一夜漬けと知恵

昨日は、高菜の一夜漬けを食べましたがとても美味しくみんなで舌鼓を打ちました。古漬けも美味しいですがこの新漬けの美味しさは旬の味わいもあります。

もともと高菜はそのままでも美味しいのですが塩が入り漬物になると絶品です。ぴりりと鼻にあがってくるからしの風味が食欲を濯ぎます。本当に美味しい一夜漬けは、ご飯の御供としては最高です。

戦後、昭和のころまでは私たちは各家庭でみんな漬物をつくってきました。世界に誇る漬物大国が私たちの食文化でした。しかし今では、家で漬けることもほとんどなくなりお店で添加物で味付けした漬物風のものを食べるようになりました。

当然、むかしのように美味しい漬物はなくなり今では漬物を買ったり食べたりする食文化も衰退しています。

しかし本来、日本の風土は高温多湿で発酵に向いている風土でもあります。カビや腐敗をふくめ、多様な細菌たちが大勢共生している風土です。この場所では、自分の身体も同時に発酵をよりよくしていく必要があります。

そのため、日ごろから自分の身体を漬物と同じ原理で好発酵状態を保ち、その状態でいることで抗菌効果がでて病にかかりにくい身体を保っていたともいえます。

今では冷暖房や冷蔵庫、除湿器や乾燥機など機械に頼っていますが本来の日本の風土の中では大変な費用がかかってしまいます。

むかしの人は、美味しいものを食べれて健康になり、漬物にすることで未病を保つという一石二鳥を行っていたともいえます。美味しい、そして元氣になる、こんな好循環を発明した先人たちには尊敬の念が湧きあがります。

引き続き、私もむかしの人たちに倣ってその知恵を結び直していきたいと思います。

苔の生き方

山にいくとたくさんの苔をみかけます。苔が日陰でキラキラと輝いている様子はまるで宝石のようです。触ればふかふかで、観ていたら癒されます。苔の魅力は山にいくたびに増えてきて、それを身近に置きたくなるものです。

この山苔とは、一般的にはホソバオキナゴケ(細葉翁苔)とアラハシラガゴケ(粗葉白髪苔)のことをいいます。そのどちらもシラガゴケ科で、乾燥すると白髪のように葉が白くなり逆に過湿な状態では濃い緑色になるのが特徴です。見た目は、かわいいまんじゅうのようなコケで「まんじゅうごけ」 とも呼ばれています。

ついついこのまんじゅうごけを見つけると、足を止めて心惹かれます。

苔はまだ完全に分かっていない植物ですが、植物と同様に光合成を行います。クローンをつくる無性生殖と、受精して胞子でふえる有性生殖があり、その種類によって、雄株と雌株が別々にある雌雄異株するものと雌雄同株があるといいます。基本は胞子で増え、維管束をもたず多細胞性の生殖器官と胚をもつともいわれます。

君が代にある苔むすまでとあるように、長い時間をかけてじっくりと生長しそして偉大な杜を形成する苔に古代の人たちは尊敬の念を持ち生き方を学んだように思います。

現代では、苔は身近にありませんが私のいる場所は苔を要所に活用しています。なかなか環境に合わずに根付きませんがそれでも回数を繰り返すうちに、どういうところが好きでどういうところが苦手なのかも次第にわかってきます。

場というのは、その生き物が好きな場所で棲み分けますからそれも次第に仲間を形成したり、周囲と共生することもあり一概にこの場所がいいとはいえません。

こうやって仲間たちと一緒に、苔のように棲み分けていけるのは仕合せなことです。子どもたちの未来のためにも苔からも学び、この苔の生き方を伝承していきたいと思います。

暮らしと修養

人生というものは、今の連続で存在していますからその時の今は二度とない今ともいえます。毎日、私たちスケジュールを考えていつまでにと考えてしまいますがそれも大事なことですがそれと同じようにこの今のこともよく考える必要を感じます。

未来から逆算して今どうあるかという発想と、今何をしているから将来にこうあるだろうという発想です。むかしは今で今はむかしであるということは、今に集中するほどにそれを感じやすくなるからです。

未来というものは不確定なものです。周囲の影響を受けて、いくらでも現実は変化します。特に人間は社会を形成しますから、集合意識が変わるたびに社会も変化を続けます。それに翻弄され続けていたら疲れもたまります。むかしから時代の変化と共に、その影響を受けますからこれはどうしようもありません。

そんな中で普遍的な生き方を貫いたり、世の中の潮流にもバランスよく調和して自分をやり遂げて一生を送られた方もたくさんいます。その方々は学問をし、自学自修を実践し心の持ち方によって変化に順応していきました。

この心の持ち方のことを考えてみるとそれは今の心の在り方ともいえるようにも思います。今の心をどのように調えるのか、そしてどのように生きるのか、そういうことを常に忘れずに心の平安をつくり続けるのです。

別の言い方では一つの幸福の在り方でもあろうと思います。不幸せにならないように、今を丁寧に暮らしていくのです。人の幸不幸はこの今の暮らし方によっても決まっていきます。

暮らし方というのは、生活のことではなく心の持ち方のことでもあります。そしてそれは幸福の在り方ともいえます。

日々の今をどれだけ大切に過ごしていくか、引き続き丁寧な暮らしを通して自らを修養していきたいと思います。

懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。

種を守る

現在、私は故郷で在来種の高菜の種を山間の特別な畑で守っています。まもなく収穫時期ですが、有難いことに最近この高菜の種がほしいという志のある方が増えています。少しずつですが種を分けて、もう一度この地域に伝統の在来種の高菜畑が広がっていくことを夢見ています。

想えば、はじまりは亡くなったお義母さんが病気が平癒後に一緒に高菜を育てようと元氣づけることからはじまりました。それが供養として続けようとなり、家族が育つための畑になり私の心を癒し、そして今では初心を忘れないための大切なパートナーになっています。食べれば元氣が湧き、漬物にして保存すれば菌たちも参加してみんなのいのちを守ります。

そもそもこの種は誰のものでもありません。連綿と1200年以上、この地で根付いてきた歴史そのものであり今でも一緒にいのちを分け合う大切な仲間です。そもそもですが、山は誰のものか、海は誰のものか、種は誰のものか、これはすぐに考えればわかりますが誰のものでもありません。これは徳そのものであり、その徳をいただき私たちは生かされている存在です。

だからこそ、種というものも大切に先人たちが守ってきたように今の私たちも守っていくのは本来当たり前のことです。お金にならないからやらない、暇がないからしない、メリットがないからやらないではありません。本来、感謝しているから当たり前にそれをやるのです。

今の時代は何をするのにも自分や私、誰かという人間の都合ばかりで物事を判断されていきます。しかし、むかしはそんなことよりも大切ないただいている存在に何か恩返しをしたい、言い換えれば徳に報いたいという気持ちがあったように思うのです。

二宮尊徳も同じように、種を守り、田畑を守り、先人の心を守りました。今の時代、何が一番恐ろしいことか、それは種を守らないように自然を守らず、自分たちにいただいてきた先人の心も守りません。

環境破壊の本質は、心の荒廃です。心を如何にととのえていくか、そこには暮らしの甦生が必要だと私は感じています。

これからどうやってこの在来種を守るのか、そのためにも私は徳積み循環経済をまわす仕組みが欠かせないと感じています。私のやり方で私ができることで、種を守り続けていきたいと思います。

徳積帳とご縁

私は結というものを通して様々なことを結びなおそうとしています。生きている間は、さまざまつながりがありその結び目に気付きます。それを丁寧にほどいてまた新たに結んでいくこと。ほどくことも結ぶことも生きていることの醍醐味であり、人生の妙味はそのご縁の最中にこそあるように思います。

振り返ってみると、産まれる前からいただいてきたご縁によって導かれ今があります。それをほどきながら新たな結びをつなげます。それを生きているときにまたほどければいいのですが、ほどけないものは次への持越しになります。次の持越したときに、あまりにも結び目がきつすぎたりすればほどけません。それに絡まり合っていたらそれも時期が来なければほどけません。

不思議なことですが一つほどけ、二つほどけ、周囲が、あるいは誰かが、もしくは何かが偶然におこり奇跡によってほどけるものがあります。ほどけたとき、みんながまたそこから結びなおして調えていく。美しい結び目ができれば喜び、複雑に絡み合えばまた執着する。人間というものは、こうやって何度も心の循環を繰り返していくように思います。

自然界というものも結んでいます。そして生死を繰り返してほどけていきます。連綿と網羅し繋がっているこの宇宙で私たちは何度も結んではほどいてそのいのちを循環させていくのです。

新たな結をつくるのに大切なことは、あまり強い結び目にならないことです。すぐにほどけるようなゆるいつながり、そして何かあればすぐに結べるような柔らかで寛容な結び目を繋がり続けること。

徳積帳でこれから行っていこうとしている、私の結の本質はこのほどくことと結ぶことの中の場にこそあります。ご縁に導かれるように、ご縁を味わい、ご縁とともにいのちのつながりを子どもたちに結びなおしていきたいと思います。

労を労う

労を労うという言葉があります。労が二つ使われますが、労は心身をつかって努力すること、労うはその苦労や骨折りに感謝していたわるという意味になります。この労うという言葉の語源は、奈良時代の上二段動詞「ねぐ(労ぐ)」で、神の心を和らげて加護を祈るという意味になります。その相手の労苦をいたわる言葉です。そこから「ねぎ(禰宜・神職の一つ、神の御心を休める者の意)」、「ねぎらう(労う」、「ねがふ(願ふ)」の言葉になったといいます。

よく考えてみると、生きていくというのは有難いことの連続です。食べて寝て起きて何かをするにも本当は大変なことです。病気になると余計にその労苦を感じます。当たり前ではないことを身体がやっていたことに気づくと労う気持ちが満ちてきます。

さらに日ごろは気力で何かを為し遂げようとします。志であったり夢であったり、努力をしては挑戦を続けています。その行いにおいて願いや祈りを働かせます。その願いや祈りを神様に届けようとする仲介役をするのなら確かに苦労やその努力に対して労わる心で接したいと思うものです。

報恩や報徳で真摯に努力精進していくことは、それ自体は喜びかもしれません。しかしそのために父母からいただいた身体をどのように大切にしたか。そしてそれを支えてくださっているすべてのいのちやその御蔭様に感謝しているか。そう思うと、この労を労うという言葉は個人に対してだけではなくすべての存在に対して有難くもったいないものへ行われていることに気づきます。

食べ物ひとつとっても、そこにはいろいろないのちの犠牲があります。ご苦労様ですという気持ちと、その苦労に対して供養する気持ち、感謝があります。

みんなが共にいのちとなって一体になりこの世で有難く生きていくということが心を和ませることにもなります。ただ苦労をしたことを思うのではなく、その苦労というものをみんなで行ったことに対する調和が和らげるということかもしれません。

和ませる和らげるという言葉に、和があてられているということが素晴らしいように思います。

和の心は、労を労うことからはじまります。

子どもたちにも和を感じられるような取り組みと場をこれからも醸成していきたいと思います。

場の力

日々はいろいろなことがあり色々な出会いがあります。そのどれにも善いことや大変なことがあります。それをどのように捉えるか、そしてどう味わうかはその人次第です。これを心の持ち方ともいいます。どのような心の持ち方をしているかで、その味わい方が変わってきます。

昨日は、日中は初心会議といって毎月一度カグヤでそれぞれの初心を振り返ります。仲間が集まり、それぞれのひと月を確認することでお互いに何に挑戦しているのか、どのようなことに気づいたのかを聴き合います。そしてそれでどのような変化があり何を感じたのかをまた対話します。定期的にこの場を用いることで、理念や初心を守り日々の中で何が大切なのかを知り味わい方が変わってくるのです。ある意味で、心の持ち方を磨き合う場でもあります。

初心会議の中身はとても充実していて、朝からみんなで和合を楽しむためのアクティビティのようなものがあります。笑顔でみんなで身体も心もほぐします。そして一人ずつ、初心を振り返ります。ランチは、みんなで団欒しながら食べて近況など身近な出来事を話します。その後は、徳報酬といってみんなで陰徳に気づいたことを発表しあい、讃給といってお互いのへの感謝のメッセージ、お客様や子どもたち、会社への日ごろのことをみんなで味わいます。あとは、会社の状況を話、最近の世の中の洞察、方向性や方針なども確認して写真撮影をして終わります。

コロナによってオンライン中心になったので、細かい流れは変わりましたが普遍的な部分は変えずに真摯に続けている大切な会社の取り組みです。

私たちは仕組みや環境というものを場として、それを活かすようにしています。人間はそれぞれに日々の忙しさに流されるものです。そのうち、見ている方向や最初に純粋な気持ちで取り組んだことが隠れたりぼやけたりします。そうなると仕合せの道に遠ざかることもあります。忘れるからこそ思い出す、濁るからこそ透明にする。迷うからこそ安心できるような場を設けるのです。

場には力があります。繰り返し磨かれることで、その場の力によって支えられるものです。子どもたちの憧れる生き方と働き方ができるように、さらに精進していきたいと思います。

それぞれの生態系

季節が変わり始めると、動物たちも活発に活動します。特にこの時機は、猫をはじめアライグマなども繁殖期のために夜中に動き回っています。特殊な鳴き声や足音が聞こえるので田舎だと気になって寝不足になります。

それぞれの動物にはそれぞれの生存戦略があります。他とあまり被らないようにして、安全が確保できるタイミング、あるいは餌が豊富にある季節。温度なども計算して、もっとも相応しい時期を選んでいます。

生息場所が少しずつ減っているからか、害獣駆除も増えています。人間の都合で害獣として駆除されていきますが、むかしはそれぞれに居場所がありエリアがありうまく共生できる関係もあったように思います。

生態系が崩れ、環境が変わればむかしのようにはいきません。

最近、スズメも激減しているようで家の周囲に住む場所がなくなりお米などの稲作の環境もなくなっているのも影響があるようです。今いるいきものたちは、本来はむかしからの環境を引き継いで今もある一定以上の数が存在しています。それが減るというのは、それだけ環境がむかしと変わったということの証明です。

生態系は見事に調和していましたから何かが減れば、それにつながっているほかのものも減っていきます。今の人類の環境だと、どのような生態系になっているのか。想像すると歪な形になっているのを感じます。

生物多様性の調和は、いのちの調和でもあります。

子どもたちと一緒に将来の生態系を考えながら、今できる場づくりに取り組んでいきたいと思います。

実験の醍醐味

血の巡りというものがあります。「血が巡っている」と最初に言った医師はウイリアム・ハーベイというイギリス人医師だといいます。今では当たり前ですが、その当時は結歴は抹消に流れるとそこで消えると信じられていました。心臓に戻ってこず、一方通行で送るだけで消費されるという概念でした。それを実験と観察を通して、血が巡っていることを突き止めたのです。他にもこの医師は生理学に貢献します。それまでは血液が固まって胎児ができると信じられていましたが、動物は卵という共通の源基によって形成されることを突き止めました。

この医師が突き止める手法すべては「実験」にとって行われました。この実験というのは古来より最も大切で、それまで固定概念や常識、思い込みを取り払うことではじめて本質的な観察がはじまります。正解を疑うというより、本当のことを知りたいという純粋無垢な心からです。これらの本質的な実験をする人は真摯に真理を探究する人ですから、観察も洞察も磨かれていくのです。少しでも楽をしそういうものだからと決めつけ当たり前や常識を鵜呑みにするというのは、それ自体が本当の間違いに繋がっていきます。刷り込みのない知性は、子どもの好奇心と同じなのです。

世の中を純粋無垢に観ることではじめて私たちはこの自然の摂理や宇宙の真理に触れていくことができるように思います。そのためには自分を信じ、常識を忘れて実験していくしかありません。私が日々に取り組む実践もまた、実験のようなものです。

この血の巡りでいえば、私たちは人間の動力は水と火でいのちを形成しています。水が固まり、熱を与えれば沸騰する。この簡単な原理ですが、私たちはこれを使って循環をして生命を保っています。すべての内臓や機能は、この血の巡りによって活動しそして入りと出を繰り返しながら循環を保ちます。

水を細かく分析すると、結晶化しますがそこに結晶化潜熱が発生することが現代科学で実験されています。水は熱を放ちながら変化するということですが、これは水が火と一体で活動することを意味するように私は思います。

朝起きたら太陽がでて、そして夜になります。その間、空気をはじめ地面、地球、あらゆるものは熱を移動させていきます。その熱の移動と共に水も火も循環しています。巡り続けているのです。この巡りこそ熱の正体であろうと私は思います。私たちは変化するとき、必ず熱を発します。熱を発するということは、それだけ水と火が和合して変化を繰り返すのです。

目には観えませんが、心魂を燃やしたり、感動して震えたりすることで熱量は放たれます。すると、心臓のようにそのものが巡りはじめるのです。私たちの成長というものは、この最初の巡りからはじまります。そして巡りをやめて固まります。

温冷によって自律神経がととのっていくのもこの原理のように思います。この時機は、三寒四温といって春に入り次第に気温が温冷を繰り返してととのっていきます。すべてのいのち、生命たちもまたこの変化の熱によって目覚めていきます。

もっとも原始的な感覚を通してこの世を観察し、実験を繰り返していきたいと思います。