周期意識

生き物にはそれぞれの周期というものがあります。私たち人間は24時間周期で活動していることになっていますが、魚などはそれぞれの周期をもっていたりするといいます。特に月の満ち欠けによって、魚は潮の動きや海のリズムに合わせて活動しますから周期がそれぞれに異なっているということです。

つい私たちは、昼と夜の2つでリズムを取りますが海の中や土の中、穴の中にいる存在は周期というものがそれぞれに異なるのです。

ほとんどの生き物は、24時間周期ですがそうではない生き物がいるのも事実です。そこから考えてみると、もし地球外の生き物で36時間や120時間などの周期のものがあればそれに沿ってバランスをとるのかもしれません。

自然界には13年と17年の周期で大量に発生する周期セミ(素数セミ)というものもあります。同じ種のみで一度に繁殖し、循環の巡りが長いためそれだけ生き残れるという戦略でもあります。

周期は生き物だけではなく、太陽や地球にも存在します。その周期の組み合わせを体内記憶にもって、私たち生命はその周期に沿って暮らしを営んでいるのです。

最近では、短い周期のことしか、またはすぐに目に見えてわかる周期のことだけが話題になりますが本来が非常に長い周期を私たちは生きているともいえます。人類の歴史も、その他の生命たちの経過も、絶滅期があったり繁栄期があったりと周期を繰り返してきたのです。

どうにもならないこともある中で、私たちは周期をもっているという意識を持つだけで通常の時間やスケジュールとは別の次元を持つことができます。周期意識をもって暮らしていきたいと思います。

カビから学ぶ3

カビのことを深めてきましたが、最後にはやっぱり日本の国菌である「麹菌」(学名:アスペルギルス オリゼー)を書いておきたいと思います。この国菌は2006年、日本醸造学会によって「われわれの先達が古来大切に育み、使ってきた貴重な財産」であるとし「国菌」に認定してからのものです。

このカビは、和食を支えているカビであり日本人の健康を支え続けてきたカビです。日本酒、漬物、味噌、醤油、みりん、酢、甘酒、あらゆる日本の代表的な和食の発酵食品をつくりだすことができます。

このカビは、日本にしか存在しません。日本の風土の中で時間をかけて育ってきたもので海外では育たないとも言われます。このカビの菌は、分類わけされると5種類あるといいます。黄麹菌(きこうじきん):味噌や醤油、白麹菌(しろこうじきん):焼酎、黒麹菌(くろこうじん):泡盛、紅麹菌(べにこうじきん):豆腐よう、鰹節菌(かつおぶしきん):鰹節という具合です。

この麹菌はカビですからそのものを食べるわけではなく、麴菌の代謝で作られた成分を食べるのです。この代謝物は酵素ともいい、たんぱく質をアミノ酸に分解する「プロテアーゼ」や、でんぷんを糖に分解する「アミラーゼ」、脂質を分解する「リパーゼ」など、たくさんの酵素を生成していきます。その御蔭で、人体に有益なビタミンB群、必須アミノ酸やミネラルそして食物繊維などが摂取できるのです。

実はこのカビは、むかしは非常に人間に有毒であったといわれます。他のカビと同様に、毒をもち、悪影響を与えていました。説として有名なのは、アスペルギルス・オリゼーによく似た「Aspergillus flavus(アスペルギルス・フラバス)」という種類がいます。この アスペルギルス・フラバスは猛毒であるアフラトキシンを生産することで有名です。この猛毒を生産するアスペルギルス・フラバスを日本人が無毒になるまで育てたことで誕生したのではないかといわれています。それが私たち日本の国菌の由来でもあります。

つまり「和」を保つ、和にする力、和食を支える麹菌は、猛毒を無毒にするまで一緒に育て上げた共生の結晶ともいえます。日本人の先人たちは、家畜といって動物を大切に家族のように扱い暮らしてきました。牛や馬、鶏や犬などももともとは野生で狂暴だったものが愛情深く育てて関わることで人間と一緒に暮らしていくものに変わっていきました。

今でいう養殖は、養鶏などをみても狭い場所で厳しい環境ですがむかしは家の周囲で同じ家畜として一緒に豊かに暮らしを営み、助け合っていました。

日本の和を支えるというのは、この伝統的な日本人のいきものやいのちに対する思いやりであり、それをもって有毒などものを無害化し、敵対していたものも仲間にしていくのです。

私は世界でこの日本の「和の心」は、現代のアップデートすべき人類の方向性や生き方にとても重要な役割を果たすと信じています。だからこそ、暮らしフルネス™を実践し、暮らしからそれを子どもたちに伝承していく必要を感じるのです。

すべてを敵視するのではなく、一緒に地球に暮らす仲間としてどう調和して暮らしていくかをこれからも私たちは生き方として学び直していくことは欠かせません。先人たちの和の心を継いでいきたいと思います。

 

カビから学ぶ2

カビのことを深めていますが、カビは人類にとっても世界にとっても必要な存在であることがわかります。地球の約4割ほどに存在する理由は、カビが地球にとってとても大きな役割を果たしているからです。

昨日も書きましたが、カビは細菌でも植物でもなくキノコや酵母と同じ真菌類です。この真菌類は、細菌とは違って細胞の中に遺伝子を納める核を持っています。そして分解することによって生きています。

つまり、この地球の循環において分解するという何よりも重要な働きをしているということになります。私たちの今の社会は分解する生き物に容赦ない仕打ちをしていきます。

例えば、ごみ問題も分解できないようなプラスチックなどの素材をつくります。他にも防腐剤や防カビ剤、抗菌剤などをつかい、徹底的に分解させないようにします。コンビニのおにぎりや菓子パンなども、ほとんどカビがつくことがありませんからそれだけ薬品漬けにしているということです。

私の小さい頃は、おにぎりもパンもあっという間にカビが生えて食べれなくなりました。テーブルの上に食パンを置いていたら、ものの数時間で水気がとんでそのあとカビがびっしりと生えて気持ち悪いと何度も捨てていました。今では数日経ってもそのままですから違う意味で気持ち悪さを感じています。

分解というのは、動物でいえばカラスなど、虫だと蟻などもあります。もしもこの世に分解する役割のものがいなければ地上は死骸だらけで溢れてしまいます。ちゃんと土に帰す存在や、もう一度、いのちの巡りを促す働きをする存在があるから私たちは地球で共生していくことができるのです。

カビは敵にして排除するのではなく、人類にとって善いものは積極的に取り入れて、害のあるものは予防して増えすぎないようにすることがカビとの上手な付き合いになるということでしょう。

上手に付き合うには日ごろからの小まめな掃除、風通し、湿度を発生させないように工夫することなどがあります。どうしても日本の風土は高温多湿でカビの天国のような環境です。なのでカビが多いというのは運命的です。これは自然の仕組みですが、最初から戦っても勝てないとわかっているのならできる限りその敵対する状況を避ける戦略をとるということです。

一つは、天敵と出会えば逃げるが勝ち。そしてもう一つは、運命的であれば予防するというものです。自然界はこの智慧によって生命たちはみんな上手に暮らしを営んでいるものです。

カビは、善いものを取り入れることも予防。そしてカビのバランスが崩れないように調整して発生をコントロールすることが予防ということになります。生き物たちにとっては、分解者の恩恵を如何に享受されつつも、分解者があまり寄り付かないようにするかというバランスが鍵です。

子どもたちのためにも、いのちを壊すような化学薬品を摂取させるよりもカビと上手に付き合う智慧を伝承していきたいと思います。

 

場数の妙

私たちはバランスや調和の中で進化、変異を続けている存在です。これは昨日、ウイルスのことでも書きましたが何度も繰り返されるプラスとマイナスを組み合わせてゼロにしていく中で何回もしくは何億回に1度にだけ調和ミスが起こり形が生み出されていくのです。

広大な宇宙の仕組みと、この身近の最小の仕組みは原理と法則に従って同じことが発生しています。つまり私たちはどんなに分かれていると思っていても宇宙という空間の中で存在しているものですから当然、宇宙の原理原則の中にあるのです。

神話には、伊弉諾と伊弉冉の話で1000人をこれから黄泉の国に連れていくといったら1500人産み続けて増やし続けるという話がありました。もともとはこの世に死というものがなかったものが、このことで発生し、生死の数が微妙にずれるということになったのです。

現代科学でも、素粒子や原子や電子のことがわかってきています。もともと天文学的な回数の調和と破壊の繰り返しの中でのゼロが、ある時突然変異して形というものが出てくるということまでは解明されてきています。

これは私の仮説でもありますが、太陽系も銀河系も、この世の宇宙は基本的には規則正しく相対的なものが毎回、お互いの性質によって消しさってゼロになります。しかし物凄い回数か時間をかけて、ほんの小さな変化が誕生します。それはどちらかの性質がほんの少しだけ強いということでしょう。先ほどの神話であれば、生成するエネルギーの方が崩壊するエネルギーよりもほんの少しだけ強いということになります。

宇宙の本質は、無から生成発展していくということです。物を産み出す原理はこの循環の中で誕生する微細な変化が偶然にも奇跡的にも現れるということでしょう。発明もまた何度も何度も繰り返す中で、エジソンが電球を産み出したように誕生するのです。

そう考えてみるとき、私はこの「場」で誕生する「場数」というものが大きな意味を持つことを感じます。場は、現代科学では場の量子論というものが解明されてきています。場には、素粒子や波動がありまるで空間の中の無に意志が宿るように場が存在するというのです。

私は場の道場を運営し実践していますが、場は繰り返す中で場数が誕生し、その中で奇跡もまた発生してくるのを何度も見てきました。これを場数の妙と名付けています。私たちはこの宇宙の真理を語るのに、この「場」の存在がこれからは何より重要であり、場数とは人類が新たな困難を乗り越えるために必要な思想であり原理になるのは自明の理です。

子どもたちのためにも、場数の価値を伝承し場数を磨いていきたいと思います。

漬物の智慧

昨日は、妙見高菜の漬物のお手入れを行いました。今年の春先に漬けたものはこの時期に次第に塩が抜けて漬け直しが必要になります。もともとこの漬物の原理は、科学で分かっている部分とわかっていない部分があるように思います。

私は石も自然石にこだわっていますが、同じ重しでも出来上がりが異なるのです。他にも木樽で、その漬物の小屋を発酵させるような場にしていますから環境が整っています。しかし今でも、毎回発見があり、この漬物の奥深さに驚くばかりです。

今回は、一樽だけ失敗してしまい腐敗してしまったものがありました。これは蓋が少し大きかったので樽のサイズにあわずに重しがかからなかったからです。しかし水が上がっていたのですが味も香りもやや腐敗に傾いていて厳しいものがありました。

この漬物は科学的には乳酸発酵によって醸成され仕上がっていきます。発酵の世界では、乳酸菌と腐敗菌の働きによって絶妙に調和されて漬物はできます。乳酸菌は塩の中でも平気で空気がなくても元氣に活動できます。しかし腐敗菌は塩や酸が苦手です。漬物の塩分がなくなり空気がたくさん入ってくると腐敗菌の方が増えていき食べ物は腐敗して人間には食べれません。

もともとこれらの乳酸菌や腐敗菌は、分解者です。自然界では循環を促し、最終的には土に帰す役割を持っている微生物です。その微生物たちの代謝から産まれた成分によって私たち人間も栄養などを吸収することができています。

私たちすべての生き物は、他者の働きによって栄養を得ていてこれが自然の共生原理でもあります。よく腐敗したものを食べると食中毒になると思い込んでいる人がいますが、腐敗菌は別に食中毒菌ではありません。香りや味わいがアンモニアを含め、腐敗に傾くのであって腐敗菌から出てくる働きを栄養にするものにウジ虫やハエ、その他の生き物が集まってきますが食中毒菌がいるとは限りません。

もともと食中毒菌は、ボツリヌス菌や、サルモネラ菌、赤痢菌、ノロウイルスなどもありますがそれぞれは付着していたら腐敗していない食べ物を食べても食中毒になります。手洗いや熱での消毒が必要な理由でもあります。その中のいくつかの微生物は、増えすぎて食中毒になるものと、少し付いているだけでも食中毒になるものがあります。

身体に異物としてその微生物を感知しますから、すぐに下痢や嘔吐でその微生物を体外に排出しようとするのです。人間の身体には、100兆匹の微生物で構成されています。種類も相当な数のものがいます。その中でも合わないものがあるから食中毒になるのです。

乳酸菌といっても、あらゆる菌が組み合わせっているものです。それを美味しいと感じるところに人体の不思議があるのです。私たちが普段食べている、チーズや納豆、キムチや漬物、甘酒やワインなどあらゆるものはこの乳酸発酵のもののおいしさです。若々しく細胞を保つのに、腐敗の方ではなく乳酸の方を多く取ろうとするのはそれだけ人間の体内の微生物がその働きの栄養素を欲しがっているからでしょう。

漬物の不思議を書くはずが、微生物の話になってしまいましたが私はこの漬物の持つ智慧は未来の子どもたちに必ずつながなくてはならないものだと確信しています。発酵の智慧、重力や引力の智慧、場づくりの智慧、炭の智慧、樽の智慧、塩梅の智慧、太陽や日陰の智慧、風通しの智慧、季節や作物の育て方の智慧、ウコンなど植物の智慧、手入れの智慧、めぐりの智慧、郷土の智慧、醸成の智慧、、まだまだたくさんありますが智慧の宝庫がこの漬物なのです。

子どもたちに暮らしフルネスを通して、大切な智慧を伝承していきたいと思います。

変異と進化

コロナウイルスが次々に変異して感染拡大は広がっています。この変異というものは、言い換えれば進化ともいえます。この仕組みは生命が生存するためには必要な力で、生き残るために変化・進化していくのは自然の仕組みです。

少しこの新型コロナウイルスの変異・進化について深めてみます。

ウイルスは細菌とは違って自力では増殖できません。なのでヒトや動物など他の生物の細胞の中に侵入し自らのコピーを作ることで増殖します。そうやってウイルスの遺伝子が大量にコピーさせていきます。

この時、細胞に入って何度もコピーを繰り返すうちに遺伝情報を受け持つRNAと呼ばれる物質の配列にごく小さなミスが起こします。いわばこのコピーミスが誕生したとき、それを「変異」と呼びます。新型コロナウイルスは平均では2週間に1か所のペースで小さな変異を起こし続けるといわれます。つまりウイルスは常に新しい環境に適応しながら進化していくのでワクチンの効かないものもこの先、さらに出てくることが予想されているのです。

インフルエンザも同様に毎年変異をして現れてきます。過去に感染していても、新たに感染するのはそれだけコピーしながら進化しているからです。何年かに一度は、まったく別のウイルスになってしまいワクチンが効かないものも出てくるのです。

ここから新型コロナウイルスのことを考えてみると、この先にどれだけ人類がこのウイルスとかかわるのが観えてきます。変異し続けながら広がっていくのだから、防ぐ方法は変異のスピードを遅らせ抑え込んで落ち着いてくるまで待つか、もしくは治療薬を開発して感染しても治療できる体制を整えるかしかありません。

変異・進化し続けるのだから一度、感染してもまた別のタイプのウイルスに感染します。その変異・進化に合わせて私たちヒトも変異・進化していくしかありません。

本当は人類が今のように変化・進化してこれたのはウイルスがコピーしてコピーミスをしてくれてきたからという側面もあります。身体の細胞を環境に合わせてブラッシュアップする役割もウイルスが担ってくれていたことがあります。環境や気候の変動でウイルスが出るのも、それは変化に合わせて進化していくためという部分もあるのです。ウイルスはヒトの進化に欠かせませんから全部敵だとして、完全に排除しようとするのはそもそもの存在に対して無理があるように思います。

もしもこのウイルス人為的につくりだしたものでも、時間が経てば自然界のものに回帰していくのが道理です。それまでの間、如何にウイルスと共存するかを私たちは考えさせられることになるように思います。

ウイルスの持つ意味を学び直しつつ、この先の人類のために経験の智慧を伝承していきたいと思います。

 

いのちを守る実践

土地本来の樹木で森を再生する植林活動に長年取り組んだ植物生態学者で横浜国立大名誉教授の宮脇昭さんが先月、お亡くなりになりました。森林再生で「宮脇方式」(ミヤワキメソッド)を発明して4000万本の木を植え世界に貢献しました。

宮脇さんは、現在の多くの土地や森は過度な土地の開拓や、商用林の過剰などの現代人たちがやってきたことで土地本来の多様性や強さを失ってしまったといいます。その土地に適した植物を使って自立する森をつくることで自然本来の姿に戻そうというのが宮脇さんの提案することでした。

シンプルに言えば、本来の森に帰す、森の育ちを邪魔しない方式、自然農も同様に自然を尊重する甦生の仕組みということになります。

具体的なメソッドの特徴は、「本物の自然に帰す」「混色して密集させる」「毒以外は資源にする」「スコップ一つで誰でもできる」など、生態系を活かす知恵が仕組みの中にふんだんに取り入れられています。この方式で、300年の森を30年で実現させ、都市部にも生態系との共生を実現させています。つまり世界のあちこちで日本の伝統の鎮守の森をつくり守り育てる活動が広がっているのです。

地球温暖化で、一昨日から故郷では記録的豪雨で水害が起き、世界では熱波や山火事、そして砂漠化や砂嵐、バッタなどの大量発生、ウイルスなど気候変動はもう待ったなしで人間に襲い掛かってきます。この原因をつくったのは人間ですから自業自得ともいえますが、だからといってこのまま指をくわえて何もしないというわけにはいかないのです。子どもたちがいるからです。

未来のために何ができるか、そこでよく考えてみるとやはり唯一の方法は「自然を敵視せず、自然を尊敬し、自然と共生する」しかないと私は思います。そのために、どうやったら自然と共生できるかをこの日本から世界に発信していく必要があるのです。

私の提案する暮らしフルネス™の中には、この生態系と共生する智慧も暮らしの実践の中に入っています。発酵の智慧も、自然農の智慧も、生き方の智慧も、この森林甦生の智慧もまた暮らしの一つです。

日本人は、本来、スギやヒノキや松は暮らしの中で活用することが前提で植樹を続けていました。その暮らしをやめてしまっているから潜在自然植生も失われて森が荒れてやせ細っていったのです。近代の文明を全部をやめて、商業的利用をすべて停止してなどといっているわけではありません。

本来の豊かな暮らしは、半分は自然との調和、半分は人間社会での発展というバランスの中に心と物の両面の真の豊かさと和、仕合せがあります。極端な世の中になっているからこそ極端な対策が出るのであって、最初から調和していればそれは日々の暮らしの小さな順応で十分対応できたのです。

最後に宮脇さんの遺した「いのちの森づくり」の言葉を紹介します。

「日本には、世界には無い『鎮守の森』がある。木を植えよ!土地本来の本物の木を植えよ!土地本来の本物の森づくりの重要性を理解してください。土地本来の森では高木、亜高木、低木、下草、土の中のカビやバクテリアなどいろいろな植物、微生物がいがみ合いながらも少し我慢し、ともに生きています。競争、我慢、共生、これが生物社会の原則です。いのちの森づくりには、最低限生物的な時間が必要です。潜在自然植生の主木は深根性、直根性で、大きく育った成木を植えても育ちにくいものです。大きくなる特性を持った、土地本来の主木群の幼苗を混植・密植します。生態学的な調査と知見に基づいた地域の潜在植生による森づくり、いのちと心と遺伝子を守る本物の森づくりを今すぐ始めてください。潜在植生に基づいて再生、創造した土地本来の森は、ローカルにはその土地の防災・環境保全林として機能し、地球規模にはCO2を吸収・固定して地球温暖化の抑制に寄与します。生態学的には画一化を強要させている都市や産業立地の生物多様性を再生、保全、維持します。さらに人間だけではなく人間の共生者としての動物、植物、微生物も含めた生物社会と生態系、その環境を守ります。本物の森はどんぐりの森。互いに競争しながらも少し我慢し、ともに生きて行く、というエコロジカルな共生を目指しましょう!あくまで人間は森の寄生虫の立場であることを忘れてはいけません!森が無くなれば人類も滅びるのですから。」

私が感銘を受けたのは、本物は耐える、そして本物とは何か、それは「いのち」であるということです。一番大切なものは「いのち」、だからいのちの森をつくれと仰っているように感じます。

いのちの森は、鎮守の森です。鎮守の森は、古来よりその場の神奈備が宿る場所、それを守り続けるのはかんながらの道でもあります。子どもたちの未来のために、私も子どもたちのために未来のために、いのちを守る実践を公私ともに取り組んでいきたいと思います。

 

免疫の仕組み

コロナによって自然免疫というものが注目されてきています。いくらワクチンを打ったからと安心ではなく、このさき様々な変異株が発生すればワクチンが効かないようなウイルスも沢山出てきます。それはコロナだけではなく、温暖化の影響によって今まで静かに小さな範囲で生きていたものが変異して暴走して世界を席巻することもあるかもしれません。

地球環境の変化と共に、あらゆる虫やウイルスや菌などは新たに変異して急増急減してバランスが崩れていきますからこの先も油断できません。人類はこれまで生き延びてきた中で、様々な困難を乗り越えてきました。そこには気候変動もあり、今回のような病原菌やウイルスの蔓延もありました。時として、かなりの人たちが犠牲になりその期間を生き延びてきて子孫たちに希望をつないできました。

そう考えてみると、私たちには過去に乗り越えてきたという実績があり、実力があります。それが自然免疫として身体に記憶されていますからそのことによって私たちは新たな困難を乗りこえていくことができるのです。

現在は、科学が進み短期的にはウイルスに対応できていますが今までの歴史ではほとんどやったことがない対応策で今回のコロナは乗り越えようとしています。過去の先人の智慧を使わずに、先端科学だけに依存することに危機を感じています。

私たちは自然免疫を持っています。そして獲得免疫というものを持ちます。シンプルに言えば、元来生まれながらに備わっている免疫と、育っていく中で身に着けていく免疫というものです。

この免疫という言葉の語源は、ラテン語のimmunitus(免税、免除)や immunis(役務、課税を免れる)といわれます。つまり疫病(感染症)を免れるという意味で「免疫」となります。

人間の身体は60兆個ものさまざまな細胞でできていますが、もともと自分の身体というものを構成する以外の外敵の侵入により個体破壊されたり寄生しつづけないように自己の細胞と自分のものでない(非自己)の細胞を見分けています。この見分ける仕組みが免疫であり、私たちは一度感染したものを二度と侵入させないようにするようにできているのです。

この仕組みで免疫を働かせて生きていますから、もしも今まで感染しなかったものが来れば平易に感染してしまいます。この世界で生活をしていたら、実は身の回りには無数の病原菌やウイルスが存在します。それを免疫システムによって防いでいるというのは当たり前のようにみえてとても偉大な身体の仕組みであることがわかります。

免疫は、感染してからも早めに対応すれば獲得免疫によって善処することができることもわかっています。常に健康を維持して、心身が常に免疫を保てる状態にしていれば感染しても免疫の仕組みによって乗り越えていくこともできるといいます。

この60兆ある細胞を持つ、奇跡の存在がこの身体にありますから身体を信じて健康を保つための工夫をすることが長い目でみて人類がこの先の子孫と共に地球に生き延びるための智慧であるのは自明の理です。

この世にいるウイルスの種類や数は、発見できていないのを含めると無限に存在します。共生し合う関係をどう保っていくかは、人類の大きな課題であり、地球の調和の中で生き残る智慧の活用です。

子どもたちにも、この困難が転じて福になるように暮らしフルネス™の実践を磨いていきたいと思います。

場の甦生~みんなの場~

昨日、有志たちと一緒に故郷の滝行の場にある古い建物を解体してきました。ここは、非常に歴史のある山岳信仰の場所で800年以上前には非常にたくさんの山伏たちがここに立ち寄り修行をしたところと言い伝えられています。

その後、明治以降に炭鉱の採掘の関係で韓国人の方々がたくさん来られその中でこの滝行の場を使って参拝していたといいます。山岳信仰や自然崇拝は古来から、世界の各地にありますからむかしは宗派なども関係がなくみんなで自然に祈祷をしていたのでしょう。

この信仰の場も、以前はいろいろな人たちが各地から集まり国を超えてみんなで参拝していたといわれます。争うこともなく、互いに尊重しながらその場所をみんなで大切にしていたといいます。

現在は、すぐに誰の土地であるかと土地争いばかりをしている話をききます。境界線で争ったり、相続で争ったり、売買で争ったりと、本来の土地の持つ「場」の意味は失われ個人主義の中で利ばかりを争います。

本来、場所はみんなのものであり誰かのものではありません。これは地球も同じく、自然も等しく、人間だけのものではなくすべての生き物たちが共有しているものです。権利の主張し法律で裁けば、自分のものになってしまっていますがそんなものは本来一つもないのです。

みんなで共有の場を持つというのは、お互いにその場所を大切にしようと思うようになります。あくまでその場をお借りするという意識があれば、いつまでも借りたままに大切にします。それを自分の土地となると好きににしていいとなれば、なんでも自分の利益と都合のよいようにしていくのでは廃れていく一方です。

みんなのものだからこそ、大切に守っていく心も育ちます。そのためにも、みんなものという意識を持つための「場」を整えていく必要があるのです。

「場」が整っていくというのは、みんながその場に対して深い絆を結ぶことにもなります。場というのは、言い換えれば「みんなの場」であり一人でできるものではありません。

その場に集まった人たちが、どれだけ場を大切に思い磨いたかでその「場」は清らかにもなり美しくもなり、そして力も持ちます。善い場所には、必ずみんなの働きがあり、聖地のような場にはそこに関わってきた人たちの祈りや願いが場に遺っています。

私は場道家を名乗っていますから、場を磨き整えることが暮らしの中心です。子どもたちにいつまでもみんなの場が活かされていくように場の甦生を磨いていきたいと思います。

文化財の本質

文化財のことを深めていますが、実際の文化財というものは有形無形に関わらず膨大な量があることはすぐにわかります。私の郷里でも、紹介されていないものを含めればほとんどが文化財です。

以前、人間国宝の候補になっている高齢の職人さんとお話したことがあります。その方は桶や樽を扱っているのですが50軒近くあったものが最後の1軒になり取り扱える職人さんもみんないなくなってしまい気が付けば自分だけになったとのことでした。そのうち周囲が人間国宝にすべきだと言い出したというお話で、その方が長生きしていて続けていたら重宝されるようになったと喜んでおられました。

このお話をきいたとき、希少価値になったもの、失われる寸前になると国宝や文化財になるんだなということを洞察しました。つまり本来は文化財であっても、それが当たり前に多く存在するときは文化財にはならない。それが失われる寸前か、希少価値になったときにはじめて人間はそれを歴史や文化の貴重な材料だと気づくというものです。

そう考えてみるとき、私たちの文化財というのもの定義をもう一度見つめ直す必要があると感じます。実際に、私は暮らしフルネス™を実践していますが身のまわりのほとんどが伝統文化をはじめ文化財に囲まれてそれを日常的に活用している生活をしています。

これを文化財と思ったこともなく、当たり前に日本の文化に慣れ親しみ今の時代の新しいものも上手に導入して流行にも合わせながら生き方と働き方を一致して日々の暮らしを味わっています。

そこには保存とか活用とか考えたこともなく、ごくごく自然に当たり前に暮らしの中で文化も文明も調和させています。農的暮らし、ICTの活用、和食に文明食になんでもありです。

そしてそれを今は、「場」として展開し、故郷がいつまでも子どもたちが安心して暮らしていけるように新産業の開拓と古きよき懐かしいものを甦生させています。私は文化財が特別なものではなく、先人たちの有難い智慧の伝承を楽しんでいるという具合です。

本当の問題は何かとここから思うのです。

議論しないといけなくなったのは、何か大切なことを自分たちが忘れたから離れたからではないかとも思うのです。山岳信仰も同様に、山の豊かさを味わい畏敬を感じてそこで暮らしているのならそれは特別なものではありません。そうではなくなったからわからなくなってしまい、保存とか活用とかの抽象論ばかりで中身が決まらないように思います。今度、私は山に入り山での暮らしを整えるつもりです。そこにはかつての山伏たちの暮らしを楽しみ、そして流行を取り入れて甦生するだけです。

何が文化財なのかと同様に、一体何が山岳信仰なのかも暮らしフルネス™の実践で子どもたちのためにも未来へ発信し歴史を伝承していきたいと思います。

人間がわからなくなっていくときこそ、初心や原点に立ち返ることです。この機会とご縁を大事に、恩返しをしていきたいと思います。