経済と道徳の再一致

「ほら吹き」という言葉があります。これは現代では、大袈裟なことをいうことや嘘つきなどのことを言われます。実際にはこれを調べると、小さな貝でも驚くほどの大きな音がすることから言われたのではないかという説もあるそうですが実際の法螺貝を吹く修験者が嘘をつくということはありません。

先日、インドの学生がBAに視察に来られたときに法螺貝の話をするとインドでは毎朝法螺貝の音で目覚めますと言っていました。法螺貝が身近にあり、いつも法螺貝の音を聴いて暮らしているとのことでした。

もともと法華経の中でも法螺貝の話が出てきますし、釈迦が説法をするときに法螺貝でそれを知らせたともいわれます。釈迦の説法がほら吹きと思った人があったのかもしれません。しかし本来は、法螺貝を吹くのはそこに宇宙の真理がある、またこれから幸福の道を説くという意味もあったのではないかと私は思います。

幸福の道で釈迦は世に三長者ありといいました。つまりこの世に三通りの豊かな人物があるというのです。

一つめは、家の長者といいお金や財産に恵まれている人のこと。二つ目は、身の長者で健康に恵まれている人。そして三つめは心の長者で弥陀の救いにあい、絶対の幸福になった人といいます。その中でも釈迦は「家の長者より身の長者、身の長者より心の長者がよい」といいます。

心の長者とは、シンプルに言えば心が豊かな人ということです。もっとも裕福なのは、心の長者ということです。

例えば、どんなにお金持ちで健康であっても心が貧しくてはそれは豊かではありません。逆を言えば、貧乏でも不健康であっても心が豊かな人は足るを知りどんな境遇や環境下でも豊かさを見出すことができるということです。

現在、資本主義経済の中で確かに世界人類は物質的も恵まれ裕福になっていきました。もちろん貧しい国もありますが、私たちの日本は発展したといわれます。しかし気候変動や環境問題、格差社会などあらゆる別の問題が発生してきて次第に心の貧しさの問題が拡大してきているようにも感じます。

お金をもっと増やそうと躍起になり、身体を健康にしようとサプリを飲んでも心の貧しさは変わりません。どうやったら心が豊かになっていくのか、そこにこれからも人類の方向転換がはじまります。

心の事業をこれから甦生し、経済と道徳を再一致させていきたいと思います。

最善観の覚悟

昨日、「最善観」という言葉を改めて知りました。これは教育者、森信三先生が語った言葉です。この意味は、「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然である共に、またこの私にとっては、最善なはずだ」という根本原理に沿ったものです。

この最善観、私は「禍福一円観」という言葉をよく使いますがほとんど同じような意味に感じています。人は自分に色々なことが毎日発生してきますが、それを自分勝手に左右に分類してはこれはいい、これはよくないと決めていきます。

しかし、そのどれもは本当は現実には自分に最も相応しいことが発生しているのだと実感する人と、これは自分には相応しくないと分別している人がいるだけです。

本当はすべて必然であり、自分の身に発生したことはそれが現実ですからそれを素直に受け取っていくところによりよい人生が開けていくように思います。つまりいいかわるいかではなく、そこに大切な意味があるという生き方でもあります。自分にとって必ず通る道だから天命として絶対安心して歩んでいけということもあります。

これを西洋ではオプティミズムともいい、楽観性と表現します。積極思考ともいうかもしれません。また別の言い方では、「これでいいのだ」という言葉にも似ています。

最初から自分に与えられた自分だけの人生は、他と比べられるものもなく自分自身が体験しながら自分の道を自分の足のみで歩んでいくものです。その道は誰でもなく自分にしかない道、自分にのみ与えられた道だから善悪関係なく「すべて最善」なことだと覚悟して生きるということです。

時折、何で自分がとか、誰かがやるだろうとか、他の人の方がなどと思うこともあるものです。もしくはなぜ自分がや、どうしてこんなことにと悲嘆にくれること、もしくは自分にはもったいないや、自分にこんなにもという恩恵もあるかもしれません。しかしそのどれもをそのままあるがままに受け容れることで最善観を持つことがその人の人生を真に生きることになるように思います。

私はよく考えてみると、まだまだ世間の刷り込みが多く入り込み自分自身というものを正しく認識することができないでいるように思います。というよりも、日々の刷り込みの中で本当の自分、主人公としての自分を日々に顔を洗い目覚めていく鍛錬が不足しているようにも感じます。

自分にしかできないことをやるには、誰とも比べられない自分を生きる必要があります。森信三先生が日々の実践に生きたように、私自身も絶対必然、最善であると自分を鼓舞して素直に謙虚に生きていきたいと思います。

この世のすべての御縁を一期一会と共に歩んでいきます。

ありがとうございます。

庭先のビャクシン

昨日は、鎌倉の建長寺と東慶寺にむかしのお米の新米をご奉納させていただくご縁がありました。むかしのお米は神事米として神社や仏閣にご奉納する機会が多いお米です。

1日に今年は新嘗祭も神崎神社の宮司様と共に田んぼで執り行い、深い感謝と来年の予祝を同時に行ったばかりです。

むかしはお米がお金の代わりでしたから、丹精込めてつくられたお米が交換されていました。お米はそれに生ものでしたから、みんな大切に早めに味わいそのお米の有難さやつくる人たちの労に感謝したのは想像できます。今はお金になり紙幣は生ものではありませんから傷みませんし銀行に入れたら数字だけになるので早く食べようとは思わないでいつまでも保存しておこうと思うのでしょう。

私はお米だけでなく伝統の高菜などもつくっていますから、丹精込めた珍しい生産物を手渡しするときの皆さんの笑顔は格別なものです。

話を鎌倉に戻しますが、建長寺では「けんちん汁」をいただきました。私はけんちん汁が大好きでよく自分でもつくりますが、このけんちん汁は建長寺が発祥だというのははじめて知りました。

もともとこの名前の由来も、開山した蘭渓道隆氏が野菜の皮やヘタを無駄にしないように発案したそうです。具体的な具材は「ごぼう」、「大根」、「里いも」などを胡麻油で炒めて「だし汁」を加え「醤油」、また「味噌」で味付けした精進料理です。

崩した豆腐も入っているのですが、これも誤って落としてしまった豆腐をもったいないからとそのまま入れたといわれます。野菜が乱切りなのも残菜一つも無駄にしないようにと工夫したからだともいわれます。

もったいなくすべてを有難く頂戴していくという心がけがけんちん汁にあるのだと思うと、日ごろの料理するときの心構えとしても大切にしていきたいと学び直しました。

また素晴らしかったのは創建の際に手植えされたという樹齢は推定750年以上とされるビャクシンです。このビャクシンは何度の火災でも燃えずに生き残り、お寺を守ってきたといわれます。このビャクシンそのものが建長寺であり、歴史を語るのはこのビャクシンだったと実感します。何かを知るというのは、体験してこそです。その体験は、深く味わうというところに起因します。禅の境地は、この今、この体験をどれだけ深く味わっているかということのように感じました。

庭先のビャクシンから学んだことを、これから英彦山で顕現させていきたいと思います。

 

螺旋の真理

私は法螺貝を吹いています。この法螺貝はとても不思議で、螺旋の形状をしており音が螺旋状に回転しながら空間に広がります。二つ以上の法螺貝を同時に吹くと、その螺旋が合わさり調和して独特の波動を体感できるほどに振動を味わえます。このような螺旋運動は、宇宙の摂理でもあり私たちの生き方を原点回帰するときにも必要になるように私は思います。

私たちの身体をはじめ、すべてのものはこの螺旋でできています。螺旋は、一つの理解としては遠心力と求心力があります。つまり外に向かって広がっていく力があること、そして内側に向かって深めていく力があることです。

この外と内に向けた力の調和、それが螺旋の本質だと私は直観しています。

宇宙を見てみるとそれはわかります。宇宙は外へといつまでも広がっていく、そして私たちは自分自身という内なるものを磨き上げて深めていこうとする。これが一つの私たちが宇宙でしている体験であって、それを形を変えては宿命的に行い続けているのです。

これは決して物だけでもなく事でも同じです。

時代が循環し世界は広がっていく、同時に私たちは時代を経てさらにさらに奥深い場所へと真理を到達させていく。つまり、この螺旋の外へと螺旋を深くは同じ意味であるということです。

呼吸を吐いて吸うように私たちはこの広げることと深めることといつも繰り返し行っているということです。これは海の波も同じく、そして朝と夜も同じく、男女も、そして生死も同じです。

私が法螺貝を吹くのは、深めたものを広げるためです。

今、世の中はグレートリセットを求める気風が出てきている時代です。日本語だと原点回帰というのでしょう。そのためには、今一度、それを実践で取り組む必要が出てきます。

法螺貝にはその可能性があると私は信じています。

引き続き、子どもたちの未来のためにも自分に与えられた使命を全うしていきたいと思います。

ZEN

今日、11月1日は釈宗演氏の命日です。この人物は、日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として有名です。ちょうどZEN2.0とご縁ができ、鎌倉に学び直す機会ができましたので改めて深め直してみたいと思います。

釈宗演氏は安政6年(1859)福井県高浜町に生まれ20歳のときに鎌倉円覚寺に修行の場を移し25歳で今北洪川老師より印可を受けています。その後は、27歳で慶應義塾にて福沢諭吉より洋学を学び29歳のときにスリラカに留学します。そして明治25年(1892)34歳で円覚寺派管長に就任します。

1893年にはシカゴで開催された第1回万国宗教会議に日本の仏教代表として参加し日本人として初めて欧米諸国の人々の前で仏教についての講演をされたといいます。その後は47歳で建長寺・円覚寺の管長を退き、廃寺寸前であった東慶寺の復興をされたといいます。大正8年(1919)、11月1日、61歳で遷化されました。

この釈宗演氏の遺した修養座右の銘は私の提唱する「暮らしフルネス」に通じるものがあるのでご紹介します。

1)「早く起き未だ衣を改めず、静坐一炷香」
早起きして、40~45分くらい線香の香に包まれて背筋を伸ばし、肩の力を抜いて正座しながら、静かな時間を過ごしましょう。

2)「既に衣帯を著くるば必ず神仏を礼す」
着替えたら、神仏に手を合わせましょう。

3)「眠は時を違えず、食は飽くに至らず」
就寝時間は規則正しく、食事は食べ過ぎないようにしましょう。

4)「客に接するは独り処るが如くし、独り処るは客に接するが如くす」
人前では独りでいるときのように、ありのままの自分を出し、独りのときは、人前にいるかのように、慎みを忘れずに過ごしましょう。

5)「尋常苟くも言わず、言えば則ち必ず行う」
禅は必要ないものを捨て去ることが修行だから、余計なことは口にせず、言ったことは必ず実行しましょう。

6)「機に臨みて譲ること莫かれ、事に当りて再思ず」
「機」とは仏の教えに従って活動する心を意味する。その心を譲ることなく、なにごともよく考えて行動しましょう。

7)「妄りに過去を想うこと莫かれ、遠く将来を慮れ」
過去にとらわれず、これからどうするかを考えましょう。

8)「丈夫の気を負い、小児の心を抱け」
立派な大人の気概をもちつつ、同時に子どものような純真無垢な心も忘れないようにしましょう。

9)「寝に就くは棺を蓋うが如くし、蓐を離るるは履を脱ぐが如くす」
寝るときは、お棺に入るときのように静かに寝よう。起きるときは、靴を脱ぐときのようにさっと起きましょう。

孔子の大学にある、天子から庶民にいたるまで如何に暮らしを整えていくのかというのは普遍的な道理です。この釈宗演氏もこの日々の暮らしの実践を重んじていたのがわかります。

明治の廃仏毀釈で仏教はとても荒廃しました。現代の仏教が原点回帰して発展したのにこのZENは日本だけではなく世界的に大きく貢献しました。一期一会に今の環境を受け容れ、敢えて世界への布教し日本に回帰するという生き方。

学ばせてもらうことばかりです。ご縁を大切に、英彦山甦生の参考にしていきたいと思います。

徳に報いる

生きていると御恩をいただいたところに恩返ししたいと次第に思うようになります。恩返しをしたいという気持ちは何処からくるのか、それは自分というものを育ててもらった感謝からくるものです。これは親孝行に似ています。

今までお世話になった存在、大切に育ててくださった存在に対して何かお返ししたいと思うようになるのです。

思い返すと、私も沢山の御恩をいただいてここまで来ました。それは故郷などの土地の恩、そして他の場所でいただいた恩、地球や自然からの恩など数えきれないほどの恩をいただきまた今もその恩を引き続きいただいています。歳を経ていくと共にその恩が観えてくるようになります。

それだけ多くの恩に包まれているのです。その恩に次第に感謝するようになるとき、徳に報いたいと願うようになっていきます。自分を育ててくださったもの、自分というものを与えてくださったすべてに自分は何かできないかと思うようになるのです。それが「徳」を積む動機になります。

この徳は決して良いことをすることが徳になるとはいいません。その人らしく、その人の持ち味を活かして自分にかできないことをやるとき徳は顕現してきます。素直で純粋、真心で恩返しに生きようとするとき徳は湧き出してきます。

なぜ自分にこの才能があるのか、なぜ自分がこれを与えられたのか、なぜ今なのか、そのようななぜを合わせていくとき、可能性を発見し挑戦をしていきます。周囲の固定概念やそれまでのルールに縛られずにその人らしく育てていただいた徳に報いるのです。

その根底にあるもの、それは恩返しの真心からであればそれは徳積の仕合せを深く味わっているように思います。

子どもたちの未来のために、自分がいただいた偉大な御恩を同じように次へと譲り渡していけるように自分らしいやり方と自分の徳で貢献していきたいと思います。

本懐に向かう

面白いことをしている人の周りには面白い人が集まってきます。価値は価値を呼び、その価値がその人のスケールになっていくからです。類は友を呼ぶともいいますが、人脈を聴くと大体、近い人たちのコミュニティは繋がっています。

たとえば、私はジャンル分けしにくいタイプのようで周りが何の人かということを一言で語れるものがありません。変な人とか、ユニークな人とか、発明家とか、いう人もいますが実際には名前でしか呼ばれません。何屋さんかわからないといのは、会社の時から言われていましたが目的がはっきりとある人は手段は何でも使うので結果的にそうなってしまうのでしょう。

一般的には、職業によって分類わけされてこの人はこの職業の人と呼ばれます。しかし話をよく聴いてみればその職業はみんな手段です。その手段を見てその人のイメージを思い込んでも、実際には本質とは異なることがほとんどです。

なので大切なのは、話を聴いてみることです。それも深く目的や本質を確認することです。そうやって人を見直してみると、自分と同じ志の人が周りに集まっていることに気づきます。それぞれに手段は異なりますが、目指しているものが似ているのです。似ているから、一緒にやっていて楽しいし、協力し合うことで心が喜び合うのです。

もちろん人格的に魅力のある人と一緒にいることも素晴らしいことですが、意見が異なってもその人なりのやり方で同じような目的に達しようとしている人の話はとても参考になるものです。

維新の志士たちも、坂本龍馬のようにいろいろな意見を集めて船中八策を提言したように手段を集めれば目的に達する方法を発見することもできるのです。

私も今、手段を変えて創意工夫をしながら目的に達しようと目標を定めていますが大事なのはその表面には観えない同志との組み合わせの妙を活用していくことに注力しています。

御縁というのは一期一会です。

何がどれにつながるのかは、この後次第にわかってきますがこの時代のこの一コマのこの一瞬に面白い結びつきが発生していくのを実感するのは生きる喜びです。子どもたちのために本懐に向かっていきたいと思います。

場と智慧

日本の神話で最初の合議によりアイデアを出して実行して世の中を明るくしたことに天岩戸伝説というものがあります。この伝説の中心人物が、私の運営するBA(場の道場)に御鎮座する神さま、八意思兼神(オモイカネ)です。この神さまは他にも、国譲り・天孫降臨など重大な局面で智慧を出してみんなで物事を解決していく「場」を創造していきました。

この天岩戸伝説は御存じの人の方が多いと思いますが、簡単に言うとアマテラスの弟のスサノオを悪さをしてショックを受けたアマテラスが岩戸の中に隠れて引きこもってしまった。そのことで太陽が消えたように世の中が暗くなり混乱が起きた。それを解決するためにすべての神様が一堂に集まり、場で話し合いをし智慧を出した。そのファシリテーション役がオモイカネが行い下記のようなアイデアにまとめました。

一つは、常世の長鳴鳥(ニワトリ)を集め、鳴き声で夜明けを知らせること。二つ目は天安河の岩と、金山の鉄で鍛冶屋の天津麻羅に鍛えさせること。その鍛えたもので伊斯許理度売命が「八咫鏡」をつくること。三つ目は玉祖命が「八尺瓊勾玉」を繋いだ珠を作ること。四つ目が天児屋命と布刀玉命が雄鹿の肩の骨を抜きとって朱桜の枝で焼くという占いをして事をはじめることなどです。

実は三種の神器の勾玉と鏡はここの智慧で出てくるものです。

それを使って神様たちが作戦を実行しアマテラスを岩戸から出てきてもらいます。有名なのは実際にはアメノウズメノミコトが岩戸の前で必死に踊っていたら裸踊りになってしまいそれをみた神さまたちが笑い転げているとその様子にアマテラスが気になって岩戸から出てきたという具合です。それで鏡をつかいアマテラスの純粋な美しさに気づかせ真榊と勾玉で出てきたところを岩戸を開けて戻らないようにみんなで頼んだという話です。オープンに協力して持ち味を活かし、神さまたちの笑いが「和来」(わらい)となって、みんなが心和むことでまた調和が訪れて世の中がまた明るくなったというシーンでしょう。それから禍が転じて福が続いているという日本人の親祖たちの智慧で今があります。

本来、場と智慧があって禍福が一円になっていくものです。

私の取り組んでいる場が、現在の世界の課題や問題を解決していけるように真心を込めて磨き上げていきたいと思います。

 

智慧の集積

人間は、よりよく生きるために心を鎮めるための手段をたくさん発明してきました。心の乱れや穢れをどう穏やかにして静かに洗い清めるかはそれぞれにあり、今でもそれは多くの場所で活用されています。

例えば、宗教の儀式や伝統的な暮らし、また芸術芸能などの行事、他にも聖地巡礼や道、作法などです。如何に、浄化していくか、そしてその心の乱れをととのえていくかを何千年も前から行われているのです。

これはもう運命的というか宿命的なものを感じるものです。

その格言も、世界中の思想家、実践家によって今も変わらずに語り継がれみんな子孫たちもそれに従って精進を続けています。

むかしある人に、人は何かを理解するために相対的にしたということを聴いたことがありました。「理解」するために私たちは脳を働かせ、文字を発明し、文明を発展させ、今でもそれをやっているのです。

理解して何になるのかというものもありますが、理解したいという欲求はもう長いこと刷り込まれていますからそれはなくなりません。理解してそれを捨てるというのは、心の力が必要になります。そこには矛盾が発生してくるからです。

不思議な話ですが人間は元々の状態、「純粋無垢」になろうとし体験を経て様々な知識を得て世の中を渡り歩きますがまた元の状態に回帰しようと何度も続けています。それは人の一生でも然り、人類の時代でも然りです。言い換えるのなら、宝石を磨き続けて拭き清め続けて光を放ち続けることに意味があるようで、汚泥の中の蓮の花を美しく咲かせ続けるようで、そこに意味を感じるのでしょう。

私たちはそれぞれの時代にどう磨いていくか、心を穏やかに沈めて純粋に回帰するかは時代を生きるテーマです。今の時代、世界がIT技術で結ばれ世界のあらゆる場所と物理的に繋がってきました。

その御蔭で今まで知らなかったあらゆる知恵が結ばれるようになったともいえます。智慧を集めていくことは、この先の子どもたちの未来に新しい世界を拓いていくためにも大切だと私は感じます。

この場所に暮らしフルネスの智慧を集めて、新たな取り組みに挑戦していきたいと思います。

答えは初心

人生を歩んでいると、大事な局面で大切なことを教えてくださる人と出会います。もちろん人だけではないのですが、人づてで私たちはアドバイスをいただき人生を好転させていくことができます。それを人の運ともいいます。私の人生を振り返ると、本当に善い人に巡り会ってきました。その御蔭様で今の自分があります。

感謝の心というものは、この一期一会の出会いの美しさやすばらしさを感じるときにこそ磨かれるようにも思います。

私たちは生きている中で、傲慢になりやすくすぐに初心を忘れてしまいます。毎日、お手入れをしていても埃や塵が積もっていくように謙虚さから遠ざかります。そんな時、貴重な意見や真心で整える機会を得られることはとても有難いことです。

昨日も、ある方とのお話の中で「神さまを喜ばせる」ということを思い出しました。

日本人は元々、世界の宗教と同じように祈願をしますがそれよりもずっと前に「喜ばせる」という素直で明るい清らかな心を持っているように思います。例えば、神社でも舞を奉納し、みんなで直会をし、行事をし、そこには和があり、笑いがあり、結びがありました。

日本人はもともと調和を尊び、日々に穢れていくものを祓い清らかでいよう、そしてみんなで喜び合う明るい民族です。まさに清く明るく楽しく生きていこうと初心をもっている民族だと感じます。そこに伝統や歴史が重なり、自然から学び共生し合う美しさや本質を極める精神、そして善きことを実践して精進して徳を積んできたように思います。

私は一体、何を甦生させようとしているのかを思い返すとこの初心を思い出します。

人生の中ではたくさんの手段があり、その手段探しや実現するために日々に追われますが本来は初心を遂げるためにその手段があるだけです。

自分自身がどうあるか。

原点回帰すると、周りに答えはなく自分自身の生き方の中にこそ答えがありその答えをただ真剣に生き切ることで答えを生きることができます。答えは初心なのです。

子どもたちのためにも初心を忘れずに、丁寧に自分自身を生き切っていきたいと思います。