)+土)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」でできた字です。意味は「こい願う」と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」を現します。

そこから、「高い建物・神社・寺院」を意味する「堂」という漢字ができたといいます。この堂は、 古く接客や礼式などに用いた建物。表御殿。表座敷。そして神仏を祭る建物。さらには多くの人が集まる建物で呼ばれました。

この堂というと、イメージするのが三十三間堂や、平等院鳳凰堂、他にも大聖堂など神仏をお祀りするところを思い浮かべます。ひょっとすると現代では、お菓子屋さんの名前や広告代理店の名前、本屋さんとかいう人もいるかもしれません。

しかしかつては、辻堂やお堂といって村々や町の中でみんなが集まり親睦やコミュニティを育むオープンな交流拠点であったのです。他にも、山伏たちが休む室堂であったり、茶堂といって茅葺でできた旅往く人たちをもてなしたものもあります。日本には古来から人々をもてなす風土信仰があり、その風土信仰を支えた場の一つがお堂だったのです。

つまりはこの「堂」の持つ意味を考えてみると、読んで字の如くその「土地の風土と信仰と交流を見守る大切な場所」ということでしょう。なんとなくお堂が温かく懐かしい感じがするのは、お堂が地域を支えてきたことを心が憶えているからでしょう。

今では、西洋的なカフェがその役目を果たすようになってきていますが本来は「お堂」であったことは歴史に学べば自明します。私は、徳を伝承していくことに精進していますからこのお堂の甦生は大切な使命の一つです。

今回、徳積カフェが完成し、徳積堂として甦生することがとても楽しみです。

最後に、堂で有名な言葉に「堂に入る」があります。

これは論語の中で、孔子のいう「堂に升りて(のぼりて)室に入らず」が語源ですが堂に入るは「堂に升りて室に入る」を略した言い方で、客間にのぼり奥の間にまで入っていることから、奥義まできわめていることを表します。

徳積みの修業はまだまだはじまったばかりで終わりは永遠にありません。なぜならこれは人類の欠かせない修業であり、未来永劫子孫たちが担っていく大切な徳目だからです。

人々が子孫のためにみんなで堂に入るために磨いていく場。

まさに徳積堂は、子どもたちの未来のためにも欠かせない大切な徳の場になっていくと確信し、懐かしい未来が到来することを心から祈念しています。

徳法一致

現在、世界の国々では徳治国家か法治国家の間で様々な政策が検討されています。しかしそもそもこの徳治や法治というものは、本来は目的であるものが手段に入れ替わり、今では別の意味で使われていることがほとんどです。

そもそも徳や法そのものが、思いやりからのものであるのならそこに使われる手段もまた思いやりに満ちたものです。しかしそれがネガティブで疑心暗鬼のものならその徳や法もまた別の意味に挿げ替えられるのです。

人間は、自己中心的な生き物です。

自己を中心として、善悪を決め、そして自分が正しいかどうかの基準を自分の都合で入れ替えていきます。それは歴史が証明しているものであり、現在の国家間のいざこざも冷静に分析すればそれがすぐにわかります。

例えば、人類共通の徳というものがあるとしたらあらゆるいのちへの思いやりです。一緒にこの世に生きているもの同士であるからこそ、相手のいのちもまた自分のいのちの一部と捉え大切に慈しみ接していくこと。自然界の生き物たちはまさに徳治の本質です。

自らで律し、自らが共生するために協力し合う社會を育てることが本来の徳であり治まるということでしょう。そういう意味では、徳や法は外側にあるものではなく人間力といったそれぞれの内面の中に磨いていくものであるのです。

一人一人がみんな自己の中にある欲望や自利的なものを治め、バランスを崩さないように暮らしていくこと。言うなれば自然にかかわり自然との共生に力を貸し、その利子分だけでみんなで分け合い賄うというシンプルな暮らしが徳治であるともいえます。

法治からみた徳治、徳治から見た法治というような対立概念ではなく、徳法一致の全体調和を目指すことこそ、原点回帰であり人類の末永く発展できる未来ではないかと私は感じます。

そのためには、徳法一致する仕組みが現在に必要でそこにブロックチェーンの仕組みが活かせるのではないかと私は信じているのです。

子どもたちのためにも、徳積の智慧を用い時代に挑戦してみたいと思います。