真の幸福論~暮らしフルネス~

現在、一般的に世界の三大幸福論はヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)と言われます。ほかにも数々の哲学者が幸福論を書き記していますが、原初は古代ギリシャ哲学者アリストテレスにあるように私は思います。

アリストテレスは幸福を「真の幸福とは、徳のある人生を生き、価値ある行為をすることによって得られる」と定義しています。

私はこの言葉が真の幸福論の原点に近いものだと思っています。真の幸福とは何かを人類は今までずっと追及してきました。特に現代は、何が本当の幸せなのかということがあまり議論されることもない情報化のスピード社会に呑まれています。こういう時こそ、何のために生まれてきたのか、人類の仕合せとはいったい何かということを原点回帰して見つめ直す必要があるように思います。

それこそが人類の平和や未来を考え直すきっかけになりあらゆる環境問題や人種問題などを解決する根源治癒になっていくと思います。

人は元来、最初から自分に備わっている徳性というものがあります。その徳性そのものがすべての存在の真の価値です。これを活かしあう、めぐらせる、いきわたらせる、そういう共生関係の中にお互いの徳が満ち足りていきます。私はそれを日本に古来から続いてきた伝統的な暮らしの中に見出しました。これは単なる長く続いていた生活のことをいうのではありません。先人が長い間、磨き上げてきた徳、その生き方と実践、そういうものを私は「真の暮らし」であると定義しているのです。つまり伝統的な暮らし=真の暮らしということです。

この真の暮らしは、この先人たちの徳の中にこそ存在します。その徳を感じるためには、私たちはいつまでもないものばかりを追いかけるのをやめなければなりません。不足ばかりを思い、もっともっとと欲望ばかりを追いかけていても徳は顕れてくることはありません。

今あるものは本来は完全で満ちています。不完全はなく、存在は完全そのものです。この徳の本体をしっかりと受け止め、そのいただいている恩恵に感謝し、その徳に報いていくことが価値のある行動になっていくのです。

自然研究をし一つの真理を得た万学の祖と呼ばれたアリストテレスは、今から2300年前の人物ですがすでにその時に、本当の幸福論はもう定まっていたということでしょう。そこから複雑になっていき、いろいろな人が出てきて新説が出てきましたが真理は対極にあるものではなくいつも絶対的で二つが一つになっているものです。

分かれたものを和にする、私はまさに今こそ原点回帰して祖に帰す必要があると思っています。

私が提案する「暮らしフルネス™」は、暮らしで足るを知るという意味も込めています。フルネスというのは西洋の言葉ですが、暮らしフルネスは私の造語です。これは足るを知る暮らし、言い換えれば「徳に生きる暮らしをする」ということです。

今回、魂の友人が協力してくださってこのブログの記事を抜粋して暮らしフルネスのことをまとめた新著を上梓してくださいます。アリストテレスの誕生から2300年経ち、もう一度、幸福論の原点回帰を提案するのです。

コロナ禍でこれからどう生きていけばいいか、どの道を歩めばいいのか迷う人が増えている中でこの本が人々の心を癒し、平和に貢献し、同志を鼓舞することができることを祈念しています。

引き続き、徳を磨いていく日々を精進していきたいと思います。

 

徳の次元を生きる人たち

「天の蔵に徳を積む」という言葉があります。今の時代は、あまりこの言葉は使われなくなって知らない人も増えてきているように思います。蔵という言葉も、蔵自体がなくなっていますし、天の蔵といえばまたイメージがしにくいのかもしれません。

蔵とは大事なものをしまこんでおくところをいいます、そして天の蔵というのは自分の大切にしているものをこの世ではないところにしまいこんでおく場所のことです。

ここでのこの世というのは、現実の自分がいる世界のことです。あの世というのは、自分の先祖や今までのご縁やつながりで存在している別の次元の世界のことです。シンプルにいえば、生まれる前からあり死んだ後もある世界のことです。

科学が進めば進むほど、私たちはこの世とあの世の境界線に近づいていきます。その時、人類にははっきりとあの世の存在の偉大さに気づきなおします。気づいたときに、何を最初に悟るか。それはこの「天の蔵に徳を積む」ことの重要さに出会うことだと思います。

私たちは、目に見える世界と、目には観えない世界が存在します。目には観えないところであらゆるものがつながっていき、目に見える世界で形になっていきます。その逆に、目に見えるところを形にしていくことで目には観えない世界が結実していきます。

この両方の間にあるものを可視化したものが一つの「徳」というものです。この徳を直観し、その徳を積んでいく。言い換えるのなら、磨いていくことで天の蔵にその大切なものをしまいこんでいくことができるのです。

このしまい込んでいくというのは、記憶していく、記録していくということです。それが残ってあらゆるものと和合してご縁が結ばれまた新しい物語を産み続けます。因果応報という言葉もありますが、功徳や善行を積めば、それが長い時間をかけて結実し子孫だけでなく、自分の魂をも磨いて純粋に美しくしていくことができるのです。

幸田露伴が、かつて幸福三説の「惜福」でこう述べます。

『「惜福」とは、自らに与えられた福を、取り尽くし、使い尽くしてしまわずに、天に預けておく、ということ。その心掛けが、再度運にめぐり合う確率を高くする。露伴は「幸福に遇う人を観ると、多くは「惜福」の工夫のある人であって、然らざる否運の人を観ると、十の八、九までは少しも惜福の工夫のない人である。福を取り尽くしてしまわぬが惜福であり、また使い尽くしてしまわぬが惜福である。惜福の工夫を積んでいる人が、不思議にまた福に遇うものであり、惜福の工夫に欠けて居る人が不思議に福に遇わぬものであることは、面白い世間の現象である』

これが「天の蔵に徳を積む」ことです。

どうやったら陰徳を積めるか、どうやったら天の蔵にしまい込んでいけるのか。これを知っている人こそ、この惜福の工夫をする人であり、この世で幸福を実践している人ということになります。

私たちは目に見える世界で、競争し対立し、その中で迷い自分を見失うことも増えています。しかし、天の蔵に徳を積む人たちは迷いも少なくこの世での自分の使命を知り、魂を磨き続けていくことに余念がありません。

日々の暮らしの中で、私たちはこの「徳」に触れる機会が何度もあります。大切なのはその「徳」に気づくことであり、その「徳」を磨いていくことです。そうしていけば、天の蔵からその徳を引き出しその徳がこの世に真の豊かさや仕合せを結んでいくように思います。

私たちの意識は、いろいろな次元をもっています。この「徳の次元を生きる人たち」は、これからの新しい時代の先導者たちになるはずです。子どもたちの未来のためにも、私は私の道を迷いながらも徳を意識して道を歩んでいきたいと思います。

子ども第一義

子どもというのは、自然からの宝であり恵みです。それは私たちが発展繁栄するためになくてはならない存在だからなのはみんなわかっています。子どもがいない社会というのは、この先、発展することがない、つまり未来がない状態ともいえます。

子どもがいるから持続するのであり、それがなければ持続する理由もありません。そういう意味での子どもということを一度、ちゃんと定義しなおす必要を私は感じています。

現在、一般的に世の中で子どもというものの定義は、いわゆる大人と対比した幼いころの大人、まだ若く小さく未熟な存在としての子どものことを指していることが多いように思います。

しかしこの子どもは、私たちの未来そのものですから過去と今と未来をつないでくれる大切な伝承者ということにもなるわけです。何を伝承してもらいたいのか、何を伝承してくれるのかを私たち大人はきちんと向き合って子どもたちのために何ができるのかを大人たちが子どもたちに素直に語りかけていかなければなりません。

そして私たち大人も大切な伝承の役割を担っています。両親をはじめ祖父母、そして先祖の方々の想いや願い、いのり、その生き方を受け継ぎそれを子どもたちにつないでいく役割です。つないでいく役割は、決して肉体的な子孫を残すというだけではなく精神的なもの、文化的なもの、環境的なもの、あらゆるものをつないで子孫に譲り渡していく役割を担っています。

そういう意味で、子どもとはどういう存在なのかの定義が大切になるのです。

私たちの会社は「子ども第一義」というものを理念にしています。これは第一主義ではなく、第一義、つまり絶対的なものとしています。この第一義は、上杉謙信がかつて掲げていた理念です。つまり物事の根本、根源という意味です。

子ども第一義とは、子どもが根本であり根源であるという意味です。私たちが子どもをどの位置で観ているのか、そして定義しているのか。その視座や全体観がまずあって、未来への語り部になれるように日々に社業に精進しています。

子どもが憧れるような未来、子どもが憧れる生き方と働き方を目指していい会社、いい仕事をしていきたいと思います。

美しいものづくりの心

昨年、友人から「印伝」の名刺入れをプレゼントしてもらいました。現在は、とても重宝していて使うたびに日本の美しいものづくりにうっとりします。

この印伝は、ウィキペディアには「印伝または印傳という名称は、貿易を行った際に用いられたポルトガル語 (india) またはオランダ語 (indiën) の発音にインド産の鞣革を用いたことから印伝という文字を当てたとされる。この名称は寛永年間にインド産装飾革が江戸幕府に献上された際に名づけられたとされる[1]。 専ら鹿革の加工製品を指すことが多い。印伝は昔において馬具、胴巻、武具や甲冑の部材・巾着・銭入れ・胡禄・革羽織・煙草入れ等を作成するのに用いられ、今日において札入れ・下駄の鼻緒・印鑑入れ・巾着・がま口・ハンドバッグ・ベルト・ブックカバーなどが作られている。山梨県の工芸品として甲州印伝が国により、その他の伝統的工芸品に指定されている。」とあります。

この鹿革を加工する技術は実際には西暦400年代に高麗から入ってきたことは『日本書紀』に書かれているといいます。その当時は紫草の根からとった染料や、あかねの根の汁で染めたりした鹿革に絵を描いたり、木版等で着彩をしたり松ヤニなどをいぶしてその煙により着色したともいわれます。それが西暦900年代入り、武士がが鹿革を甲胄に使用するようになります。 応仁の乱(1467年)以後、乱世で革工は発展し鹿革も重宝されました。有名な甲州印伝は武田信玄が関係しています。信玄は甲冑がすっぽり入る鹿革の袋をつくらせそれを「信玄袋」と言われています。

その後は甲州の革工が革に漆を付け始め、松皮いんでん、地割いんでんとも言われ同時に京都の革工が更紗風の印伝革を造って繁盛しました。明治以降は海外より輸入された多様な革製品が日本で使われるようになり印伝も時代に合わせ様々な形に姿を変えて今があります。

非常に歴史のある存在の「印伝」は、日本人には深いつながりがあります。

漆と美しい文様を伝統の革職人たちが丁寧につくりこむ。丈夫で長持ちしながら衛生的で美しく、文様によっていのりや力を入れ守護する存在となる。この日本人の精神が丸ごと和合しているものがこの印伝の魅力ではないかと私は思います。

私が贈っていただいた名刺入れは、藍染と漆が調和して深い藍色が出ています。大切なものを仕舞い、またお渡しするものだからこそそれを包むものも日本の心でおもてなす。まさに印伝はこれからも活躍する日本を代表するものづくりの一つになるように思います。

日々の暮らしの中に日本の伝統とともにあり、子どもたちに伝承していきたいと思います。

暮らしの甦生~想いを大切にする文化~

むかしのものづくりは、ずっと末永く大事にする心をもって取り組んできました。その証拠に、むかしのあらゆるものは再生可能でありお手入れができるものでできています。これは現代でいう担なる物体としてのモノではなく、まさに想いの入った「ものがたり」の「もの」だったように私は思います。

その「ものがたり」を扱うから、職人さんたちはその想いを手から汲み取りそのお想いに相応しい甦生をみんなで力をあわせて手掛けてきました。私が取り組む「暮らしの甦生」は、このいのちや想いのこもったものがたりを甦らせ続けていく語り部たちとしていつまでもこの世で一緒に生きていけるように再生していくような取り組みのことなのです。

私の身の回りには、いつも甦生し再生されたものばかりに囲まれています。言い換えれば、想いが入ったものがたりの中を暮らしているともいえます。例えば、亡くなった友人の幼いころの産着のお着物をお母さんがコースターに甦生させたもの、他には、長年使われていた樽がお風呂の桶になったり、古い納戸をガラステーブルになっていたり、それまで大事なお役目と使ってきた人たちの想いがさらに新しい時代に活かされるようにと変化を遂げています。

この末永く使えるようにしようとするのは、そこに大切な想いやものがたりがあるからです。それを受け継いでいくことが想いを活かすことであり、ものがたりをその先にまでつないでいくことになります。私はこの想いのあるものがたりたちの御蔭でとても豊かな暮らしを深く味わうことができています。私たちはモノが増えて心が貧しくなっている原因は、まさにこの暮らしの真の豊かさを忘れてしまったところにあると確信しているのです。それが私が「暮らしフルネス」を提唱し実践している理由でもあるのです。

現代は、本来は想いがあるものであったものが想いがないものになりなんでも古くなればすぐに新しいものに買い替えます。想いやがあるものや古いものを修繕してお手入れしようとすると膨大な費用がかかります。それにものづくりをする際に、それだけ長く使おうとは思ってもいない素材で安易にものづくりをしてしまっています。なので、以前のようにものづくりに携わる職人たちが想いを再生させることも難しくなっているのです。経済を発展させることを優先しすぎて、大量生産大量消費を繰り返すなかで想いが粗末にされていきました。想いはいのちそのものですから、いのちもまた粗末になっていきました。その結果、クローン技術や遺伝子組み換え、3Dプリンターなども生まれてきました。別に想いがなくても「もの」はすぐにつくれてしまうのです。

それにいくら末永く大切に使おうとしても、すぐに交換でき買い替えることが前提でつくっていますからそれを長く使おうにもすでに再生ができない素材や状態のものになっていて結局はメンテナンスができず壊れるから全部新しくするしかなくなるのです。もしもその素材を末永くずっと使おうするのなら、もっと不便でお手入れがいるもの、自然物にしないといけませんが購入する側もそれが手間暇と技術と費用が掛かり大変だからと次第に選ばなくなっていき今の状態になっています。

しかし現実はものを使っているとそのものとの関係性からものがたりと想いがそこに詰まっていきますから簡単には捨てることはできません。その想いをつなぎながら新しくするのは甦生ですが、現在は想いもなくただ捨てるだけになってモノ化しているのです。そういう意味では、現代は甦生できる人が以上に少ない世の中になったものです。古民家なども、親がなくなってしまえば空き家になって朽ちるまでそのままにして解体するまで甦生する機会すら得られません。

私が深く印象に残っている甦生の機会は、もう100年以上前の先祖代々の産湯の桶をずっと孫が生まれるたびに使っている桶を職人さんが修繕しているときです。その甦生の機会を得た桶も、また持ち主も、そして職人もみんなが甦生したのです。そこには確かな「想い」をみんなで大切に守ろうという深い意志を感じました。

すべてのものづくりには、そこに「想い」があります。

日本は本当は想いを大切にする国だったからこそ、日本は世界一のものづくりの国なったように私は思います。それはすべてのものにはいのちが宿る、つまり想いが宿っているのです。八百万の神々というのはそういうことなのでしょう。そのものをいのちとして、想いを甦生させ続けて永遠を共に生きる民族だからこそ世界一のものづくりを実現したのではないかと私は思います。暮らしフルネスの中で、この「お手入れ」や「修繕」はまさに家に例えれば暮らしの大黒柱なのです、

引き続き、子どもたちのためにも日本文化のゆりかごになるであろうこの「お手入れ」を伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスのごあいさつ

「お手入れ」という言葉があります。これは「手入れ」により丁寧な「お」が入ったものです。この手入れの意味はは「手入れよい状態で保存するための、つくろいや世話のこと」をいいます。さらにここに「お」がつくと「いのち」を伸ばすために、いのちを大切に扱うために思いやりやおもてなしになっていくと私は思います。

この「お手入れ」というのは、存在そのものを大切にするときにも使います。私はこのお手入れこそが今の時代にはもっとも必要な価値観であろうと思うのです。

大量消費の時代、お手入れをするというのはもう死語かもしれません。お手入れをするよりも新しいものを買うという具合にすぐに新しいものを購入します。モノがあふれているからこそ、古くなればすぐに捨てるのです。この捨てるように使うというのが文明のことで、文化は捨てずに修繕するのです。

つまり修繕というものを学ぶことこそが、文化を甦生させることでありますから幼いころから「お手入れ」を学ばせることが大切なのです。これが永遠に文化を大切にすることを忘れさせない人の生きる道につながるのです。

このお手入れは、本来は単なるモノにだけ行うものではありません。自分自身に対するお手入れもあります。それは体のお手入れ、心のお手入れ、精神おお手入れ、そして魂のお手入れなども必要です。

このお手入れは、磨くことと直すこと、そしていのちを大切にするということです。これを今はどれを使って教えるか、それは私は「暮らし」を使って教えることだと思っています。

先人たちはその真理を悟り、持続可能ではなく「永遠」であるものを伝承してきました。私たちはまだ目新しい持続可能という延命治療を知る前に、もともと永遠を生きるという根源治療をやっていたのです。

私はSDGsという言葉を会社の取り組みから外したのは、暮らしこそが本物の文化伝承の仕組みだと気づいたからです。

これが私が暮らしフルネスを提唱した根本的な理由です。

これから一緒に私と「お手入れ」に生きる同志を集めます。

ぜひ一緒に、暮らしフルネスの世界に変えていきましょう。

聴くことを磨く

人はそれぞれに視点というものを持っています。この視点はその人の生き方が大きく影響をしているように思います。人それぞれに視点が異なりますから、視点を合わせていくと360度全体から事実を観察することもできます。

よく意見を対立させていく人もいますが、本来はどちらかではなく、どちらもいいねと相手の声に一理あると理解できる寛容さがある人がアイデアを形にしていけるように思います。

そして視点を磨いていくには、よく話を聴いていく力を身に着ける必要があるように思います。視点は目を使う機能ですが、実際にはよく傾聴できる人の方が視点を持っているのです。

話を聴くというのは、そういう考えもあると共感し受け容れる力が必要です。そしてその意見をどうとらえるか、そこに感謝する力も必要です。いただいた言葉をそれは正しいとか間違っているとか裁かずに、ありがたい意見ではないかと聴き入れていれて参考にできること。それを繰り返す人は、自然に意見が集まってきて新たな視点を持つことができるように思います。

一方的に間違っていると否定されたり、考えを押し付けられたりすることはみんな嫌うものです。それは自分の考えが尊重されていないと感じるからですし、考えに服従しなければならないなどと不満に思うからです。

しかし実際に話をよく聴いている人は、それを採用しなくても聴いてもらったという実感があればその問題は解決します。つまり人は、尊重されることに納得しているのです。

この尊重しあう関係とは、お互いが謙虚である必要があります。それは誰かだけが偉いのではなく、お互いに善いところがあると認め合い、それぞれの魅力や力があることを信じるという生き方が必要です。

苦労をしてきた人や多くの人に助けてもらってきた人ほど、生き方が謙虚です。それはその存在にいつも感謝でき、自分一人ではなく多くの方々の見守りの御蔭で今があることを信じているからです。

いつも人の手助けが入る人は、多くの手助けをいただいてきたと実感してそれに感謝して報いようと生きる人です。私自身も振り返れば本当に多くの人たちの支援や協力、手助けを得てここまでこの世を渡ってこれました。

奢らず謙虚に素直に聴くことを磨いていきたいと思います。

中興の祖

種を蒔けばそれが自然に保育されやがて花を咲かせ実をつけます。これは自然の摂理であり、揺るがない一つの真理でもあります。そしてこの摂理は、いのちの循環を示してもいます。

どんないのちも、この循環を繰り返しこの世に出ては実を結びまた種になります。これは形のあるものの姿ですが、実際には形のない「想い」というものにも同じ摂理がはたらきます。

例えば、一つの「想い」という種を蒔きその想いが保育され、その想いに花が咲き、その想いが実をつけます。そしてまた次の想いの種になっていくのです。

私たちは想いというものを持ちます。

どんな想いを持つのか、そしてその想いをどのように育てるのか、この想いこそが時代を超えて時空を超えて存在しているのです。歴史のある場所の想いであれば、その想いはその風土にいつまでも残っています。その想いの力は、ずっとその場に留まり続けます。

その想いを受け継ぐ人が現れれば、その想いはその時代の人の想いと融和してさらに偉大な想いへと発展していきます。そしてまたその想いの循環は繰り返されてまたいのちを吹き返して甦生していくのです。

よく歴史の中では中興の祖と呼ばれる人たちがいます。これは辞書では「過去に衰退して危機的状況に陥った時に回復させて再び盛んにさせる事ができた先人」という意味だといいます。

私はこの「想い」はすべて、想いを受け継ぐ人が中興の祖であると思うのです。想いはそのままにしていると次第に朽ちていきます。それは自然の摂理と同様です。しかし、そこには朽ちても小さくても廃れていても物語としていつまでもいのちが生き続けています。

そのいのちを誰かが受け継ぐとき、その想いを受け取り引き受けるとき、その物語はさらに偉大なものとつながりそのいのちに天命を与えるのです。つまり、いのちが甦生するのです。

私は甦生業が生業ですから、物語を生きているともいえます。その物語に新しい章が加わるたびに、あらゆる想いは融和して発展生成を繰り返してさらに磨かれていきます。

想いをどのように見守っていくのか、それは先人の想いとつながり、子孫へと想いを伝承するなかで感じられます。歴史の語りべが語るのは、その想いの物語であり、それは魂やいのちにおいて何よりも大切な仕事でありかけがえのないものなのです。

想いを見つめて、想いを歩んでいきたいと思います。

スタートアップキャンプの場

人は自分らしさを磨いていくことでより自分というものを確立していけるように思います。もともとやりたいことが人それぞれに異なっているのですから、本来なら自分のやりたいことを突き詰めていけばそれが自分らしさになっていきます。

しかし、現代では教育がそうなっていませんから自分のやりたいことをやるよりも周りをみながらやりたいことをそこに合わせるという具合に自分らしさを後回しにする傾向がありそれによってやりたくないことをやりたいことだと言い聞かせている人も多いように思います。

もしくは本当にやりたいことがわからなくなってしまい、やらないといけないことばかりでやりたいことがなくなってしまう状態にもなっています。心からやりたいことは、自分の本心でありそれが歪にならないようにするには魂を磨き、本当の自分とつながるような体験を積み重ねて自分と出会い続ける必要があります。

内省や内観というものは、自分との対話でもあります。本当はどうしたかったのか、本当の自分は何を感じていたのかと、自分自身と対話することで初心に出会います。人は初心に出会うことで、自分自身の本心を確認して自分軸を確立していきます。その自分軸の確立こそが自分らしさの正体です。

この自分軸を磨くために、「問い」を持つ必要があるように思います。その問いとは、根源的なもの、原点回帰的なもの、そもそものはじまりの問いです。途中からではなく、はじまりのことです。

このはじまりが大切で、そのはじまりを持つ人はブレずに自分軸で自分らしさを貫き社会に新しいその人らしさを表現し周囲に好影響をもたらします。それは業種関係なく、経済であろうが、アーティイストであろうが、宗教関係であろうが、唯一無二につながるのです。

スタートアップの最初に、その人の何を応援するのかというものがあります。人が人を応援したいのは、自分らしく生きようとする人、そして自分軸を磨いて生きようとしている人です。自分を大切にできる人がこの世の中に増えていけば、まさにそれが社会全体を善くしていくだろうと私も思います。

応援する人はもっとも人の応援を受ける人であり、見守る人はもっとも人に見守られえる人です。情けは人のためならずであり、常に応援の輪は、自分軸で循環していくように私は思います。

どのようなスタートアップキャンプになるのか、今から思案を楽しみたいと思います。

危機に生きること

人間は危機感があるかどうかで進化を発展させていくものです。歴史をみれば、それは一目瞭然であり人間は危機感があるかどうかでリーダーとしての役割を果たしていくことができます。

最先端技術の発達も、軍事技術が多いのは危機感からくるものです。ブロックチェーンで有名なエストニアやフィンランドも地政学的に戦争に巻き込まれる可能性があるからこそ技術を発達させていきます。

もともと九州というエリアは、蒙古襲来などの元寇があったりアジアの地域との交流と交戦、鎖国などを通してずっと危機感を感じる場所でした。何かあったらでは対応できず、常に有事に備えている国防意識がこの地域を発達させていったともいえます。

最近では、平和が続きあまりそのような危機を語るとマイナス思考だや、大げさだなどと煙たがれることもあります。特に私は、危機感が強いタイプのようで常に最悪の状態から逆算していろいろと思考します。理由は、楽観性を維持するためにもまずは悲観的に考えつくしてから人事を盡し、あとは天命に任せて諦めようとしているからです。

その危機感の中で、子どもたちを守るため気が付けば日本の伝統と伝承を守るために古民家を甦生しはじめ、自然環境や気候が激変するときのためにかつての暮らしを甦生させ、同時に自然農法と里山循環の仕組みを甦生させ、同時に災害時にどのようにみんな助け合い生き残るかとかつての結のようなコミュニティを甦生させています。

このどれもは、実際には危機感からはじめているものであり先祖から大切に預かっているいのちや魂を後世に譲り遺すための活動なのです。

少し意味が異なるかもしれませんが、ニーチェにこういう言葉があります。

「現存在の最大の生産性と最大の享楽とを、収穫するための秘密は、危機に生きるということである」

誰かが先に気づいて道をつける、そういう仕事はあまりその時まで評価されることはありません。まさに徳というものも同様で、長期的に必要であっても目の前ではあまり意味がないように思われるのです。

しかし自然や社会を相手にしてきた人間は、本来はそういう自然の変化や政治の改変で大変な目に何度もあってきたはずでそれは本能が覚えています。それが危機感です。

おかしなことをしていると思っても、それが時が到来すれば意味がわかります。もしも到来しないのならそれはそれで一安心で善かったと胸をなでおろすだけです。リーダーとは、そういう見識と行動力があってこそリーダー足りえます。古今の先人に見習い、徳をもって準備を怠らないように努めていきたいと思います。