藁葺の甦生

来週は、いよいよ郷里の藁葺古民家の屋根の修繕を行います。阿蘇の茅葺工房の植田さんと知り合ってからもう3年以上になりますが、地蔵堂の藁葺はわけあって中止になりましたがそれが別の形で古民家の修繕でご一緒できることになり仕合せを感じます。

この藁葺や茅葺は、日本民族の循環の文化の象徴そのものであり私は日本が風土と一体に暮らしてきた証であると考えています。かつての日本の農村にはこの藁葺や茅葺がありましたがこれは家を守るだけでなくその地域の自然を守ってきたのであり、共同体としての日本民族の生き方や生き様を顕現したものなのです。

そこで暮らす人たちが、如何に自然と一緒一体になって地域を育て守ってきたか。千年以上、いやもっと前から自然と共に暮らしながらお互いに助け合い仕合せを紡いできた「場」がこの藁葺や茅葺の農村には感じられます。

明治以降になり、自然から離れた暮らしを行うようになりこの藁葺も茅葺もなくなりました。今の時代こそ、本来の日本人の自然から学び、自然と暮らし、自然の恩恵を分け合い育んできた智慧を甦生する必要性を感じるのです。

茅葺職人の植田さんが住んでいる阿蘇は、「九州の水かめ」と呼ばれている場所です。草原には、年間2500mm以上の雨が降ります。この水が阿蘇のあちこちから湧き水として出て九州の中、北部にある6本の一級河川になります。そして九州全体の自然と生態系を育むのです。まさに九州のいのちのゆりかごが阿蘇の草原なのです。

その草原を1000年も前から人々が大切に守ってきたことで、人間のみならず多くの生き物たちのいのちの循環を保育してきました。この日本人としての営みや生き方が、ふるさとの美しい原風景を遺し、子孫まで末永く豊かな暮らしを伝承してきたのです。今、その日本の農村文化の象徴とも言える日本の草原の数々が、失われようとしています。

もしこれらの草原がなくなれば、いのちの水かめとしての役割が失われます。手入れしているからこそ守られてきた人も含めた自然が、単なる野生の森になれば自然との文化が消え人間もまた生活できないような環境になり消えるのです。

これは農村の棚田などもそうですが、人間が里で自然に手入れして共生するからこその循環の豊かさであり、それがなくなれば単なるコンクリートジャングルのようになってしまうか、いつかは人も住めないような廃れ荒れた土地になってしまいます。

暮らしというものの本来の価値は、自然と共生して多様な生き物と一緒に豊かに生きてきた先人の叡智を子孫へつなぐことです。その象徴を守るというのは、私たちの暮らしの原点を思い出すということでもあります。そして本来の場づくりというのは、暮らしあってのものなのです。

カグヤではここ数年間、ずっと暮らしに力を入れてきました。それは子どもたちの未来のためであり、誰かがこの伝統文化をつなぎ、そして紡いでいく役割が必要だからと誓ったからです。文化は途切れればそこで失われてしまいます。たとえ小さな細い糸であれ、誰かが子どもにつなげばそこから復活することもできます。しかし、切れてしまえば二度と伝承できないのです。先人の智慧とはそういうものなのです。

この取り組みは確かにお金にはなりません、どちらかといえばお金ばかりを使っていることで会社の利益であれば損をしているばかりの事業でしょう。いや、事業と呼ばれるものでもないかもしれません。

しかし子ども第一義の理念を本質的に磨こうとしたら、子どもに遺し譲りたいものを守ることは私たちの本業であり使命ですからなんの迷いもありません。私たちは子どもの事業で収益をいただいている企業だからこそ、その御恩を未来の子どものためにできる限り還元していくことは当たり前のことだからです。

生き方と働き方の一致、他にもカグヤでは色々なことを掲げていますがそれが単なるお題目にならないように真摯ににこにこ顔で命懸けの取り組みに邁進していきます。今年も、理念研修が藁葺の甦生ではじまれることを有難く思います。

草原を守り、里山を守り、文化を守り、子どもを守っていきたいと思います。

 

自己免疫

コロナウイルスがあることが当たり前になっていく世の中になってきましたが、これからは温暖化も進み、第2第3の疫病が訪れることがあるかもしれません。その都度、ワクチンが開発されるかもしれませんがそれがすぐに追いつくわけでもなく、それにワクチンが効かないものもでてくるかもしれません。

そう考えていけば、自ずから何をすべきか。それは人間の持つ自己免疫を高める暮らしを行うしかないことはわかります。この自己免疫を高めるとはどういうことか。

現代人は、この自己免疫を高めるということをあまり学んできていないようにも思います。それは食生活が乱れていたり自然と共生する暮らしから離れていることでもわかります。

本来、先人たちはどのように免疫を向上させてきたのかをもう一度学び直す必要を感じます。

例えば、伝統食というものがあります。

今ではあまり人気がない食事になっていますが、実はこの伝統食こそが長く生き残るために編み出された先人たちの智慧の結晶であることはわかります。玄米、味噌、梅干し、鰹節、そのほか、その土地で産み出された数々の旬の郷土料理。まさにこれが一物全体、身土不二の原理原則に適っているのも明白です。

むかしの人の食、特に主食とは健康を維持するために摂取されてきたものです。今のように、人間の都合で快適な生活、大量の薬やサプリなどがなかった時代、私たちは病気になるということを非常に恐れました。病を得るというのは死に至る直前であり、如何に病にならないような暮らしをするか、つまり未病ということに全神経をとがらせて対策を講じてきました。

未病とは、病にならない、もしくは病を初期の状態で恢復させて健康にする。つまりは健康というものは病と行き来しますからバランスが病に偏らないような生活を維持していくことに注力したということでしょう。

そしてもう一つ、気づきにくいことですが大切なことがあります。それは笑うことです。むかしの日本人は、日々にニコニコと豊かに楽しく仕合せな雰囲気をみんなで醸し出していました。そういう生き方を大切にしてきたのです。

中村天風さんにこういう言葉があります。

「どんな名医や名薬といえども、楽しい、おもしろい、うれしいというものに勝る効果は絶対にない。」

これは笑うことこそ、免疫を向上させるもっとも大切なことであることを証明しているのです。自分自身が楽しく、嬉しく、面白く生きている人は、若く見えます。若く見えるだけではなく、まさに若々しく瑞々しいいのちが躍動しているのです。そしてそういう人はよく笑います。毎日が、イキイキし、いのちが輝くからです。

人間は必死ですからいつかは死にます、だからといって死ぬまで暗くなって生きるのか、それともイキイキと楽しく生きるのか、それは心掛け次第です。先ほどの中村天風さんは、末期の肺結核を自力で平癒されました。この自力というもの、真の主体性こそが免疫を向上させる秘訣なのでしょう。

免疫を如何に高めていくか、これからの時代はまさに人間の暮らしの原点回帰です。私の取り組む暮らしフルネスはその原点を学び直し、もう一度、先人のDNAを甦生させて現代の人たちが安心して仕合せに暮らせるような智慧を復古起新することのためにも必要です。

今年も、日々の暮らしを見つめ直しながら子どもたちにつなぎ譲り結びたいことを実践していきたいと思います。

 

先人の智慧

新年に入り、神棚や御守りに感謝し新しくしています。本来は、信仰のカタチですから信心していることが大切でありそれぞれの家ではそれぞれの信仰があるように思います。

古来からの書物や文化を深めていると、信仰の伝説や物語が地域地域にたくさん残っています。そのどれもが、私達に信仰することの大切な意味を問いかけるものが多く、まさに信じる者だけが救われるということを教え諭しているものです。

今日は、ちょうど正月三日目ですが平安時代に天台宗の座主を務めた慈恵大師良源という方の命日です。そこから元三大師(がんざんだいし)と呼ばれています。この方は角大師(つのたいし)と呼ばれていて、疫病を退散させる護符として有名です。

今のコロナウイルスのように永観2年(994)の頃も、疫病が猛威を振るいました。日本ではウイルスも神様の一つですから、その疫病神が角大師にとりついたときその疫病神の姿を鏡に写しその姿を弟子に描き写させて、お札にしたものが効果があると信じられ疫病よけの護符になって今でも家々に貼られているといいます。

科学的にはとても信じがたい話で、そのような護符に何の意味があるのかと思うのかもしれません。しかし、自らが疫病に罹りそれを退散させ人々の苦しみを一身に受け容れて引受け、人々を救済したいと祈る真心にその当時の人たち、またそののちの人たちも感動したのかもしれません。

そしてその真心に見守られていることに感謝していると不思議と免疫が高まったりする効果もあったのかもしれません。信仰や信心というものは、不思議なものがあり病気や治癒に大きな影響を与えることは科学で証明されなくても様々な実証事例で証明されています。

人間は自己免疫がありますから、免疫を高めるような暮らしを行い、運を善くするような日々を丁寧に用心深く紡いでいくのなら難を避け、禍を転じる力を得るように思います。

これは一つの智慧であり、知識では及ばないものです。

私たちは古来より智慧というものを大切にしてきました。その智慧は理屈では到底及ばない世界のものを奇妙な仕組みで道理に結ぶことです。智慧を得ることができる人は、先人の遺徳を偲び、真摯にその教えや導きに感謝して学び、実践によって心魂を磨き続けている人です。

智慧は知識ではないというのがポイントで、何回も何回も一生懸命に日々の実践を積み重ねて磨き続けている中で直観して感得するものです。そしてそれが信心や信仰の本質であり、その日々の実践が深い人ほど信心と信仰が深いということになります。

私のこのブログもまた、一つの信心や信仰のものです。子どもたちの未来のためにと、信じて続けて綴るだけです。いつの日か、この慈恵大師のように真心で磨いた智慧を子どもたちの未来を目覚めさせるようにできればと祈ります。

コロナウイルスはまだまだ猛威をふるいます。禍転じてどう福にするのか。私たち人類は真摯に歴史に学び、先人たちがどのように乗り越えて今があるのか。よく観察し反省し、これからの未来へ挑戦していく必要があります。

その自戒を籠めて、今年も実践を削っていきたいと思います。

感謝の磨き方

今年は感謝を磨くことをテーマに取り組むと決めていますが、なかなか意識し続けることが難しいものです。例えば、空気に感謝しているか、身体に感謝しているか、身近な存在に感謝しているか、そう自問すればわかります。

人は当たり前すぎる存在になってなくてはらないものになればなるほどに、その存在自体に感謝することを忘れていくからです。存在価値に感謝できる人になるというのは、自分がその存在の一部として一体になっていて自然に感謝の心のままで過ごしているということです。

これができないのは人間が傲慢になっていくからなのは明白です。自分の思い通りになること、自分が評価されていることに対しての報酬としての感謝風に振る舞うだけで心の中から尊敬したり自分自身のために真心を盡しているわけではなくなるからです。

我があるからこそその我によって自分という認識をしますが、同時に我が強すぎると感謝が本来の感謝の本質から離れていくからこの感謝を磨き続ける意味があるのです。

何かをしたり何かをしてもらえれば感謝をします。しかしそれは存在への感謝ではなく、時には能力評価であったり、自分に貢献してくれたお礼といったものであることがあります。本来は存在そのものが有難いという心が感謝の原点ですから、その原点に対してその価値に気づきそれを磨き高めることが人間の仕合せにつながっていくようにも思います。

つまり「当たり前」のことがどれだけ感じられる人間になっているか。ここが見失うことで、私たちはいのちの本質や自分の真の価値を見失うように思うのです。

この「当たり前ではない」ことこそ「有難いこと」でありありがとうの理由でもあります。そのありがとうの使われ方を本来の使われ方にしていくことこそ、感謝を磨くことであるのです。

何かをしてもらったから有難うではなく、存在してくださっていることで有難うと思える状態。つまり謙虚であること、それが自分自身の存在価値や存在意義を本当の姿にし、真我のままの状態を保つ要諦であるということでしょう。

思い切ってこの時代、有難うが承認欲求のように刷り込まれ、教育でそうやって仕込まれて固定概念が増えていますから、思い切って「ありがとう」ではなく「当たり前ではない」といって刷り込みを取り除き感謝していくのが磨きやすいかもしれません。

色々な感謝の磨き方を、深めて楽しんでいく一年にしていきたいと思います。

2021のテーマ

昨年を振り返ってみると、新しいことに挑戦した激動の一年になりました。特にものづくりにおいては、日本の伝統をもう一度学び直し、現代において必要なものを温故知新して産み出しました。人間関係については、今まで出会うことがなかったような人たちと出会い、心と魂を開放させるようなご縁が結ばれました。また孤高はさらに磨かれ、たくさんの同志や仲間に恵まれました。仕事の方は、今までの戦略をすべて見直すような取り組みがはじまり会社も組織も一変するような働き方がはじまりました。

変化の時は挑戦の時でもありますから、果敢に攻めては守り抜いた一年だったなと思います。攻めるというのは、単に攻守の攻めではありません。本当の攻めというのは、直観に従い退くときは退き、攻勢するときは迷いなく突撃する。つまりは、「決断を下す」ということが攻めの本質です。

今までのことを少しだけ変えるのが変化ではなく、まったく別の事をやることが変化でもありません。本当の変化とは、決断をし実行したということをいうのです。挑戦というものは、変化に対して今までは選択しない方を勇気を出して決断して行動に移したということです。

人間は、現状維持し安定しようとする本能をもっていますから新たな決断も同時に嫌う傾向があるとも言えます。しかし時代も環境も変わっていきますし、自分自身も学びを実行に移することによって変化していく生き物です。だからこそ変化を嫌うのではなく、変化を楽しむ力を磨いていく必要があります。それがこの日々の実践から磨き直すことであり、今までしなかったような選択と行動を増やしていくということでそれまでの自分に打ち克って新しい自分と調和していく必要があります。まさに、本心のままに感情も合一させやりたいことをやるという実践がその人の徳を高めていくのです。

そういう意味でも、昨年は本当にいい機会とご縁と邂逅に恵まれた有難い一年でした。コロナであろうが、何が来ようが、初心を忘れずに子どもたちの未来のためにリスクを選んだ決断ができたことを仕合せに思います。

今年のテーマは自分自身においては「感謝を磨く」ことです。これは存在価値そのものに感謝すること、本来の感謝の意味をはき違えずに相対的で評価が入るような目先の感謝ではなく永遠の感謝の中に生きていこうとすることです。謙虚さの本質も学び直したいという気持ちもあり、それに挑戦していきます。

もう一つは、恩師とのテーマ共有ででた「つなぐ時代、新たな価値を紡ぎ合わせる。」ということです。そもそもこの世は、つながりが切れている存在などありません。私たちは空気を通じてあらゆる生きものとつながっていますし、今の体も先人たちの繋いできた歴史や遺伝子によっていただいているものです。どこも途切れた存在などなく、ありとあらゆるものはつながって結ばれているのです。まさに私が取り組むブロックチェーンの状態なのです。

この結びつきは実はすべての生命にとっての至大至高の宝であり、すべての存在の根源でもあります。それをどう活かしあい新たな時代の幕開けに通じさせていくのか。今年は、このブロックチェーンの意識を活用して、子どもたちの未来に譲り遺したい懐かしい未来を展開していくつもりです。

あとどれくらい、私の寿命が残されているのか・・限られたいのちをいただいた存在が私たちですから大切なものを見失わず、優先すべきことに命を懸けて歩んでいきたいと思います。そして暮らしフルネスの実践と共に豊かな人生に挑戦していきます。今年もよろしくお願いします。

育徳

先日、訪問したある学校の校庭に「育徳」という言葉を見かけました。これは四書五経の一つ、易経の中で使われている有名な言葉です。

「彖曰。山下有風蠱。君子以振民育徳。」(山下に出(いずる)泉(いずみ)あるは蒙(もう)なり。君子もって行(おこない)を果たし徳を育(やしな)う。)の中にこの育徳があります。

文章の意味は直訳ですが最初に山から出てくる湧き水はとても小さくか弱いものでも次第に他の大きな流れが入ってきて合流し、それがやがて大河のようになり大海になっていくという意味です。大器晩成と似ていますが、時間をかけてじっくりと徳を涵養していくことの大切さを説いたものです。

この育という字は、子どもがお母さんのお腹の中にいる象形文字です。自然にお母さんの中で育っていきカタチになっていく。まさに小さな存在からあらゆる徳をいただき大きな存在になっていく、つまり自然に大人になっていくということです。

徳は自然に存在しているもので、空気や太陽な水のように私たちにとってはなくてはならない偉大な存在です。その存在の中で、私たちはじっくりとゆっくりと成長していきます。息を吸って吐いているだけでも私たちは徳によって育まれているともいえるのです。言い換えるのなら、まさにこの呼吸こそが徳のなすことの意味を顕しています。

何度も何度も丁寧に呼吸をすることで私たちはその空気によって徳が涵養する。だからこそ私たちは呼吸を日々にととのえて丁寧に暮らしを紡いでいく必要があります。空気が化学物質に汚染され、感染症でマスクをして、閉塞感がある息苦しい世の中だったとしても、敢えて丹誠を籠めて呼吸を整えて徳を養うのです。

私たちはこの世にいるだけで、徳を磨いています。なぜなら徳を磨くために生まれてきたのが私たちの使命の本懐だからです。そうやって徳は日々に育てられていますからどのような一日であったとしても、私たちは呼吸を已めるその日まで徳に見守られ育てていただいているのです。

この徳に見守られているこの世界で自分らしく自分のいのちを存分に心のままに生きていくことが恕されているのです。無条件に自然が私たちを育ててくれるように、この世は無条件に偉大な愛情を与えてくれます。その中で、いのちが「育つ」ということの側面に常に「徳」があるということなのです。まさに天の無限の慈悲慈愛を頂戴しているのです。

そしてこの天の真心は決して已むことはありません。この今も、私たちのいのちを支えて見守り続けてくださっています。だからこそその徳に報いていこうとするところに、私たちが人間として真に学び育つことができるのです。それが育徳の本質だと私は思います。また同時に徳を磨くというのは、徳に磨かれているということです。

畢竟、人は真に徳に感謝できる人になるとき、私たちの人格はある処の高みにまで磨かれたと言っていいかもしれません。

玉磨いて光るとき、徳もまた薫ります。

来年もまた、偉大な徳に見守られながら子どもたちを見守っていく一年にしていきたいと思います。

ありがとうございました。

原点回帰

人は何かの判断をするとき、もっとも大切になるのは原点回帰です。そもそもの原点は何だったのか、複雑に広がり分類分けられていく繁栄のなかでその根に回帰するということでしょう。

私たちは根本というものを忘れると、迷うようにできている生き物です。枝葉末節にこだわっているうちに肝心要を手放して滅んでいくのは、歴史が証明しています。時間が経つと陳腐化したり執着したりするのは、私たちはそれくらい原点から遠ざかっていることを示すものです。

例えば、経営においても理念や初心というものが本来存在します。つまり何のためにそれをやるのかという原点です。その原点からはじまり時間の経過とともに、少しずつ原点からあらゆるものが派生して増大していきます。本来は、増大するとき同時に削り取りながら磨きあげていく中で本来の存在は強く逞しくシンプルになっていきます。

会社であれば、別に社員が大勢いる必要もありませんし売り上げ規模や利益が拡大すればいいわけではありません。どれだけ本質を磨き続けているか、時代の篩にかけられても変化し続けているかが原点を守るための試金石になっているのです。

時代の面白さというものは、変化できる豊かさです。今ならこうやればいいという具合に、原点さえ忘れていなければ多様な選択肢があり組み合わせを楽しんでいくことができます。そして、ご縁によってあらゆる人たちとの組み合わせを味わいながら豊かに創造を刷新していけます。

原点と志さえあれば、根っこが養分を吸い上げて甦生していくようにまた元氣を取り戻してその時代を華々しく輝かせていくことができるのです。

人間はいのちを輝かせていくことで仕合せを感じます。だからこそ、温故知新や原点回帰は人間の真理であり法理そのもので揺るがないものです。

来年は、さらに原点回帰を楽しみ子どもたちにその生き方を伝承していけるように維新の実践に取り組んでいきたいと思います。

徳の内

昨日は、友人たちと集まり徳積堂を磨き上げました。年内最後の一緒の磨き合いということで、はじめての人も参加し有意義な時間を過ごすことができました。一期一会の仲間と一緒に磨き合える、これだけで人生はとても仕合せなのです。

この世に私たちが生まれてきてからこの世に肉体で存在できるのはあっという間のことです。毎日、寝て起きて過ごしていたらそのうち歳をとりいつかは死を迎えます。大統領でも、有名人でも、いつかは必ずだれにも死は訪れます。

一休禅師が「世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」といいましたが、まさにただそれだけのことです。

しかし、この生きている間には本当にたくさんの体験を積んでいくことができます。それはすべて徳の内です。私たちはこの徳の一生を与えてもらい、その徳を磨くことでいつまでも心を輝かせていくことができます。

時折、生きている意味を忘れてしまいそうなとき、私たちは磨くことで何か大切なものを思い出します。それは「光る」ということです。言い換えれば、「いのちが輝く」ということです。

いのちが輝いていくことで、私たちは生きていることの仕合せを感じます。この世は確かに生老病死と苦しいことばかりですが、それでもこの世に出てきては体験したいのはいのちが輝く喜びを味わいたいからです。

あの星々が夜空に煌めき輝くのも、それが真理を顕しています。

この徳は、何物にも代えがたく、私たちの暮らしの根源であり幸福の源泉なのです。

一瞬のことだと自覚するからこそ、この今を磨き続けるという境地。まさに必至を自覚することにより、人はこの世に生きる意味や感謝を忘れないで生きていけるのかもしれません。まさに私たちはその偉大な徳の内でいのちを活かされています。

人類が大きな岐路に入っているからこそ、何がいのちの根源であったかを具体的な実践において磨いていきたいと思います。

鏡餅の心

先日、みんなで集まって伝統的な餅つきを行いました。むかしの道具たちをたくさん出してきて、竈で蒸して炊いたもち米を手彫りの臼、そして百日紅の杵などで和気あいあいと大勢で笑いながら餅つきをしました。

餅つきをするとみんなが仲良しになり、笑いが絶えません。まさに福分けの象徴のようなこの福餅を床の間に鏡餅として飾り歳神さまをお祀りして正月を穏やかに待ちます。

むかしは、数え歳でしたからみんな一斉に正月に一緒に歳をとりました。何歳の人も、正月には生まれ変わり新しい歳を迎えます。新年になり、心機一転またその歳をみんなで分け合い魂を磨きます。正月が近づくと、日本全体で清々しい雰囲気に包まれるのは生まれ変わりの神聖な行事をみんなで行い場を清めてきたからかもしれません。

早速、このついたお餅で鏡餅もいくつか拵えました。現在は私が取り組む家が増えていますから、鏡餅の数もたくさん必要になります。昨日は、門松を飾り終え本日には鏡餅の室礼を行う予定です。

室礼をしながらそのものの意味を深めて味わうのはまた一年を振り返る豊かな時間です。門松は、邪気を払い同時に歳神さまが家にやってくる目印になります。鏡餅は歳神様が家に滞在するときの依り代になります。そこに四方紅といって天地四方を拝して災いを払い、一年の繁栄を祈願します。他にも、新葉が出てから古い葉が落ちるので、新旧相ゆずる(家系がつながる)という縁起を祝うゆずり葉、よろこぶ(喜ぶ)との語呂合わせからきた昆布。そして長寿を祈願する、久しく栄える、裏表がないなどの意味があるとされるウラジロ。四方に大きく手を広げ、繁盛することを願うとされる御幣。実が木についたまま年を越すところから代々にかけて縁起がいい橙を室礼ます。

室礼しながら、芽出度いこと、福が訪れることを心を清めながら静かに待ちます。この心魂を研ぎ澄ませながら歳神様をおもてなすことに仕合せと喜びを感じるのです。

思い返せば、今年も本当に多くの人が家に滞在されていきました。その都度、おもてなしをして豊かなお時間を過ごしました。お客様が神様という言葉もありますが、あれは決してサービスをする対象としてのカスタマーではないことはすぐにわかります。

私たち日本人には、八百万の神々という思想がありこの世のすべては結び合いつながり合い一つであることを自覚しています。いのちを共にするからこそ共生して貢献し合うのです。その存在としての神様をお互いの心のうちに見合うとき、お互いが神様のような澄み切った素直な状態になります。

まさに相手も自分もなく、自他一体に神様のような状態になる。それを家という場を磨き、その舞台で共に語り合うとき、私たちはそのうらおもてなしの美しさに和み合うのです。

日本人の初心を忘れないように、歳神様の心の鏡に観照されながら素直と感謝を磨いていきたいと思います。

新しい幸福論~暮らしの徳を磨く~

幸福論という言葉があります。これは、人間の仕合せとは一体何かというものを突き詰めたものです。有名な幸福論には、ヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)による3つの幸福論があるといいます。

ウィキペディアには、アランは健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説くとあります。ラッセルは、己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧めるとあり、またヒルティは神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論であるとします。

難しい言い方をしていますが、シンプルに共通するものは自分らしく生き切っているということでしょう。これは人類の幸福に限らず、自然界は自分のいのちを信じ切ってあるがままでいるとき、仕合せを感じるようにできています。

これは自然と一体になっているともいい、私はそれを「かんながらの道」とも言います。そしてその自然と一体になっているという状態がどういうことか。それを具体的な実践として実在させているものこそが日本の伝統的な暮らしであり、その暮らしを充実させて日々を豊かにしていくことが仕合せなのです。

私の幸福論は、真の豊かさというものは何かということを突き詰めたものです。

自然を深く観察し、いのちの繋がり合いの中でお互いを尊重しながら活かしながら生きていく。そしてお互いの徳を磨いて、いのちを輝かせ、真善美の調和の中で時を超越して心を開放し魂の旅を味わう。まさに、自然一体の境地に入ることで私たちは何物にも代えがたい存在であることを知り、宇宙の一つであることを自覚します。当たり前のことかもしれませんが、生き物たちが喜ぶように一緒に私たちも喜ぶとき、そこに真の暮らしは実現しているのです。どちらかだけが喜ぶというのはいのちの自然界では不自然なことなのです。

この喜ぶという心境は何か、それはいのちがお互いに活かされている、甦生し磨かれていると実感するときに得られます。共生と貢献の中でむかしの人たちが、永い伝統的な暮らしの中で自然のセンスを磨き合い高め合ったように本来は今の私たちにもそれはできることなのです。

人間が楽になるために便利さや効率を選択し、それを優先するあまり日本人もかつてあったものを忘れていきました。気が付くと、現代はその忘れものが一体何だったのかも忘れてしまい時間と引き換えにして本来の幸福とは程遠い歪んだ豊かさや富のみを追いかけるようになりました。

世界が同時に影響を受けたコロナウイルスにおいても、立ち止まり振り返る機会を得られたはずなのにまた目先のことに迷い元通りに忘れようともがいています。私は、今こそかつての日本人の美しい記憶を思い出す時機ではないかと思うのです。

人類の幸福とは何か、そして新しい幸福論とは何か、そこに原点回帰をもってもいい時機だということです。私の原点回帰、それは「暮らしの徳を磨く」ことです。暮らしの徳は、便利な暮らしでは出てきません。どちらかといえば、不便なものしかありません。いのちは不便と共にあり、不便とは人間都合ではないのです。自然の都合に合わせて生きていくことは、決して辛く苦しいことではなく実は偉大な存在と共に生き、偉大な存在を活かしあう、いのちの道を歩んでいくということです。そのいのちは磨けば光るように、徳を積めばさらに豊かさは増幅していきます。

真の豊かさとは、お互いのいのちを磨き合うことであり、いのちは磨き合うことで新しくなります。幸福論もまた、その時に出たものが終わったものではなくそこは道ですからその時代時代に幸福論もまた磨き続けなければなりません。

私が子どもたちに譲り遺したい幸福論は、1000年後の未来に必要な幸福論です。

引き続き、日々の暮らしを豊かにしながらすべてのいのちを新しくしていきたいと思います。