掃除の功徳

昨日は、英彦山の守静坊の庭池の掃除を仲間たちと一緒に行いました。いつも思うのですが、みんなで一生懸命に協力して取り組んでいると知恵もでて作業もはかどります。

作業のあと、みんなで食べるご飯が美味しくいつも清々しい気持ちになります。今回は、畑で収穫したさつまいもを私が炭焼き芋にしてエバレットさんはお手製のお味噌汁を振る舞ってくれました。

秋晴れで紅葉づいた青い空の下でみんなで囲み団欒をする喜びは格別でした。

釈迦に掃除の功徳というものがあるといいます。

1. 自身清浄(自分の心が清められる)
2. 他心清浄(他人の心まで清めることが出来る)
3. 諸天歓喜す(周囲の環境が活き活きしてくる)
4. 端正の業を植ゆ(周囲の人の心も物事も整ってくる)
5. 命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後、必ず天上に生を受ける)

というものです。まさにこれは徳の循環であり、功徳の本質が記されます。

どのようなものを磨いているのか、何のためにやっているのか、そしてこれがどんな意味があるのか、それは磨いている人が気づくものです。自らの人生の一つの道を歩む心得としての魂を磨いていくという実践。

いつの時代も同じように生きた人たちがまさにここに挑み、人格を高め、世の中の大切な役割を担ってきました。誰もがやることではなく、誰もやらないこと、誰も気づかないからこそ人知れず磨くのです。

仕合せというものは、足元の宝に気づくかどうかです。その宝は、足元を磨くかどうかともいえます。掃除の有難さは、足元に気づく機会を与えてくれることです。遠くばかりをみて、周囲ばかりをみて、自分のことばかりを気にしていたら足元の宝に気づけません。

池の掃除をしながら、長い時間をかけてきたあらゆる歴史が綺麗に流されていくのを感じました。またもう使えなくなって役目を終えた道具たちが燃えていくのを見て、そこに一つの歴史が終焉し新たなものが誕生したことも憶えました。

掃除はあらゆることを甦生するための大切な実践徳目です。

これからも暮らしフルネスやお手入れを通して、子孫へ徳を顕現させていきたいと思います。

照一隅、目的に生きる人

先日、友人の紹介で中村哲さんのドキュメンタリー映画を拝見する機会がありました。この方は、日本での病院勤務を経て、84年に国際NGO「ペシャワール会」現地代表としてパキスタンに赴任し、パキスタン人やアフガン難民のハンセン病治療などに携わりました。そして2000年にアフガニスタンで大干ばつが発生して以降は、井戸の掘削や灌漑用水路の建設もされました。

なぜ医師が井戸や用水路をと思いますが、中村さんは「ほとんどの病気は十分な食べ物と清潔な飲料水があればかからない。 飢えや渇きというのは薬では治せない」といい、いのちを救うのに必要なのは水だとし率先垂範して水の確保に自らのいのちを懸けました。

本来、医師が土木ができるはずがないという周囲の言葉をよそに独学で学び、実践を通して治水や灌漑を実現していきます。福岡にある江戸時代の山田堰なども参考にしてそれを現地で活用し理想的な用水路を実現していきます。私も甦生を手掛けていますが如何に心身に困難を極めることだったかと尊敬の念がこみあげます。

人はただ何をしているかということでは判断することはできません。大事なのは、その人の目的が何でだったかということが重要です。

例え、世間で評価されていない人であっても、有名人ではなくても、成功者ではなくても、その人の夢が何であるか、その人の目指す目的が何であるかの方がはるかに重要です。

私も色々なことにチャレンジしますから、周囲はいろいろな言われ方をします。分類分けされるのがもともと好きではないですが、好き勝手に評価されなぜかあまり関係がない分野に入れられたりします。

私はそもそも子ども第一義という、子どもの憧れる生き方や働き方を実現しようと会社を起業しました。そして21年目に入り、今では徳の循環の大切さや、故郷の土徳の甦生、または暮らしフルネスといったこの時代の責任者として人間と自然が共に仕合せに生きていくための温故知新の実践を伝道しています。

自分らしく生きるというのは、目的に正直に誠実に歩んでいくということです。それをどのように周囲が言おうが評価しようが大事なのは夢を諦めずに目的を忘れずに取り組んでいくことです。

心は直観とも結ばれていて、頭の理屈では説明できないことがほとんどです。しかし本当にやりたいことは必ず実現しそれは周囲に長い時間をかけて伝わっていきます。

きっと中村さんも、用水路を自ら重機にのっているときは単に土木の人になったのでしょう。しかし果たしてこれは本当に土木の人であったか。そうではなくいつの瞬間も真の医師であったはずです。古語に「小医は病を医す 中医は人を医す 大医は国を医す」とありますが間違いなくこの方は大医です。

二宮尊徳も農業をしましたが、元々は大医でしょう。いのちを守りたいと強く願うからこそ、自然と人間との共生の問題や素直さと謙虚さを愛のことを磨き続けて道を歩んでこられたのでしょう。

私が子ども第一義という理念を掲げたのも、子どもの中にすべてが存在するということに気づき、その未来をよりよくしたいと祈ったからです。

目的に生きることは尊いことです。自分らしく生きていくことを尊敬し合う世の中になるように自らが子どものお手本になるよう照一隅の挑戦を続けていきたいと思います。

 

巡礼の意味

もともとルーツを辿っていると、真実の歴史が表出してくるものです。何でも原点回帰というのは、そのことが何だったかを思い出すにも検証するにも効果があります。最初が何からはじまり今に至るのか、それを知ることが未来を予測することにもつながっているからです。

先祖というものを辿るというのもその方法の一つです。あるいは自分の故郷にある遺跡を辿ることもまた方法の一つです。これは歴史オタクだからやるのではなく、道を歩む一人の人間として歩んできた道を振り返るという大切な生きる目的を知る巡礼の道でもあります。

巡礼の起源は一般的に言われるのは4世紀にキリスト教が公認されるとき、そのキリスト教発祥の地であるパレスチナ、ことにイエス・キリストの生地であるベツレヘム、受難の地であるエルサレムの遺構に参拝するために信者が旅をするようになったことがはじまりといわれます。

また巡礼路で有名なのは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路です。これはおもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道で800キロあります。

日本有名なのは四国にある弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路です。これは 阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400キロにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路でもあります。

どのようにその人物が道を歩んできたか、そして信仰が広がったのかそれを遡りルーツを辿ることでその信仰の道のりを歩み学ぶのです。これは先祖も同様に、どのように今の自分に辿り着いたのかを学ぶための道です。

何を辿るのか、その辿るものによって理解していくものも変わります。例えば、私の住む故郷は古代に大和(山処)のクニのあったところです。英彦山を中心にして、王朝があり豊芦原瑞穂のクニのあったところだと遺跡によって語られます。

大和を辿れば、大和からどのように今の自分たちになっていたかを辿れます。どこを起点にして、何を学ぶのか、それが真実の歴史に通じているのです。

子どもたちは現代、教科書の歴史しか勉強しません。本来の歴史は、自分の中にあり、また足元、立っているところからはじまります。色々と国家教育との関連もありますが、自分のルーツを自分が大切に学び直すことは知恵を伝承することでもあり、徳を循環させていくことでもあります。

未来のためにも、自分のやるべきことで先祖への御恩返しをしていきたいと思います。

暮らしフルネスの理解

昨日は、ある自治体の職員さんたちが聴福庵に視察に来られました。あまり対外的には視察は受け容れていないのですが、かねてから深いご縁のある地域の方々でもあり共に学び合う気持ちで情報交換をする機会がありました。

私はよくそもそも論の話ばかりをします。そして目標よりも目的の話をします。また対処療法よりも根源的な解決方法について話します。時間軸も長く、短期的な評価は後回しに行動し実践している事例ばかりを話します。こういうことを並べていたら、世間一般的に流行っているまちづくりの話とは異なり聞いている方も固定概念との折り合いがつかず大変そうです。

しかし実際には、歴史を学べばその意味がわかります。

いくらその時々で最高のものであってもすぐに人が代わり時代が代わり価値観が変わればあっという間に最悪の結果になったりもします。その時々の最高の方法や答えだと思えるものほど信用のないものはありません。だからこそ私は先人の知恵や、伝承された文化の知恵を重宝してそれを現実の取り組みに取り入れているのです。

ただしこれはどれも評価しにくいものです。中庸のようなものであり、中心を捉えることができなければ理解していくことも難しいものです。世の中はほとんど二元論で考えられます。それは言葉という道具が便利な構造をしている分、分断したもので知識を理解するという仕組みになっているからです。

本来は分かれていないものも分けて考えているうちに専門的になって知識は偏りますが、実践していなければ中庸も中心も捉えることはできません。それが知恵だからです。

私はどうも知恵を話しているようで、そもそも知恵だから話でわかるというのは限りなく不可能です。なので共に実践して体験しながら学んでいく、共に知恵を使い共有していくという方法が必要です。

それがあまり視察を受けても意味がないことがわかり受け付けなくなっている理由にもなっています。一緒に実践したり学び合ったりするには場が必要です。その場をどのように創造するかは、共に志を持ち取り組む仲間になっていくということでもあります。これは自分に見返りを求めず徳を積み、子孫のために何をするか決めていくことに似ています。

まだまだはじまったばかりですが、同志が増えていくのを感じます。真摯に日々の暮らしフルネスの実践を丁寧に取り組んでいきたいと思います。

危機に備える

過去の飢饉のことを調べているとそのほとんどが人災であることに気づきます。もちろん、気候変動で寒冷化することはあっても死者の出ない場所もあれば、大勢の死者が出た場所があります。それを調べているとそのほとんどが人災が原因なのです。

例えば、古語に備えあれば憂いなしという言葉があります。飢饉や災害は必ずあるものとして、真摯に備えていれば災害がきても協力して乗り越えることができます。その災害のあることなどを完全に無視して、政治的に備えをすべて放出するようなことをすればそのあとに真の災害に見舞われます。食料危機はまさにそういう時に発生します。

現在、ウクライナとロシアの戦争で世界食糧危機になることも予想されています。世界の穀物を生産している両国が戦争することで食料が世界に流通しなくなっていきます。アフリカをはじめ、輸入に頼っている国が食糧不足で苦しみます。お金ばかりを追いかけて農業を儲かるものだけに特化したことで本来自給に必要な主食の材料が失われていることも危機を加速しています。

もろもとウクライナでは、ホロドモールとう飢餓がありました。これは1932年から1933年にかけてウクライナで起きた人為的な大飢饉です。この時、国民の5人に1人が飢饉で亡くなったといいます。5人といえば、家族に1人は飢餓で失ったという具合です。これはロシアのスターリンの政策によっての人災でした。すべての農作物や食料すらも徴収された人々は、鳥や家畜、ペット、道端の雑草を食べたといいます。そしてついには病死した馬や人の死体を掘り起こして食べ、子どもやお年寄りも食べ、そのことからチフスなどの疫病が蔓延してさらに亡くなりました。常に町の中は死臭が漂っているようだったといいます。

今の日本では想像もできないことですが、天明の飢饉でも同じことが田沼意次の政策によって発生しています。一人の政治家の間違った正義によって多くの人たちが死んでいく。これは時代が変わっても何も変わりません。

だからこそ、政治家をはじめ、統治する人たちは常に油断なく謙虚に将来の災害に備えて目先の損得ばかりを追いかけずに丁寧に備蓄を増やし、危機への対策をしっかり講じておく必要があるのです。

現場を無視し、現実を直視せず、誰かの理想論だけを信じ込まされていつも犠牲になるのは弱い立場の人たちです。よく耳を傾け、何が起きているのか、どうしてそうなるのか、そこに必ずヒントがあります。

先人の危機管理や危機対策に倣い、本来の政治を甦生する必要があります。本来、政治は、危機から救うためにあるものです。まずは自分自身が感覚がマヒしないように、常日ごろから危機に備えた行動を実践していきたいと思います。

拝む実践

先日、ある方から「拝む」ことについてのお話をお伺いすることがありました。人がなぜ拝むのかという問いのことです。その方は、拝むのは拝まれているからこそ拝むのだということです。

挨拶なども近いものがありますが、相手が挨拶をするから挨拶をします。相手が挨拶をしていないと思っていても、こちらが挨拶をしていると思えば挨拶をするものです。これはすべて相手が先に自分に対して挨拶をしてくださっていると思うと挨拶を先にするのは特段おかしなことではありません。

拝むというのは、その方が仰るにはご先祖様をはじめ、多くの方々があなたのために拝んでくださっているということ。その思いに対してもったいないと思うからこそ拝むのだといいます。

そこから、少し振り返ってみて一体誰が自分を拝んでいるのだろうかと思い出すとまず祖母のことが浮かんできます。祖母はいつも家族のこと、孫のことを神仏に拝んでいました。毎朝、毎晩、事あるごとに拝んでいたように思います。そして今度は、母です。母も気が付くと、祖母の後をついでいつも神仏に拝んでいます。きっと同じように家族のこと、孫のことを拝んでいます。

よく考えてみたら、ずっと誰かに拝まれてきた記憶があります。それがご先祖様であったり、家族であったり、友人、仲間たち、そしてご縁の結ばれている方々などが瞼の裏に映ります。そして、もう一つ、頭では考えられませんがずっと以前に先祖たちが結ばれた人たちがお互いに助け合い救い合い、恩返しや恩送りをしながら拝んでいる姿が想像できます。いつかこの御恩をお返ししますと誓い合った絆や徳、感謝の循環が今の私にも降り注いでいます。

そういう人たちが天国や別の次元からいつまでも拝んでくださっていると感じるのです。偉大な経糸と、現在に直観する横糸、それが網の目のように網羅されて今の私がその一つとして存在しています。それは拝むことに由って結び目が光り、拝み合う力によって繋がっていることに気づくのです。

手を合わせて拝むことは、拝んでくださっている方々へ向けての大切な感謝のご挨拶なのかもしれません。

大事なことを忘れないよう、当たり前ではない有難いことに気づけるよう、いつも真心で拝む実践を続けていきたいと思います。

言葉の意味

言葉というものには不思議な力があります。この言葉は何かの鍵のように別の世界の扉を開いてくれたりするものです。例えば、ある悩みがあったり思い込んだりしてものを力のある言葉によって開放されたりするからです。

私もよく人間万事塞翁が馬という言葉や、禍転じて福にするという言葉を使いそれまでの自分の発想から抜け出すことがあります。最近、滝行を通して真言を学び直していますが真言にも似たような感覚があります。

むかしの人たちは、この言葉の持つ別の側面の力をよく理解していたように思います。何度も何度も繰り返し同じ言葉を発し続けることで自分の中にある囚われや思い込み、執着を乗り越えていくことができます。

ある意味、人間は思い込みの生き物でこの思い込みによって世界を想像しています。集団の思い込みが強いほどに国家や世界が形成されていきます。人々がどのような心で生きていくか、その心をこの世界に反映させていくかで世界もまた変わっていきます。

人間は根本的なところで、あらゆる欲を持っています。社会を形成する中で、自我がありますからそれをうまく調和させ世界に天命をもって活かしあう仕合せな世の中にしていきたいと何度も挑戦を続けてきました。

その都度、どうにもならない自分の中の心を磨きととのえていくために修行や養生を行いました。自然の持つあらゆる力をうまく取り入れ、心を澄まし人格を高めていきました。そういう先人のモデルをみては、自分もそうありたいと道が続いてきたともいえます。

不思議なことですが、日本は自分たちの自然観のなかにあらゆる教えをうまく取り入れていきます。真言も同様に、古代語であるインド、アジアの洗練された言語を今でも使いいのりを唱えています。疑問にも思わずに誰しもが般若心経をはじめ漢文や古代語を使いますがそれはそのまま他の国々でも広がり使っているのです。

言葉は特に人生の経験を深め、意識も磨かれていくと言葉の意味も変わってきます。そして使っている言葉の重みや価値も変化していきます。何度も同じ言葉を使っていても、体験して得た質や数によって力も変わっていくのです。

言葉を大切にしていくというのは、言葉の持つその意味を大切にしていくということでもあります。

何歳になっても体験を重ねても、言葉を学び続けてその言葉の持つ真の意味を高めていきたいと思います。

お手入れと対話

昨日は、秋晴れの気持ちいい天気のなか畑のお手入れを行いました。土に直接触ることで、土の状態はよくわかります。美しい畑に憧れてから、食べるだけでなく畑に入ることで心身がととのっていきます。私たちは自然に触れて自然から学ぶことで地球と対話していくことができます。

この地球との対話というのは、あらゆる五感の感覚を使うことですが私は暮らしフルネスを実践していますから手の感覚をとても大切にします。この手は、手触りというものです。手で触れるというのは、私たちが原始時代からずっと大切にしてきた感覚です。

もちろん耳も眼も鼻もありますが、手は対話につながります。最初に握手をするという文化もまた、手触りで心を伝え合う仕組みを用いています。最近は、量子力学で眼もまたお見合いするなかで触れ合うことができるともいわれます。花を見て心が触るように目でもいのちの存在に気づきます。しかしやはり、お手入れすることが私は人間に与えられた大きな力であるように思うのです。

自分の手を使って何に用いるか。

ある人はいのちを守り、ある人はいのちを奪います。それも全部手で行います。手作業というものは、温かみがあると今ではよく言われます。その反対が、機械で手が入っていない冷たいものとも。手を入れるというのは、人間の心が手から通して物質に宿るという仕組みがあるように思います。

便利になって、頭で考えたことがそのままデータとして転送されたり指示されたりする近未来も予測できます。そうやって手を使うことをやめていくのが便利さというものです。しかし大事なことを失います。それは自然や地球からまた遠ざかっていくということです。

人類は不思議ですが、心の本体やいのちの正体である自然やいのち、地球からすぐに離れていこうとします。征服したり縛られたくないと抗ったり、まるで地球から逃れたがっているかのようです。そうやって逃れてみると、やっぱり地球が一番よかったとかなるのでまた可笑しなことをします。

手を使い地球と触れなくなることで私たちは何か大切な感覚を失っていきます。だからこそ私はお手入れの大切さを話し実践をします。掃除も、磨くことも、拭いて綺麗に整えることも手を使うためです。

手を使うことで私たちは自分の心との対話もできます。手は心が直に触れるものであり、自然と対話するための大切な命綱のようなものです。

子どもたちも手で色々なものに触れて心を育てます。どのような存在に触れるのか、できるだけ地球と対話できるような本物を、いつまでも生き続けているいのちのぬくもりを伝承していきたいと思います。

経営と実践

会社を経営していると、経営者とはこうあるべきという話をあちこちから聞くことがあります。それぞれに経営論はありますが、その一つがプレイヤーかマネージャーかというものがあります。管理するのが経営だから、実際に実行させるのは部下にさせればいいというものです。

私はむかしからいつまでも現場で実行する方が多かったのでこの辺はあらゆる人たちから経営者として他人にやらせた方がいいといわてきました。何でも自分でやるから育たないとか、自分がやるから全体がおろそかになるなどです。

しかし私はもともと初心というものを定め、理念を実践するということを優先した経営を志していますから実践というものをしないことの方が経営効率がいいかどうかよりも問題で決めたことを自分でやらなければ意味がないから実践にこだわっています。

こんなことをやって意味があるのかといわれても、他に大事なことがあるのではないかといわれても他に大事なものもあるけれど実践することがもっとも大事なことだと取り組んできたのです。その結果として、今があります。

例えば、いのりというものがあります。他人にいのってもらっていたらいいというものではありません。いのりは自分で実践してはじめていのりになります。他にも、日々の片づけや掃除、お手入れなども自分でやっていることに意味があります。もちろん、一人ではできないことや日々の仕事があるときなどはどうしても協力者のお手伝いが必要ですがそれもまた実践ですからみんなで一緒に実践して取り組むことに意味があります。

そもそもこの実践というものは、修行でもあり修養でもあり、志を実行するという行為です。それをせずに経営をするというのは、そもそもその志は何だったのかということが疑問になります。

志があるから、道を歩みます。その道を歩むというのは、自分で実践するということに他なりません。自分で実践することなしに道を自分で歩んでいるわけではありません。今は何でもお金で買えます、そして経営者ほどすぐにお金を買おうとします。お金で買って運んでもらおうとしますが、そんな便利な方法で果たして道が実践できるのかということです。

道の実践は、自分で歩んでこそです。

そのためにも、手間暇をかけ、丹精を籠め、面倒だと思うことでも自ら率先して取り組み、時間がかかっても、苦労をしても、自分で決めた志に忠実に誠実に取り組んでいくことが大切なことのように思います。

経営もまた実践の一つですから、自分で決めた道を丁寧に歩み取り組んでいきたいと思います。

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。