生き方を磨く

100年後という時間軸があります。今の私たちが死んだあと、孫やその先の世代が暮らしている世の中のことです。よく考えてみると、当たり前ですが今の私たちがあるのは祖父母よりも先の人たちが子孫のことを考えて暮らしを整えてきてくださったお陰です。

その頃の人たちはどのような暮らしをしてきたのか。

私は、たまたま日本民家の甦生や文化に関わることが多かったためにその頃の人たちの暮らしを身近に感じることができました。御蔭で、本当に子孫の健やかな未来を祈り、その人たちが仕合せに生きられるようにと自然と循環し、心も体にとっても最善である仕組みを伝承し続けてきてくれました。

その御蔭で、大きくは道に外れず暮らしは営まれ続けてきたように思います。

現代は、あまり遠い先の未来ことなどに時間を割くことはせず目の前の目先のことばかりで多忙を極めている人ばかりです。経済のことばかりを優先し、経済に関係ないことはほとんとが後回しです。すべて経済によって動かす世の中にしてしまっていますから、福祉であっても、宗教であっても、なんでもかんでも今は経済ありきのことが前提の世の中になっています。

私自身も経済活動をしていますからそれが悪いとは思いませんが、もう少しバランスを保った方がいいのではないかと感じます。そのバランスとは、先ほどの時間軸、つまり長期的な取り組みをもっとみんなで協力していくことです。

それが先人の智慧を活かした文化の伝承であったり、生き方や働き方、暮らし方を学び直していくことであったりという協力の事です。

私はそれを「暮らしフルネス」といって現代でも同様の体験ができるように仕組みを甦生させました。この暮らしフルネスに取り組むことで、時間軸を見直し、長期的な視野で日々の暮らしを充実させながら現代での役割や使命を全うする経済と道徳が一致する活動を行っていくことができます。

毎日は、ものすごい速さで過ぎ去っていきます。同時に、常に静かに穏やかに流れています。その毎日の使い方、生き方、暮らし方こそが人生を決めています。

子どもたちが憧れるような暮らしを通して、生き方を磨いていきたいと思います。

いのちの技術

現在、徳積堂の建築は新築ですが古材をつかって建てています。つまり、古いものだけで建てる新築といった感じでしょうか。最初は、大工さんなどが驚いていましたが仕上がってくるとその意味が伝わっていきます。

そもそも木といっても、同じ木もなく、そしうて私たちは木のいのちがあることを直観的に知っています。

例えば、山に行けば巨木や古木をみるとそこに偉大な生命力を感じます。また実生の小さな新芽にも、これから生きようとするいのちを感じます。木はモノではなく、いきものです。そして私たち人間からみるとおかしなことに感じるかもしれませんが、木は切っても死んだわけではありません。いのちはそのまま木に宿り、消滅するまで生き続けます。

私たちは動いているものが生きていて、静止しているものが死んでいると思ってしまいます。特に、死んだら身体が朽ちていきますから死んでいると思っています。しかしミイラなども同じく、実はそこにいのちが宿っているままでいることがあるのです。即身成仏などはその例で、動かなくなったとしてもいつまでもそこにいのちは宿り続けていきます。

それは木に限らず、石や鉄なども同様です。石は石仏や石像などにいのちは宿り、そして鉄は日本刀に触れたことがある人はいのちがあるのを自覚していると思います。

これらは、いのちが宿り続けるように壊れないように丁寧につくりあげた職人さんたちの技術があります。料理でも同じく、素材のいのちが壊れないようにとつくる料理はいのちが宿っています。

私はむかしのやり方ばかりを究めていきますから、そのすべてに一つだけ共通することがあることを発見しました。これが「いのちを活かす」ことです。いのちを活かすこと、いのちを大切に扱うこと、みんなその一点を向いて技術を磨いてきたのです。

今は、なんでも機械で便利に簡単に使っていきますがそのやり方ではいのちは壊れてしまいます。いのちが壊れないように、いのちのままで生き続けられるようにと私たちの先祖たちは丁寧な暮らしを通してその生き方を磨いてきたのです。

子どもたちがいのちのままに仕合せであるように、改めて今の当たり前のところを観直していく必要を感じています。これからも私の暮らしフルネスを通して世の中にいのちの技術を伝承していきたいと思います。

 

百姓の生き方

私はかつての百姓に憧れて日々の暮らしを創造してきました。気が付くと、無肥料無農薬のお米作りであったり、自然農の畑を持ち、発酵食品をつくり、自然養鶏をし、古民家を甦生させむかしの道具たちとあらゆる先人の智慧と共に豊かに暮らしています。

ここまでは百姓といわれるところですが、そこから徳積堂という御堂や茶堂を創り、原点サウナといった石風呂を甦生し、ブロックチェーンの学校や場をつくり、他にも最先端と伝統をくみあわせた新しいものづくりや教えない教育という場づくりや暮らしフルネスといった新しい暮らし方などを実践し提案しています。

百姓というと、なんだかむかしの器用な農民というイメージがあります。

しかし本来の百姓とはただのむかしの器用な農民というわけではありません。私にとっての百姓とは「土をつくる人物」、つまり土壌を醸成するものということです。

この世の環境は、土にはじまり土に還ります。環境のことを語るのなら、土を語ります。土があるから花が咲き、土があるから私たちは暮らしていくことができます。だからこそ私たちが何よりも大切に見つめなければならないものは「土」なのです。

例えば、会社であれば組織風土とも呼びます。環境問題は、この風土を美しくしていくことでもあります。なぜ日本の原風景と呼ばれるものが美しかったか、それはそこで暮らしを営む人たちが美しい風土を実現させていたからです。

そしてそういう人物たちのことを私は百姓と呼ぶのです。

私が百姓に憧れ、百姓を実践するのは、土づくりを楽しみたいからです。この私の人生で遺された時間でできる土づくりはどこまでかはわかりません。しかしこの故郷にあって、自分の生まれ育った場への恩返し、そして徳を醸成するために私はこの美しい風土と共に土づくりを深く味わっています。

みんなでよい風土をつくること、それが子どもたちへの恩返しになります。いつかはみんな土に還ります。懐かしい未来に向けて、土が喜ぶ生き方をしていきましょう。

世がととのう

私たちは日々の暮らしの中で様々な出来事やご縁に出会います。その中で多くの刺激を受けて心や感情は波打ちます。それを波長ともいいますが、私たちは空気で呼吸をするように心も感情も日々の風を受けて海のように波立つのです。

ひとたび波立てば、また穏やかな状態に原点回帰するために私たちは心と感情を整えていきます。整うことで調和がうまれ、元の状態に戻るときに私たちはその出来事で得た思い出や感覚を整理していくことができているのです。

つまり「整える」というのは、平常心に回帰するということでもあります。これは、乱れてもすぐに元の落ち着いた状態に戻っていくということです。この平常心(びょうどうしん)とは、日々の丁寧な暮らしをしているままの真心でいることだと私は思います。

日本人の暮らしは、常に丁寧で、一つ一つの日々の小さなことも大切にしてきました。スピード社會で、時間がないという合言葉のような日々を送れば次第に小さなことが疎かになります。

例えば、身体や心を労わることや、当たり前のことに感謝することや、ほんの小さくて偉大な発見を味わうことを忘れたり、偉大な見守りをいただいていることに気づかなかったり、あらゆるものが忙しさの中で忘れ去られていきます。

そういう日々の生活を繰り返したら、本来の暮らしも乱れていき心身が疲れてしまうものです。

禅語に「平常心是道」という言葉があります。

道=平常心であるということです。日々の暮らしの小さな実践の中にこそ道があるということかもしれません。

日本の民家を甦生させるなかで、暮らしの中にあらゆる整うための智慧や仕組みを感じます。掃除や手入れ、磨くこと。そして片付けることや畳むこと、他にも室礼や行事などもまた「整える」実践になっています。

日々の暮らしを整える人は、平常心を歩むことができるように思います。一度しかない人生、膨大な量を欲にまかせてかき集める日々を少し休ませ、落ち着いて穏やかに整う暮らしを過ごすことで真の豊かさに気づけます。

自分を整える人は、地球のことも整えます。

環境問題は人間の問題です。人間一人ひとりが、しっかりと日々に整えていくことで世の中もまたととのいます。平和は、この日々の暮らしの中にこそあり道もまたそこにあります。

子どもたちが、健やかで真の豊かさを生きられる時代になるように今、私ができることで伝承していきたいと思います。

長寿の生き方~天寿の本質~

天寿を全うする生き方というのは、自然に沿った生き方とも言えます。自然を敵にせず、自然が喜ぶように暮らしていく人は天寿の恩恵を多く受けるように思います。この天寿とは、天から授かった寿命、自然の寿命のことです。

そして天寿を全うするという言葉があります。これは、天から与えてもらったいのちを可能な限り大切に大事に使い切るまで生き続け、ある日、定められたその時にきちんとそのいのちを天にお返しするという意味だと私は思います。

まず、自分のいのちは自分のものではなく天から与えていただいたものということが前提になっている人が天寿の本質を生きるように思います。人間をはじめすべての生き物はどんなものでも死は訪れます。その死に向かって日々を歩んでいますから、その死の日が訪れるその時までは天からいのちを与えていただいているのです。

教育者の森信三さんは、「死は万人のいくつく終局的到達点であって、これを回避しうる如何なる人間もいない。この絶対不可避の事実の認識こそ、最大にして最深の認識というべきである。」といいました。

そこから、「人生二度なし」という言葉も出てきます。そして「わが身にふりかかる一切は、すべてこれ「天意」とお受けできる人間になること」とも言います。

天寿や天意と思うことの背景には、この天から与えられた命としての生死を自覚するところからはじまるのです。そして、この天意の天寿を全うする一つに「長寿」があります。昨日書いた、貝原益軒の養生訓もまたこの天寿を全うするための仕組みであり法則です。

壱・『少肉多菜』(しょうにくたさい)
弐・『少糖多果』(しょうとうたか)
参・『少煩多眠』(しょうぼんたみん)
四・『少言多行』(しょうげんたこう)
五・『少衣多浴』(しょういたよく)
六・『少塩多酢』(しょえんたす)
七・『少食多噛』(しょうしょくたそ)
八・『少怒多笑』(しょうどたしょう)
九・『少欲多施』(しょうよくたせ)
十・『少車多歩』(しょうしゃたほ)

まさに、この状態が人間本来の自然の姿であり時代が変わっても人間の養生の本質を示しています。何が本来だったか、どういうものが人間のもっとも素直な姿であったか、この長寿の生き方を通して自然体が観えてくるのです。

そして現代の日本の長寿でギネスに登録されたことがる泉重千代さんも長寿十訓を書き記しています。

1 万事、くよくよしないがいい。
2 腹八分めか、七分がいい。
3 酒は適量、ゆっくりと。
4 目がさめたとき、深呼吸。
5 やること決めて、規則正しく。
6 自分の足で、散歩に出よう。
7 自然が一番、さからわない。
8 誰とでも話す、笑いあう。
9 歳は忘れて、考えない。
10 健康は、お天とう様のおかげ。(ご先祖さまに感謝)

これもまた、日本人としての自然体の姿の体現であるように思います。今の時代、生きづらい人が増えて心身を病み、いのちまで断つ人が増えてきています。もう一度、自分のいのちとは何か、何から与えられているのかを省みて、天寿を全うできるように、長寿の生き方を子どもたちに伝承していきたいと思います。

腸活と発酵訓

貝原益軒が「養生」という言葉を遺しています。これは、今の時代とても重要な考え方でありその生き方から学び直すところが多いように思います。もともと身体が弱く病気がちであった人生を、健やかに逞しく生きていくなかで自分の実体験から生まれた智慧がこの養生訓です。

この養生訓は正徳2年(1712年)に養生(健康、健康法)についての指南書として益軒83歳の著作です長壽を全うするためには身体の養生だけでなく、精神の養生も同時に必要といいます。

この貝原益軒は、健康的で無病息災の元気な人ではありませんでした。小さい頃から重病を抱え、誰よりも用心深く体に注意をして人生を送ってきた方だといいます。この時代、平均寿命50年未満だったのに80歳を超えても歯は一本も落ちず、暗い夜でも小さい文字の読み書きができたと自ら書き残したといわれます。まさに養生訓そのものの人生を送ってこられた方です。

現在、コロナウイルスのこともあり如何に免疫を高めるかということが大切であることを再認識しています。いくら病院を増やしても、薬を増やしても、病気になってしまったら大変な目に遭います。そうならないようにするためには、未病といって病気にならないように養生していくしかありません。

この養生のポイントについて貝原益軒は「治療は下策」であるといいます。その一つに、「腹の中を戦場にするな」といいます。目の欲、口の欲で食べるのではなく、胃腸そのものの状態にあわせて身体が必要なものを優先することだといいます。

これを現代では、腸活と呼んでいるのかもしれません。

そして具体的な実践は、まず心の整えることからと説きます。

「養生の術は先ず心気を養ふべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、を少なくし、心をくるしめず、気をそこなはず。これ心気を養ふ要道なり。」

そしてこうも言います。

「養生の術をまなんで、よくわが身をたもつべし。是人生第一の大事なり。人身は至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。然るにこれを養なふ術をしらず、慾を恣にして、身を亡ぼし命をうしなふこと、愚なる至り也。身命と私慾との軽重をよくおもんぱかりて、日々に一日を慎しみ、私慾の危(あやうき)をおそるること、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如くならば、命ながくして、ついに殃(わざわい)なかるべし。豈(あに)、楽まざるべけんや。」

つまり、心を養い身を慎む、そして天寿を全うする。シンプルですが、これができないから養生して仕合せに生きられないというのです。そして自分の身体は自分のものではないということを説きます。

「人の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。」

天寿ということの本質です。またこれは暮らしフルネスで私が取り組んでいる生き方に酷似しています。

「ひとり家に居て、閑(しずか)に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆これ心を楽ましめ、気を養ふ助なり。貧賎の人もこの楽つねに得やすし。もしよくこの楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。」

別に私は霞を食べていきているのではなく、真の豊かさや仕合せを味わい子どもたちにその生き様を伝承していきたいと思っているのです。

養生は今の時代は、発酵訓とも言い換えれるでしょう。養生する生き方は、発酵する生き方と同義なのです。そして発酵する生き方とは、心身が喜び、自然も喜び、全体も喜ぶ大調和の生き方のことをいいます。

暮らしフルネスの中の腸活の定義を明確にし、暮らしの実践を楽しみ味わい真の豊かさを導いていきたいと思います。

 

感覚の甦生

自然界でそのものの本体を感知する方法の一つに「音」があり、そして「香り」があります。現代は、目ばかり使うので「見る」ことだけで理解しようとしますが本来は五感を通して全身全霊でそのものの本体や本質は理解したように思います。

例えば「音」でいうと、音には美しい音というものがあります。とても澄んだ音、そして心に響いてくる音です。それは濁音や高音ということではなく、そのものが発する「素直な音」です。

この素直な音というのは、無の音でもあり、いのちの音でもあります。その音は、鳥や虫だけではなくあらゆる音があります。暮らしの中で聴こえてくる音であったり、話し声であったり、何かを食べる音であったり、みんな音を発します。

その音の中に、そのものが素直に生きている音があり、私たちはその音によってそのものの心を聴き取っていくのです。音楽というものは、その素直な音に触れることのように私は思います。

そして「香り」というものもあります。香りもまた、そのものから自然に発する香りです。和室の中であれば、畳のイ草の香りであったり、風に流れてくる季節の香り、田んぼにも、火を熾してもみんな香りが出てきます。

この香りを嗅ぐことで、私たちはそのものがどのようなことをやってきたかという経過を嗅ぎ取ります。もちろん、それだけではありませんがこのように五感を上手く使って私たちはいのちの情報ともいうべき本質や本物を直観していくのです。

直観するチカラは、「場」によって磨かれます。場を磨き、場を整え、場に佇むことで場はより透徹され洗練されシンプルになり空間が研ぎ澄まされます。

研ぎ澄まされた場に何度も触れれば、自然に感覚が鋭敏になってくるのです。

この時代、感覚が狂ってしまって心身が病む人がとても増えてきているように思います。私が取り組む、祐徳大湯殿サウナもまたその感覚を甦生するために発心したものです。

子どもたちがこの世の本体や素晴らしいものに触れられるように、デジタルとアナログを調和させた新しいサ道場をひらいていきたいと思います。

三種の神器の本質

日本には「三種の神器」というものがあります。これは日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝器 であるところの鏡と剣と玉(璽)のことです。詳しい名前は八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種類を言います。

その一つ一つに物語がありますが、この3つには共通するものがあることに気づきます。それはどれも「磨いてひかるもの」ということです。

古来より、神器は至宝とされてきました。この至宝である理由は、それがいのちの根源であることを知っていたからです。いのちの根源は、魂であり、その魂に対して何をして生きることが宝であるか。

それを子孫たちに伝承するための道具がこの神器の存在であると私は思うのです。

先祖たちは、みんなその神話や物語を通して何をもっとも大切に生きていくべきか。その理念や初心をこの神器の存在によて奥義を伝承していきました。今の日本人たちが徳が磨かれているのは、この先祖の真心、勇気、慈愛をカタチどったものを心にもっていたからです。

そしてこれを「常若」といって永遠に甦生し続けるためには、先祖と同じように徳を磨くしかありません。原石を至宝に仕上げていく責任は、自分にあります。自分の一度きりの人生をこの真心、勇気、慈愛をもって切り拓いていく。その中に、和の心が醸成されていくのです。

徳は、とてもシンプルなものですが現代では徳の意味がわからなくなってきています。以前は当たり前であったことを忘れてしまって、当たり前がわからなくなっていますから徳もまた同様にその時代の人たちが磨き伝承しなければ現代人のようにわからなくなってしまうのは自明の理です。

だからこそこの時代でも、先人たちと同様に先人たちが磨いてきたように徳を積むことで子孫たちはその日本の和の心や生き様や生き方を理解し、この日本人の根底にある養分を吸い上げて本物の日本人になっていきます。

私のやっていることは、とても小さなことですが同時に命を懸ける価値のあるものだと信じています。子どもたちが懐かしい未来を生き、これからも永遠に日本人の徳を持ち続けられるように真心と勇気と慈愛で甦生に取り組んでいきたいと思います。

いのちは囲炉裏に宿る

本日は、宗像環境会議の「徳が循環される共生圏へ ポストコロナの真の豊かさへの日本からの提言」ということで聴福庵で座談会が事前収録されることになりその座長をつとめることになりました。

実はとてもシンプルなことで私たちは自然に素直に耳を傾け、感覚を研ぎ澄ませば徳の偉大な共生圏に存在していることに気づきます。何もしなくても空気があり水があり、太陽があり、いきているいのちがある。

もうそれだけで私たちは真の豊かさの中にあります。こういう当たり前のことをわかることは足るを知る人であり、あるものをちゃんと観て生きる人たちは真の豊かさをもち仕合せを歩んでいます。

人生の喜びや味わいは、私たち人間だけが求めているのではなくこの世のすべてのいのちが平等に与えられているものです。人間はなんでも思い通りになっている気がしていますが、山川草木、そして動物や昆虫までみんないのちの仕合せを謳歌しています。

徳とは何か、きっとお気づきになると思います。

本日は、囲炉裏を囲んでみんなで聴き合います。この囲炉裏というのは、炉を囲んでと書きますがなぜ「裏」と書くのか。内裏などという言葉もあるようにこれは奥深さ、奥ゆかしさに通じているように私は思います。民俗学者の柳田国男は「いろり」は「座る」を意味する「いる(居る)」と、「座る場所」を意味する「い(居)」が合わさった「いるい」といいます。そこに裏が入るのは、その奥に神様が座しているという意味であろうと私は思います。

囲炉裏を囲んで座り、みんなで語り合えばその中に神が宿るということです。

日本人は古来から、大切なことを語り合う時、火(ヒ)に尋ねました。そうやっていのちの仕組みに則り原点回帰したから大切なことを忘れなかったのでしょう。

自然環境は終わりなく変わり続けます、人間はもっと謙虚になって自然から学び直す必要があるように思います。自分を活かしてくださっている存在を忘れずに、子どもたちの懐かしい未来に徳を譲り渡していきたいと思います。

二つで一つ

この世のあらゆるものは二つが一つになって存在しています。これは対立という意味ではなく、そもそも二つで一つの存在だということです。例えば、「ひかり」であれば光と影によってひかりが出ます。一般的に太陽から放たれている光ではなく、それを透かしてみたり反射したりすれば「ひかり」の存在がわかります。月のひかりは、光ではなく「ひかり」です。

まさにあの二つが一つになっているとき私たちは「ひかり」の方を観ているのです。

これは「いのち」も同じです。

よく顕在意識とか潜在意識とかいいますが、あれも本当は二つが一つになって顕れる「自己意識」というものがあります。半分寝ていて半分起きているような、二人が同時に存在していてそれが一体になって今に生きているという感覚。つまり中今ともいいますが、あるがままの自然体になっているとき無我のときに自己意識となります。

これもまた二つが一つになっているのです。

このようにすべてのものは二つが一つです。火も同様に、燃えている火と、消えていく火があり遠赤外線が放たれ続けるとき「ヒ」が出ます。私たちはその「ヒ」にぬくもりを感じて、「自己意識」や先ほどの「ひかり」を感じます。

むかしの道具を私はよく使いますが、それはみんな同様に二つのものが一つになっているものばかりを使います。つまり、かつての先人たちは常にその本質や本物を観て暮らしを営んでいたのであり、現代のように分析してバラバラにして、知識として分けられたものを本質や本物とは思っていなかったのです。

真実というものは、これも二つが一つになったものです。それを対立構造で分けたことにより、私たちは本質や本当のことがわからなくなりました。発展というのも多様性というのもまた、本来の真実とはかけ離れてきています。

洗練されていくいのちや、シンプルに甦るいのちは、どこか過去の産物や遺跡のようになっています。

子どもたちに、教え込む偏った知識ではなくあるがままの本物や自然の姿、つまりは二つが一つになって存在しているいのちの正体を身近に感じられるような環境を用意して、自然回帰する行く末を見守っていきたいと思います。