メビウスガーデン(無双庭園)

聴福庵の裏の庭にパーマカルチャーのスパイラルガーデンを私たちなりに解釈して温故知新したメビウスガーデン(無双庭園)を造りこんでいます。今まで自然農や古民家甦生、発酵保存食や見守る保育等々、私たちが学んできたことをさらに混ぜ合わせて昇華させた具体的に「場」には意味があります。

この「場」の体験こそが、新しい経済や新しい生き方、本来の永続的な暮らしを現代でも理解してもらうためにも効果があるように思うのです。

そもそもこの100年で私たちは今までの暮らしをすべて刷新するがごとくに便利で科学的な文明の価値観の中での暮らしに転換してきました。現在の持続可能なエネルギーの中には、原子力発電などもはいっており、こんなものがかつての人類のエネルギーとしては利用されることはなかったのです。

自然界にあるエネルギーを自然のままに活用するのではなく、人間がそれを科学的に加工して急速に使い込む形で科学を発展させさらにスピードを増して増幅させていきました。

この増幅という概念は、ゴミが出ても増やすという大量生産大量消費により競争力を高めていち早く先んじて地球規模で自分たちの優位性を確保しようとする人類の欲望を駆り立ててきたものです。

しかしこの現代の暮らし風のものは、あまりにも理に適っておらずこのままでは資源を使い盡し、生き物たちは絶滅し、人類の社会も歪みや格差が広がり続け、森林も消失し、空気や水が汚染され人体にも害がある循環が増し浄化が追い付かず地球規模で古からの持続可能な暮らしが失われていくのは自明の理です。

この現代の暮らし風の逆である本物の暮らしをしようものなら、今では変人扱いか宗教家、もしくは奇人などと周囲から呼ばれるほどです。私の取り組んでいることも、先進技術を取り入れていてもやっていることは古からの伝統的な暮らしを現代ならこうやればいいと示しているだけであり、それによって現代の価値観に一石を投じて未来の子どもたちのロールモデルの一つにしていこうとしているだけです。

実際に現代の世の中の逆を走っていくというのは、周囲には無意味であり不可思議に感じるものかもしれません。それはとても現代の価値観の中での生活ではリスクを取る事であり、意味不明でもあるからです。何も好き好んで周囲の批判や否定に晒されたいわけではありません。

子ども第一義の理念や初心から、何を今、なすことがもっとも意味があるのかを自分なりに考え抜いてそれを一つ一つ行動に移していくのです。その実践が、長い時間をかけて理想を具現化し、可視化されたものが多くの人々の心を揺り動かす切っ掛けにもなっていきます。

メビウスガーデンは、小さな庭園の中で無限で無双の場を可視化する一つの手段であり私たちの実験場でもあります。古からの自然との共生の暮らしを通して、如何に自分の分度を定め、自律し協力し合い、譲り、自然を喜ばせるか。

運の善い暮らしができることが、新しい時代の一つの尺度になっていくと私は信じています。運の善いとは、自然に従い自然に沿って、自然を喜ばせるような生き方をするということです。

引き続き、自粛中の世の中で場を活用したこのメビウスガーデン(無双庭園)と共に暮らしを楽しみたいと思います。

 

人類の反省と生長

私たち人類は、長い間何を食べてここまでいのちを永らえてきたか。過去には、様々な飢饉や飢餓を体験してきた人類は食糧難の大変さを身に沁みて味わってきた民族でもあります。

しかし現代は、食料過多で大量の食糧を日々に廃棄しています。特に日本は世界で6番目の一人当たりの食品廃棄物を出している国家でアジアではトップです。まだ食べられる食材を年間約621万トン捨てているということになります。

約621万トンの内訳は、スーパーや飲食店などの事業系が約339万トン、家庭系が約282万トンとです。世界では飢餓で苦しんでいる人たちがいて、その食料援助量は約320万トンといわれます。その倍を捨てているのだから、信じられない数字です。

かつての日本は、質素倹約し、捨てるものが一切ないほどの循環型社会を江戸時代に築いていました。100年ちょっとの間に、こんなにも循環しない消費のみの社會を築き上げ、捨てるものばかりの国家になったのは驚くばかりです。

徳を積む国家から、徳を減らす国家になり、先人たちが積み重ねてきた大切な実践を手放し、アジアのどの国よりも廃棄するようになったのを知って先祖は今、どのような気持ちだろうかと考えてしまいます。

特に日本で廃棄される理由は、賞味期限の短さだといわれます。まだ食べられるようなものも、現在は食材を確認するのではなく消費期限や賞味期限だけをみて判断するようになっています。冷蔵庫や保存がきくにも関わらず、なんでも期限が切れたら捨てていきます。これは食品業界が、この数十年のうちにその体制を築き上げていったとも言えます。

見た目ばかりの食品をつくるのは、たくさん買ってもらうためです。見た目を意識するばかり、肝心な食というものの本質が崩れていきました。食はいのちそのものであるというよりも、見た目の美味しさの方が価値があるようになっていきました。

現在、コロナで飲食業は大変な思いをしていて友人の経営者たちも苦労していますが敢えてここで本来の食とは何だったのかを立ち止まって見つめ直す機会かもしれません。

最近は、行き過ぎた乱獲で魚はいなくなり、田畑は農薬と肥料で疲弊し、自然の生き物たちは猛スピードで食物連鎖が崩れ絶滅し始めています。いつまでもこんな消費することしか考えない世の中を続けるのか、今のままで本当にこの先、子孫たちはやっていけるのか。もう答えが出ているのだから、改めるチャンスかもしれないのです。

今回のコロナで、また人類は地球から機会を得ました。人類は何回も何回も好き勝手てきたのにも関わらず、自然に許されここまで生き延びてきました。自然に許されるたびに、私たちは災害や困難と向き合いそれを乗り越える過程で、謙虚にあり方を見つめて、素直に反省して改善を続けていきました。

また機会をいただいた以上、思い切って一人一人が生き方を換えて変革し世界を以前よりももっと素晴らしいものに換えていけばいいのです。機会によって自らを見つめ、その機械によって自らを変える、この繰り返しこそが伝統文化の継承であり、文明の温故知新、進化成長なのです。

子どもたちが喜んでくれるような決断を続けていきたいと思います。

暮らしのロールモデル

これから自然農園の田畑を、暮らしフルネスの農場として甦生するために昨日は大勢で畑の草刈りを行い、荒地を甦生して耕しました。日差しが強くて、体力をだいぶ消耗しましたがいつものむかしの田んぼでのお昼ご飯のように玄米を竈で炊き、採れたての新玉ネギを使ってハヤシライスをつくりみんなで一緒に食べたら疲れも取れました。これから畝をつくり、マルチをして種蒔きをして収穫まで見守ります。

思い返せば、自然農に取り組んでから随分と長い月日が流れました。肥料も農薬も使わずに耕さずに草も虫も敵にしないという農法でしたが山間の野生化した荒れ地では人力でいくら手入れをしていても害獣たちが波のように押し寄せ、また雑草の生命力が明らかに人工的な野菜を凌駕し、なかなか自然循環の一部として許してもらえるようにはなりませんでした。

しかし、約10年の間、伝統の高菜を育てているうちにその境目というかどこまでが許されてどこまでが許されないかということを学びました。もちろん、農薬や化学肥料は一切用いないのですが今の時代に存在する科学は道具もある一定のものは活用して賢く取り組むのです。

かつては自然農だから一切耕さないと意地をはっていましたが、場所や農地によっては多少の手配は必要です。私の自宅の庭は、完全に自然農の理念で簡単に野菜がつくれます。それは住宅地がある場所であり、自然はやや人間側に傾いているため害獣もおらず、虫も雑草もそんなに強力ではありません。つまり人間が里山のように形成している場での農業のやり方と、完全に人里離れた山林の傍の場での農業のやり方では異なるということです。重複しますがなんでも一律にマニュアル通りにいくようなことは一切なく、その場その場に応じた工夫と改善は必要なのです。

古民家甦生を通して私はその辺の柔軟性を身に着けました。そのものの徳を引き出すことが何よりも優先するものであり、それ以外のものはある程度は裁量に任せて工夫の余地があるのです。

大事なことは、徳を引き出すのであれば道理は叶うということです。

これから野生化の農場をうまく管理して、そこに新たな自然循環の実証実験の場にしていきます。自然に寄り添い、自然を喜ばせるために如何に人間が自然から学び自然に近づき、自然の許容範囲に対して折り合いをつけつつ、全体の徳を引き出していくか。

挑戦ははじまったばかりですが、新しい取り組みにわくわくしてきました。何年たっても青春は失われず、いつまでも情熱は子ども心のままです。こういう時だからこそ、みんなのお役に立てるように暮らしのロールモデルを模索していきたいと思います。

ミルクランドの閉店

長年、私たちの社員の食を支えてくださっていたミルクランドさんが4月末で閉店することになりました。創業者の小寺トキさんと出会ってから十数年間、栃木の青空農園で自給した無農薬の野菜や野草を上手に調理された最幸のものを毎日お昼に食べさせていただきました。

安心安全の食の提供といった、信念に裏打ちされた日本でたった一つの店舗であり、未来の日本の子どもたちにとっても必要な場所でした。急なお知らせに、如何に当たり前ではなかったかを、当たり前などないということも再確認し、どれだけ感謝を伝えていただろうかと複雑な思いにもなりました。

しかし、ここからまた前に進み新しい未来がはじまりますから感謝のままに私たちがその志を継いで安心安全の食の提供を発展させていこうと思っています。

思い出してみると、最初にいただいた青空農園で収穫した菜種から油を搾取しそれで採れたての野菜で揚げてくれた天ぷらの味は今でも感動が甦ます。体調がわるいときでしたが、食べるとすぐに元気になりました。食べることのチカラを感じた瞬間です。

そして出張が続き、食が乱れ体調が崩れたときもまた出張帰りに社内で食べた自然の味が心身を癒してくれました。仲間と穏やかな空気のなかで食べる安全のお弁当は人生の歓びを増やし、安心をさらに増幅してくれました。

また日々にミルクランドのスタッフの方々と、付箋紙を使い様々な対話やメニューの感想、味付けなどのことをやり取りするなかで私たちもまた食を考えるきっかけをいただいていました。お土産を交換したり、近況を報告し合ったり、親戚のような関係に心温まる絆をいただきました。

年末の大掃除のあとの仕事納めでは、店長と一緒に深夜まで会社で飲んで振り返りをしてお互いの頑張りを見守り合いました。お酒を飲むとすぐに寝てしまいましたが、大事な話はちゃんと聞いており笑い、楽しい時間の御蔭で新たな年の励みになりました。

最後は、こだわりの強い人たち同志で人間関係でしょっちゅうぶつかりあっていましたから時には相談にのり、またある時はアドバイスや仲裁に入り、持続し合うために協力して乗り越えてきた思い出が残っています。

愛する場所はなくなりましたが、愛する思い出はいつまでも心に続いています。

この愛する思い出をよりよくしていくのは、この先の新しい思い出をさらに発展させてつないでいくことです。あの出会いがあるから、今の出会いがあります。私たちは出会いを積み重ねていくことによって、過去の出会いの意味を完成させていくのです。

心が続いていくように節目を迎えることは、人生の思い出を手入れする機会でもあります。終わっても終わらない関係が、未来を創ります。子どもたちの未来のために、私がその志を受け継ぎたいと思います。

徳積の生き方

先日、ダスキンの社長を務めた駒井茂春さんの言葉を知る機会がありました。その中の「損の道」の話は、私の徳積財団の思想と非常に近いものを感じて新しい時代を感じました。本当の意味で、この損の道を理解している人はどらくらいいるのでしょうか。今は、得が全体を覆ってしまっていますから余計にこの損の本質を理解することが難しくなっているように思います。

改めて、駒井茂春さんのこの「損の道」の言葉から深めるきっかけになればと思います。

「世の中には損の道と得の道があるのですが、得の道を行こうと思ったら満員電車です。損の道を行ったら、ガラ空きなのです。損の道とは、自己を大いなるものに没入させながら損得勘定にとらわれず、他人のために努力する。そういう生き方です。」

真心の生き方は、まさに正直であり誠実です。その道はガラ空きですから周りに人はいませんがすれ違う時に深く心に残ります。まさに損得勘定ではなく、天を相手にした生き方がここから感じられます。

「人生というものは、『出しただけしか入ってこない』というのが私の結論です。何を出すのでしょうか。それは、モノを出すこともあるでしょう、お金を出すこともあるでしょう、知恵を出すこともあるでしょう、汗を出すこともあるでしょう。何でもいい、人さまのお役に立つために一生懸命に出したら、その出しただけのものは、ちゃんと神さまから入れていただけるということです。」

出し切るというのは、全身全霊で丹誠を籠めて取り組むということです。その時、無私は利他になり万物一体善、自他一体の境地に入ります。まさに自然体そのものでお役に立てるように私も思います。

「野越え、山越え、歩いただけが人生です。人生ははるかな旅路と言われますが、
どこへ行ったかということより、どんな旅行をしたかということが大切です。ゴールよりも、野越え、山越え歩んでゆく一日一日のプロセスこそ人生の旅です。今日こそは、新しく生まれ変わるチャンス。悔いのない一駒一駒を、大切に真剣に歩んでゆきたいものです。」

まさに生き方のことで、一期一会にご縁を活かしたか。そしてそれを内省し、自分が体験したことを真摯に深くじっくりと味わったか。人生の充実はまさにこの日々のいのちの使い方が決めているように思います。

最後に、父からかつて紹介していただいた駒井茂春さんのメッセージ「自分から」を紹介して終わります。

「あなたから先に話しかけましょう。あなたの方からにこやかに笑いましょう。あなたの方からいさぎよく赦しましょう。あなたの方から勇気をもって詫びましょう。

『自分が変われば相手が変わる』

あなたが相手にこうしてほしいと思うことをまずあなたが実行することで世の中きっと楽しくなると思うのです。」

徳積とは、この磨き続ける生き方のことです。1000年後の未来に向けて、この今を大切に過ごしていきたいと思います。

自然のリズム~時間を味わう~

今回の新型コロナウイルスの終息後の新しい戦略をどのようにするかを、改めて今を見直しそれぞれのリーダーたちが見つめています。そもそも理念があり、ブレずに取り組んできている方々は、今回の機会を好機と捉え時代に合わせて自分たちの大切なものを守るために変化成長の大切な時を過ごしていると思います。

私たちもまた、今までやりたかったことをさらに発展させ新しい事業と取り組みの準備をはじめています。

特に昨年スタートした「暮らしフルネス」は、私たちの今まで保育で学んできたことの集大成を整理したものです。

子どもたちは、生まれながらに社會を創ろうをしていきます。赤ちゃんで産まれてからすぐに周囲の家族とコミュニティを形成し、その後は集団の中で友達をつくり自立した環境を創造していきます。

安心安全な環境があれば、自由に伸び伸びと子どもたちは自分たちのやりたいことを仲間と一緒に実現していくための社會を学び創造します。その環境の中には、生活のリズムがあり彼らにしか捉えていない時間軸があり、まさに時を味わい時と共に歩みます。これは自然界のリズムと同じく、私たちの生命は自ずから自立と協力に向かって成長しようとしていきます。

それが歳を重ねて様々な教育を施され知識が増えて現代社会の影響を受けるうちに大人になり時間管理をするようになり、次第に時間を味わうことが少なくなり忙殺されていくようになります。自然のリズムよりも人間の管理するリズムになっていくことで、心がうまく調律することができません。

本来、暮らしというものは自然の中に存在するものです。それを充分に味わうことは、暮らしを楽しむことです。時間というものの認識がズレてしまれば、自ずから暮らしは遠ざかっていくものです。

改めて、私たちは立ち止まった時、そこに別の時間が流れていることに気づくはずです。それが自然のリズムであり、そのリズムに沿って時間を大切に過ごしていく仕組みを私たちは暮らしフルネスの智慧として取り込みました。

これは私が保育で学んだこと、古民家で学んだこそ、自然農で学んだこと、伝統保存食で学んだこと、伝統工芸で学んだこと、そしてブロックチェーンで学んだこと、それらの徳がすべて凝縮されたものです。

時代は私の思っていなかった方向に進み、まだまだ大きなお役目をいただけそうな予感がしています。丁寧に、初心を忘れずに取り組んでいこうと思います。

時代のうねり

世界ではロックダウン後の終息宣言をする国家が増えてきました。医療崩壊を防ぎ、緩やかに感染を収めるという目標が達せられたところからアフターコロナでの新しい戦略が生まれ始めています。

まずは中国がいつものように今回の災害を活用して強かに経済活動を5Gに懸けて世界を席巻しています。なんでも使えるものは使い、どんな機会でも利を求めていく生き方はまさに大陸の産んだ文化です。

私たち日本人は、島国で育ち、自然と共生しながら質を追求してきた民族ですから利よりも暮らしの充実を求めていくようにも思います。自然に恵まれ、豊かな四季が暮らしを支えますから私たちは自然に心を研ぎ澄ませていきます。

コロナで世界が一度、立ち止まり、このあとどのように生きるのかをみんな向き合う機会を得ました。立ち止まり振り返った人たちは、コロナの前の元の姿に戻ることを求めず、コロナ後の新しい時代を創ろうとします。まさに私たちはコロナの御蔭で時代が変わる瞬間に立ち会ったと言えるように思います。

コロナ後の生き方と新しい働き方は、私たち人類の運命を易えるように思います。その運命には、つながるということの意味、一緒に生きる意味、集まることの意味、生きることの意味、働くことの意味が重なります。

今まででできなかったことを、新しいステージでもう一度やり直す。そしてそれは、過去の反省を見つめ直し、これからをよりよく生きる挑戦がはじまるという時代のうねりです。

この時代のうねりを活用して、私も子どもたちが100年後から振り返ったときあの決断の御蔭で今があるというようなものにしたいと思います。積小為大、まさにこれから私たちが取り組むのはその最初の一歩です。

アフターコロナの面白く豊かな暮らしフルネスを、カグヤと共に歩んでいきたいと思います。

徳積循環社會の実現

私は、徳を磨くことの一環として人が捨てたものを拾うことを実践しているように思います。それは決してゴミ拾いが好きだという意味ではなく、まだまだその徳が活かせると思えるもの、磨き直せばきっと何か徳が出てくると思えるようなもの、また寿命が尽きる最後まで一緒にお役に立っていきたいと思っているものを拾っているように思います。

それはそこに「徳」が残っているからです。

徳を捨てて私利私欲の得を取るのが今の世の中ですが、本来は得(私利)と徳(利他)がセットになってはじめて全体の道徳経済は一致していくように私は思います。資本主義が偏ってしまったのは、徳ばかりが失われて得ばかりが優先されてきたからに他なりません。

私は決して資本主義を否定するものでもなく、現在の経済も決してダメだとも言いません。実際に私もその恩恵の中で暮らしを育まれており、お金の御蔭で多くの味わい深い幸福も得ています。

しかし否定していませんが、本来の資本主義を完成させるためにも徳循環経済をもっと大きくしてバランスを取る必要があると思っているのです。だからこそ徳積財団を設立し、徳積の仕組みを発明し先進技術によってそれを実現しようとしているのです。

同時にこの徳積は理解がなかなか難しいものでもあります。なぜなら利益中心の世の中においては、無私の発想で放たれる徳の経済の考えは照らし合わせるものがないからです。

長い目でみれば、徳は必ず経済には必要不可欠であることはわかります。しかし現代のようなスピード社會では、その価値はなかなか理解されません。着眼大局、着手小局と先達の人物たちは取り組みましたがなかなかそのような人物が現代では巡り合うことがありません。

世の中の価値観に振り回されてしまい、また組織が大きければ大きいほど、その時代の価値観の影響を受けてしまい取り組むことができないからです。

だからこそ今は、小さい組織で信念で価値観を醸成できるチームを分散させ、その人たちによって草莽崛起するように徳循環の社會を創造していく必要を感じています。

まずはここで自分でやり遂げ、その志を継いでくれる人、仲間を集めてみようと思っている次第です。

引き続き、徳積循環社會の実現に向けて挑戦していきたいと思います。

自然の薬

昨日は、郷里で有名な漢方の先生のご紹介で諫早にある御湯神指しでよもぎ蒸しを体験してきました。ここは、韓国の「汗蒸幕」(ハンジュンマク)を改良したサウナがあります。松の木をドーム型の石室の中心で燃やし、麻布をかぶって入るという約600年の韓国式伝統サウナもあります。

昨年末より胃腸の具合がわるく、疲労の蓄積があると漢方の先生にいわれて漢方治療と湯治を優先しつつ回復につとめています。ちょうど、BAでの復古創新している日本古来のサウナも出来上がったことから敢えて色々と対比しながら学ぶためにも体験してみました。

サウナの方の火は、私の備長炭のサウナと異なり陽の火が強く感じられ長く入っていることはできませんでした。その分、短時間で体内に熱を貯めつつそれを外に排出する作用があり短い時間でも充分な効果があるようにも感じました。難病の方や、重度の病気を持った方が来られることが多いとお聞きし、いのちの燃焼を手助けして寿命を延ばす効果があるようにも感じました。

私は火には、陽の火と陰の火があるように直観しています。陽の火は、キャンプファイヤーの火で明るく燃え盛り爆発するようなエネルギーを周囲に散らしていくような興奮の火です。特徴は瞬間的に、一気に燃え盛るものというイメージです。
もう一つの陰の火は、火鉢の中の備長炭の火で穏やかにしんしんと静かに消えていきながら遠赤外線を放射していく癒し回復を助ける火です。陽の火はアドレナリンが出て、陰の火はドーパミンが出てきます。

つまり火は二つの性質が一体化したもので、火は最初から二つで一つであるということです。陰陽の原理は、いのちの原理であり、最初から水も火も、木も土もすべて二つの別々のものが合わさってできています。これは人という字にもあるように、人間も肉体と魂が融合して存在するように二つが一つになっているのです。

話をよもぎ蒸しに戻せば、このよもぎ蒸し(よもぎむし)は、よもぎを煎じた蒸気を下半身を中心に体全体に浴び吸収させる民間療法で韓国では600年から700年ほど前から、産後ケアとして愛用されているといいます。

よもぎといえば、私も幼いころから怪我をしたり虫に刺されたりしたときの応急処置で使っていました。不思議と、よもぎをすりつぶしたものを塗り込むと皮膚炎が収まったり擦り傷の回復が早かった記憶があります。

漢方でこのよもぎは、浄血、造血、末梢血管の拡張作用、新陳代謝促進、抗アレルギー作用、殺菌・制菌、などの働きがあるといいます。実際に入ってみると、独特な香りがして体の毒素を中和しているような感覚がありました。

そもそもお灸で使うもぐさもよもぎからつくられます。特にお灸に使うもぐさは春、草餅やよもぎ団子になっているあのよもぎを使います。よもぎは春に芽を出す生命力旺盛なもので、街中の道端の隙間や土手などにたくさん生えてきます。生命力旺盛な植物です。そして乾燥したよもぎは艾葉(がいよう)と呼ばれ、生薬としてカラダを温め、腹痛、胸やけ、下痢、便秘など、さまざまな症状に効果があります。

このよもぎのもぐさは、梅雨が終り花の咲く前によもぎを刈り取り乾燥させ臼でくだいたあと葉や茎を取り去るという作業をくり返しくり返しつづけやがてほんの少しのフカフカの綿毛だけになります。この綿毛がもぐさなのです。

乾燥したよもぎからたった200分の1しか取れない貴重なものです。このもぐさにはよもぎに含まれる精油成分があるためか、火つきがよく、熱さ少なく火持ちもよいのでお灸に最適です。

先人の知恵というか叡智には頭が下がります。中国では2000年以上前からこのように民間療法がお灸という形で伝承されてきました。時代が変わっても歴史が過ぎ去っても、効果があったものだけは自然の篩にかけられて今でも残っているのです。西洋からやってきた科学的な薬も短期的には効果がありますが、本来の自然治癒や人間の叡智から編み出された自然の薬はなによりも人々の身体だけではなく心も同時に癒します。

BAの浄化場で自然治癒をさらに究め、人々の心身を癒し自然との共生を回復させていきたいと思います。

日本サウナの誕生

昨年の夏ころから準備してきた備長炭を使った日本古来の伝統サウナが無事に復古創新されました。昨日はその最初に火入れをした記念すべき日で感動も一入でした。

思い返せば、フィンランドのキングオブサウナを訪ねて、トナカイが道を歩いているような田舎までいきその仕組みや原理を学び、その空間や場から本質を洞察しました。また現地のスタッフの方から考え方や生き方、そしてそのおもてなしの在り方までご指導いただき世界標準の水準を設定しました。

そして帰国してからは、日本古来の石風呂をはじめ全国各地にあるサウナ石を研究し収集し、実証実験を何度も繰り返しました。また現代のサウナの聖地と呼ばれるサウナを渡り歩き、日本人にとっての好ましい水風呂の質を研究しました。

同時に医療の事を学び、自律神経を整える仕組みや、漢方を学び、サウナにもっとも相応しい生薬が何であるかなど一つ一つ整理していきました。

また外気浴のために、如何に善い風が吹いてくるか、どの場所に何を配置するともっとも穏やかな感覚になれるかを図面で何度も検証して現在の配置にしています。

日没の夕陽が鳥羽公園に反射してキラキラと幻想的な風景を演出できるように庭も改造しています。

そして用いる炭は、最高級の備長炭をつかい6時間から8時間ほど火を見守り、石に火のいのちを転換させ波動を発生させていきます。

私は正月から体調を崩し、ずっと不調のままでこの日を迎えましたが昨日甦生させた日本古来のサウナによって体調が回復する奇跡を得ました。身をもってまさにその効果を体験でき、これからこの浄化場が人々の心身を救っていくことを道具たちと共に誓い、新しい場が誕生したことをお祝いしました、

この地に、新たな聖地が生まれたことを仕合せに思います。

子どもたちが、安心してこの先も日本の伝統文化を温故知新していくモデルが残していけるように私の生き様から世界へ表現していきたいと思います。すべてのご縁と出会いに感謝しています。