本当の暮らし

昨日は、聴福庵でブロックチェーンハッカソンを行いました。暮らしの場の中で働くことでどのような効果があるのか、実証実験も兼ねてでしたが非常に有意義な時間を過ごすことができました。

現代は、個人が優先されすぎてきて仕事とプライベートを分け過ぎてかえって日々の暮らしが貧しくなってきているように思います。仕事もプライベートも充実するというのは、本来、暮らしが充実するということです。

この暮らしとは、言い換えれば人生のことであり、人生の中に仕事があるのであって、仕事の中に人生があるのではないと言えばすぐにわかると思います。

どのような人生を歩みたいかを決めたなら、暮らしが始まります。その暮らしの中で、どのように働くのかと思えば当然幸福で充実した日々を送りたいと願うものです。

そして人生の豊かさとは、味わい深い今の集積によって満たされていきます。つまり、いのちの営み、いのちのハタラキを充分に実感する時間を味わって過ごしているということなのです。

この暮らしという言葉もそれぞれの人たちが色をつけては様々な定義で使われています。

しかし本当の暮らしのことは頭ではわからず、いのちで理解するものです。いのちの理解は、具体的にはいのちのハタラキと一緒に過ごしている時にしか感じません、それは丁寧に生きて、手間暇をかけて味わうという悠久の時間、また永遠の時間と共にあるときに感じるものです。

先人の暮しは、常に人生の意味を味わっているものばかりでした。

現代は特に忙しくなる仕組みが動いていますから、心の病を抱えたり、身体が不健康になったり、何か本当の仕合せなのかに気づきにくくなってきています。人生を救済するというのは、本来は先生や宗教の務めだったのかもしれませんが今の時代はそれも難しくなってきていますから本物の場の必要性を感じます。

子どもたちが、自分の人生の暮しを味わえるよう私がまず挑戦して実践で示していきたいと思います。

いのちの甦生

昨日から聴福庵でブロックチェーンハッカソンの準備をしていますが、いつもの日本民家での心豊かな充実した日々の暮らしを私たちはいつも通りに取り組むだけなのでどのような化学反応があるのかが楽しみです。

そもそも暮らしというものは、単なる生活をすることではありません。心の充実感、味わい、そして真の豊かさは、いのちのハタラキと共に存在しています。いのちのハタラキは、手間暇かけた丁寧な生活の中だけに存在します。

なぜなら、いのちを扱うということは、いのちが壊れないように接する必要があるからです。そのものが壊れないように接すると言ってもいいかもしれません。

私たちは知らず知らずのうちにものを粗末にしていきます。また同時にいのちをも粗末にしていきます。ものにはいのちがあるのですが、なんでも捨てているうちにもののいのちがわからなくなっていきます。

どんなものにも、作り手の思いがあり、また使い手の思いがあります。お互いに思いがあるからこそ、思いやりというものが存在します。

その思いやりは、思いに対する配慮であり、いのちへの尊重でもあります。そういうものを感じながら生きていくことが、本来のいのちのハタラキを感じることであり、ハタラキを感じたからこそ生き方もまた変わっていきます。

働き方改革とは、生き方改革のことをいいます。生き方改革とは、いのちのハタラキを改革するということです。

現代のように物が増え贅沢ができる時代になったからこそ、本物の豊かさを思い出し気づき直すことで人類のかじ取りを学び直す必要を感じています。

暮らしの中でのハタラキは、いのちの甦生です。

引き続き子どもたちのためにも、いのちの甦生を伝道していきたいと思います。

庭石の意味

現在、建設中のBAの中庭には立石があります。この庭石は、日本庭園では重要な役割を果たしています。むかしから水は海や川や滝、植物は自然らしさを表現し、石は山岳を表現し、石は不変であることから「永遠」という意味があるといいます。

その石の産出場所としては、山、海、川があります。

山石はゴツゴツした角のある石で山間部などの地表面に露出しているものや地中に埋まっているものを掘り起こしています。山さびがつきやすく植物の根が入り込んでいるものがあります。今回のBAのメインの立石は、植物の化石のようなものが石と合体して永遠の時間を感じさせるものです。また川石は丸みが出て趣のある庭石で最も庭に合うといわれます。そして海石は波の力によって表面の変化に富んでいてよく貝が付着しているといわれます。

庭に据えられた立派な庭石は、どっしりとした見ごたえがあります。そして石の風化作用を見ることで独特な侘びや寂びの感情が表現されていきます。

庭石は日本人の心の静けさを取り戻すのにとても役立つかもしれません。今回は、この庭石の周囲に苔や観音竹などの植栽を入れ、山水の風景を表現します。そしてその周囲を炭が囲むことで、宇宙に浮かぶ庭園をイメージします。

まさにブロックチェーンアカデミーに相応しい庭になるでしょう。子どもたちに、日本の文化が伝承できるようにつながりを大切に丁寧に進めていきたいと思います。

暮らしフルネス

人間は身体が発達していくように心も同時に発達していきます。そして身体は次第に年老いて機能を止めていきますが、心は赤ちゃんのように研ぎ澄まされていくものです。身体の影響を受けなくなればなるほどに、心は真空状態に近づいていきます。

人間は不思議ですが、常に今此処に心があって心と向き合うことで心は今を味わい日々に豊かに育っていきます。

今の人たちは忙しすぎて心と向き合う時間が取れてないように思います。

先日、スタンフォード大学で行っているマインドフルネスの方の著書を拝読する機会がありました。そのワークショップの中で、あなたは誰であり、どんな目的でこの世に来たのかとシンプルな問いをお互いにしていました。

さらに、自分の心の受け容れている面と受け容れていない面を明確にし、そのすべてを一つの円にしていくという取り組みを行っていました。まさに一つの心になるための仕組みです。

あるがままを受け容れるのは心の作用です。心は現実で受け入れられないこともそれを必然であると認識しています。しかし人間は知性がありますから、いつまでも現実と逆らってしまい心は次第に離れていくのです。

今がどのようなものであったとしても、そのありのままの今を受け容れることで心が何を望んでいるのかが自明してきます。心は自然のように雄大に悠久の流れをもっていますから、日々にあくせくしていたら心のリズムも壊れていくかもしれません。

忙しい日々であっても、ちゃんと味わって生きるということが何よりも大切なのです。私のこのブログもまた、日々に早朝の未明から振り返り充実した心で向き合っています。

私の造語ですが、かつての日本の先人たちのように自然と共に雄大に悠久に生きて、日々の暮らしをフルネスにしていくというのはこのような今を味わう内省の実践を味わう生き方をしていくことです。

BAの開校にあたり、その目的や仕組みを明確にしていきたいと思います。

石のチカラ

むかしから石には魔除けの効果があると民俗学的にもわかってきています。石といえば、神社の狛犬なども魔除けです。沖縄で有名なシーサーなどは門の上に置かれていたり、家の屋根の上に設置されていたりするが、屋敷へ入ってくる魔物を払う役目があるといいます。

他にも沖縄には石敢當などがあります。これも災いを防ぐための魔除けのひとつで家の外のT字路の突き当たりにある屋敷や辻、そのほか三叉路になっている場所へ行くと石敢當が設置されています。

以前、鹿児島の知覧の武家屋敷を見学した時も同様に玄関の前に石を置いて魔除けにしていました。日本では、このように石を魔除けとして配置する民族文化があります。

この魔除けの魔とは、ウィキペディアにはこうまとめてあります。『「魔」とは、会意形声。鬼+音符「麻」、「麻」は植物のアサで人をしびれさせる(麻痺)させる効能を持つ。しびれさせ、正気でなくさせる「鬼(=霊魂)」。唐代以降に見られる文字で、仏教の悪鬼マーラの漢音訳『魔羅』を表記するために造字されたものといわれる。意義としては、人を正気でなくさせる異界の物。人が正気でない状態。』

魔が差すという言葉もありますが、邪気が入ってきたり執着が欲望にのまれるという具合なのでしょう。魔除けとは、人間がそういう状態にならない、もしくは正気をなくすことがないようにということです。

心を澄ませて清浄にしていれば正常な状態は持続されます。石には、人々の邪気や邪念を払うという効果があるようです。

そして自然界においては、災いを防ぐチカラがあると信じられていました。確かに、石は私たちの生活を風や雨、日差しからまもります。水や火、風、土、そのすべてから上手に守ってくれます。

災いというのは、ある意味では自然の仕組みですが私たちは石に守られて暮らしを実現してきたとも言えます。石との関係は永く、そしてこれからも石を大切にしていくのでしょう。

BAでは、その石を上手に使って様々なことに取り組みます。子どもたちに石のチカラを伝承していきたいと思います。

 

BA開校の意義

かつて人間は様々な技術革新を起こして歴史を換えていきました。その技術革新はこの100年を省みても、様々なものが産まれてきたのがわかります。核融合、インターネット、ナノ技術、遺伝子組み換え、もはやキリがないほどに革新が行われてきて時代が変わってきています。

最近でも、IOTやブロックチェーン、AI、量子コンピューターなど次々に新しい技術が創造されています。

歴史的に見ても人類史の中でもっとも加速度的に技術革新が続いている世紀を私たちは生きているとも言えます。同時に、かつての技術が消えていく時代に生きているとも言えます。

新しい技術がすべて万能というわけではありません、古い技術の中でしか実現できなかったものもあるのは確かです。それをどう温故知新して調整するかは、技術者だけではなくそれを活用する人物の思想や哲学、そして生き方や決断が必要になります。

それだけ新しい技術革新の時代には、それに相応しい人材が求められてくるのです。人間の教育は果たして技術革新に追い付いているのか、それは大きな疑問を感じます。

人間には様々な我欲があります。その欲があるからこそ、技術革新もまた産まれます。しかしその欲が果たして平和に基づくものか、それとも戦争や支配に基づくものかは人間が決めるのです。

いくら技術が進んだとしても、その高度に洗練された技術に相応しい人格がなければその技術は台無しになります。

だからこそ、本来、あるべき古い伝統的な思想と最先端の技術を融合させることで人類の初心を学び、その初心を忘れないで技術革新を続けていく努力が必要なのです。

私がBAを開校するときに、もっとも技術の学問として大切なのはこの取り組む姿勢を磨いていくことだと私は思います。医者であれば、医道があり、保育であれば、保育道があり、政治であれば、政治道があり、それぞれに生き方といった道があります。

道を学ぶことが、本物の技術者を育て、人類にとって本当に大切な技術として広がっていきます。このような時代だからこそ、このような学問や学校は志ある人たちで立ち上げてなければなりません。

この先の展開がどうなるかわかりませんが、まずはブロックチェーンがかつての日本的精神によって平和活用できるところからはじめていきます。引き続き、私にしかできないことで人類の技術革新に貢献していきたいと思います。

不便の徳

現代は、様々な理由から体調を崩し精神を病む人が増えています。生活環境はますます便利になり、なんでも思い通りに快適になりましたがそれと反比例するかのようにあらゆる病気が増えているように思います。

人間は、便利になればなるほどにそれまで必要不可欠であった自然の道理から離れていきます。時間をかけて手間暇を惜しまず、心を寄せて何かに取り組んでいくということも、忙しい現代においては最初に省かれる項目に入ります。

不便なものは悪のように語られ、便利さこそが価値があるかのように評価されます。人間においても同様に、不便な人よりも能力の高い便利な人の方が重宝されやすくなっています。物の扱い方もまた、便利なものがたくさん売られ不便なものはすぐに捨てられていきます。

自分の五感をフル稼働させ時間をかけて習得するのではなく、誰でも簡単に平均的に時間を短縮してできる道具を求めてきたから今ではAIやロボット、さらに便利な存在に近づいていこうとしています。

しかしよく考えてみると、これは誰にとって便利なのか、誰にとって都合がいいのかということです。

楽して栄養をとれる、楽して自動でできる、楽して時間が節約できる、これらは自分にとって利があるから便利を優先します。しかし実際は、その楽して栄養をとれているように見えて健康を害していき、楽して自動でやっているうちに仕組みや修練、能力を磨くこともないから応用ができなくなり、楽して時間を節約しているうちに味わい深い関係や思い出をなくしていたりします。

結果ばかりを求めて、自分に利があるかどうかばかりを追求すればするほどに不自然が増えていき気が付くと本質的に不便になっていることに気づく日が来るのです。

むかしは、里山のように、または暮らしの中で、自分だけが利することをせず、敢えて不便であっても全体最適であるように努めていきました。手間暇も労力もかかり不便であっても、それを善として、周囲への思いやりのためにと楽よりも苦を選びその分、楽しくなるように、仕合せになるようにと発想を転換して喜びに換えていました。

例えば、お酒造りも、漬物作りもも、今の時代は、化学的なアルコールを添加したり、漬物も化学合成調味料を塗り込むだけですが本来は時間と労力と手間暇をかけて丁寧につくりこみました。お酒は、苦労の中でも醸し唄のようなものをみんなで歌いながら苦労してつくり、漬物も手でかき混ぜながら声がけしながらつけていきました。

しかし五感や体は、自然であることが分かるようにそのものを食べると美味しいと感じるものです。不便であることが美味しさをつくり、便利であることが不味さをつくるのです。

これは人格形成においてもまた同様のことが発生するように私は思います。教育の本質とは何か、それは地球の平和が続くよう人格を高め道徳的な社會を形成していくためにあるように思います。

だからこそ人間がどうあるべきか、それは生き方に出ますから便利な教育ばかりを施していたら便利な世の中になり便利な人になっていくでしょう。だからこそ今の時代の教育の中に私は不便さが必要であるように思います。

子どもたちに不便の徳を伝承できるように、実直に誠実に伝統の初心を継承していきたいと思います。

岩石の徳

BAのサウナのことを深めていく中で、岩石について調べています。世界には多種多様の岩石があり、様々な効果が持っています。遠赤外線を放射する石、微生物を殺菌する石、水を浄化する石、私たちが一般的に石ころと呼んでいるものでもその石が形成されるまでのあらゆる物語を秘めています。

特に、石の寿命は長く何億年、何千年は当たり前です。そして地球を中心に循環し、時には宇宙から隕石が飛来してきて地球の内部でまた混ざり合い新しいものに生まれ変わります。

その石の形成は様々で川で体積するものもあれば、プレート付近で圧力でできるものもあれば、マグマの高温によってできるものもあります。そのどれも大変長い時間と偉大な力を受けて出来上がっていることは間違いないことです。

私は幼いころから石が好きで、たくさんの珍しい石や相性のよいもの、偶然に出会ったものを持ち帰り大切にコレクションしていました。ある程度、増えてくると部屋が石だらけになるので庭に飾ったり、お気に入りの場所に隠したりしていました。

今ではその当時のようなコレクションはしていませんが、人生の節目で一期一会に出会ったものを宝石として大切に身近においてお守りにしています。

私は料理を炭でしますが、時折石をプレート代わりにして焼いて食べることがあります。むかしは土器を用いて、石を温めて料理したことが遺跡からも遺っています。私たちは石を温めることで、身体が癒された記憶があるようにも思います。

今回のサウナは、炭を使いますがその炭との相性のもっとも素晴らしい石と出会うためにこれから3か月かけて実証実験を行う予定です。どのような出会いが待っているのか、今からワクワクしています。

子どもたちに好奇心や夢、子ども心が伝承できるように私なりに岩石の徳に学び、自分のオリジナリティを追求していきたいと思います。

縁起とは

昨日は、天赦日ということもありBA(場)のご祈祷と引っ越しを行いました。この天赦日(てんしゃび)は天赦日とは「日本の暦上での最も最高な吉日」といわれ、新しく何か物事を始まるときのに選ばれる大吉日といわれます。この日は「百の神が天に昇り天が万物の罪を赦す(ゆるす)」という意味であり、六曜(ろくよう・りくよう)とは、暦に記載される日時や方位などの吉凶やその日の運勢を占う暦注の一つのことです。

天赦日の決め方は、立春から立夏の前日の戊寅(つちのえとら)の日、立夏から立秋の前日の甲午(きのえうま)の日、立秋から立冬の前日の戊申(つちのえさる)の日、立冬から立春の前日の甲子(きのえね)の日になっています。

日本人はむかしから縁起を大切にしてきました。この縁起とは、ウィキペディアには「縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す」とあります。仏教からのものですが、吉凶を占うものとして中国からの思想も入っています。

縁起というものは、兆しを観るということでもあります。

兆しが分かるというのは、タイミングが分かるということです。私にしてみれば、農家が種蒔きの絶妙な時機がわかるようにそれは一期一会の瞬間を逃さない仕組みだとも言えます。

自然の力をお借りするということは縁起を担ぐということでもあるのです。私たちは自分だけの力で物事を動かしているのではありません。そこには他力といった不思議な自然の恩恵を受けています。天赦日というものは、四季折々の中でもっとも自然の恩恵を受けやすい時機であるということでしょう。

時機時期に自分を合わせていくことは、かんながらの道を実践する私にとっては大切な初心の確認でもあります。子どもたちのためにも、確かな伝承を磨き続けていきたいと思います。

 

好きをつなげる

人は生きていく中で大切な何かに気づくものとです。その大切な何かとは、自分の人生の中で特に優先順位の高いもののことです。それはその人にしかない体験であり、その体験があるから自分自身の使命を感じるものです。

例えば、ある事故にあって人生が変わる人もあれば、ある人に出会って人生が変わる人がいます。それは一つのご縁ですが、その出来事によって大切な何かを悟るのです。

私の人生を振り返ってみたら、その連続であったように思います。今でも日々に出会う人によって自分自身が気づきによって変わっていきます。この気づきの連続が私を育て私を創ります。

人は自分というものを知るために旅をします。その人生の旅は、日々の気づきによって味わい深いものになっていきます。つまり気づくためには、その大切な何かをいつも求め続けなければなりません。自分を深く掘り下げて、日々の出会いの意味を掴み、日々の行動を省みて日々の生き方を磨き続けなければなりません。

自分の好きなことに専念するというのは、好きになる努力をし続けるということです。人生のすべての出来事を、大切な何かのために努力し続けるという実践が必要です。

どんな出来事であったとしても、大切な何かと常につながっています。一見意味のないようなことでさえ、後になってそれが大切な意味を持っていきます。ある人の傍で手伝い学んだこと、ある人の生き方から薫陶を受けたこと、ある人の行動から気づかされたこと、それもまたご縁と出来事によって大切なものを得ていくのです。

出会いを大切にする人は、一期一会に出来事も大切にする人です。

好きになるほどの努力をしたか、努力を忘れるほどに好きになったか、それは自分のいのちをどれだけ本気でつぎ込んだかという自分の人生への責任かもしれません。

自立ということを子どもたちに伝承するためにも、大切な何かのために好きをつなげていきたいと思います。