御粥の伝統と甦生

七草がゆの御粥のはじまりについて深めているといろいろなことが分かってきます。

この御粥という言葉は、延暦二三(八〇四)年に記された伊勢神宮の「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)」の中に出てきます。この「粥」という字は「煮た米」を現します。字の意味は「固粥」で、現代のご飯とは蒸したお米ですから別のものです。

もともと日本では紀元前一世紀ごろには御粥は食べ始められていたといいます。世界では3000年前から食べられていたといいます。その時の御粥は、今でいうおこわのようなものだったといわれます。

縄文土器など見てもわかりますが、焼いた石の上で料理したり、煮込んだりしたものが主流でしたから穀物も同じように煮たてていたのがわかります。東南アジアの料理で、葉っぱにくるまったおこわを食べますが私にはあのイメージです。

稲作がしっかりと根付いた弥生時代にはうるち米を煮て食べていたともいわれます。それが奈良時代には、土鍋で煮た水分の少ない固めの粥が食べられていました。これが固めの粥「固粥」と呼ばれます。

ここでの土鍋は、「甑」(こしき)と呼ばれる土器が使われていたといいます。この『甑』は、底に湯気を通すための小さな穴がいくつも開いた深めの鉢のようなものです。そこにお米を入れて、湯の入った釜の上に置いて蒸していました。これが発展して木製のものになり、それが蒸籠になるのです。

こうやって蒸して出来た粘り気もなくて固かったので「強飯」(こわいい)と呼ばれました。そしてここからいよいよ羽釜が登場してきます。竈で羽釜をつけてご飯を炊くのです。それまで鉄の釜は中国から伝わって来ましたが、その釜には羽の部分なかったといいます。すると竈にはめ込んだ時、持ち手である羽が無いので取り外すのが大変だったのでそこで取り外しが楽になり釜を洗う時にも便利なように羽を付けることを考えて発明されたのがこの羽釜です。先人たちの智慧の偉大さを感じます。そこから今の私達が食べているご飯の原型は変わっていません。

御粥の方はそこから分かれて、土鍋で煮た水分の多いものを御粥として発展します。汁粥ともいわれ水分が多く、汁が入ったご飯です。11世紀ころには文献にもおかゆとして書かれています。病人が食べるようなイメージになったのは、江戸時代だといいます。御粥は、水加減で呼び名も変わります。水加減一対五は「全粥」、一対七なら「七分粥」。一対一五なら「三分粥」。一対一〇で炊いて、汁だけこし取ったものは「重湯」といいます。そして全粥一に対して重湯九の割合で混ぜたものが「御交(おまじり)」というそうです。病人食や老人食や離乳食といった目的に応じて、作り方も呼び方も変わります。

江戸時代にはこのように御粥はいろいろな姿に形状を変えていきます。七草がゆが愛されるのも、この医療や治癒に御粥が重宝されてきたからかもしれません。

今日は七草がゆの日です。

本来の日本人がどのような祈りと意味と願いを込めて、このような伝統を伝承してきたのか。子どもたちの未来のために甦生していきたいと思います。

七草と薬草

人日の節供は、平安時代までは野草ではなく穀物が中心でした。その内容は、お米、アワ、キビ、ヒエ、ミノ、ゴマ、アズキの「七穀」です。この穀物が粥になったのですが、その後は薬草の七草を使うようになりました。

七草はセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロのことをいいます。この七草をすべて合わせると約12種類の薬膳効果があります。調べると具体的には健胃効果・食欲増進・利尿作用・二日酔い解消・解熱・去痰・咳止め・気管支炎予防・扁桃腺炎予防・肝臓回復効果・そばかす予防・あかぎれ予防・心の安定効果の効果があるといわれます。

この七草の縁起に意味付けして、セリは競り勝つ。ナズナは撫でて汚れを除く。オギョウは仏体。ハコベラは反映がはびこる。ホトケノザは仏の安座。スズナは神を呼ぶ鈴。スズシロは汚れのない潔白。としています。

日本人は、どのようなものにも意味を宿してそれを吉として呼び込むことで縁起担ぎをしてきましたからこのような意味付けが誕生したのでしょう。すべてのものをいのちそのままを丸ごといただこうとする智慧があります。

薬草というのは、日本最古の歴史書である『古事記』にも書かれます。奈良時代、593年に聖徳太子は怪我や病気で苦しむ人を救うために、四天王寺内に施薬院(せやくいん)を建立し、そこで薬草を栽培していたという説も残っています。

そしてこの薬草は日本だけでなく世界中で用いられます。植物の中にある薬効成分が心身をととのえたというのは非常に大きな発見だったように思います。つい身近にある草を雑草と思い込んでいて関心を持ちませんが、実はこれらの草には驚くほどの効果効能があります。スギナやドクダミ、ヨモギなども効能は枚挙にいとまがないほどです。

自分たちの風土の中で、如何にして私たちは自然を取り込んで色々な治癒に活用してきたか。先人の智慧には頭が下がります。今年から薬草や和漢方を深めていくので、よいものを子どもたちに伝承していきたいと思います。

行事の意味

昨日は、おせち料理を用意し親族も集まりみんなで正月のゆったりとした時間を味わいました。毎年、恒例行事があることで子どもたちをはじめ色々と成長しているのを実感できます。老いも若きもみんなそれぞれの時代において仕合せに過ごせることは安心であり幸福です。

今ではおせち料理というと何種類も何十種類もあるもののようになっていますが本来はとてもシンプルなものだったといいます。平安時代には、高盛されたご飯のようなものだったともいわれています。

もともとこのおせちは、中国の歴である季節の変わり目の「節」が取り入れられたころからはじまったともといわれます。中国では、陰陽五行が紀元前1000年前からはじまっており日本には平安時代に宮廷に取り入れられて独自の発展をしていったものといわれます。これを節分とは言わず「追儺(ついな)」という皇室で行われてた鬼払いの儀式とされています。中国では中国では「大儺の礼(たいな)」として行われていたともいいます。

本来これらの宮廷文化だったものが庶民に入ったのは江戸時代です。明治時代には改暦によって、これらの行事も失われていきました。中国でも清の時代に、これらの風習はよくないと一方的に失われていったといいます。現在では、中国よりも日本の方が五節句をはじめ邪気払いとして独自に進化して残っています。

先ほどのおせち料理も、今のようなおせち料理という名前になって重箱にたくさんの種類の料理が入ったのも戦後だといわれます。バブルの時に、さらに発展して今のようなおせち料理になったそうです。

そう考えてみると、伝統と私たちが信じているものは遡れば最近はじまったものであったり、他国のものであったりといい加減なものであることもわかります。しかし、元を辿ればなぜはじまったのか、何をする行事だったのが本質だったのかと深めれば、その伝統行事を再び、この時代に甦生させていくこともできるのです。

はじまりを知ることは、その行事の意味を知ることなのです。

子どもたちのためにもなんとなく続けているものをもう一度すべて洗い直し、新たな伝統文化として温故知新して息を吹き返していきたいと思います。

信じる道を貫き通す

昨日は、一年の振り返りを会社の仲間たちと一緒に行いました。こうやって毎年、続けてこられて20年目に入ります。来年度で20周年ですが、思い返せば色々な思い出深いことがあった20年でした。

特にこの一年は、コロナの影響があってそれぞれの場所でそれぞれに自分の役割を全うしていきました。これで本当にいいのだろうかと思うこともありましたが、今できることに専念するということでそれぞれに自分を盡していきました。

世の中の価値観では、こうあるべきというものがたくさんあります。そういう意味では、私を含め私たちの会社はこうあるべきというものと逆のことをやることが多いように思います。

本当は、世間の価値観に迎合し、みんながやっていることに従っている方が楽になります。みんなの思う正解や平均、それまで刷り込まれてきた常識に合わせていく方が無難ですし、余計な不安はなくなるのです。

まるでみんなで渡れば怖くないというように、人が大勢いる方が大丈夫だろうと安心したくなるのも人間の真理です。多い人=安全という意識もまた、私たちが元来持っているものです。

しかし、自分の理想や目的や信念、初心があったり、理想への憧れやこれは譲れないと思えるほどの優先順位がある人はその多い人=安全ということは関係がありません。自分が少ない人=危険であっても関係なく、その人の目指すゴールイメージに近づけるための努力をし続けていくのです。

ある人はその孤独が嫌だと避けようとします、またある人はかえってその孤高の状態をよしとしてさらに前へと足を進めます。人は生き方ですから、その生き方を決めるのはその人自身です。

どのような結果が待っていたにせよ、自分の信じる道を貫き通すことは悔いのない生き方になります。人生の中で大切なものや大事なものは増えていくばかりです。その一つ一つを守りたいと思っても体は一つしかありませんし時間も一日、24時間と制限があります。手放すことはとても辛く苦しいことですが、一つ一つを丁寧に手放し、理解してもらい、時には人に頼り、生きていくのが人生でもあります。

大事なことをやり遂げるのは、全体快適のためでもあり長い目でみた子どもたちの未来のためです。目先の子どものためも大切な仕事ですが、1000年先の子どものためも同時に大切なことです。

誰かがやらないといけないことを自分がやると決めてくれる志のある人は、この先も大切にしていきたい存在です。私も場をととのえ、志士たちと力を合わせて理想を実現させていきたいと思います。

全体最適の治癒

漢方には生薬というものがあります。この生薬とは、植物や動物、鉱物などの天然産物由来の薬物のことをいいます。乾燥・切断などの簡単な加工をして用いられています。

ウィキペディアにはこう書かれます。

「有効成分を多く含んだ生の薬用植物や動物、鉱物を、いつでも用いることができるように、保存ができる形に加工したものを生薬とよんでいる。人が生薬を使い始めたときは1種類(いわゆる単味)の生薬を用いていた。これらは例えば柴胡は熱を下げる、杏仁は咳を止めるといった簡単な知識の集積となった。しかし、漢書『芸文志』ですでに指摘されているように、病気は、季節、気候、風土、体質などの遺伝的要因の影響を受け、他の病と併発するなど複雑化することもある。そこで2種類以上の生薬を組み合わせて用いられるようになった。日本における生薬は、漢方処方や民間伝承の和薬などの東洋医療で用いられる天然由来の医薬品すべてであるが、漢方医学の影響が大きいため、生薬と漢方薬が同一視される場合も多く、混乱を招いている。生薬は漢方医学以外にも、民間薬として単独で使用する機会もあるが、漢方薬は複数の生薬を漢方医学の理論に基づいて組み合わせた処方で配合比率も厳格に決められており決して同一ではない。漢方生薬は、慣習上漢字名で生薬名を呼んでいるため、薬用植物の標準和名とは異なる名前で呼ぶことが多い。一方で民間薬では、植物和名で呼ぶことがふつうである。江戸時代に、生薬は漢方薬の原料という意味で薬種(やくしゅ)とも呼ばれており、鎖国下においても、長崎貿易や対馬藩を通じた李氏朝鮮との関係が維持された背景には、山帰来・大楓子・檳榔子・朝鮮人参などの貴重な薬種の輸入の確保という側面もあった。輸入された薬種は薬種問屋・薬種商を通じて日本全国に流通した。」

生薬はとても長い歴史があります。伝来したのは仏教と共に朝鮮半島を経由して日本に中国医学や生薬が伝来したのは6世紀頃だそうです。『日本書紀』には飛鳥時代の女帝、推古天皇が我が国初の「薬狩り」を宮廷行事として実施したことが記されています。そして寺院での治療薬の施しや、薬草園での生薬栽培も行っていました。

英彦山でも様々な生薬が栽培され山伏たちがそれを各地へと運んでいたともいいます。生薬は組み合わせ次第では、相乗効果を発揮する仕組みです、それに分量や、種類でありとあらゆる体質改善に活用できます。

現在、不老園を甦生していますが合わせて薬研をつかい色々と研究してみたいと思います。子どもたちのためにも先人の智慧や叡智で、本来の全体最適の治癒を伝承していきたいと思います。

漢方と不老園

昨日、久しぶりに郷里の有名な漢方医のところを尋ねました。一つには、叔父さんの体質改善のアドバイスをいただくことで、もう一つは、古の英彦山の生薬「不老園」を甦生するための相談です。

改めて、色々と発見したこともあり、少し整理してみます。

まず漢方医学というものがあります。これは調べると「狭義では漢方薬を投与する医学体系を指す。また漢方は、漢方薬そのものを意味する場合もある。広義では、中国医学を基に日本で発展した伝統医学を指し、鍼、灸、指圧なども含む。」とあります。しかし、実際に漢方医の診断を拝見していると総合診療をしているのがわかります。つまり全身の症状、体格、骨格、内臓の状態、皮膚の状態、体力の程度、生活環境、生活リズム、精神状態、自律神経、きりがありませんがあらゆるものを総合的に分析して経験や知恵を活かして直観的に何が問題であるのかを判断します。そのうえで、それを治癒する方法をあらゆる手段を用いて実施していきます。

昨日も漢方医のお話をお聴きしていたら、西洋医学で末期がんの医者が治療に来たことがあるとも仰っていました。自分たちは西洋医学で治療しているが、がんが治らないからここに来たという具合です。実際に、その医院ではがんを完治した人の話がたくさんあり、どの話も納得できるようなことばかりでした。

例えば、心の持ち方、生活の気を付け方、回復までのプロセスに寄り添いながら漢方薬を煎じていきます。時間はかかっても、確実に体質改善を行っていくのです。私が、以前、取り組んでいたコンサルティングも対処療法と根源治癒がありました。緊急のものは対処療法しますが、実際に理念や初心を含めて盤石な状態にするにはやはり時間をかけても体質改善をするしかありません。今、会社で取り組んでいる一円対話もまた未病であり、体質改善につながるものです。

ここから話を英彦山の生薬の話に換わりますが、先生と一緒にこれから不老園を復活させてみることにしています。これは山伏たちの暮らしの中心にあったもので、千数百年も前から重宝され、全国各地の病院たちを治癒したものです。

もともと山伏の生薬については、求菩提資料館にこう書かれていました。

近世の山伏は民間祈祷師であるばかりでなく、人々にとっては頼りになる民間療法の専門家でもありました。つまり、病気を治すための加持祈祷を行うかたわら、薬草・薬石をそえることを忘れなかったのです。山伏たちは、本草学に関する知識を持ち、山中で薬草を採取あるいは栽培して、さまざまな薬をつくりました。つくった薬は年に一度の檀家廻の際に配って歩き、翌年檀家を訪ねた折にもしもその薬が呑まれていれば、代金を頂くといった具合でした。「入れ薬」のはじまりです。」

明治のころから、民間医療薬が禁止されまた修験道廃止令も出て、この伝説の生薬である不老園は徐々に世の中から消えていきました。今では古文書の中にいくつか書かれているのが残っているだけで生薬はどこにも販売されておりません。

先生とお話をしていると、この不老園は特に自律神経を整える成分でできていると仰っていました。かつての山伏たちは、心身を治癒する医師たちでもありましたからこの生薬はとても人々の病気を治癒し、未病を維持するのにもとても重宝したはずです。

しかし明治の頃というのは、調べれば調べるほどとんでもないことをしていることを実感します。明治維新のことばかり話しては、やってきたことを肯定していますがよくよく吟味して否定して改善する必要性を私は感じています。歴史を変えたり、消したり壊したら、ちゃんと責任をもって日本人のためにやり直すべきはやり直す必要を感じています。

子どもたちのためにも、先人たちが人生を懸けてつないで結んできた叡智を甦生させて伝承していきたいと思います。

ご縁と未来

人の出会いやご縁はとても不思議で歳を経るたびにそれを実感していくものです。だいぶ以前に、出会った人と数十年後に再会することもあります。その時は、深いご縁でなくても再会後に非常に深い関係になり人生をご一緒することもあります。

人の出会いには、タイミングがありその時々で必要な時にお互いに関係が発生していくようになっているからです。時折、未来がすでに決まっているのではないかと思うほどに過去にあったことが繋がってきて結果を先に見せられているかのようです。

以前、未来がもしも先に見えたならと想像したことがありました。

人はみんな先々のことを知りたがりますが、もしも知ってしまえばとてもつまらないものになるようにも思います。運命論者ではないですが、先に諦めてしまい何もしなくなるからです。しかし、実際の人生には選択というものができます。選択できるから、当然、その未来も変化していくのです。

ご縁というものも同じで、選択をしていきます。

その選択の連続の中で私たちは生き方も選択していきます。生き方とは、どうありたいかというものの選択です。どんな運命であっても、どのような人生、どのようなご縁であっても、それをどうあるかと決めるのは自分ということです。

自分が決めた人生は、自分が選択した生き方であるということでしょう。

どんなご縁も感謝にしていく人、また大切にしていく人は、未来もまた同時に感謝と大切な人たちに恵まれます。未来は変えれないのではなく、未来は生き方で変えることができるということでしょう。

子どもたちの未来を変えていくために、生き方を優先していく人生を送りたいと思います。

遺徳

昨日から久しぶりに石見銀山の阿部家に来ています。松場ご夫妻と懐かしいお時間を過ごしながら阿部家の余韻に触れています。この阿部家はいつも新しく磨き上げられています。古民家ではなく、新民家です。私もこの場所にきて、その暮らしの美しさに感動して今があります。

人は、どのように日々を暮らしていくかはその人の選択です。

美しく生きようとする人には美しい暮らしがあり、感動して生きようとする人には感動する暮らしがあります。その実態は、その人の心の姿そのものであり、生き方がそのまま暮らしになるということを意味します。

つまり何を暮らしにするかを決めるのはその本人であるということです。人生という言い方でもいいかもしれません。どんな人生を送ってきたかは、その環境や場所に残存します。それを余韻ともいいます。

私自身もいつまでも人々の心に美しい残り香のある暮らしがしたいものだと感じるものです。それを別の言い方では、「遺徳」ともいいます。

徳を積んでいく暮らし、徳を磨いていく暮らしは人類の原点です。

色々な教育がでてきては、あれやこれやと複雑になっていきますが本質や根源は一つです。私たち人類は、何を捨てて何を求めていったのか。そして今、何を本来拾い直すときで何を手放すことが必要なのか。

そのきっかけを与えて気づかせることもまた徳を積むことになるのでしょう。

私が暮らしフルネスに取り組む本質的な理由は、本来のあるべき人間の心を子孫たちに先人が私たちにしてくださったように繋いでいきたいからです。改めて、原点を思い出しました。

一期一会の出会いとご縁に深く感謝しています。

道心の中にこそ真の暮らしはある

最近、別々の人たちから「道心」のことを聞く機会がありました。具体的には、「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」というものです。これは天台宗の開祖、最澄の遺した言葉で一心戒文というものの中に出てきます。

この一心戒文は最澄の弟子、光定(こうじょう)がまとめたものですがこれは同じ道を歩む人たちへの心得と心構えを遺したものです。

この道心とは、以前このブログで書きましたがこれは徳を高めて道を志す道徳心です。最澄が目指した世界はどこにあったのか、これは1200年前からずっと今にいたるまで世界の人類がみんなが最終的に目指すゴールの姿も同じです。

如何に平和を譲り遺せるか、そして人は如何に思いやりに満ちた仏さまのような心を保つことができるか。人間の徳を磨き続けて、いつまでも平和の世の中にしたいと発願した人たちの御蔭で私たちは今でも平和のカタチを心に遺して学び続けていけるように思います。

もしもこのような道徳心というものを知らなければ、私たちは文明や文化そのものを真の意味で発展していくことはできません。どの時代であっても、私たちは目先の利害や損得、欲に呑まれてしまい本当の人間の幸福や豊かさの意味を忘れてしまいます。

そうならないように、お手本になること、そしてそうありたいと願う生き方の中にこそ真の教えはあります。今でこそ、宗教は何か学問とは別の信仰と区別されていますが本来は宗教は学校であり学問のもっとも磨き抜かれた道場でした。

その道場で学んだ教師、むかしは聖人といいましたが彼らが各地を巡り、どう生きることが人々の真の仕合せにつながっているかを初心を忘れないようにと伝法していたのです。そうやって、人が持つ地獄のような苦しみから解き放ち、手放すことを教え、共に実践し心と現世の幸福に導いたのでしょう。

しかし、実際にはどの時代にも人間は目先の欲に呑まれます。自戒として、最澄が「道心があるなかにこそ真の暮らしは存在する」といったのではないかと私は思うのです。

現代の人たちが理解しやすくしようとするとこの「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」の「衣食」を「仕事」という言葉に置き換えればピンと来るのではないかとも思います。

「道心の中に仕事あり、仕事の中に道心なし」

です。

仕事ばかりして生きていますが、その中に真の暮らしはあるのでしょうか。本来、人間は真に暮らしをしている中にこそ、本当の意味の仕事があるのではないでしょうか。志や理念、初心を忘れないで働く人は、暮らしをととのえて働いているでしょう。しかしそういうものを持たずに単にお金のためだけに仕事をしていたらそこに真の暮らしはないということです。

どの時代も、真理や普遍性というものは変わることはありません。しかし時代と共に、欲が形を変えていきますから私たちもまた先人に倣い対応していくしかありません。

最澄は、大乗仏教を唱え、能力のあるないにかかわらずすべての人々を救おうと志しました。そのため、誰にでもできること、特別な能力がなくてもどんな人でも救われる方法をその時代に突き詰めたのでしょう。それがこの一心戒文の中で感じ取ることができます。

私が「暮らしフルネス」を提唱し、実践し、それを弘めようとするのもまたこの道徳心を磨く、そして徳を積むことを誰でもできるようにして道心を甦生させようと発願したからです。

最後に、最澄のこの言葉で締めくくります。

「国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人曰く、経寸十枚、これ国宝にあらず。一隅を照らす。即ち此れ国宝なり」

道心ある人が国宝であると、徳を積み、道を歩む中にこそ平和と天国があります。宝とは、すべてこの真の暮らしの中にこそあるということです。

子どもたちのためにも、自分の志を生き、自分の道に専念していきたいと思います。

集大成

「集大成」という言葉があります。これは辞書では、多くのものを集めて、一つのまとまったものにすることとあります。この集大成の語源は、中国の孟子(もうし)の逸話や問答を集めた『孟子』巻10・万章章句下に記された言葉です。

「伯夷は、聖人の中でも清廉な者でした。伊尹は、聖人の中でもすべてに責任を感じる者でした。柳下恵は、聖人の中でも人との調和を大切にする者でした。孔子は、聖人の中でも、時勢にしたがう者でした。つまり、孔子は、彼らの「集大成」と言えます。

この集大成というのは、鐘を鳴らして磬などの玉や石製の楽器で演奏を終えることと同じです。鐘を鳴らすのは、曲のながれを始めること。そして、玉や石の楽器は、曲のながれを終えるということだからです。曲のながれを始めるのは智の仕事であり、曲のながれを終わらせるのは聖の仕事です。

智は、例えるなら弓を射る技術。聖は、例えるなら弓を引く力。百歩の距離から弓を射るとして矢が届くかどうかは、弓を引く力によるます。しかし矢が当たるかどうかは、引く力によるものではないのです。」

漢文だと「集大成」のところの文章は「孔子之謂集大成、集大成也者、金声而玉振之也、金声也者、始条理也、玉振之也者、終条理也」と書きます。つまり「孔子之謂集大成(孔子は之を集めて大成す)」と書いています。孔子はまさに多くの徳を集めて人生を大成した人物だと。

今まで、徳を実践し容どってきた人たちがいて孔子はそれを倣い、それを実践し、孔子が一つのまとまったものにしたということでしょう。

つまり孔子一人が完璧で全部もっていたのではなく、「繋がってきた徳を集めてまとめた」ということです。ここに私はとても大切な意味があると思うのです。以前、坂本龍馬が船中八策という新国家体制を起草したものがあります。これは坂本龍馬が出会った人たちからつむいだ言葉をまとめたものだともいえます。これがのちの明治政府の五箇条の御誓文になったといわれます。

そう考えると、みんなの遺志や生き方を真摯に学び聴いて実践しそれをどうまとめたかということに尽きます。「人は一人で何かを為すのではなく、みんながつながってその中で集大成によって為る」ということです。

私が今世で取り組んでいることも一つの集大成でもあります。

先人たちやご縁あった方々の遺志を尊重し、守り、育て、子どもたちの未来のために紡ぎ纏めて容にして伝承していきたいと思います。