暮らしを支えるもの

宿坊のお手入れを少しずつはじめていますが、長く古いものを磨き直すことは仕合せです。昨日は、薬研という薬草をつくる道具を綺麗にしました。あちこち傷んではいるものの、山伏の暮らしを支えてきたその道具は今でもしっかりしていました。

この道具を用いて、これから何をしようかと思うとワクワクしてきます。道具の方も、新しい使い手がこれから何をしようとしているのかをワクワクしているはずです。こうやって道具と私、私と道具が共鳴共感しあって新しいご縁が結ばれて何かがはじまります。

その時のご縁を磨くというのが甦生であって、私はこれをライフワークにしています。どのようなご縁をどのような心で結ぶのか。その丁寧な取り組みの一つ一つの中に未来への面白さが潜んでいます。私たちはそのご縁のお手入れをしているだけで人生が拓けていくのです。

何か新しいことを必死に探さなくてもよく、丁寧に今の自分の周囲のご縁をお手入れしていくこと。これは物だけではなく、人も同様です。その中で、何か自分にしかできないこと、自分とそのご縁との関係を見つめていくといいように思います。

そういう意味でも日ごろからお手入れをして磨き続けることはその感性を研ぎ澄ませていくことにもなるように思います。

日々の小さな変化に気づく感性や、日々の重要な出来事を平常心で受け取っていく胆力などはどれも日々の暮らしの実践によってととのえられていきます。自分自身をととのえていくのは、日々のバランスのとり方で決まります。

感じることと味わうこと、そして振り返ることと準備して待つことはいのちを元氣に保つための知恵であり工夫です。今の時代こそ、私は古いものから学び直し、そして自分自身を磨き直す道と場の実践が必要だと感じています。

日々の実践を通して、その知恵を子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

屋根を支えよ、いのり続け世

昨日は、日本茅葺き文化協会主催の茅葺フォーラムに参加してきました。全国各地から茅葺職人さんやその文化を守ろうとする方々が参加しておられました。私もはじめて参加しましたが、会場も熱気がありこの先の未来が楽しみになりました。

私は、有難いことにここ数年の数々の甦生を通して多くの伝統文化に携わる方々と交流を持たせていただきました。文化や歴史と共に歩んでいる方々はどの方も力強く、そして守り守られているような雰囲気があります。

代を重ねるというのは、それまでの代々の遺志を繋いでいるということでもあります。これは生き物たちが子孫を残して今につながっているように、脈々と受け継がれていく智慧があります。この智慧を一つ、自分が担っていると感じるだけで天命を味わえるものです。自分の中に何を残してくださっているのか、自分の中に何が受け継がれているのか、その一つ一つをひも解けば自分の使命を自明していくことも可能です。

個性や能力、そしてその人の宿命や運命は、自ら求めなくても自然に導かれていくものです。この道に入っているのも、また日々の出会いも、どれもこれもが文化の顕現したものです。

歴史の面白さはその謎解きでもあり、解明でもあり、新たにそれを見守り育むことができる仕合せを感じられることでもあります。

以前、ブログにも書きましたが聖徳太子が「屋根を支えよ、いのり続けよ」という縁の下の舞のことを書きました。茅葺の屋根は、みんなで葺いた屋根でその一本一本を重ねて束ねたものです。それが自分の家を守っているということを教え、そしてそれをみんなで葺いたということを忘れるなとし、さらにはその重たい屋根をみんなが支えていくようにと初心を舞いで振り返るようにしました。そのうえで、いのり続けよとは、別の言い方では永続する平和の世がいつまでも続きますようにと願いなさいとしたのです。

まさに茅葺は永続の平和の象徴であり、この屋根が多くある日本こそが世界でもっとも自然と共生し永続し循環する仕組みを大切に守る国であるという理念が顕現した国だったのです。

今の時代、先祖たちはきっと心配しているでしょう。しかし、それでもこうやって屋根を守り、祈り続ける人々がいることで安心してくれているでしょう。今までの歴史を省みても、文化を守ったのは大勢いではありません。どのような困難な時も、繁栄のときも、文化を守ったのはごく一部の限られた人たちです。その人たちの純粋で真摯な生き方や生き様によって今の私たちも文化の恩徳・恩恵を享受されているのです。

文化は消えそうなとき、そして失われそうなとき、もっともそこに力が凝縮するものです。その一本の糸は、簡単には切れることはありません。まさにその瞬間も結び続けます。「結」とは、そういう縁「むすび」のことであり必ず守られるという意味でもあります。

日本の茅葺き屋根の文化がこれからこの世界を変えていく気がしています。子どもたちのためにも真摯にその意味を伝承していけるよう守静坊と共に歩んでいきたいと思います。

善根の真心

善根宿(ぜんこんやど)という言葉を知りました。別の言い方では、御蔭宿ともいいます。これは諸国行脚の修行者、遍路、または行き暮れた旅行者などを無料で宿泊させる宿屋のことです。ただなぜ善根というのか、それはお遍路さんに奉仕をし孝徳を積むことができるかともいいまます。

この孝徳とは、孝行の徳のことです。自分の親を大切にするように、喜ばせて大切にするということです。親孝行とは、子が親を敬い、親に尽くすことをいいます。

デジタル大辞林には、《「ぜんごん」とも》仏語。よい報いを招くもとになる行為。また、さまざまの善を生じるもとになるもの。「善根を積む」「善根福種ふくしゅ」とあります。

もともと仏教には、因果応報の法則というものがあります。そこには「善因善果」(ぜんいんぜんか)「悪因悪果」(あくいんあっか)という言い方をします。これは「善い行いをしていれば、いずれ善い結果に報いられる」その逆に「悪い行為には、必ず悪い結果や報いがある」という意味です。

これは地球を含め、丸い球体をみればわかります。どんなに遠くに投げたものでも必ず自分のところに戻ってきます。つまりどのようなものを積んでいるかで、その積んだ因果が長い年月をかけて戻ってくるのです。その時、善い種を蒔く人は善い花が咲くし善い実を漬けます。そうやって、どのような因果を積むかということを常に意識するのが人生をよりよくする一つの知恵でもあったのでしょう。

しかし実際は、宗教とは別に自分の人生を善悪のどちらかでいるためにこんなことをやっているのではかったのではないかと思います。私の思う信仰は、自他を喜ばせることです。みんなの喜びと自分の喜びが一致することです。それを私は徳積みと呼び、お布施といいます。

お布施行としての善根宿であり、まさに御蔭様で宿っているということでしょう。お互いに仕合せになりような巡礼にしていたのが、本質的な宿坊の役割だったのではないかと思うのです。

仲間や巡礼路の甦生に手掛けていますから、私自身もその一つの役割を果たせるように善根の真心で取り組んでいきたいと思います。

歴史と文化から学び直す

昨日は、白駒ひとみさんが主催する和ごころ大学で講演をしてきました。日本の歴史や文化から様々なことを学びなおしておられる方々とのお話は心地よいお時間になりました。講演の前後でも、国家君が代の話や、知覧や沖縄の話など、深めたことをお聞きしているとどれも生きた歴史であることを感じます。

そもそも歴史というのは、今の時代はどこか過ぎ去ったもの、終わったものという認識があります。しかし実際は、終わったものではなく今も歴史をつくっている最中ですから歴史は私たちが担っているのです。その歴史をどう学び、今をどう変えるのかというのは本来は私たちこの時代に生を受けた人たちの本当の使命であるということです。

過ぎ去った過去に対して、いかに内省し、それを見つめなおし今をどう変えていくか。そして、何を変えて何を変えてはいけないか。それを悟るのもまた歴史を学ぶ醍醐味でもあります。そして歴史は、今の私がどのような成り立ちでこうなっているのか。そして世界が何処からきて何処に向かうのかもわかります。

つまり人類にとっての先輩は、まさに歴史でありその先輩から文化や伝統を学ぶことで同この世でふるまうことが大切なのかを学んでいくのです。

先人の知恵や先輩の生き方、その中にこそ本物の歴史や文化は息づいています。それもまた徳の一つでしょう。そして学ぶということは、すぐに実践をするということですから私たちは歴史を学ぶために歴史をつくり続けなければなりません。

今、私は英彦山の宿坊を甦生していますがその御陰様で今まで知らなかった歴史、何を変えて何を変えないかも学んでいます。また歴史をつくる仲間たちとのご縁も広がっています。

時は静かに地下水脈のように悠久に流れていますが、それを掘り起こす井戸のようにみんなで歴史を深堀ればまたその水脈は地上の川として道をつくります。

小さな一歩かもしれませんが、これからも子どもたちのためにも歴史や文化を甦生し続けていきたいと思います。

暮らしの改善

私は子ども心を見守るのが本業ですから、自分らしく自分の道を生きている人をみたら応援したくなります。自己を理解し、自分というものを大切にたった一度きりのこの人生での自分の役割や使命を果たしていこうとする人をみると自然と安心します。

その逆に、自分に嘘をつき、周りの評価ばかりを気にして、自分らしく生きることをあきらめているのをみると、環境や仕組みの影響を感じて自由な場づくりを心掛けていきたいと思うようになります。

自由を奪われ、安心できないような環境や仕組みがなぜ生まれていくのかを観察していると教育や社会システムのゆがみを見つけます。今まで長い年月の中で、時代の変化もありそうなってしまったものもありますが本来の目的や人間の仕合せを見つめて本質的な改善を続けていくのが効果があります。

例えば、暮らしの改善というものがあります。

自分らしく生きていくための暮らし方の改善です。自分自身がどうしたいのかということを振り返るような時間、もしくは場を持つこと。これも暮らしをととのえていくことができます。また忙しさに流されないように、身の回りを整理整頓したり掃除をしたりすることで呼吸もととのえていくことができます。

ほかにも、自然のリズムとともに生きることで人間都合のスケジュールを自然をベースに調律したり、体と対話して自分の体の声を聴いて体調をととのえたり、暮らしは改善することができます。

本来、私たちはどこを主軸にして暮らしをするかで暮らしの質は変わります。仕事中心にするとそういう主軸の生活になります。本来、暮らしは自然と一体になっているものだと私は定義していて、生活とは別だと思っています。仕事の中に暮らしはなく、暮らしの中の一部に仕事があるというのはそういうことからです。

自分らしく生きていくというのは、自然体になっていくことに似ています。そして自然体の自然は、自然と同じように他を尊重しあいながら全体最適を目指していくことです。そしてそこに徳を積むことの喜びや仕合せもあります。

子どもたちが悩み迷うとき、自分らしく生きている自然体のモデルがたくさん身近にあり、自他を喜ばせ、全体快適な暮らしができるように、日々をととのえていきたいと思います。

真の天狗

むかしから「天狗になる」という言葉があります。そして同時に「天狗の鼻をへし折る」という言葉もあります。もともと「天狗」は深山にすむという想像上の妖怪のことをいいます。

一般的には天狗は赤い顔で鼻が異様に高く山伏姿をしていて手には団扇や混合杖を持っています。そのうえ翼があって空を飛び、特殊な神通力をもつ存在だといわれます。また実力もないのに自慢したり怨恨や憤慨によって堕落した僧侶は天狗道という魔道に入ってしまうといいます。慢心から堕落するといわれたそうです。

慢心は身を滅ぼすという言葉もあります。高い地位や名誉、また肩書を持てばもつほどに謙虚にならなければ身が滅ぶということなのでしょう。先人たちは、そういう自戒を込めて天狗になることを戒めたのかもしれません。

増上慢という言葉もあります。これはデジタル大辞泉を引くと 仏語。未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたと誇ること。七慢の一。 自分を過信して思い上がること。また、そういう人や、そのさま。「増上慢をたしなめる」とあります。

悟っていると勘違いしてしまうと人は謙虚さを失うのでしょう。悟りは状況環境で変化するからこそ、その唯今の悟りを悟り続ける謙虚な修行の姿にこそ慢心を戒める生き方があるように思います。修行そのものが悟りであり、悟りは修行そのものであるということだと私は思います。

どんな時も、自分に矢印を向けて反省を繰り返しながら自己を磨き続けていこうとするところに魔道に入らない本質的な天狗道があるように私は感じました。人間は、すぐに他人と比べては競い争い、嫉妬し評価するものです。しかし、そういう気持ちが慢心を生み、謙虚さを遠ざけていく原因になっていきます。

そうならないように謙虚であるには、自戒をもった生活を心がけ、初心を忘れないように実践を磨いていく環境をととのえていくことがいいようにも思います。先人たちはそれを暮らしで実現していたようにも思います。

最後に、座右の銘を最初に作った人に崔瑗という学者がいます。この崔瑗の座右の銘を空海が筆写して日本に持ち帰り広がった自戒があります。空海というあれほどの人物だからこそ謙虚を磨いておられたのでしょう。そこにはこう記されます。

「人の短を道うこと無かれ、己の長を説くこと無かれ。人に施しては慎みて念うこと勿かれ、施しを受けては慎みて忘るること勿かれ。世誉は慕うに足らず、唯だ仁のみを紀綱と為せ。」

意訳ですが、「人の短所は追及してはいけない、そして自分の長所や能力は自慢してはいけない。人に良いことをしたり恩を施したことは早く忘れなさい。しかし、人から受けた恩は決して忘れてはいけない。世間の名誉を得ようなどとは思わず、ただ真心や思いやりのみを心の拠り所にして道を歩んでいきなさい」と。

私も深く反省をして、自分自身の初心を忘れずに専心していきたいと思います。

 

 

この道を究める

自分の道を歩んでいくなかで、大勢の方から評価されることがあります。その評価は賛否両論あり、それぞれの意見があります。人には価値観があり、それぞれに生き方も異なりますからそのどちらも参考になります。

しかし時折、親しくなりたい方や、大きな影響力をある方、認めてもらいたいと思っている方からの意見に自分が揺さぶられてしまうことがあります。

人が自分を見つめるというのは、こういう時かもしれません。

自分を見つめるというのは、自分というものをもう一度、外の目、内の目、全体の目で観直してみるということです。その中で、自分はいったいどうしたいのか。そして周囲はどう思うのか、自分の初心、役割、天命はどうしたいのかと自分自身を掘り下げていきます。

自分を掘り下げていくなかで、本当の自分に出会います。そして本当の自分の声を聴いてどういう結果になっても悔いのない方を生きようと心で納得するのです。

すると、結果に限らずその人はその人らしい人生を生きていこうとします。つまり自分らしく生きていくのです。

私は子どもを見守ることを本志、本業にしています。なので、試練はいつもそれを見守れるかどうかというものを見つめる機会があります。童心、そして道心を守れるかと自己に問うのです。

子どもが子どもらしくいられる世の中をつくりたい。そして子どもの憧れる生き方を実践したいと決心してから今があります。それは自分の中にある子どもを守れるかという覚悟と一心同体でもあります。

しかし有難いことに、事があるたびに救われるのはその自分の中にある子ども心であり納得していきていこうと約束して決めた二つが一つになった自己一体の本心です。

本心のままに生きていけるように、強く逞しくしなやかに、素直に謙虚にこの道を究めていきたいと思います。

いのりの道

伝統的なもの一つの信仰というものがあります。これは宗教とは異なっていて、むかしから自然と共生するなかで自然に発生してきた祈りの実践です。人は、祈りというものを感覚的に持っています。これは祈りのそのものといのちそのものが繋がっているからだと私は思います。

そもそもいのちというものは、自然から活かされている存在です。これはすべての動植物はじめあらゆる生命エネルギーが万物と共生しあうことで存在していることからわかります。

それが長い時間をかけて循環をし、あらゆるものが渾然一体となって活動しているともいえます。そしてそれは目に見えるものから目には観えないものまで膨大にかつ複雑に存在していますから私たちはその全体の一部としてこの今という世界に生き続けている存在ということになるのです。

そしてそれぞれに役割というものを持ち、いのちをかけてその役割を全うしていきます。一生懸命に自らのいのちに生きるだけで、私たちは自分にしか与えられていないいのちの使命を果たしていくのです。

そこには正否もなく、善悪もなく、そのいのちの全うこそに意味があり価値があります。

そのいのちの全うするなかで、私たちは時折、初心というものを忘れてしまいます。それは欲望や執着がうまれ、目先のことに流されて大切ないのちの存在を忘れてしまうからです。

そのいのちの存在を思い出すことが、伝統的な信仰であると私は思います。

そもそも信仰とは何かという話になりますが、私にとってはいのち=信仰です。これは宗教ではなく、人の生きる道です。つまり、人生道ともいうものです。宗教は真理が外側に存在していますが、信仰はいのちそのものです。そのいのちの存在を思い出すこと、いのちの存在に畏敬し触れようとするもの、そういう自然との一体化、共生のなかに太古のむかしから今も連綿とつながっているいのちの存在にいのるのです。

つまりいのりやいのるというのは、いのちの存在のままでいるということでしょう。

子どもたちにもこのいのりの生き方、そしていのりの道が続いていくことを忘れないように私自身も天命を全うしていきたいと思います。

自然から学ぶ

人はそれぞれに固定概念を持っています。今までの常識があるから思い込んでいるものはなかなか拭えません。特に最初からあったものに関しては、ほとんど疑うことがなくそういうものだと信じ込むのです。

これらの思い込みが執着になり、本質や真実がわからなくなっています。特に知識として誰かに教わって疑問を持たないとよりその思い込みは強くなります。

本当は文字や知識がなかったころ、人は何を見て学ぶのか。それは自然を観察して学んでいました。自然の中で発生する様々な道理や真実を直に観て、その本質を察知していきました。小さな変化から大きな変化、またこうすればああなるというように場数を繰り返して事実を学びました。

今では誰もがそうやって習得しなくても、言葉や文字によって便利になりある程度は理解し合えるようになりましたからその分、かつてのような本質の察知や道理の習得は失われていきました。

しかし、原理原則や道理、真実というのは基本であり基礎であり根本や根源の部分です。応用というのは、その原理原則をもっていることで発展させていきますから物事の道理を習得していた方がこの世の仕組みや知恵を発明するのに重要な役目を得られます。

例えば、私は自然農や伝統文化などに触れていますがそうすると道理や原理原則ばかりを見つめる機会が増えます。自然の原理原則に照らさなければ壊れる仕組みになっていますから、毎回、自然に近づき自然に寄り添い、自然の叡智をおかりしながら取り組むのです。

そうやっているうちに、自分が思い込んでいたものに気づき、大前提になっていた知識や執着が取り除かれていきます。世の中の当たり前を疑い、本来の自然にある当たり前に気づけるようになっていくのです。

こういう学問をしていたら、飽きがくることはありません。毎回、新鮮な学びがあり、気づくことが増えていくだけです。なにに気づくにか、それは自分の思い込みに気づくということ。そして新たな発見や発明に気づくということです。それはその道理や原理原則を応用する面白さに出会うからです。

人間の学問の根本は、この「自然から学ぶ」ことにあると私は思います。子どもたちのためにも、自然から学ぶ姿勢を伝承していきたいと思います。

一期一会の一日

一つ一つの家を修繕していくというのは、一つ一つの丁寧な物語を紡いでいくことに似ています。悲喜こもごもに様々な出来事があり、謙虚に素直になってその物事を見つめます。

いつも大切な局面において試練があり、その試練の意味を見つめます。

そして試練の時こそ、その根本や根源はどうだったか、最初の目的は何であったかを振り返り、自分の生き方や初心、そして信念を修繕する機会になるのです。

そうやって逞しく育っていくことで、様々な体験を経てまたお智慧をいただきます。このお智慧は、謙虚さと素直さです。自然は常にこのお智慧をつかい循環をして已みません。

かつての先達の方々もきっと本質を保ちながら試練に耐え、この世の中でバランスを磨いていかれたのでしょう。穏やかな海のときもあれば、荒れている海の時もある。時折転覆しそうな時もあれば、追い風で一気に進む時もある。人生はこの舟のようなものです。

一つの目的に向かって、偉大な理想に向かって漕いでいきますがその中で様々な試練を体験するようになっています。そうして浮かべた舟ですから、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというようにあとは全託する境地でゆらゆらと大空に吹かれていくだけです。

私は、試練の意味をみつめるとき、その試練に対して全託します。

これがどのような福に転じていくのか、そこに奇跡を感じて好奇心がワクワクします。どこに辿り着いても、大切なのはその心の在り方であり、生き方です。子どもたちのためにも、ブレずに理念を実践し、今日も一期一会の一日を過ごしていきたいと思います。