子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。

花粉症とデトックス

昨日は、英彦山の宿坊のお掃除やご祈祷などを行いました。あまりにも空気が美味しく、清々しい風が吹いていたので花粉症のことを忘れていたら朝方から大変なことになっています。

花粉症というのは、人間の免疫の防御システムが過剰に反応することからだといわれます。身体というのはとてもよくできています。アレルゲンが体内に入るとマクロファージという細胞がそれを異物とみなして食べはじめます、その食べたという情報がリンパ球に伝達します。するとそのリンパ球はそれを異物と認識してすぐに防御するために抗体をつくるのです。この抗体が血液や粘膜の中にある肥満細胞に結ばれます。そして再びアレルゲンが体内に入ると抗体のついている肥満細胞の表面でアレルゲンと抗体は合体します。そして炎症を引き起こすヒスタミンロイコトリエンなどの化学伝達物質が肥満細胞から出てヒスタミンが知覚神経を刺激することにより鼻水やくしゃみがはじまり、ロイコトリエンは鼻粘膜を刺激して鼻づまりを引き起こすというメカニズムだそうです。

先日、コロナにも感染したときに感じましたが自分の免疫によって自分が大変しんどいことになるという感覚です。よかれと思って防御するのが行き過ぎると自分を攻撃するようになるということです。

アレルギーは、一般的にはデトックスの量が追いつかないことで大変になるといいます。本来は、防御が安定して入る分が出ていればいいのですが溜まってしまうとそれを出そうとして苦しくなります。

体外に排出する方が増していればいいのですが、入ってくる分があまりにも多いと対応することができません。この時機は、特に春先で冬からの毒素排出をしていますから身体の声を聴いて対応していくしかないように思います。

デトックスに力をいれる、浄化ともいいますが様々なことを清らかにして排出を高めていきたいと思います。

一夜漬けと知恵

昨日は、高菜の一夜漬けを食べましたがとても美味しくみんなで舌鼓を打ちました。古漬けも美味しいですがこの新漬けの美味しさは旬の味わいもあります。

もともと高菜はそのままでも美味しいのですが塩が入り漬物になると絶品です。ぴりりと鼻にあがってくるからしの風味が食欲を濯ぎます。本当に美味しい一夜漬けは、ご飯の御供としては最高です。

戦後、昭和のころまでは私たちは各家庭でみんな漬物をつくってきました。世界に誇る漬物大国が私たちの食文化でした。しかし今では、家で漬けることもほとんどなくなりお店で添加物で味付けした漬物風のものを食べるようになりました。

当然、むかしのように美味しい漬物はなくなり今では漬物を買ったり食べたりする食文化も衰退しています。

しかし本来、日本の風土は高温多湿で発酵に向いている風土でもあります。カビや腐敗をふくめ、多様な細菌たちが大勢共生している風土です。この場所では、自分の身体も同時に発酵をよりよくしていく必要があります。

そのため、日ごろから自分の身体を漬物と同じ原理で好発酵状態を保ち、その状態でいることで抗菌効果がでて病にかかりにくい身体を保っていたともいえます。

今では冷暖房や冷蔵庫、除湿器や乾燥機など機械に頼っていますが本来の日本の風土の中では大変な費用がかかってしまいます。

むかしの人は、美味しいものを食べれて健康になり、漬物にすることで未病を保つという一石二鳥を行っていたともいえます。美味しい、そして元氣になる、こんな好循環を発明した先人たちには尊敬の念が湧きあがります。

引き続き、私もむかしの人たちに倣ってその知恵を結び直していきたいと思います。

苔の生き方

山にいくとたくさんの苔をみかけます。苔が日陰でキラキラと輝いている様子はまるで宝石のようです。触ればふかふかで、観ていたら癒されます。苔の魅力は山にいくたびに増えてきて、それを身近に置きたくなるものです。

この山苔とは、一般的にはホソバオキナゴケ(細葉翁苔)とアラハシラガゴケ(粗葉白髪苔)のことをいいます。そのどちらもシラガゴケ科で、乾燥すると白髪のように葉が白くなり逆に過湿な状態では濃い緑色になるのが特徴です。見た目は、かわいいまんじゅうのようなコケで「まんじゅうごけ」 とも呼ばれています。

ついついこのまんじゅうごけを見つけると、足を止めて心惹かれます。

苔はまだ完全に分かっていない植物ですが、植物と同様に光合成を行います。クローンをつくる無性生殖と、受精して胞子でふえる有性生殖があり、その種類によって、雄株と雌株が別々にある雌雄異株するものと雌雄同株があるといいます。基本は胞子で増え、維管束をもたず多細胞性の生殖器官と胚をもつともいわれます。

君が代にある苔むすまでとあるように、長い時間をかけてじっくりと生長しそして偉大な杜を形成する苔に古代の人たちは尊敬の念を持ち生き方を学んだように思います。

現代では、苔は身近にありませんが私のいる場所は苔を要所に活用しています。なかなか環境に合わずに根付きませんがそれでも回数を繰り返すうちに、どういうところが好きでどういうところが苦手なのかも次第にわかってきます。

場というのは、その生き物が好きな場所で棲み分けますからそれも次第に仲間を形成したり、周囲と共生することもあり一概にこの場所がいいとはいえません。

こうやって仲間たちと一緒に、苔のように棲み分けていけるのは仕合せなことです。子どもたちの未来のためにも苔からも学び、この苔の生き方を伝承していきたいと思います。

暮らしと修養

人生というものは、今の連続で存在していますからその時の今は二度とない今ともいえます。毎日、私たちスケジュールを考えていつまでにと考えてしまいますがそれも大事なことですがそれと同じようにこの今のこともよく考える必要を感じます。

未来から逆算して今どうあるかという発想と、今何をしているから将来にこうあるだろうという発想です。むかしは今で今はむかしであるということは、今に集中するほどにそれを感じやすくなるからです。

未来というものは不確定なものです。周囲の影響を受けて、いくらでも現実は変化します。特に人間は社会を形成しますから、集合意識が変わるたびに社会も変化を続けます。それに翻弄され続けていたら疲れもたまります。むかしから時代の変化と共に、その影響を受けますからこれはどうしようもありません。

そんな中で普遍的な生き方を貫いたり、世の中の潮流にもバランスよく調和して自分をやり遂げて一生を送られた方もたくさんいます。その方々は学問をし、自学自修を実践し心の持ち方によって変化に順応していきました。

この心の持ち方のことを考えてみるとそれは今の心の在り方ともいえるようにも思います。今の心をどのように調えるのか、そしてどのように生きるのか、そういうことを常に忘れずに心の平安をつくり続けるのです。

別の言い方では一つの幸福の在り方でもあろうと思います。不幸せにならないように、今を丁寧に暮らしていくのです。人の幸不幸はこの今の暮らし方によっても決まっていきます。

暮らし方というのは、生活のことではなく心の持ち方のことでもあります。そしてそれは幸福の在り方ともいえます。

日々の今をどれだけ大切に過ごしていくか、引き続き丁寧な暮らしを通して自らを修養していきたいと思います。

懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。

種を守る

現在、私は故郷で在来種の高菜の種を山間の特別な畑で守っています。まもなく収穫時期ですが、有難いことに最近この高菜の種がほしいという志のある方が増えています。少しずつですが種を分けて、もう一度この地域に伝統の在来種の高菜畑が広がっていくことを夢見ています。

想えば、はじまりは亡くなったお義母さんが病気が平癒後に一緒に高菜を育てようと元氣づけることからはじまりました。それが供養として続けようとなり、家族が育つための畑になり私の心を癒し、そして今では初心を忘れないための大切なパートナーになっています。食べれば元氣が湧き、漬物にして保存すれば菌たちも参加してみんなのいのちを守ります。

そもそもこの種は誰のものでもありません。連綿と1200年以上、この地で根付いてきた歴史そのものであり今でも一緒にいのちを分け合う大切な仲間です。そもそもですが、山は誰のものか、海は誰のものか、種は誰のものか、これはすぐに考えればわかりますが誰のものでもありません。これは徳そのものであり、その徳をいただき私たちは生かされている存在です。

だからこそ、種というものも大切に先人たちが守ってきたように今の私たちも守っていくのは本来当たり前のことです。お金にならないからやらない、暇がないからしない、メリットがないからやらないではありません。本来、感謝しているから当たり前にそれをやるのです。

今の時代は何をするのにも自分や私、誰かという人間の都合ばかりで物事を判断されていきます。しかし、むかしはそんなことよりも大切ないただいている存在に何か恩返しをしたい、言い換えれば徳に報いたいという気持ちがあったように思うのです。

二宮尊徳も同じように、種を守り、田畑を守り、先人の心を守りました。今の時代、何が一番恐ろしいことか、それは種を守らないように自然を守らず、自分たちにいただいてきた先人の心も守りません。

環境破壊の本質は、心の荒廃です。心を如何にととのえていくか、そこには暮らしの甦生が必要だと私は感じています。

これからどうやってこの在来種を守るのか、そのためにも私は徳積み循環経済をまわす仕組みが欠かせないと感じています。私のやり方で私ができることで、種を守り続けていきたいと思います。

徳積帳とご縁

私は結というものを通して様々なことを結びなおそうとしています。生きている間は、さまざまつながりがありその結び目に気付きます。それを丁寧にほどいてまた新たに結んでいくこと。ほどくことも結ぶことも生きていることの醍醐味であり、人生の妙味はそのご縁の最中にこそあるように思います。

振り返ってみると、産まれる前からいただいてきたご縁によって導かれ今があります。それをほどきながら新たな結びをつなげます。それを生きているときにまたほどければいいのですが、ほどけないものは次への持越しになります。次の持越したときに、あまりにも結び目がきつすぎたりすればほどけません。それに絡まり合っていたらそれも時期が来なければほどけません。

不思議なことですが一つほどけ、二つほどけ、周囲が、あるいは誰かが、もしくは何かが偶然におこり奇跡によってほどけるものがあります。ほどけたとき、みんながまたそこから結びなおして調えていく。美しい結び目ができれば喜び、複雑に絡み合えばまた執着する。人間というものは、こうやって何度も心の循環を繰り返していくように思います。

自然界というものも結んでいます。そして生死を繰り返してほどけていきます。連綿と網羅し繋がっているこの宇宙で私たちは何度も結んではほどいてそのいのちを循環させていくのです。

新たな結をつくるのに大切なことは、あまり強い結び目にならないことです。すぐにほどけるようなゆるいつながり、そして何かあればすぐに結べるような柔らかで寛容な結び目を繋がり続けること。

徳積帳でこれから行っていこうとしている、私の結の本質はこのほどくことと結ぶことの中の場にこそあります。ご縁に導かれるように、ご縁を味わい、ご縁とともにいのちのつながりを子どもたちに結びなおしていきたいと思います。

労を労う

労を労うという言葉があります。労が二つ使われますが、労は心身をつかって努力すること、労うはその苦労や骨折りに感謝していたわるという意味になります。この労うという言葉の語源は、奈良時代の上二段動詞「ねぐ(労ぐ)」で、神の心を和らげて加護を祈るという意味になります。その相手の労苦をいたわる言葉です。そこから「ねぎ(禰宜・神職の一つ、神の御心を休める者の意)」、「ねぎらう(労う」、「ねがふ(願ふ)」の言葉になったといいます。

よく考えてみると、生きていくというのは有難いことの連続です。食べて寝て起きて何かをするにも本当は大変なことです。病気になると余計にその労苦を感じます。当たり前ではないことを身体がやっていたことに気づくと労う気持ちが満ちてきます。

さらに日ごろは気力で何かを為し遂げようとします。志であったり夢であったり、努力をしては挑戦を続けています。その行いにおいて願いや祈りを働かせます。その願いや祈りを神様に届けようとする仲介役をするのなら確かに苦労やその努力に対して労わる心で接したいと思うものです。

報恩や報徳で真摯に努力精進していくことは、それ自体は喜びかもしれません。しかしそのために父母からいただいた身体をどのように大切にしたか。そしてそれを支えてくださっているすべてのいのちやその御蔭様に感謝しているか。そう思うと、この労を労うという言葉は個人に対してだけではなくすべての存在に対して有難くもったいないものへ行われていることに気づきます。

食べ物ひとつとっても、そこにはいろいろないのちの犠牲があります。ご苦労様ですという気持ちと、その苦労に対して供養する気持ち、感謝があります。

みんなが共にいのちとなって一体になりこの世で有難く生きていくということが心を和ませることにもなります。ただ苦労をしたことを思うのではなく、その苦労というものをみんなで行ったことに対する調和が和らげるということかもしれません。

和ませる和らげるという言葉に、和があてられているということが素晴らしいように思います。

和の心は、労を労うことからはじまります。

子どもたちにも和を感じられるような取り組みと場をこれからも醸成していきたいと思います。

場の力

日々はいろいろなことがあり色々な出会いがあります。そのどれにも善いことや大変なことがあります。それをどのように捉えるか、そしてどう味わうかはその人次第です。これを心の持ち方ともいいます。どのような心の持ち方をしているかで、その味わい方が変わってきます。

昨日は、日中は初心会議といって毎月一度カグヤでそれぞれの初心を振り返ります。仲間が集まり、それぞれのひと月を確認することでお互いに何に挑戦しているのか、どのようなことに気づいたのかを聴き合います。そしてそれでどのような変化があり何を感じたのかをまた対話します。定期的にこの場を用いることで、理念や初心を守り日々の中で何が大切なのかを知り味わい方が変わってくるのです。ある意味で、心の持ち方を磨き合う場でもあります。

初心会議の中身はとても充実していて、朝からみんなで和合を楽しむためのアクティビティのようなものがあります。笑顔でみんなで身体も心もほぐします。そして一人ずつ、初心を振り返ります。ランチは、みんなで団欒しながら食べて近況など身近な出来事を話します。その後は、徳報酬といってみんなで陰徳に気づいたことを発表しあい、讃給といってお互いのへの感謝のメッセージ、お客様や子どもたち、会社への日ごろのことをみんなで味わいます。あとは、会社の状況を話、最近の世の中の洞察、方向性や方針なども確認して写真撮影をして終わります。

コロナによってオンライン中心になったので、細かい流れは変わりましたが普遍的な部分は変えずに真摯に続けている大切な会社の取り組みです。

私たちは仕組みや環境というものを場として、それを活かすようにしています。人間はそれぞれに日々の忙しさに流されるものです。そのうち、見ている方向や最初に純粋な気持ちで取り組んだことが隠れたりぼやけたりします。そうなると仕合せの道に遠ざかることもあります。忘れるからこそ思い出す、濁るからこそ透明にする。迷うからこそ安心できるような場を設けるのです。

場には力があります。繰り返し磨かれることで、その場の力によって支えられるものです。子どもたちの憧れる生き方と働き方ができるように、さらに精進していきたいと思います。