持たない豊かさと、磨ける喜び

現在、家に住むのに持ち家とするのか賃貸とするのか、そしてシェアするのかと選択肢が増えてきています。バブル時機から持ち家信仰が広がり、家をもって一人前とされてきましたが実際には家を持つのにローンを組んでそれを支払うために働くという人も多いように思います。

先祖は、家を建てるというのは大変費用も労力もかかりましたから子孫へと家を譲渡していく過程で負担を減らす工夫をしてきました。和の建築が、間取りを自由に換えれるのはその時々で家族構成が変わっていくからでもあります。

現代は住宅事情がかわり、新築を建て続ける仕組みが動いていますから持ち家にせよ賃貸にせよ、すぐに手が出せる仕組みになっています。ただ、簡単に買えるからと買っても家は単なる物の売り買いのようにはいかず、手入れや修繕も必要になります。

車でもそうですが、買って終わりではなく車検をはじめガソリン代、整備代、そのほか、事故に遭遇したときの修理代などを考えると総額は大きくなります。家となると、もっと手間暇も修繕費もかかり維持するのは大変なことです。

住んでいれば、日々に小さな手入れをしますが空き家になってしまえばあっという間に朽ちていきます。人工的に人間が何かをしてつくったものは、どんなものでも必ず手入れしないと朽ちていくのがこの世の道理です。

だから本当は、自分が「持つ」のなら手入れができるかどうかを先に考えなければならないのです。そうでなければ持たない方がまだ手入れが行き届きます。ある一定上の物が増えてしまえば人は手入れすることができなくなり荒廃していきます。

増えないようにすることと、手入れできる範囲で足るを知り持たないようにすることが物を大切にするための心得の一つになるのかもしれません。しかし、持つことは同時に磨いていくことでもあります。いろいろなものが増えて磨けることは仕合せなことでもあります。

掃除ばかりしているように思われますが、手入れの豊かさ、修繕の美しさ、そして大切に甦生させる喜びは寿命が伸びる思いがして格別でもあります。

人類が物を増やさず、分相応の中でも最高の幸福が得られるように暮らしフルネスの実践を楽しんでいきたいと思います。

ご縁かどうかだけ

今、私が住んでいるところは元々は誰かの持ち物だった古い民家です。かつてどのような人たちがここに住みどのような家族があって暮らしをしていたのかは想像することしかできません。しかし不思議ですが、住んでいるとその佇まいから何か余韻のようなものを感じることができます。

それは自分が喜ぶような暮らしをするとき、またはそこに迎え入れたご縁のある方々が来られているとき、また或いは、道具や家を手入れし磨いている時に実感するものです。

この世には本来、まったく縁のない新しいものなどは存在しません。私たちが生まれた以前からあったものを加工して新しくすることはできますがそれはまったく新しいものではなく今まであったものを甦生し組み合わせただけということになります。

大事なことは甦生し組み合わせたということ、つまりご縁を結んだということでしょう。

私はもともとご縁で物事を決断していくタイプです。よく戦略的だとか企画提案がどうこうだと言われますが、先にそんなことを頭で考えているわけではありません。今、来ているご縁に忠実であるだけでそこに真心を尽くしたいと取り組んでいたらアイデアが出て、また運のよい方へ導かれてきただけです。

計算はほとんどしておらず、損得も考えない。ただご縁かどうかだけを忠実に意識しているだけとも言えます。

しかしこの「ご縁かどうかだけ」というのが善いのです。

ほとんどのご縁は、私の場合ですが大変なものばかりです。自分の想定外の出来事や、予想もしなかった苦労が降りかかってきます。それを真に向けて引き受けたら真摯に汗水涙をたらしながら取り組んでいくだけです。

そうすると、時間が経ってみたらそれが自分の本当にやりたかったことだったりすることに気付けます。単に自分がやりたいことは願望であったり、欲望であったりすることもあります。しかし、思っていることが招いてくるのはほとんどはご縁です。

私の場合は一期一会が座右ですから、ご縁から来たものを大切にするという生き方だけであまり自分から先んじてご縁を拡大させていこうとは思わないタイプのようにも思います。

このブログも広めるために書いているのではなく、日々の一期一会のご縁を大切にして引き受けていることを綴って結んでいるだけだとも言えます。

子どもたちに、生き方を譲り残していけるように精進していきたいと思います。

幸福の原点

昨日は、福岡にある自然農のむかしの田んぼで田植えを行いました。ここは無肥料無農薬で、山水をかけ流しているため沢蟹やエビなどの生き物たちがたくさんいます。

今回は神事も兼ねて田植えをしましたから早乙女の衣装も用意して田植え歌も流しつつ執り行いました。この早乙女というのは、世界大百科事典によればこうあります。

「田植に,苗を本田に植える仕事をする女性をいう。ウエメ(植女),ソウトメ,ショトメなどともいう。本来は,田植に際して田の神を祭る特定の女性を指したものと考えられる。かつては田主(たあるじ)の家族の若い女性を家早乙女,内早乙女などと呼びこれにあてたらしい。相互扶助を目的としたゆい組の女性だけを早乙女と呼ぶ例もある。いずれも敬称として用いられている。田植に女性の労働が重んじられたこともあり,しだいに田植に参加する女性すべてを早乙女と呼ぶようになったと思われる。」

また百科事典ペディアによればこうも書かれます。

「田植に従事する女性。古くは植女(うえめ)ともいい,田植女の総称ではなく,田の神に奉仕する特定の女性をさした。田の神を早男(そうとく)と呼ぶのがそれを暗示する。田植は,豊作を祈る祭の日でもあるので,早乙女の服装は地方によって異なるが,普通,紺の単(ひとえ)に赤だすき,白手ぬぐいをかぶって新しい菅笠(すげがさ)をつける。」

この早乙女は古来から里山の「結(ゆい)」の仕組みとセットで存在し、早乙女たちがそれぞれの田んぼに移動しながらみんなの田植えを手伝いながら神事をし田んぼの神様に喜んでいただきながら豊作を祈り、その場の人たちの仲間を集めながら相互扶助の精神を醸成する役割を果たしたようです。

家々の田んぼをみんなで手伝いながら田植えをするために、早乙女たちが家々の田んぼを巡りながらみんなで明るく楽しい時間を過ごしていたことが目に映ります。豊作を信じて、おめでとうございますという声掛けとともに田植え歌のリズムに乗せて手伝いに来た人たちといっしょに家々の田んぼの稲の苗を植えていく。

きっと、稲もみんなで育てる、田んぼもみんなで守るという意識をもって一緒にその場を磨いていたように思います。田植えをしてからは、草とりから畔の手入れ、そして収穫、はさかけ、籾摺り、脱穀、新嘗祭、しめ縄づくり、藁ぶき屋根の補修などさらに一緒に暮らしていく中での協働作業の機会が増えていきます。

お米という字は、八十八の手間暇がかかるという意味でできた漢字だといえますがその手間暇が協働で一緒に暮らすためのものであるのならこれこそが人類の真の豊かさであることがわかります。

物質的な豊かさや金銭的な豊かさとは別に、暮らしを共にして仲間と助け合い見守りあう豊かさは古今の普遍の幸福の原点です。

今年も稲の巡りとともにしながら暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

ふるさとの甦生

私たちは自分たちの「いのち」をいつも見守ってくれている「ふるさと」のことを忘れると、当たり前ではない偉大な「御恩」に気づかなくなっていくものです。今の自分があるのは、御恩の集積の結果でありそれになんとかお返しをしたいと思う心の中にふるさとがあるからです。

今、ふるさとへの恩返しといえばふるさと納税のことなどが言われますが決してふるさとに納税したからといってご恩返しができたということではないと私は思います。一つの手段ですが、かえってそのふるさと納税の問題で村や町が資本主義の影響で荒れてしまいさらにふるさとが消滅していった事例も増えているように思います。

なんでもまず前提に「お金」のことを考える世の中になってから、都市を運営する方法で田舎もやろうとしだしてから田舎の魅力も同時に失われてきたように思います。

本来は、それぞれが個々人でふるさとのために何ができるかをよく考えて取り組んでいくことからはじめることだと私は思います。そのために資金も必要ですが、できるところからはじめていけば仲間が増えてそのうちふるさとが喜び、人も喜び、御恩も喜んでいくように思います。

そのふるさとへの御恩返しにおいて、もっとも大切なことは「魅力」を磨きなおすことです。これは、そこに住む人たちができることですし、ふるさとに戻ってきた人、もしくはそこを新たなふるさとにしようと移住する人たちでもできることです。

それは、その場所の単なる過去の栄光や遺跡を自慢することではありません。もしくは、なんとなく目新しいものや人気があるもの、流行のものを出すことが魅力ではありません。

魅力とは徳を磨いていくことで発揮されるものです。そもそもこの徳と魅力は似ているところがあります。そのままでは魅力は輝くことはありません、あくまで磨いていくことで魅力は高まって光っていきます。

「あなたは自分のふるさとの魅力を磨いていますか?」 そして、「あなたは自分自身の魅力を磨きましたか?」

この二つの問いだけで、私たちは徳というものの存在やふるさとへの御恩返しにつながっていくと私は感じているのです。その場所を、今までよりももっと素晴らしい場所にしていく。もしくは自分の徳を磨き、子孫たちにその徳をもっと素晴らしいものにして譲渡していく。

与えられたものに不満を言ったり、不足を嘆くのではなく磨くのです。それは足るを知り、あなたにしか与えられていないたった一つの天与の道を磨くのです。そうすることが、ふるさとへの御恩返しになるのです。

実際、毎日のように見学者が来て話を聴きにきて説明しますが私が取り組んでいることは実は誰にでもできることです。ふるさとのことを愛する心は、感謝に生きる心でもあります。その心をもっている人は豊かであり仕合せです。その仕合せが末永く継続できるように私たちはふるさとへ御恩返ししていく必要があります。それが子どもたちの仕合せな未来への約束でもあります。

仕事でやることではなく、心をもって魅力を磨くことは個々人でできるのです。

みんなでそうやってふるさとを磨いていけば、光り輝き出したふるさとを観て元氣になっていく人たちが増えていきます。ふるさとが甦生すれば、その土地だけではなく人々も元氣になっていくのです。

日本が元氣になれば世界も元氣になります。

元氣になれば、人間は足るを知り自然との共生のすばらしさ、平和の美しさ、本物や伝統文化の価値を実感しなおすことができます。

引き続き、この場からふるさとの甦生を楽しんでいきたいと思います。

 

捨てない教え

日本には持ち家信仰というものがあると、ある方からお伺いする機会がありました。確かにいろいろと調べていると、高度経済成長期に日本人は新築文化だといわれるほどに古い家は取り壊して新築を建て続けていきました。今の都市がそうなっているように、歪で景観などを無視したかつての新築が廃墟のようになっている光景をみると何をやってきたのかが推察できます。

特に今でも、持ち家信仰といわれるほどに家を持つことが何よりも価値があるように言われています。実際に、古民家甦生をしている関係でいろいろな相談を受けますが実際には負担になっている古い家や土地をなんとかできないかということばかりです。

活用できなくなった土地や家の問題が重くのしかかり、それが老後の大きな負担になっているのです。現在の空き家問題も、解決していないのに今でも新築を作り続けています。このままでは新築が多すぎて空き家になるという具合に、人口減少の問題だけではなく作りすぎによる無駄が発生して結局はゴミのように廃棄する運命になります。

現在の資本主義の構造は、生産をするためには消費し続けないといけませんから家に限らず作り続けるというモデルがなくならない限り、このゴミ問題はなくなることはありません。

本来、捨てなくてもいいものを捨てることを転換し長く使うことを大切にすることや、そもそもリサイクルとか廃棄とかの課題を考える前につくることを考え直すところからやり直す必要があるようにも思います。

ものをつくるときに、また生産する前にこれを最後はどうするのかまで考えてから取り組めば余計なものをつくらないと考えるはずです。むかしの先人たちは、子孫たちのことをよく考えてくれていてちゃんとつくる前によく吟味していたのが現在の建造物や文化財からもわかります。

今の自分の世代のことだけ、自分のことだけを考えるのではなく、子孫のこと、未来のこと、そして永続する人類のために今一度、どのように資源を大切にしてみんなで分け合っていくのかを考える時機が来ているように思います。

子どもたちのためにできるところから、自分の足元から変革をしていきたいと思います。

 

暮らしの習慣

一般的なスケジュール(予定)とは別にルーティン(習慣)というものがあります。スケジュールは、決められたものを計画通りに実行していくことをいいますが習慣は暮らしの中で取り組む繰り返しの実践のような位置づけで用いられます。

ルーティン(習慣)を持っている人は、そこに一つのリズムも持っています。毎日を整えていくための一つとしてこの習慣を大切にすることはとても重要なことだと思います。

例えば、私はこのブログを毎朝欠かさず書いています。前の日、もしくは直前までに振り返りをし日々を省みてそこから気づいたことや発見したことを深めたり実践を磨いています。日々に取り組むことで、毎日のリズムができ同時に意識を磨いていくことができています。

この意識には、変化というものを捉えるというものもあります。同じことを徹底的に磨き続けることで前のこととは異なっているものの発見がたくさんあります。同じことをしていても決して同じことは起きることはなく、必ず何らかの変化を感じ取ることができます。

このブログの場合は、以前と同じテーマで書いているのにも関わらず10年前の記事と今書く記事では内容が同じでも表現の仕方や理解の深さ、また言葉の磨き方が変わってしまっています。自分でそこではじめて、日々のルーティン(習慣)によって磨かれたということを実感するのです。

私たちはルーティンを通して自分を磨いていくことができます、別の言い方をすると暮らしの習慣によって自分を変えていくことができるということです。理想の自分、目指している姿に近づけていくためにどのようなルーティンを暮らしの中で実現するのかを決める必要があります。

ここでのどんな暮らしをしていくのかは、つまりどんな自分をつくっていくのかと同義語ということでしょう。

暮らしフルネス™は、この自分を磨いていくための実践をどう豊かなもので満たしていくかということでもあります。足るを知る暮らしのルーティン、自然と共生するルーティン、自分を整えていくためのルーティン、あらゆるルーティン(習慣)は私たちの人生を深く支えているのでしょう。

本物の変化は小さなルーティンの積み重ねと磨き合いによって起こります。これから新しくはじめる新たなルーティンが子どもたちの未来をより豊かにしていくように祈りつつ行動を開始していきたいと思います。

 

 

日本民家の甦生

伝統的な歴史的な家屋をよく観察しているとそれが暮らす人たちの健康を優先されて建築されていることがよくわかります。風水に照らし、間取りや配置、その風土に合致させてつくられています。

高温多湿の日本では湿気の問題は大きな影響を与えます。夏の蒸し暑さは激しいもので、それをどう乗り越えようかといろいろと工夫されています。

例えば、現在私が甦生させている町家や藁ぶきの農家古民家らは非常に風通しがよくこの時期はまだかなり家の中が寒いくらいです。この風通しがいいというのは、水が澱まずに乾燥しますから家の木材を守るためにもいいだけではなく衛生上、人間にとって害のあるカビや害虫などを寄せ付けません。世間一般ではこれらの古民家は夏向きに過ごしやすくつくられているという言い方をしますが、本来はそうではなく私は「病気にならないようにつくられている」という方が確かだと私は思うのです。

建築をするのに善い場所とは何か、今では国道からすぐとか、都市から離れていないとか、日当たりや眺めがいい、景観がいいなどというところを選ぶ人が増えていますが本来の大前提の絶対条件は「病気にならない場所」であったのです。その証拠に、まず飲み水がいいところか、風通しがいいか、土中環境が澱んでいないか、他にも清浄な空気が流れているところか、地盤がしっかりしていて自然災害が少ないかなどを優先しています。

今では、空いている土地ならどこでも環境を無視して建てようとしますが本来は一生家族が健康に過ごせるためにもっとも善い場所を選んでそこに相応しい建築を用意しようとしたのです。

つまり何が言いたいのかといえば、善い場所にある善い家とは「健康を守ることができるところ」ということです。現代では、特に都会では見た目の洗練さばかりを広告宣伝され世の中の人たちの価値観もそちらに流れています。

本来、どのような環境があることで人間が健康でいられるか。この当たり前のことをもう一度思い出し、なぜ暮らしの甦生、日本民家の甦生が必要なのかを考えてみる必要があると私は思います。

引き続き、何をもっとも先人たちが大切にし子孫に伝えようとしたのかを今、この場所から伝道していきたいと思います。

徳を掘り起こす

明日は、いよいよ徳積堂がオープンする日です。この日を迎えるまでかなりの時間をかけて準備してきましたが、無事に始動できることが仕合せです。もともと徳の循環をはじめるための実験の場として醸成していきましたがこれからどのような変化をこの場が築いていくのか楽しみです。

今回のオープニングイベントは徳の掘り起こしをテーマに古代から今までの歴史を学び直す機会にしています。そもそも歴史とはそのまま真実であり、どのような経緯で今ここまできたのかを明確に顕すものです。

時としてその時代の権力者が歴史を私物化して、真実を歪めていることもありますが本来の歴史はいくら歪めても最後には必ず正体がはっきりするものです。それはそこに「場」が遺っているからであり、その場にアクセスする人たちによって本当のことが次第に明らかになっていくからです。

例えば、日本の歴史では菅原道真公のように如何に罪人であるかのように時の政権が歴史を抹殺して功績をなかったことにしたとしても、その後、ご縁のある人たちや遺跡や文化財などの掘り起こしによってその徳が顕彰されていくのです。

いくら歴史を誤魔化して私物化しても、いつかは明るみになり返ってそのことでさらに歴史の真実や徳は人々に語り継がれるようになるのです。

歴史というものは、今まで歩いてきた軌跡でありこれから何処に向かっていくのかの大切な方針や初心を示すものです。私たちは個人の人生を生きてはいますが、大きな意味としては歴史を生きているのです。この現代もまた、古代から続く歴史の連続の一部であり未来もまた歴史につながり顕現してきます。

今の自分の布置を理解することは、今の自分に譲られてきた徳を理解することでもあります。

私たちが歴史を掘り起こす必要があるのは、自分たちが今までどのように歴史を生き抜き暮らしてきたか。そして先人たちの数々の人生での思いや祈り、願いを歴史とともにどのように暮らし生きていくのか、その遺徳を感受しなおすことで私たちが何を徳としてきたかを甦生させる意味もあるのです。

徳の甦生は、徳の循環のはじまりになります。

子どもたちが、自分たちの歴史やルーツを知ることこそ根のある暮らしを実践することであり、栄養豊富な風土から養分を吸い上げて世界や未来で活躍するための場の醸成になっていきます。

まずはこの時、この徳積堂から子どもたちに確かな未来を譲っていきたいと思います。

歴史を創る

この世の中には、ずっと残るものと残らないものがあります。それは歴史を学べば気づけるものです。例えば、建築物であれば長いものでは1000年以上もありますがほとんどのものは100年持つことは現代ではあまりありません。記憶も同様に3代くらいは口伝などで引き継いでもその前の代のことを覚えている人はほとんどありません。こうやって時代には、残るものと残らないものが篩にかけられて選別されていきます。

私たちは今を生きていますが、前のことでは生きてはいけません。過去の栄耀栄華がしがみついて生きていくことはできず、常に今を刷新して前進し続けることでこの世に存続することができています。

一見、時代的に長いものを観たとしてもそれはずっと同じままでいたことはありません。つまり、その時代時代に変化し続けて手入れをしているから今も持つのです。

あの法隆寺は1300年建っていますが、これも何もしていないのではありません。それをずっと守るために信仰を絶やさずに手入れを怠らないから今でも建っています。つまりは、その時代時代にそれを守る人が出たからといことです。そして守るためには、単に維持していけばいいのではありません。

時としては攻めて変革をしたり、またある時は守りに徹して粛々と大勢の批判に耐えながらも本質を貫いたりと、真摯に手入れをし続けてきたのです。

この手入れが悪いと、そこまでで途絶えてしまいます。今でも甦生し続けているものの手入れはなんでもいいわけではなく、常に本質を守りながらその時代の価値観に対応し続けるという初心を忘れない温故知新の知恵を持つ人たちが挑戦が必要なのです。

それが歴史を創るということなのです。

歴史は残すだけのものではなく、創り続けるものなのです。だからこそ新しく創めることに挑戦していく必要があります。今までのものを創新するのです。

私が取り組んでいることは、なかなか理解されないことですがそのうち時代が変われば理解されると思います。それまでは挑戦を楽しみ味わい、新たな未来のために歴史を掘り起こし、甦生し、磨いて創り続けたいと思います。

徳循環の社会実験

今週末はいよいよ徳積堂のオープンです。徳循環の社会を創造すべく、念願が叶いいよいよ「徳」を甦生させる活動を本格化していきます。今の時代の徳とはどういうものか、それぞれの時代で徳の大切さは語られてきましたがこれから新しい時代の幕開けに際しここから新たな徳の真価を発信していきたいと思います。

「徳」においての私の先生といえば、二宮尊徳です。私は二宮尊徳を非常に尊敬していて、30代の10年間はずっと二宮尊徳の遺した言葉や遺跡を歩き、またその言葉の意味をなぞるように学んできました。どの遺した言葉も私の魂に深く響き、それを社業にも反映させていきました。

例えば、「一円対話」というのは二宮尊徳の一円観を参考にしたものです。聴福人は、桜町陣屋の近くの親鸞上人の高田山でのメモ帳にあった言葉で閃いたものです。また今の時代の人たちが捨てるものを拾い集めて甦生するようになったのも二宮尊徳の生きざまから学んだものです。実は他にもこれから私が取り組むもののほとんどは、似たようなことを実行していくかもしれません。

金融に取り組むのも、積小為大からでもあり、至誠、分度なども今の会社経営だけではなく、あらゆる私の取り組みの根底を支えています。それはこの世の自然の真理を活かしたというところに深い信頼があるからだろうと思います。

いよいよ徳積堂を始動するにあたり、既存の価値観との融和するためにその土を醸成していきます。そのためにまず取り組むのは、「推譲」の真価です。

二宮尊徳に「譲って損なく、奪って益なし」があります。

言い換えるのならこれは、みんなで譲っていくことは徳になり、奪うのをやめば徳になる。徳の循環を実現するために、ここから温故知新した社会実験をスタートさせていきたいと思います。