思い込みを手放す

人間は思い込みを持っています。ほとんどの世の中のことを自分の価値観や経験で思い込むものです。その思い込んだことが集積すると、この世は本来の世の中ではなく自分の勝手に思い込んだ世界になってしまいます。そういう人が増えたら、本当のことを確かめるよりも自分の思い込んだものが正しいはずとより意固地になったり頑固にその自分の思い込みに囚われていくものです。

相対性理論のアインシュタインが「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」と言いました。これは思い込みも似ています。思い込みが先にくると、他人の話を素直に聴かなくなります。そうなると真実はさらに遠ざかっていくものです。

だからといってなんでも従順に鵜呑みにすればいいというのではありません。思い込みで聞かないようにすること、つまりは「素直に聴く」ことを心がける必要があると思うのです。

この素直に聴くとは何か、これは松下幸之助さんは素直をこう定義しました。

「素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります」

まさにこのような聴き方は、先ほどの思い込みを取り払う実践そのものではないでしょうか。ではなぜ思い込むのか、それは自分の中にある感情、私心、都合の良しあしが影響をするからです。そして不安、恐怖、疑心、欲望など自分というものをあまりにも優先するからそうなっていくものです。思い込みに囚われれば自滅していくものです。常に素直でありたい、そのために謙虚でありたいと先人たちはみんな「素直に聴く」努力と精進をしてきたのでしょう。

先ほどの松下幸之助さんは、素直の十箇条というものをつくり自戒していたといいます。「第1条 私心にとらわれない 第2条 耳を傾ける 第3条 寛容 第4条 実相が見える 第5条 道理を知る 第6条 すべてに学ぶ心 第7条 融通無碍 第8条 平常心 第9条 価値を知る 第10条 広い愛の心」です。参考になると思います。

最後に、人はみんながもし素直に物事が観えてお互いの話を素直に聴くことができるならこの世から争いはなくなっていくように思います。真の平和というのは、それぞれが真実を知り、世の中の実相があるがままに観えて、それについて対話するなら協力するのは当たりまえになります。

世界では、戦争が激化してきていてそれをよく観察するとお互いの思い込みで恫喝しあいリーダーはじめ物事を決める方々の私心の押し付けあいにも観えます。時代の先を観て、どのように生きていけばいいか。そのためにはまず脚下の実践を守る必要があります。

この素直に聴くということは、思い込みを日々に手放すことです。そして思い込みを手放した分だけ未来を子孫へ譲り遺す大切な徳になると思います。引き続き、素直に聴くことを守るためにも聴福人の実践を続けていきたいと思います。

全体快適と一円対話

世の中には、完全なる善人や悪人はいません。みんなその両方を持っています。なぜならある方向からみれば善でも別の方向から見たら悪になるからです。ただ、自分がされて嫌なことはしないとか、思いやりをもって接するとか、善であることを優先して心がけようというものがあります。自分だけが正しいと思い込むと、そうではないという正しさがまた出てくるものです。だからこそ、人は価値観の相違を超えて協力して助け合うとき有難い徳や恩恵がいただけるようにも思います。

自然というものも同じです。自然の変化である生き物たちは辛いことになっても、同時に別の生き物には有難い感謝になったりもします。自然は全体最適ですから、部分最適なことは循環しているなかでは些細なことです。人間の身体も同様に、意味のない臓器も活動していない細胞もなくすべては調和して内外で全体最適をしています。寒くなれば、それだけのことを活動して熱をつくり健康を守ります。

自分の視野をどのようにととのえるのか。この実践の中に逆転の発想や、禍転じて福にしていくような知恵があります。なので自然界ではほどほどがよく、足るを知るものがいいともいいます。しかし人生を色々と体験したい、味わいたいと思っている人は極端になり強欲になることもあります。どれもが完全ではないのです。不完全であるからこそ、全部を持っているからこそ全体快適を目指そうというものです。

私が一円対話で大切にしていることは、この全体快適です。森信三先生はこれを「最善観」ともいい、中村天風先生はこれを「絶対積極」ともいいました。つまりは、自然の中心と共に一体であれば善悪が消え一円のように丸くなるということです。

この丸くなるというのは、日本では「和」ともいいます。和とは、調和の和です。調和の調は、言葉を周るという字で形成されています。これは言葉に神経がゆきとどくという意味でもあります。物事というのは、なかなか全部にはゆきとどきません。しかし、みんなで和合して協力し助け合えばそれを補完しあうことができます。これが一円融合です。

みんながそうなるような「場」をどれだけ醸成してきたか、そこに自然の妙法や智慧があります。今は、個が歪んで歪な関係になりやすい場が増えています。今一度、場を調えることの大切さを子どもたちに伝承していきたいと思っているのです。

私の一つの使命ですから、これは復興、甦生の大事業の一つです。

同志や仲間と共に、世の中を明るく全体快適にしていきたいと思います。

士魂の場

志というものや魂というものは受け継がれていくものです。自分というものだけではない存在、何か自分を超えたものの存在を感じることで私たちは志や魂というものを実感することができるように思います。

例えば、ご先祖様という存在があります。これは、今の私が産まれるまで生きてこられた存在ですがその先祖がどのような志で生きてきたか、どのような魂を持って歩んできたかは目には観えなくても自分たちの心や精神のなかで生き続けて宿っているものです。不思議なことですが、長い時間をかけて先人の生き方を尊重し子孫がその遺言や生き方を受け継ぎ、さらなる子孫へと譲渡していく。その生き方こそが志や魂にまで昇華されてご先祖様と一緒に今も生きているのです。

他にも考えてみると、志を生きた人や魂を磨き切って歩んだ方との出会いは自分の人生を導いてくれているものです。道を教えていただき、道を実践するようになったのもまたその志や魂に触れたからです。そういう先輩や先人、仲間や同志に触れることで志や魂はまた多くの方々に受け継がれていきます。

この志や魂は自分のものですが自分のものではありません。何か偉大なもの、繋がって存在しているものです。そういうものを実感することで自分の中にもあり自分のものではないものと結ばれ一つになります。

離れていても、身が滅んでいても、この世に存在していないようでも意識をすれば目に見えないところで一緒に歩んでくれているのを実感するものです。

徳は孤ならず必ず隣有りというのは、この志や魂のことをいうように思います。自分に与えられた場所、そして境遇で如何に平時から志を立て、魂を磨く実践に取り組むか。

毎日、一期一会に出会い続ける士魂に勇気や愛を感じるものです。

子孫たちにさらに精進したものを譲渡せるように、日々を大切に過ごしていきたいと思います。

元氣を養う

私たちは加齢とともに老化していく生き物です。漢方では男性は8歳ごとに、女性は7歳ごとに気が衰えていくともいわれます。死ぬまで元氣でいたいと思いますが、実際にはよく観察すると次第に元気が失われていくのも実感するものです。特に病気になると、その恢復において時間がかかったり思ったよりも多くの時間がかかっているのを実感するとその老化の現実を実感するものです。

漢方では、生まれながらに持っている「先天の気」と、生まれた後に取り込まれる「後天の気」があるといわれます。まず先天の気は胎児として生まれたときが最も多く、年齢を重ねるにつれて減少していくといいます。これは両親にもらった元氣のことです。内臓も元氣で、次第に使っているうちに消耗していきます。この先天の気は加齢だけでなく、生活習慣や過度なストレス、病気によってもすり減るといいます。いつかは失われていくものですから、意識的に養生していきながら長持ちさせていくしかありません。

もう一つは、後天の気というものです。これは生まれてから生きていくなかで、食物や呼吸によって補充されていくものだといいます。これを別の言い方では水穀精微の気ともいい、飲食物から得られる栄養物質のことです。後天の気は、大気という無限にある地球の気を呼吸によって吸収すること。あとは、大地の恵みとしての栄養を取り入れることです。先天は腎臓であり、後天は脾臓ともいわれます。

産まれてから死ぬまでに、与えられたものと後天的に補填していくものがあるということです。上手に老化していくことで、私たちはなるべく末永く健康を保つために色々と暮らしの知恵を活用していく必要があります。

具体的には、消耗しすぎないことときちんと蓄えることからだといわれます。健康を維持するために無理をしない、夜更かしもせず、暴飲暴食などもしない。疲れすぎないように心がけることです。少しでもながく先天の気、元氣を養うためにはもったいなく使い切っていく工夫が必要です。そのうえで、後天の気をどう充実させていくか。そこには、日ごろの食べ物を工夫すること。清々しい空気を吸って元氣を養うことです。

日頃から消化によいものを食べたり、主食をシンプルにして油っぽいものを避けて自然食にしていくこと。呼吸法などもととのえて、いつも穏やかな空気によって養生することなどです。

当たり前のことですが、元氣な時は気を付けないものも病気になるとその元氣の有難さがわかります。いつまでも健康で活動ができるようにするには、若い時からの養生が必要です。当たり前のことを気づけることは、本来の徳に気づくことに似ています。

今年は暮らしフルネスをもう一歩、進めていきたいと思います。

ウサギのこと

うさぎ年ということもあり、改めてうさぎのことを深めてみましたが非常に人間との深い関わりがあることに気づきます。宗教的であったり、神話に出てきたり、また諺にもなっています。身近な生活でもうさぎを使うことが多く、食料として、あるいは毛皮として、また家族のようになっているものもあります。

小さい頃、うさぎを飼いたいと何度も思ったことがありました。小学校で飼育係としてお世話したことがありましたが足腰があまり強くなく骨折したらどうしようかと不安だった記憶もあります。

ニンジンの葉や、野菜をかじるように食べる姿はとてもかわいく何時間でも見ていられるほどでした。もともと「うさぎ」の名前を調べると、「梵語で兎のことを舎舎伽(ササカ)と言うそうですがこのササカがウサギに転じたと言う説があるといいます。 鳥の仲間だと思われていたということでしょう。

うさぎは他の動物のように角や牙など攻撃するものがありません。その分、耳を発達させました。これはそのため狙われていることに早く気づき、アンテナのように音を集めることができ肉食動物が近づいてくるわずかな音でもすぐに気づいて逃げることができます。つまり戦わずに逃げることを専門にした進化形態です。時速60キロから80キロで逃げるうさぎもいるといいます。またジャンプ力も、高さ50センチから70センチを飛び1メートル以上の距離も一足で跳ねます。

日本では因幡の白兎の話が神話でも有名です。他にも月に棲んでいたりと、ウサギは身近な存在としてよく童話に出てきました。今でも山にいくと、時折、ノウサギを見かけることがあります。冬は、食べ物が少なく雪の上を歩いた後が残っているものです。

うさぎ年は飛躍の年ともいわれますが、来年の辰年にむけて準備を整えていきたいと思います。

 

コロナウイルスの振り返り

コロナウイルスのパンデミックがはじまりそろそろ3年目くらいに入ります。このコロナウイルスとは何だったのかと振り返るにはちょうどいい時期でもあります。蝙蝠が由来とか、人為的だとか、色々と起源は判明せず、陰謀説や自然説も今となってはどうでもいいことになっています。

その後のワクチン応酬とゼロコロナなどの隔離、第1波から第7波だのと自粛だ開放だとの繰り返し。マスコミや政府、専門家の言いたい放題で後始末のない現実。病院はコロナに翻弄され、高齢者たちや病気を持つ方々は戦々恐々としてじっとするしかない状態。国民の安全か経済かと天秤にかけ、結局経済最優先という価値観が優勢になり急に世界はゼロコロナからフルコロナへと移行する。コロナの御蔭で環境改善が進むかと思えば、リバウンドで環境がさらに悪化する始末。この隙に応じて世界戦争がはじまっているという状態。

コロナとは一体何だったのかということが少しだけ垣間見えるような気がします。実際のウイルスというものは、単なる病原体にすぎません。これはかつてのパンデミックでも有名な、ペスト、結核、インフルエンザ、天然痘、コレラと同じくあるときに急に感染が広がり世界では死者が急増します。一つの自然現象であり、人間が広域で交流するようになったからこそ出てくる問題です。離島の動物たちが絶滅していくように、他から入ってくる強烈な外来種やウイルスに抵抗がなければ死んでしまいます。それぞれに分を弁えて、移動を制限して生きていればないことですが気候変動もありこれは仕方がないことでしょう。

問題は、自然現象ではなく人工的な現象の方です。例えば、人口密度です。狭いところにこれでもかと人間を押し込み、大量生産大量消費を無理やりに継続させていく仕組み。人口増加はもはや限界値を超え、さらに密度を増やそうをしています。食事も食糧難が来るからと、昆虫を食べるように開発し、サプリ栄養を確保しようと躍起です。未来を予測すると、抗生剤や抗菌剤、ワクチンはじめて遺伝子治療などをしてでもこの人口密集に耐えられる仕組みを人為的に施すことを行き着くところまで繰り返す予定でしょう。そのうち、人間が完全に弱り切ったころに大きな自然災害に見舞われ大量絶滅をするというシナリオでしょうか。これは自然現象かといえば、人間の人為的な行動の結末です。

人間は、わかっていても目先の欲望に打ち克つことができません。歴史は何度もそれで国が滅び、人々が大量に死んでいます。それでもなお同じことを繰り返していきます。解決も抜本的ではなく、対処療法を増やしていくだけで少しだけ延命治療をすることができるようなった具合です。世界が今、一つになろうとしているまさにそのときも、人類を導くようなリーダーは出てきません。むしろ悪化していて、自分の国の利益を我先にと争っては資源を貪りつくします。人間の浅ましさ此処に至れる具合です。核戦争など、本当に嫌です。人間がすべての生き物を殺傷するための大量破壊兵器を使う、これが人工的な現象の最後の姿です。コロナウイルスとは違います。ここに来て、今、どの辺に人類は立っているのかみんなで考え直す時期だと改めて思います。

だからといって現実逃避をする気もなく、こんなところだからこそ私は私で子どもたち子孫のために何ができるかと考えています。常に原点を忘れず、先人たちが残してくださった知恵を守り未来の分水嶺にむけて準備を調えながら徳を磨いていきたいと思います。

免疫を調える

昨日からインフルエンザのようなものに感染して高熱が出ています。寒気からはじまり急激に体温を上げていくと、体中が痛くなり倦怠感も出てきます。幼少期から何度も体験してきましたが、大人になっても辛いものは辛いものです。

この高熱が出るというのは、免疫細胞が活性化するからです。この免疫細胞とは、白血球など含め体に異物が侵入した時に排除する細胞たちのことです。私たちが日ごろ元氣でいられるのは、これらの免疫細胞が人知れずにウイルスや病原菌などを退治してくれているということになります。傷ができても自然に治っていくように、同様に免疫細胞が病気を退治してくれています。

免疫には自然免疫といって、最初から備わっているもの。そして獲得免疫といって後天的に備わるものがあります。ウイルスも形を変えていきますから、それに応じて獲得免疫を得ていくということになります。免疫細胞たちの絶妙なチームプレーで病気を退散させていくということです。

その免疫細胞を活性化させ、元氣にするには睡眠やストレスフリーなども環境も必要ですが腸内を調えることがもっとも効果的だといわれます。腸にはなんと人間の身体の70パーセントの免疫細胞が集結しています。日々の食生活をはじめ、外敵から常に身を守るために腸は常に全力で働いているともいえます。

この腸は一般的には食べ物を消化吸収するものと思われていますが、実際には人間の体全体の免疫を司るという重要な役割を果たしています。腸内の免疫細胞は、腸内細菌の状態に左右されるといいます。この腸内細菌は1,000種、100兆個を超えるといわれ腸内細菌のバランスを整えることで免疫細胞が活性化し免疫力が向上する仕組みになっているのです。

まずは、免疫を高めるためには腸の環境を善くしていくしかありません。動物性の食品や砂糖などのお菓子を控え、植物性や、酵素や玄米など腸によいものを摂取していくことからです。

年末年始は、飲み会なども増えて食生活が乱れる時機でもあります。暮らしを丁寧にととのえて恢復につとめていきたいと思います。

 

今と歩みを振り返る

昨日は、英彦山守静坊の煤払いや室礼をしてご祈祷したのち氏神様の宗像神社へご参拝してきました。朝から100年以上前の杵と木臼、また木製のせいろも大活躍でみんなで和気あいあいとお餅つきをしたものを鏡餅にしました。お米も自然農法でつくれたもので、安心、美味しくできたお米です。

心をととのえていくなかで、一年間の感謝や御礼をあらゆる人や物へと心を運びます。日々の出来事には、複雑な執着やご縁もありご迷惑をおかけしたものや人への思い出、あるいは助けて頂いた思い出、数々のことを教えていただいたことなども脳裏をよぎります。その一つ一つを、福に転じていこうとするところに素直に伸びていこうとする活力が芽生えます。

人はいろいろな人に出会うことで、数々の生き方を省みることができます。あの人はこう生きるのか、この人はこう生きるのかと、それぞれの生き方が参考になります。そして自分はどう生きるのかと向き合えるものです。

人間は誰しも平等に生き方というものを決めていくことができます。運命や宿命に対して、どのような使命を生きるかはそれぞれの自由です。どれだけ過酷な状況下であっても、普遍的な生き方をする人もいます。あるいは、恵まれ過ぎた環境に漬け込まれ流行に流されるような生き方もあります。それに人には生き方の癖というものがあり、その癖があるから体験方法もそれぞれに異なります。

そういう時、有難いと深く感じるのは先祖を実感するときです。御先祖様というものは、私たちが今に生きるまでずっと繋がっている存在です。この今も、心を見つめると一緒に先祖が語り掛けてくるものです。その声に従って生きているとき、私たちはあらゆるものが同時に重なりあって生きていることを実感します。おかしな話ですが、色々な人生を同時に生きている状態になっているのです。

私たちは網の目のようにあらゆる人生が場に重なりあって存在しているものです。それが見事に結び、絡み合い、時には絆になりながら時を進めていきます。眼に見えるものや、頭で理解できるもの以外にそこには一つの答えがあり答えを生きる自分があるのです。

年末に自らが静かに振り返り瞑想をするのは、そういう自分というものが今何処にいて何をしようとしているのかを味わう時間でもあります。この一年の節目に、出会いを整理して歩みを深めていきたいと思います。

故郷の徳を磨く

昨日は、私の母校の庄内中学校の生徒たちと鳥羽池のお手入れ、ゴミ拾いを行いました。前回は、バスケットボール部が中心に行いましたが今回は生徒会が中心に声掛けをして80名以上の有志が集まりお掃除を行いました。

休みの日の初日に、これだけの生徒が集まってみんなで主体的に掃除をしましたからその熱気や熱意は相当なものでした。私たちは、ゴミ袋に入らないようなものを軽トラックで伴走しながらお手伝いしましたが普段拾うことがないような工業ゴミや自転車、タイヤなどの粗大ごみもたくさん拾うことができました。

この池は、ブラックバスが良く釣れるということで釣りの人たちがたくさん来ます。ルアーをはじめあらゆる釣り具が捨ててありましたがそれで怪我をして生徒もいました。きっとすべての釣り人が捨てているわけではなく、一部の人たちによって全体の釣り人の評判が下がるのはとても残念なことです。自然を愛する人たちは、自然を汚したりゴミを捨てたりすることはしないように思います。みんなが気持ちよく、自然を楽しめるように配慮していただけると鳥羽池も喜んでくれるように思います。

ゴミで多かったのは空き缶など、そのほかには生活ごみです。ゴミ箱に捨てるのが面倒だったのか、それとも捨て方がわからなかったのかその辺に投げ捨てているものがほとんどです。粗大ごみにいたっては、きっとお金がかかるとか面倒という理由で池に投げ捨てたのでしょう。冬の間に水を抜くことで、ゴミが捨ててあることに気づきます。

この池は、冬鳥たちや渡り鳥がたくさんきます。年中、色々な鳥たちが憩いの場になっています。魚をはじめ亀なども多く、小春日和や秋の夕暮れなどは幻想的で自然の美しさにうっとりします。自分の故郷や町にこのような場所があることで、心のゆとりや余裕もうまれます。朝夕、散歩の老夫婦をはじめランニングをする方々もたくさんいます。私の父も、桜を守っていて蔓などが桜を枯らさないように見守っています。

みんなが愛した場所は、愛したように場所が美しくなっていきます。

場というものは、本来はみんなでお手入れして守っていくものです。お手入れとは、心のお手入れでありそして場所のお手入れです。このお手入れとは、いつの日か必ずこの世から存在が消えてしまうものだからこそ勿体ないと丁寧に少しでも寿命が長く持てるように愛していくことです。

そうやって愛されたものは、そのままにその愛を周囲に恩返ししていきます。私は古民家甦生をしていますから、それがよくわかります。古く長く大切にされてきたものは、みんなから愛されてきたものがほとんどだからです。

生徒たちが中心になってこのような活動を故郷で行っていくことは本当に素晴らしいことと思います。こういう活動がいつまでも続き、そしてその生徒の姿をみて大人たちがもっと変わっていけばいいなとも感じます。子どもたちに恥ずかしくないような大人でありたいと思います。

これからも故郷の徳を磨いていきたいと思います。

知恵の甦生

歴史というものを語る時、そこには知識と知恵があることが分かります。例えば、何かの事実を突き止めて歴史の事実を科学的に調査し証明するとします。そうすることで知識は増えて整理され、歴史を学ぶということの知識の豊かさがあります。もう一つは、歴史の中で伝承されている生きた人たちの間で用いられている知恵というものです。古代から今までその知恵を伝承することで人々は仕合せを得ることができました。今の私たちに繋がっているものは知識の歴史ではなく、知恵の歴史であることは間違いないことです。

現代は、歴史は知識としての認識がほとんどで知恵とはなっていません。なぜなら教科書で教える歴史の中では伝承されにくいからです。ほとんどの人が、頭で分かるものだと認識して実際に自分で伝承していこうとはしないからです。本来の歴史を学ぶというのは、自分で伝承してみてはじめてその価値を感じるものです。その結果として、どうやって人類は今までその仕合せを文化にまで昇華させてきたのかがわかります。

世界には様々な文化があります。その文化は歴史が築いてきたものです。この文化を机上で学べば年号や地理、出来事などは暗記できますが文化を習得したわけではありません。実際の文化の習得は、知恵の伝承ですから真摯に歴史を実践していく必要があります。

歴史の実践というものは、知恵を学び先人と同じように知恵を用い幸福になることです。つまり私たちの先祖たちはどのように幸福な暮らしを実現してきたか。それを学ぶのが歴史の実践です。

例えば、伝統的な暮らしの中には知恵が溢れています。私は室礼や年中行事を実践していますが、ここにはまさに知恵の宝庫です。どのように日本人が代々、家庭教育をしてきたか。また連綿と続くいのちのバトンをつないできたか。あるいは、その土地を豊かにして永続できる環境や場をととのえてきたか。それが日々の暮らしの実践の中に溢れています。

特に私は炭を使いますが、この炭の暮らしを実践するだけでもあらゆる知恵が入ってきます。こうやって知恵を生活の中で活かしている人は、仕合せであり真の豊かさを知ります。つまり徳を積むのです。

徳を積むというのは、人類が幸福になる唯一の道です。

だからこそ、本来の歴史を学び直す必要を私は感じています。世の中が終末期、人類は過酷な時代に入っていけばいくほどに歴史の必要性を感じます。全人類が平和でなければ、平和はない。身の回りの小さな知恵の実践でみんなで力を合わせなければ、不幸や不満は増大する一方だからです。

子どもたちのためにも、知恵を甦生し未来へバトンをつないでいきたいと思います。