音の世界

音の世界というのはとても不思議です。なぜ耳には音が聞こえるのか、そして耳ではなく響きという体感で感じる音があるのか、波動というものもまた音の一種です。音には、様々な種類があります。一般的には倍音という言い方もします。

この倍音は、音を鳴らすときにあらわれる振動の重なりのようなものです。あらゆる音は、空気の振動をはじめ反響音などもまた音として振るえます。耳には聞こえなくても、人間は五感を通してその振動音を感じることができます。

これは動植物でも同じで、あらゆる音の振動を聞き分けてそれぞれに自分の音を発していきます。私たちの声や行動や身体から出ている音もまた、その振動の姿です。

よく波長が合うという言い方をしたり、オーラが似ているなどという人もいますがこれもある意味で音を聴き分けているということになります。

以前、宇宙の音や、地球の音というものを聴いたことがあります。人間はいつも聞こえる音を脳が遮断していますが、カメラを通したり機械を通すと日頃は聞こえない音が聞こえてきます。地球や宇宙から聴こえる音は、壮大で心がどこか懐かしさを覚えます。

この地球の音は、7.83Hzくらいといわれています。人間は一般的には7.83Hzのような極々低音は聞こえないといわれます。しかし音ではなく、先ほどの振動や波動とすれば感じ取っているともいえます。

つまりは、感覚的には聞こえない音を聴けているということです。地球に同期したり、宇宙の振動を感じようと感覚を磨いて研ぎ澄ませていけば深い音が聞こえるかもしれません。

知らない世界を知ろうとすることは、感性の世界や感覚の喜びに出会う入り口でもあります。そういう意味ではこの音の世界は、とても豊かです。倍音を学んでいますが、子どもたちにも様々な倍音を感じる素晴らしさを伝承していきたいと思います。

観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

場の伝承

むかしの遺跡に巡り会うとそこには色々な人たちの思いが結ばれている痕跡があります。かつての人がどんな思いを持ってその場に関わったのか、そこには物語があり歴史があります。

静かに思いをその場所に佇み、巡らせているとその場所から聴こえてくる音があります。この音こそ思いの本体であり、その音を聴くことによって人々は心が結ばれ調和していくようにも思います。

この音とは、物語でありその物語をどのような心境で聴いたかという生き方が顕現したものです。私たちは生きていると、手触り感というものを感じます。体がある感覚であり、それを触れるという感触です。いのちはこの感覚を通して生きていることの実感を得られます。物語というのは、まさにその感覚の集合体でありその物語に触れるときに人は感覚が目覚めるともいえます。

遺跡というものは、触れることによって目覚めていきます。教科書や本に書いているものをみても伝わってはきません。その場所にいき、お手入れをしてこそ感じられるものです。

そもそも修養するということや、修行をするというのもその場所によって磨かれるものです。その場所とご縁を結び、その場所から感得したものを共感し伝承していくなかで顕在化していきます。

その感性は、五感や第六感と呼ばれるものによって得られており知識ではなく知恵であることは自明の理です。

本来のあるべき姿、人々が何千年も前からどのように様々な知恵を伝承してきたか。その仕組みは、知恵を知恵のままに感受するものです。

子どもたちの未来のためにも、本来の伝道や伝承が知識にならないように実践を継承していきたいと思います。

即興と甦生

私は場を研究し、実践するので即興であることが多くなります。この即興は、辞書をひくと「型にとらわれず自由に思うままに作り上げる、作り上げていく動きや演奏、またその手法のこと」をいいます。また音楽、詩作、舞踊、演劇などの分野では「事前の準備なく、その場で作り、その場で表現すること」を意図して使われるとあります。

これは常識やそれまでの通念よりもその「場」の持つ空氣を優先するということです。世間から常識知らずや刷り込みがないとかも言われ、時として誤解されて批判されることが多いのですがそれでも場からの声や、場が喜んでいるかどうかを優先していきます。

私が古民家甦生するときも、基本は常識に従って丁寧に甦生していきます。町家であれば町家、農家であれば農家のようにと最初は型かた入ります。そのあと、その家の歴史や立地、そしてそれまでの物語やご縁や関係性が出てくるなかでその家の独自性やその家の持つ初心のようなものをくみ取っていきます。その声に従いながら即興で工事や大工をしていきながら最後はその家そのもののいのちが循環するように調えて仕上げていきます。これは場を優先している私の甦生の特徴です。

先人たちの知恵を尊重しながらも、今はこうあったほうがいいというのができるのはその先人たちと同じ心を伝承しているからです。その心の伝承は純度が必要でどれくらい、本気の覚悟で先人とともに歩んでいるかということも問われます。

この時代に今も先人がそのまま生きているとしたら、どうするかということを突き詰めるのです。私が即興を重んじるのは、即興かそうではないかではなく先人ならどうするか、今、私も先人と同じならどのような決断をするかと正対していると次第に即興になり柔軟に判断していくことが増えるだけです。

時代は移ろい、本質もその時々で変化します。本質が変化するのは、それだけ全体快適であるか、どれだけの視野で決めるかが微細に左右されていくからです。最後は、純粋に穢れや曇りのない初心で決断していくしかありませんがその直感に頼るときまたそれが外から観たら即興に感じられるということでしょう。

自分の即興、直感は先人の真心とつながっていると信じてこれからも甦生に取り組んでいきたいと思います。

初心伝承の人生

誕生日を迎え、多くの友人たちからお祝いのメッセージをいただきました。思い返せば、あっという間にこの歳まで過ごしてきました。日にちでいえば、赤ちゃんとして外の世界に出てきてから17194日目になります。また今日もその日に一日を積み重ねていきます。あと何日、この世で体験できるのか。そう思うと、貴重な日々を過ごしていることを思い大切にしたいと願うようになります。

誕生日というのは、そういう日々を過ごす原点を思い出しこれまでの日々に感謝する日かもしれません。どの一日も、よく考えてみたら当たり前の一日ではなく尊い日々です。

その時々の人と出会い、語り、何かを共にする。いのちを使い、いのちを守るために、他のいのちをいただいて暮らしを紡いでいく。どの日々もつながっていないものはなく、どの日々も結ばれていないものはない。

一日一日をリセットしているようで、それはリセットではなく新たな一日をさらに新しく体験させていただいているということになります。そして身体も衰え、次第に死に向かっていきます。死を想う時、この今が如何にかけがえのない一日かは誰でもわかります。

一日を何に使って生きるのか、自分のすべての日にちをどんなことに懸けて生きるのか。

有難い一日にかけがえのない喜びを感じているとき、人は仕合せに回帰します。どのような一日であったとしても、その一日は二度と戻ってこない一日。一期一会だからこそ、生き方を見つめ、生き方からいのちを発して光を放っていきたいと思います。

我が初心伝承の人生。

残りの日数で、できる限り真心で尽力していく覚悟です。

不思議さ

一昨日から長いお付き合いのあるメンターの方が場の道場に来られています。御年85歳ですが、まったく年齢を感じさせず目もキラキラとまるで10代のようです。一期一会の哲学を教えていただいてからメンターとして尊敬して、何度か生き方をみせていただきました。その御蔭で、私も将来、どのように生きていけばいいかの指針をいただきました。

メンター自身も親の介護があり、またコロナもあったのでほとんど移動もせずに生活していたこともお聴きしました。しかし、相変わらずの好奇心であらゆる体験を大切に学び、体験から得られた驚きをたくさん私にしていただきました。

この体験からの驚き、まさに好奇心ですが英語ではセンスオブワンダーともいわれます。この解釈は色々とありますが、神秘的な体験としてもいいし、五感をフル稼働して直観的に得られる体験でもいいですがそのどれもが不思議だという驚きと共にあるものです。

私たちは生きていく中で、不思議だと思う感覚や驚くことが減ってくるものです。知識が増えれば増えるほどに、経験をすればするほどに驚きは減っていきます。

私もよく文章や言葉で伝えることも多いのですが、不思議さが観えない人たちはよくだいたい分かったという言い方をします。何がだいたい分かったのかもよくわかりませんが、そのだいたい分かったという言葉が不思議な言葉だなと感じることもあります。

そもそも不思議なことを不思議なままに理解するというのは、純粋な心が必要です。まるで子どもが最初にこの世の自然の道理や現象に触れた時のように驚きの連続です。

冷たいものを触って冷たいと感じる、誰かに声をかけられて耳に音が入ってくる、そして目に映像がうつってくる、そんな驚き、不思議さに触れた感動です。

そういう感動をいつまでも忘れないことは、私たちがいつまでも瑞々しい感性で神秘や不思議を追い求める子どものような心を持っているということでもあります。

私は子ども第一義を理念に、子どもに遺したい憧れた生き方や働き方、あるいは子孫への徳を伝承したいと思っていますからこのメンターの実践は尊敬し私もそうありたいと思うものです。

一期一会に生きるというのは、不思議さや神秘性、そしてご縁を結んでいく生き方です。いつも有難い邂逅とご縁に感謝しています。これからも驚きを味わい、豊かで仕合せなご縁を結んでいきたいと思います。

精進の結晶

人はいろいろなことを抱え込んでいるものです。そのことから様々な人間関係の問題が発生したりします。自分というものの認識をどのように本来の正しさにしていくか、そしてどのように自分を素直なままで保っていくか。そこに人間力が必要になっていきます。

この人間力とは、自分を育てていくことで磨いていくことができます。この世に生を受けてから、色々なことに取り組むなかで人としてどうありたいか、人としてどうするか、つまりは「生き方」を創っていくのです。

人生は何をしてきたかと訊かれたら、生き方をしてきたことを話すものです。何をしたとかの自慢話ではなく、自分の初心を話してどう生きていきたいかを伝えるのです。それが本当の意味で自分を生きているということだと私は思います。

自分らしく生きるには、人間力が必要です。今の自分のままでも、周囲に愛され応援され、そして思いやり優しくいれるようになるということです。自分の勝手な思い込みを持たないことや、信義に反しないこと、そして甘えずに与えること、相手を尊重すること等々、日々に気を付けて反省し自分と調えていくのです。

私も毎日の日記をはじめ、感謝ノートや自己チェックシート、一期一会語録、このブログもですが向き合っては自分を創りつづけています。

自分が興味があり好奇心もあり色々と特性があります。しかしそれが行き過ぎると周りに迷惑をかけたり傷つけてしまいます。気を付けても生き方の癖はなかなか改善されません。でも気を付けようと努力していたら少しくらいは自分のことを謙虚に見つめて創ることができてきます。そういう日々の繰り返しで、人間力を磨くのです。

みんな人間力を磨いていこうとする環境になれば、人はみんな思いやりを持てる人たちになります。文化というものは、本来はそうやってみんなで創りあげてきたのでしょう。

日本文化の真髄は、この人としてどうあるか、その生き方を創り磨いてきた先人たちの精進の結晶だったように思います。

これからも子どもたちのために、人間力を高め自分を創っていきたいと思います。

尊重し合う社会

ゆるされない我儘というものがあります。これは相手のことを配慮せず、自分の好き勝手にやりたいために周囲に多大な迷惑をかけることです。人は一人で生きていませんから何をするのにも、誰かのお手伝いが必要です。特に親しい人には余計にお手伝いを必要とします。お互いに親しき中にも礼儀ありで、その人を大切にしていくことで自分が配慮する気持ちが欠けていないかと、自分に気づくためにも必要なことです。

甘えもゆるされない甘えというものがあり、他人への配慮がない、相手の気持ちを慮ることもなく自分勝手だと多大な迷惑をかけてしまいます。毎回、相手を慮らず自分の都合を優先すればするほどに周囲は嫌な思いをします。そしてその人の大切なお時間やお金、その人のもつ人間関係、大事にしているものまで蹂躙し搾取していくのですからとても傷つくものです。

しかし我儘と甘えがある自分勝手な人は自分のことばかりに意識があるため、そうしていても相手の気持ちが理解できません。自分ばかりの感情を優先し、同様に傷ついている状況が相手にも起こっているということがわからないのです。人間はお互いを尊重していなければお互いに酷い扱いを受けたと感じるものです。

人はそれぞれにその人なりの価値観があり、世界観もあります。そしてお互いに色々なものをシェアして助け合って人生を謳歌しているものです。お互いを思いやることは、同じ場所、同じ時代に生きるものとして大切にしたいところです。

世界では戦争が起きます。その戦争もはじまりはどこかといえば、誰かが我儘をいい、そして配慮のない行動から発生します。どこかの国の思い通りにならないなら戦争をする、あるいはコントロールしてできないなら破壊するということではあまりにも虚しいものです。それで周囲は多大な迷惑をこうむります。いつもはじまりは一人の我儘から、そして配慮のない甘えから発生してくるように思うのです。

子どもたちも、幼少期より集団や社会のなかでその大切さを学びます、そして大人になっても学び続けます。みんなが喜び合う楽園、仕合せを循環するように協力し合い、助け合い、学び合うのです。

保育の志事に取り組んできましたが、まだまだ保育の奥深さを学び直しています。子どものモデルになれるよう、生き方を見つめていきたいと思います。

子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。

花粉症とデトックス

昨日は、英彦山の宿坊のお掃除やご祈祷などを行いました。あまりにも空気が美味しく、清々しい風が吹いていたので花粉症のことを忘れていたら朝方から大変なことになっています。

花粉症というのは、人間の免疫の防御システムが過剰に反応することからだといわれます。身体というのはとてもよくできています。アレルゲンが体内に入るとマクロファージという細胞がそれを異物とみなして食べはじめます、その食べたという情報がリンパ球に伝達します。するとそのリンパ球はそれを異物と認識してすぐに防御するために抗体をつくるのです。この抗体が血液や粘膜の中にある肥満細胞に結ばれます。そして再びアレルゲンが体内に入ると抗体のついている肥満細胞の表面でアレルゲンと抗体は合体します。そして炎症を引き起こすヒスタミンロイコトリエンなどの化学伝達物質が肥満細胞から出てヒスタミンが知覚神経を刺激することにより鼻水やくしゃみがはじまり、ロイコトリエンは鼻粘膜を刺激して鼻づまりを引き起こすというメカニズムだそうです。

先日、コロナにも感染したときに感じましたが自分の免疫によって自分が大変しんどいことになるという感覚です。よかれと思って防御するのが行き過ぎると自分を攻撃するようになるということです。

アレルギーは、一般的にはデトックスの量が追いつかないことで大変になるといいます。本来は、防御が安定して入る分が出ていればいいのですが溜まってしまうとそれを出そうとして苦しくなります。

体外に排出する方が増していればいいのですが、入ってくる分があまりにも多いと対応することができません。この時機は、特に春先で冬からの毒素排出をしていますから身体の声を聴いて対応していくしかないように思います。

デトックスに力をいれる、浄化ともいいますが様々なことを清らかにして排出を高めていきたいと思います。