夢追人

人はそれぞれに夢というものを持っています。夢は自分から求めていくことで得られるものです。そして夢は、今あるところからもっと先の未来に向けて自分から引受けていくことでもあります。

言い換えるのなら、すでにあるものを活かしてもっと自分にお役目を引き受ける、責任感とは少し異なりますが純粋な自分がやってみたいと願うこと、本心の声を聴いて自分に正直になっていくような感覚です。

私たちは、何か与えられたものの中でやらなければならないことをやるかのように教育で仕上げられてきました。本心からというよりも、本心は我慢してその中でやりたいことをやるかのようなことを美徳のように言われてきました。

しかし子どもたちを観ていたら、そうではないことはすぐにわかります。

私たちの会社は、子どもの憧れるような会社を目指していますから子どもが先生です。子どもを先生にすれば、夢を見ること、夢に生きることがどういうことかはすぐにわかります。

子どもたちはワクワクドキドキしながら未来を生きています。過去の修正ばかりをしているのではありません、常に心は夢を観ています。その夢に向かって正直に生きているのです。だからこそ子どもたちに夢に希望や未来を感じ、そしてそれを見守ることで信じる世界を実現させていきたいとも願うのです。

私たちが見守る保育を信じるのもまた、子どもたちの未来を信じているからです。

改めてコロナのことで先行きがよく観えなくなってきているからこそ、敢えて子どものような好奇心と夢で生きる時代に入ってきました。

最後に渋沢栄一の言葉です。

「夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。」

子どもの憧れる未来のモデルになるように、挑戦を楽しみたいと思います。

未来志向

コロナウイルスがまた急速に広がりはじめ、また自粛ムードになってきました。当然、みんなで気をつけようとは心しますが同時に閉塞感というものが出てきます。疫病というのは、免疫をつけて免疫が落ちないように活発に心の状態をととのえておく必要があるものです。

なぜなら免疫が下がったら、どんな病気も予防できず感染したら抵抗するチカラもなくなっていくからです。そう考えてみると、免疫を落とさないことが優先でその上で自粛しようというところが本当のところのはずです。

しかし現在の自粛の雰囲気は、免疫が落ちていくような閉塞感を持たせる自粛のやり方のように感じます。ただ、自宅でじっとしていろといい、人に関わらないことをいい、一日中オンラインで同じ姿勢で部屋のなかで過ごすこと。こんなことをやっていたら体調も崩しますが、心身もととのわなくなっていきます。

本来、暮らしは自宅でするものでしたから暮らしを充実させていこうとする方が免疫はあがります。例えば、朝から気持ちよい朝日を浴び、畑や土いじりをし、洗濯や伝統的な保存食や料理を楽しみ、外で運動や散歩をして早めに就寝する。オンラインは時間を決めて、仕事は明確に何をするのかを決めてメリハリを持たせ、コロナの御蔭で日ごとできなかったことができることに感謝して新しい生き方を発見していく。

もちろん、経済状況が苦しくなればそんなことは言ってられないというのもありますがそうやってまた追い込むと余計に閉塞感が出てきます。みんなで閉塞感がでないように助け合い、支え合い、ゆとりを豊かさを増やしていくことで疫病に早めにいなくなってもらうようにしていく方が解放感があっていいと思います。

なんとなく息苦しさというのは、呼吸ができない状況のことです。水でいえば、流れなくなり澱んでいる状態です。呼吸を整え、水を流すように閉塞感を取り払っていく必要があります。

神道の清めたまえ、祓いためえという具合です。

この時代の姿に、先行きがみえないと嘆いてみせるばかりではなく子どもたちに明るい未来を示していけるように未来志向で生き方を磨いていきたいと思います。

真の豊かさ

聴福庵やBAには、一輪挿しがたくさんあります。野花を摘んでは、その時々の旬を活けていますが次第に枯れてくる花を少しずつ取り分けては花器を換えていきます。はじめは大きな花瓶を使い、そして次第に小さくなって最後はもっとも可愛らしい一輪挿しに移動していきます。

この花の生涯を眺めていたらこんな風に歳を経ていきたいものだと感じるのです。真の豊かさというのは、その時々の活け方にこそ由るのではないかと私は感じます。

人生の中では、それぞれに時節というものがあります。

シンプルに言えば、節目でもありますがその節目節目には節目に相応しい舞台や環境、そして場があり、その場に移動していくことで新しい活かし方があります。そうやっていのちを大切に扱い、仕合せに生きていけばそれがそのままに真の豊かさになっていくのです。

もしこの花瓶に合わなくなったから要らないと捨てたり、まだまだいのちがあるものも役に立たないからと放棄するのは豊かさではないように感じます。現代の豊かさは、所有することであったり、大量にあることであったり、すぐに入れ替えができるほどに換えがある状態であったりすることを豊かだと思い込まされていたりもします。

しかしそれはあくまで、物質的な経済を活性化するための詭弁であり本来の真の豊かさとは異なるように思うのです。

先ほどの花で例えるのなら、活かし方の上手い人は押し花にしたり、ドライフラワーにしたり、水に花びらを浮かべたり、さらにはそれを絵に描き写してその花のいのちを永遠に味わったりする工夫を持っています。

そういういのちを最期まで慈しみ愛おしむように使える人こそ、暮らしの達人であり真の豊かな人だと私は感じます。身近には、唯一無二のいのちばかりが一緒に生を謳歌しながら共に歩んでいます。

その一つ一つを丁寧に丹誠を籠めて生きていくことは天恵であり徳そのものです。

子どもたちに真の豊かさを伝承していきたいと思います。

 

歴史を磨く

地球における人類の歴史というものを客観的に捉えると、大きくは自然と対立している時代か、それとも自然と調和している時代かに大きく分類できるようにも思います。自然の中で、私たちはどう生き、どう活かされたか、長い年月をかけて私たちは旅をし、その本当のバランスの場所を探しているようにも思えます。

ひょっとしたら、私たちは地球ではない惑星にもそれぞれに根をおろし、それぞれの場所であらゆる体験を通して一緒に成長しているのかもしれません。あくまでこれは妄想ですが、宇宙には似たようなことをしている生命体がたくさんいてもっとも調和し全体最適するところを探しては歴史を産み出しているのです。

私たちは記憶と共にあり、何度もその記憶を辿りますから歴史はまさに未来であり、未来もまた歴史なのでしょう。その歴史に一つの生き方を刻んでいくこと、そこに一つの偉大な意志も感じます。

私たちは時を生きていますが、時に活かされて存在します。それは生死を超えた時空のような今の中に存在します。この今も、あらゆる思い出を創造してはその思い出に親しんで心を映します。

今回の人生ではこうだった、前回はこうだったと、毎日、眠っては起きるように日々に出会いと別れを繰り返し、この地球で体験できる時間を惜しんでは今を生きています。

人間は今に生きることで歴史になっているのです。そして今を本気で生ききることで歴史に今を刻むのです。つまり、歴史とは今そのものであるということでしょう。

この今も変化を続け、新しく古い物語を創造し続けてはあらゆるものを感じ取って魂は磨かれていきます。私たちは魂を磨くことで永遠を感じることができます。どのようなご縁に導かれていくのか、好奇心は魂の道筋を今此処に誘います。

子どもたちが子ども心にわくわく生きていけるように、歴史を磨いていきたいと思います。

サードプレイスを練り上げる

人は人それぞれに居心地の善い場所というものを持っています。その場所は、心が落ち着く場所、懐かしい場所、自分らしくいられる場所、などいろいろな言い方がありますが安心する場所であることは間違いありません。

この安心する場所をどれだけ持っているかは、その人がその人のままで心をオープンにしてやりたいことをみんなと分かち合う機会にもつながります。そういうあるがままの心を分かち合う「場」があれば、何かその人たちと面白いことや豊かなことをやりたくなっていくのです。

私は「場」を通して創造しているのは、自然にそれぞれのいのちが輝くようなサードプレイスとしての居場所を練り上げているともいえます。

自分がやりたいことをそのままにオープンにしてそれをみんなで体験し合う、そういう場には、不思議な魅力が集まっていきます。その楽しそうな雰囲気にみんなが刺激され、そこに新しいことが産まれていきます。

新しいことが産まれていくことは、豊かなことです。その豊かさは、一人ひとりの心が合わさってできてきます。

場とは、その豊かさが集まるところでありそれを醸成していく力が湧いてくるところです。むかしは、家がそうであり、生きものたちも棲み処がそうであり、私たちは元氣を蓄えて暮らしを充実させていきました。

暮らしの充実は、豊かさの充実です。

引き続き、子どもたちのためにも豊かな場を醸成していきたいと思います。

 

学ぶ楽しさ、知る喜び

人は誰しも「知る喜び」というものを持っています。好奇心というか、新しいものに触れたり発見することはいのちが喜び輝き出します。幼い子どもたちの世界では、毎日毎時間、新たな発見に感動し驚き、学ぶ楽しさの中にいます。

本来、人間は新しいことを学ぶことで成長し、その学ぶ楽しみがあるから人生をイキイキと謳歌し輝かせていくことができるように思うのです。

それがある時から、知る喜びがなくなってきて好奇心が減退してきます。それは残念なことに現代の教育に問題があるのはすぐにわかります。

例えば、人間はお腹が空いたらご飯が食べたくなります。その時にご飯が出れば、喜んで食べると思います。さらに、あらゆる素材を手作りで育てて自分で料理すればその喜びは一入です。しかし、お腹も空かず食べたくもないのにただ大量に食べさせられたら人間は何も食べたくなくなっていきます。むしろ、どんなに美味しい料理を与えても何も興味もわかずしかも無理にでも栄養をとれと食べさせらるのだからもっと食べることに喜びを感じなくなるのです。

知識も同様に、大量の知識を一方的に詰め込まれ毎日膨大な情報量の中で生活をしていていると知ることがそんなに喜びではなくなっていくように思います。それを繰り返していると、学ぶことも次第に楽しくなくなっていくように思うのです。

当たり前のことですが、知る喜びは学ぶ喜びです。

私は毎日、このブログでもそうですが学びたいことが尽きず、知りたいことばかりで好奇心が尽きません。やりたいこともたくさんあり、経験したいことも山ほどあります。しかし時間が膨大にあるわけではないので、その中でも本心や初心を大切にして日々を大切に使っています。それは私の暮らしの中に、日々の発見や学びがあり、その学ぶ喜びや知る喜びがあるからです。

好奇心の原点は日々の暮らしの中にこそあり、その暮らし方を改革することでより一層、喜びを日々を歩んでいくことができるように思います。

真実を知る仕合せ、美しさを味わう仕合せ、そして全体快適や居心地の善い場がある仕合せ、これらは学ぶこと、知ることをより一層、楽しくさせます。

子どもたちは、現在、本当に学ぶ仕合せや知る仕合せを知っているのでしょうか?そして学校や先生は、何を教えることがもっとも学生たちにとって大切なのかを自分たちがやっているのでしょうか?

学び知ることの仕合せや豊かさは、人間のいのちが輝くための大切な道の一つです。場の道場の具体的な徳目として、何を目的に場を醸成するのか、改めてその原点から見直してみたいと思います。

 

道を拓く言葉

先日、京都の南禅寺の法螺師の指導を受けましたがその感覚がいつまでも心身魂に残っています。大変短い時間であったにも関わらず、心身魂に響いているのはそれが単に何かを教えたのではなく、伝承し合ったことであることは時間が経つにつれて沁みてきます。

私は今までの人生で、多くの師とめぐり会ってきました。もう何人かはお亡くなりになりましたが、いつまでも心の中で生き続けて励まして応援してくださっています。

その方々の特徴は、若輩で未熟な私に対しても丁寧に真心をもって真摯に接してくださり、私の求めているものを惜しげなく親切に与えてくださいました。今があるのは、その師の方々のご指導の御蔭であることに気づき、恥ずかしくない生き方をしたいと願い実践するばかりです。

先日、ある方から森信三先生の言葉集を送っていただきました。もう随分若い時から、森信三先生の本は読んでいましたがいただいた本の言葉に目を通していると、また異なる味わいがあり、その時々によって言葉と出会えることは仕合せなことです。

その一つの文章にこういうものを見つけました。

「真にすぐれた師というものは、門弟たちを遇するのに単なる門弟扱いをしないものです。すなわち卓れた師というものは、つねにその門弟の人々を共に道を歩むものとして扱って決して相手を見下ろすということをしないものであります。それは同じ道を数歩おくれてくる者という考えがその根底にあるからです。」(森信三)

師弟関係とは、本来、平等であり対等、同じ道を志す仲間ということです。たまたま生まれた時機や学び始めた場が異なっただけでそこには上下があるわけではなく、能力の差があるわけではありません。そこには、ただ同じ道があったのです。

私は歴史を刻むような仕事がしたいと心から思っています。それは私の尊敬してきた人たち、偉大だと感動して薫陶を受けた方々の後ろ姿がみんなそうであったからです。

変人や狂人だと思われようと、純粋な気持ちには嘘がつけません。子どもたちがいつまでも憧れるような心をもって、子どものために真摯に道を切り拓いていきたいと思います。

場とIT

インターネットの歴史を振り返すと、まだ100年も経っていないことがわかります。現在わかる起源は1960年代に米国国防総省が核による攻撃にも耐えうるコンピュータネットワークを必要とし、パケット交換ネットワークであるARPANET(アーパネット)の開発に着手したことが切っ掛けです。そこから1969年には接続実験が開始され、最初の広域パケット交換ネットワークであるARPANETが誕生します。その特徴は「分散型ネットワーク」「パケット通信」であり、これがインターネットの起源だそうです。

現在、私はブロックチェーンに関わっていますがベースになっている技術は今も変わりません。まだ60年くらいの歴史しかないこのITの技術は、まだまだ黎明期でありここから革新的に変化を続けていきます。

そういう意味では、まだまだ現在のIT企業は最先端といってもすぐに変わってしまう技術と向き合い何かの切っ掛けで構造が完全に変化する微妙な位置で研究開発を続けています。

このIT技術を産んでいる人が人間である限り、人間が考えられることしか発明することはありません。人間は人間を超える発明ができないのは、よほどの偶然が重ならない限り過去の経験や発想からしかものづくりをすることがないからです。

そして同時にその人間には、大きな可能性があることに気づきます。一つは、仏教を含め、神と呼ばれる世界観を持っているということです。つまりは神と呼ばれるチカラ(神通力)を人間はものづくりで実現しようとすることです。

例えば、仏教でいうところの神通力は瞑想によって悟りを得られると同時に獲得するといわれる6つのチカラがあるといいます。

1つ目は、神足通=自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力。2つ目は、天耳通= 世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力。3つ目は、他心通= 他人の心の中をすべて読み取る力。4つ目は、宿命通= 自他の過去の出来事や生活、前世をすべて知る力。5つ目は、天眼通=一切の衆生の業による生死を遍知する智慧。一切の衆生の輪廻転生を見る力。漏尽通=煩悩が尽きて、今生を最後に二度と迷いの世界に生まれないことを知る智慧。生まれ変わることはなくなったと知る力。

結局、人間が人間に真に近づくのは神のチカラを得ることですから人間はこれらの神通力をITのテクノロジーで産み出そうとしています。そしてそれを産み出そうとするからこそ、そこに関わるITのエンジニアたちは瞑想をし修行をする必要があるのです。

私が取り組む「場の道場」では、これらのことを実現するために心の修行や魂の錬磨ができるように「暮らしフルネス」を実現しています。世界の本当の最先端は、これらの懐かしい未来の調和の場によって顕現するのです。

世界がこの先、大きく変わるのは、人類がこの神の領域に踏み込むときです。そして神のテクノロジーを知るとき、人間ははじめて謙虚に自分たちが何が整っていないか、その世界がどのような平和で幸福な世の中であるのかに悟り、真実の豊かさ、善きご縁の繋がり、そして美しい暮らしを調和させていくことができるように思います。

科学が発展し心の世界に追い付けば追い付くほどに、心の世界も同時に発展していきます。それまでの間、私達人類は様々な困難や試練に出会いますが、必ず私たちは、対立概念ではなくそれを超えた真の調和の世界で生きて偉大ないのちを成長させていくのです。

子どもたちが、そのいのちを活かし、真の豊かさを生きられるように懐かしい未来の場を磨いていきたいと思います。

音の道

昨日は、有難いことに鞍馬山で法螺貝を立てるご縁をいただきました。まだはじめて間もないのですが、エバレットブラウンさんの御蔭で「音」について深く学ばせていただいています。

この音には感情というものがあり、その感情を見つめて感情を整えていく。まさに音の深い魅力と不思議な効能などを実体験を通して学んでいます。

思い返せば、音については興味がありましたがなぜか楽器をもって何かをするということまではあまり至りませんでした。中学校、高校の時、バンドを組んでいたのでその際にシンセサイザーにのめり込んだことがありました。

あの時は、電子音でしたがバンドのメンバーの楽しい思いや挑戦したり努力している音色が嬉しく、思い出の青春の一コマになっています。

今回は、また別の青春の一コマであり、音というものの持つ神秘的なチカラや山伏や修験道というものの本質や伝承なども学ぶ機会になり、このタイミングとこの年齢で音楽に再び出会う機会になりました。

何年か前にインディアンフルートの音色に興味を持ち、いつかインディアンフルートをやろうと思っていましたがなかなかご縁がなく、なぜか先に法螺貝になってしまいました。しかし、どこが音の道の入り口であるかと全体を改めて見直すときまさに今此処が音というものの本質に入る時であることに気づきます。

私はもともと選ばない生き方をしていて、来たご縁は素直に受け容れます。それはその方が豊かであり面白く、ご縁に生きることができるからです。昨日は、ある山伏の生き方を聴く機会があり、その方はどんなことでも「受けたもう」と引受けて生きておられるそうです。今を生きるというのは、今の中に自分のすべてを没頭させていくことです。そしてその境地こそまさに心から楽しいことに一体となっています。これは生まれてまもない子どもたちの童心であり、自然界のいのちそのものです。

いのちは常に無我や無心と共にあり、そこに自分のいのちの中心軸があることに気づきます。音は、まさに調律、調和をこの世にもたらす一つのいのちの姿ともいえるのです。

いつか私のいのちの音により、子どもたちの心が癒され浄化し調律をできる日がくるまで引き続き日々の呼吸をととのえ音の道を精進していきたいと思います。

暮らしフルネスの本

現代は、脳が中心で動いている世の中です。脳以外の部分、例えば五感などの感じる部分が減退しています。都市化された社会で、なんでも便利になってしまえば頭で考えて計算していくことが価値があるように価値観が変化していきます。

思い通りになることが是で、そうではないことが非になるのです。なんでも未来を計算し、計算することがなんでも先になってしまうと感じる力をまたつかわなくなります。これがいのちが弱っていく理由なのです。

私がいのちの甦生を手掛けるのの最初の一つ目が、感じる力を高めることです。暮らしは五感を整え、清浄な場があらゆる五感を研ぎ澄まさせていきます。

例えば、未来というものは誰にもわかりません。予測はついても、それは予測通りにしているだけであって1時間後にどうなるのかは誰にもわかりません。ひょっとしたら事故にあったり、何か大事な出来事が勃発することもあるでしょう。何に出会い、何が変わるかなども誰にもわかりません。

つまり未来は計算通りになっていないのです。自分が計算をしているだけで、未来という別個の空間と時間が存在していてそこはどうにもならない全体の出来事の影響を受けているのです。だからこそ、計算ばかりしていても意味がないということです。計算疲れというか、現代人は、脳をフル稼働するばかりでいのちを使っていません。そんなことをしていたら不安や不信が募るばかりでいのちがすり減っていきます。

いのちは使わなければすり減ります。物質文明の価値観だと、使うと減ると思い込んでいますがいのちは物質ではありませんから使えば使うほど磨かれて光っていくのです。私の言葉にすれば、いのちが甦り続けて永遠に生き続けていくのです。

これが生まれてきた仕合せであり、この世で修行をする目的でもあるのです。自分の生き方を磨いていくことは、いのちを使うこと、それは言い換えればもっと直観や五感を大切にして感じるままに心の声を信じて行動していくことです。それは計算ではなく、感じるものを優先して生きるということです。

そのためには五感を常に研ぎ澄ます必要があります。自然の中に入り他のいのちに倣い、いのちを磨く道具と共にさらにそのいのちを調和させていく。その中にこそ、いのちがイキイキと喜び、充実する時間を持てるように思います。私が現代になぜ暮らしフルネスが必要だと思う理由はここなのです。

現在、私の尊敬する方々が本を編集していただいています。この地球上で最高のパートナーたちであり、整理編集は余人に代え難い見事な人たちがやってくれています。

私の人生初の書籍は、内容がどうこうというよりも誰と一緒にやっているか、まさに一期一会、今ここ、この瞬間の奇跡が何よりもいのちの仕合せです。

同じ理想を持つ人たちと一緒に本に取り組めることに心から感謝しています。