渋い生き方

昨日、藁ぶきの古民家の壁に伝統的な渋墨の塗料を使い塗装していきました。松煙を使った黒い塗料ですが、塗った後の板の木目がまさに「渋い」感じてうっとりとしました。

この渋いという言葉は、室町時代の「渋し」が起源であるといわれ未熟な柿のような酸味、苦味の事を元来は意味していたといいます。

そこから「渋い」、現代でも「落ち着きがある」「趣がある」といった意味とし使用され、現代でも渋いことは格好良いものの一つとして使われています。

この渋さは、ただ見た目だけのカッコよさをいうのではないのは古民家甦生に手掛けてわかるようになりました。聴福庵では5年前に施した渋墨の板壁が今では本当に黒光りして磨き上げられた壁のように艶があります。

これは長年をかけて熟成されてさらに雰囲気があり格好よくなっています。渋いことに似た言葉に「いぶし銀」というものもあります。時間をかけて磨き上げられた美の魅力を表現する言葉です。

この「いぶし銀」は「銀」の持つ性質のことをいいます。一般的に金属の中には錆びていきますが「銀」の場合は、化学反応によって硫化し表面が硫黄銀で覆われていきます。すると黄味がかった色が黒へと時間をかけて色合い・風合いが出て魅力が上がっていきます。いぶし銀は、ピカピカするような輝きは失せまずがその分、「渋い」感じが出てくるのです。

この「いぶし銀」の持つ渋さや奥行きになぞらえて、「いぶし銀の活躍」などという言葉のように「魅力的な人」の代名詞になっています。

このいぶし銀の持つ、渋さは本物の実力を兼ね備えた人ということです。渋い人というのは、真の魅力を持っているということの意味でもあるのでしょう。私は、古民家甦生をするときによくこの渋い黒を用います。黒が好きということもありますが、私は正確にいうと熟成されていくのが好きなのです。なので発酵も大好きですし、時間をかけて醸成させていくのにもっとも興味があります。

9年物の高菜漬けを漬け続けるのもまた熟成されたものでしかでない芳醇な香りと品のある味を学ぶためでもあります。

「渋い」というのは、一つの生き方でもあります。

渋い生き方ができるように、伝統や日本人の美意識から学び、子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

リーダーの育成

組織にはリーダーが存在します。そのリーダーは、もちろん最初からリーダー資質を持っている人もいますが実際にはリーダーを組織が育てていくものです。それは国家も同様で、いい国家のリーダーを育成にするには国民一人ひとりによるリーダー育成が必要でもあります。

もしも組織が能力だけが優れているリーダーを求めれば、リーダーは自ずから能力がもっとも長けている人物が選ばれます。それとは別に、もしも組織が徳の高いリーダーを求めれば徳の高い人が選ばれるのです。

そう考えてみるとリーダーはその人だけのものではなく、リーダーを囲む人々があって存在することがわかります。つまり徳の高いリーダーの周りには、徳を磨き続けている仲間がいるということでもあります。これは論語の別の解釈にもなりますが、「徳は孤ならず必ず隣あり」なのでしょう。

自分があるのは、周囲の人間たちの人間学がともに優れているということ。つまり一緒に人間学を磨いていけば、自ずから徳の高い人たちが増えていく。その結果として徳の高いリーダーが誕生し、善い政治を実践してくれるということでもあるのです。

徳を持ち、才を活かしあうことができればその組織は必ず一致団結して目的を達成していけるように思います。そのために、組織は常に学び続ける組織になっていることが肝要ということになります。

それなしに、誰か特別な才能や徳のあるリーダーだけを求めるというのは都合のいい話でそれは単なる依存ということにもなります。自分はやらずに、リーダーだけを勝手に求め、そこで善い政治をしてもらおうとする。そんなことでは自分にとっての都合のいいリーダーを育成したということになります。そうすると、都合が悪くなるとすぐに文句を言って切り捨てて挿げ替える。これをしていたらそのうちリーダーからもそういう対応を取られ自分もすぐに切り捨てられるようになります。相手のせいではなく、自分たちがまず組織を磨いていこうと努力精進するところに組織のリーダーが醸成するものだと認識する必要があるのです。

そのために、リーダーをはじめ組織の一人ひとりがどのような政治をする組織を目指すのかを決める必要があります。私の場合は、子どもたちの憧れるような社会=会社にしていますからそれが実現できるようなリーダーや組織を目指していきます。その中で、どのような生き方をするのか、何を優先して取り組むかなど、自己との調和を通して理念を磨いていく組織になっていきます。

話をまとめると、大切なのはどのような社会にしていきたいか、そのためにどのような人物であろうとするか、それを全員で共有して取り組んでいくことが最終的にはリーダー育成をしたということになるということです。

道を歩んでいく中でみんなで力を合わせて善い時代を築いていき、それを次の世代へとつないでいきたいと思います。

 

世界の本質

昨日はブロックチェーンを活用したシステム開発のための打ち合わせを行いました。いろいろなことがつながっていき、徳積の仕組みがそろそろ形になってきそうな段階に入ってきています。

ブロックチェーンという圧倒的な技術の到来によって、私たちは現実としては今まで想像もしなかったようなことが実現できるようになります。それはまるで科学が大進歩し今までスピリチュアルといわれていたような精神世界的な意識の出来事を現実化して証明し活用するかのようです。

そもそもインターネットの到来から私たちは世界中のあちこちの場所が同時に可視化され身近な存在にもなりました。世界の反対で起きていたことやその辺に住んでいる人と同じ場所にいるかのように情報を共有します。都会と田舎の情報格差はほぼなくなり、世界のどこにいても最先端の発信ができ、自分の意見を世界中に伝達していくことができるようになりました。

つまりどんな個人でもこのインターネットの技術を駆使すれば、世界に一人の自分を表現し同時に理解されるようになったのです。SNSがさらに進歩が進めば、ますます世界は一つにつながっていきます。しかしこれは本来、世界はもともと一つであったのだからそれが現実として証明できる技術が追いついたともいえるのです。

同様にブロックチェーンの出現によって、私たちはある一つの真理や世界の本質を現実として証明できる技術を得たのです。それが何であるのかを知っている人が、これからブロックチェーンを真に活用する人間ということになります。

つまり真理としての世界の本質を学んでいる人が、圧倒的技術でなしえることを発明するということです。これは例えば、むかしの伝統の知恵を持った人たちが現代の新たな技術を応用することできるということに似ています。

今日は具体的に何を開発するかのことはここでは書きませんが、これから私は以上のようなことを実現するために集中していきます。「甦生」はいよいよブロックチェーンの分野に入ります。この1年が一つの勝負です。ご縁に導かれながら、世界の本質に挑戦していきたいと思います。

結友の仕合せ

昨日は、また藁ぶきの古民家で結友の仲間たちと掃除やべんがら塗を行いました。大変な作業もみんなで助け合って取り組めば心地よく、家も人もみんなが元氣になっていく感覚があるものです。

また人は一緒に何かをすると、その人の個性や人間性が観えてきます。対面で相手の様子を伺うよりも、一緒になって作業することでお互いの特徴や人柄、そのほかの得意不得意などを知り、心が通じ合っていきます。

掃除の効能は、一緒に取り組むことでお互いを尊敬しあうことができることです。一般的には現在はすぐに比較や競争、評価ばかりが重んじられていてなかなかお互いを尊重して認め合うことができません。一緒にやるよりも、個々の専門分野の人の役割のように配置されているものです。しかし実際には、自分にはない多様な能力や個性がありますから力を合わせた方がいい仕事をすることができます。

ここでのいい仕事は、決して完璧に仕上げることではありません。豊かさやつながり、また楽しみや喜びを感じることができるいい仕事になるということです。一緒に取り組むというのは、それをたくさん味わう時間が持てるということです。

私は、結果よりもプロセスのタイプでみんなで一緒に取り組んだり、味わったり、振り返ったりする方が楽しいと感じるタイプです。終わらせることや目標を達成することだけがいいのではなく、そのプロセスが如何に豊かであったか、仕合せであったかを確認するものです。そのためには、お互いを認め合い、一緒に取り組むという体験を増やす必要があるのです。

それは別に能力があるかないかだけではなくです。昨日は、小学生や大学生が来ていたり、シェフや主婦の方などがそれぞれで一緒に作業しました。みんなで取り組むことで、その人の仕事ぶりが観えてうれしくなります。それはその人がここがダメだとか、ここは直さないととか評価は全く入りません。むしろ、下手でもその人が主体的に取り組んでいることが楽しいのです。子どもたちも最初はみんな上手い人はいません。みんな下手です。そのみんなが協力し合って取り組んだものは下手でもそこには楽しみや喜びがあります。それはみんなの心を通じ合わせて取り組んだからです。

本来の価値とは何か、それは人が仕合せになることです。その仕合せになるために、結果があるのだからあまり上手いとか能力があるかとかにこだわる必要は私はないと思っています。

なぜなら、それが認め合い尊重することになり慢心を戒め、人が謙虚に感謝しあい助け合うための基礎になっていくからです。本来の教育とは何を教えるものか、それは評価や比較ではないと私は思います。なぜならそれで幸福を感じにくいからです。幸福を感じるためには、みんなで下手でもお互いで教え合い知恵を出し合い許しあい、認め合い、助け合うことです。

結友の集まりはいつもそれを実感させてくれます。

こういうプロセスを経て仕上がっていく藁ぶきの古民家は心のふるさとです。子どもたちのためにも憧れるような生き方を増やしていきたいと思います。

ご縁を実践すること

昨日、35年前に近所に住んでいた先輩と久しぶりに再会するご縁がありました。小さいころにソフトボールやラジオ体操などを一緒にやったことを覚えています。思い返すと、小さいときは3つ歳が離れていたら大きなお兄さんです。

後輩や子どもたちの面倒見がよかった先輩のことは心のどこかで覚えているものです。35年も経ちなんとなく面影が残っていると、安心するものもあります。歳をとっていくと3つの歳の差などほとんど気にならなくなってきます。

縁あって再会し、同じテーマで話ができたり、それぞれに困難に挑戦している共通点を感じると不思議な時のつながりを感じるものです。

人間には、ご縁というものがあります。

どのようなご縁で結ばれていくかで、日々は変化していきます。ご縁には場所とのご縁もありますが、時機とのご縁があります、そして人とのご縁です。

最初からその場所、その時、その人と出会う運命であったのではないかと振り返ると思うことばかりです。私は、日々に様々な方々とのご縁がありその時々でそのご縁に対処していきます。時として、あれは夢ではなかったかなと思うようなご縁もたくさんあります。

心の余韻にいつまでも残るような仕合せなご縁もたくさんありました。また同時に、傷つけあって一つの絆になったご縁もたくさんありました。あの人たちたちは今、一体どうしているのだろうかと思っても今は連絡も取りようもありません。ただ、未熟者同士で磨き合った思い出が遺っているだけです。

そういうご縁は、その後の人生でさらに深くし輝かせていくことができるものです。それはご縁を大切にするということに尽きるように思います。人のご縁は意味あって存在し、自分が如何にそれに執着しても思い通りにはならないものです。思い切って諦めてみることで、自分に相応しいご縁が訪れていることを自覚するものです。

それもまたご縁を大切にする一つの実践ということでしょう。ご縁を如何に大事に過ごしていくか、それは日々の内省によります。一期一会に生きるというのは、先人の遺してくださった大切な文化であり生き方です。

子どもたちのためにも、日々のご縁を内省により紡いでいきたいと思います。

 

ゼロウェイストの理念

先日、友人から「ゼロ ウェイスト」の徳島県上勝町の取り組みの動画を拝見する機会がありました。美しい町や村が汚されないようにゴミをゼロにするという活動そのものが故郷を守る気持ちと合致して美しい風景になっているようにも感じました。

美しい場所には美しい人たちがいるというのは、原風景を守るために何よりも重要なことかもしれません。少しこのゼロウェイストというものがどのようなものかを深めてみたいと思います。

日本大百科全書(ニッポニカ)にはこう書かれています。

「イギリスの産業経済学者マレーRobin Murray(1944― )が提唱した概念。2003年(平成15)7月に、マレーの著書『Zero Waste』の日本語版『ゴミポリシー――燃やさないごみ政策「ゼロ・ウェイスト」ハンドブック』(グリーンピース・ジャパン翻訳、築地書館刊)が出版され、日本でも注目された。「ゼロ・ウェイスト」とは、ごみを焼却、埋立て処理をせず、資源の浪費や、有害物質や非再生可能資源の利用をやめて環境負荷を減らしながら、堆肥(たいひ)化などの物質回収や再生可能エネルギー利用、リサイクルによって、ごみをゼロにする考え方。「ゼロ・ウェイスト」の目的はごみの発生回避であり、エネルギー消費が少なく、環境負荷が少ない自然代謝を最大限に活用した社会を目ざしているといえよう。」

ゴミを発生させないためにどうすべきかをみんなで考えて取り組むという概念です。これは解体業の方などはみんな仰っていますが、焼却できないものをつくるせいで捨てることができずに大変なことになっているといいます。保健所が細かく分類わけするように指導が入るといいますが、とても分解できるようなものではない状態で解体されていくのでゴミを処分する方法が末端になればなるほどできないのです。

例えば、原発などの放射能などはその最たるもののように思います。何億年も処分に困るものを大量につくり、捨てるところがないので国家や自治体間で押し付け合ったりしています。福島原発の燃料棒なども、冷却した水なども捨てることすらできません。ゴミの究極の姿ともいえるあれは、実は身近なゴミ問題でも発生していて捨てられないものが増えているのです。プラスチックゴミなども同様に、海洋汚染、空気汚染、この世はゴミだらけになっています。また、続けてこうも書かれます。

「ゼロ・ウェイスト」の三大目標として、(1)有害物質を排出しない、(2)大気汚染を生じさせない、(3)資源をむだにしない、が提唱されている。また、「ゼロ・ウェイスト」の重要なポイントである4Lとは、Local(地域主義)、Low cost(低コスト)、Low impact(低環境負荷)、Low technology(高度の技術にたよらない)を意味している。1996年、オーストラリアの首都キャンベラが初めて「ゼロ・ウェイスト」を政策として採用し、その後ニュージーランド、北米やヨーロッパなどの各都市に広がっていった。」

有害物質を出さない、大気汚染をさせない、資源も無駄にしない、この3つがあるかどうかを確認するということです。そのために、地産地消、自然循環、文明の化学をあてにしない、エネルギーを大量に消費しないということを重んじています。

本来の日本の里山のような状態を目指そうということでしょう。美しい風景は、自然との共生と循環の中にありますからこの取り組みの姿として理想は里山ということになります。

私の故郷にもまだ棚田が遺っていて、藁ぶきの古民家を甦生していますがそこにはまだ日本の原風景の気配が遺っています。本来、そういう場所には「結」という組織もあり人々が助け合い美しい風景を創造し守り続けてきました。

ある意味で私が取り組んでいる暮らしフルネス™も、このゼロウェイストの理念に共通するものがあります。そもそも自然が分解できない人工的なものを極力避けるのは、それはほかの生き物たちの暮らしを阻害しないということでもあります。

人間だけがこの地球に住んでいるのではなく、この地球は無数無限の生き物たちがお互いに自由な環境を与えられて暮らしを豊かに営んでいます。すべてのいのちがみんなが幸せを感じて豊かになれるようにするには、人間が中心の人間だけの世の中にしていかないことが肝要です。

すべての生き物たちが喜び暮らしていけるように、自然との共生や循環をさらに実践していきたいと思います。

風土甦生とひとづくり

私は故郷に戻ってきて色々と実践が増えてきていますが、よく地方創生をやっているということを言われることがあります。私はこの地方創生という言葉が実は好きではありません。それにまちづくりをしているともいわれますが、またこれも好きではない言葉です。

なぜだろうかと少し考えてみると、色々と思い当たるところが出てきます。例えば、地方という言い方も私は東京に19年住んで2拠点生活をしてきましたから、東京でいうところの東京以外を、特に大都市以外のところをみんな地方と呼んでいました。私は、日本という国でしかもふるさとには両親や家族がいて、東京も一緒に目的を共有している社員たち(私たちはカグヤ一家と呼ぶ)がいてそこを行き来していただけで東京か福岡かということを意識したことはほとんどありませんでした。なので、地方創生という言い方に違和感を覚えたままなのです。せめて、地元創生ならなんとなく理解できますがさらに踏み込めば私がしていることは「風土甦生」の方が近いのです。

もう一つのまちづくりにおいては、さらに違和感があります。そもそも何をもってまちづくりというのか。誰かが箱ものをたくさん建てたり、経済が活性化できるような商売をはじめたり、衰退したものをまた興隆させたりする人たちがまちづくりをした人といわれます。つまり極端な言い方をしたら、田舎を都会にした人たちがまちづくりの第一人者のように呼ばれているのです。動物たちや虫たち、自然がイキイキとして風土が輝いているような場所をわざわざ人工的に整備して都会のようにして、さらに大都会の人と経済がつながり田舎が活性化したことを評価されてまちづくりをしたと呼ばれる喜ばれることが好ましくないのです。せめて、風土を磨いて魅力を引き出したとか、徳を積んで本来の地域の人々を薫育した「ひとづくり」に取り組んでいる方が近いのです。

私は日本の美しい風土をこよなく愛しており、その風土が永遠にこのままであってほしいと願うばかりです。だからこそ、風土を壊さずに美しいままであるために風土の甦生をしながらひとづくりをしていきたいと思っているのです。

本来、その地域にはその地域にしかない風土があります。それはその地域の徳のことです。それはその地域の歴史であったり、文化であったり、暮らしであったりするものです。それを大切にする人たちを醸成しながら、その中でその地域独特の生き方を通して日本全体の風土の一部として力を発揮していくこと。まるでどこにいっても金太郎飴のようになってしまった地方も人もそんなものは日本の未来にほとんど役に立ちません。ながらく保育や教育の世界を観てきても、十把ひとからげに同じようになるように型に嵌められた人を増やしてもそれは本質的にまちづくりの人を育てるはずはないのです。それにどこかで見た風景ばかりで同じ道路と同じチェーン店ばかりが連なっていてどこも同じ配置・配列になっているものが地方創生とかいっていたら田舎に出てきて東京が理想という状態をみんなで目指すだけになるのです。

なんだか長くなってしまいましたが(笑)、ミニ東京に憧れるのをやめ本質的に日本全体のために「風土甦生とひとづくり」をすることに原点回帰していくことが未来の子どもたちのために徳を譲り渡していくことになると思います。

引き続き、我が道をいきながら楽しく豊かに醸成を積み発酵していきたいと思います。

運と縁と素直

この世の中には、徳という言葉があるように運という言葉もあります。最初にこの現象を発見し言葉を決めた人は、どのような人だったのでしょうか。言葉はいつはじまり、いつ終わるのかを誰も知りません。しかしその言葉が何百年、もしくは数千年の月日を超えて存在するというのはこの世にその現象が存在しているという証明でもあります。

最近は、徳とか魂とかいのちとかをいうとすぐに怪しい宗教などと言われます。そもそも宗教が怪しいのではなく、教祖にしている人間たちが怪しいのであって現象は自然そのものですから現実です。

その現実を言葉にしてこういうものだと決めたのが言葉のはじまりだったようにも思います。つまり言葉は現実と現象を証明するものでもあったのです。

そこで「運」というものを考えてみると私たちはいつ生まれてくるのかはタイミングがあります。またどの場所に現れるのかも同様です。これも現実と現象であり、それは事実ですからそこには運があります。この運をよく観察するとそこには縁があります。つまり縁によって運が導かれていくということです。人の言う幸運というものは、幸縁ということでもあるのでしょう。

運と縁を持つ人は、縁をちゃんと見極めている人です。縁を見極められる人は、素直な人なのがわかります。なぜなら、素直な人は縁そのものがありのままに観えるからです。

通常人は、様々な我執や我欲がありますから縁そのものが曇った歪んだ眼鏡をかけていてよくわかりません。それが澄みきったものになるのならよく縁そのものが観えているという具合です。縁がありのままに観えるのなら、その縁を活かすことができます。しかし縁を活かすにはやはり素直でなければなりません。自分の都合で縁を利用しようとしたら縁は離れていきます。ここでも素直さが運を決めることがわかります。

纏めてみると運は縁であり、それは素直であるときに観えるもの。そう考えてみたらすべての言葉は、素直であるときににしか本当の意味は理解できないということがわかります。この素直は、自然のことです。自然はあるがままに素直ですから、自然体で自然に近づいているときこそ素直さが研ぎ澄まされているということになります。

一種の矛盾でもありますが、知識としての言葉を得た人類はその言葉によって素直さを失っていったともいえます。しかし運というものがこの世に存在しているということを深めるとき私たちはその運が確かにこの世に存在してそれがとても偉大な意味や影響を持っていることはわかるのです。

運を善くするということはどういうことか。それは縁を活かすことです。縁を活かすためには素直であり続けることです。人は目的をもって歩んでいくとき、不思議な幸運を得るものです。それは自然の力の本体でもあります。子どもたちのために引き続き、清き直き明き心で自然の道、かんながらの道を実践していきたいと思います。

資源のもと

私たちの身体をはじめ、この世のすべてのものは資源でできています。原資になっているものは土ですが、土から化けて形になり最後はまた土に還ります。そしてその土とは、水と火と木と石などあらゆるものが融和している存在です。

私たちは資源を使い、この世で生活をして暮らしを成り立たせています。自然は、それぞれ資源の共有によって共生し合い助け合ってその暮らしをより豊かにしています。

衣食住もまた資源を活用することでつくります。その資源のもとは、自然の他の生き物や存在から得ているものです。当たり前に食べている卵も、またお米もそのどれもが資源でありそれを使うためにはほかの資源の暮らしを保障する必要があるのです。

その仕組みを自覚していた先人たちは、如何に自然が豊かになるか、お互いの豊かさを活かし合っていけばいいかに知恵を絞りました。それが里山循環の仕組みであったり、現在の風土に見合った衣食住の仕組みであったりするのです。

お互いが資源であるからこそ、その資源を大切に活かしきろうとしたのです。私たちの人生も一生も資源を使うことでできています。この身体を使って何をするのか、どう豊かな人生を送るのか。つまりこの貴重な資源の使い道を選択できる自由が一人ひとりにあります。

ある人は、資源を使い私利私欲を満たすためだけに使います。またある人は、それを社会貢献のために使おうとします。本来、貴重な資源を使って私たちは暮らしているのですからその資源がまたほかの資源を豊かにし共生していくことの方が仕合せを感じます。なぜなら、ずっと活かされる存在であり続けることができるからです。

それは言い換えれば永遠のいのちを持っていることを実感できるからでもあります。自分の資源がいただいたもので存在できており、またその資源が子孫や他をずっと活かすためにあると思えるからです。

私たちは資源という見方をすれば、多くの存在の助けによってできた資源です。その資源への恩恵や徳をどのようにお返ししていくか。気づいた人たちはそのために一所懸命にその土地で恩返しをしていきます。それが故郷の資源に還っていくことです。資源を使い消費することばかりを楽しむのではなく、新たな資源を産み出し、その資源でふるさとが豊かになるような取り組みをみんなではじめていくことです。

子どもたちにさらに豊かな資源が譲り遺せるように、真摯に手入れや修繕を通してその意味を伝道していきたいと思います。

 

自分で考える

人は自立していく上で大切なのは「自分で考える」ということです。この自分で考えるというのは言い換えれば「自分で気づく」という力のことです。人生はあらゆることが自分の中での気づきや発見で彩られていきますから誰かの人生を代わることはできません。

常に自分が自分の人生の主人公になって生きていく必要があるのです。その時、大切なのがこの自分を生きるために、自分で気づく人になるということです。

自分で気づく人というのは、説明が要りません。よく私は変わったことばかりをしているように周囲が見えるようで、またとても遠くのことのために歴史を遡り、損得を度外視して行動していきますから意味不明のことをやっているようにしか感じられないのかもしれません。

その時、説明をするようにいろいろと聞かれますが説明はしても全体のことが伝わるというのはほんのごく一部だけです。その時に、説明がわかりにくいという人もいます。説明ができないからよくないというのです。

確かに人に伝える技術というものを持つことで、わかりやすく誰にでもわかるようにすることは大切です。しかし、それはテレビや報道、記事など、もしくは広告宣伝をする時などにはいいかもしれませんが志や実践、もしくは学ぶということにおいては説明よりも気づくことの方が大切なのです。

気づくというのは、説明は要りません。自分の中で、その実践に近づいていき自らがその本質を掴むために気づくのです。気づくことで、人は真に成長しますし、気づきによって本当のことを掴むことができます。

つまりどんなに説明しても理解できないのは、説明する側の問題ではなく気づく側の問題だということなのです。私は今までの人生で、人生の達人といわれるような一道を究めた人たちに何人かお会いして学びをいただく機会がありました。

その人の説明の仕方がわかるかどうかではなく、どうやって近づこうか、どうしたらこの人の学びの深淵に触れることができるのかと謙虚に気づこうと真摯に取り組んできました。

その人の存在から醸し出される片鱗を感じ取り、言葉にならない実践や生き方などを直観して気づきで近づいてはじめて少しだけ悟りに触れるという具合です。それでも実践してまたお会いすると、気づきの差が観えてさらに学びを深めようとする意欲が高まります。

これを説明してくださいとは言いませんし、わからないのは相手の説明が悪いなどとは決して思うこ思うことはありません。最初から説明してもらおうという学びもないし、そんなに甘えていたら自分で考える力が失われてしまうのです。

今の教育は、なんでも先生や上の人が下の人に教えることが当たり前だということになっています。そして気づくことよりも、教え方がいいとか悪いとか相手のせいにばかりしては自分で気づくことの大切さが伝わっていません。自分の問題だと気づかないくらい、気づくことが失われているともいえます。

畢竟、人生は「気づく」ことができるかどうかで意味が変わります。そして自分で考える喜びや気づくことの仕合せが人生を真に豊かにするのです。

子どもたちのためにも、自ら気づける生き方を伝道していきたいと思います。