禍福一円

私たちの取り組む一円対話には、禍福一円という意味があります。これは禍福は一つのものであり切り離すことができないということ、それを一円の中で観ればちょうどいいことが発生していると受け容れるということです。

無理に転じようとすればするほどに自分の都合が入ってきますから、ちょうどいいとは思えなくなるものです。ちょうどいいの意味は、調和の意味です。調和するというように理解すれば、その禍福はすべてバランスを保つために存在するものです。

人生は、幸不幸が循環しているものです。その都度、喜怒哀楽があり様々な出来事によって人生の妙味を深く味わっていきます。また世界には一人一人別々の世界があり、人生があります。同じ人は一人として存在せず、生まれた時からそれぞれの別個の人生がはじまっているのです。

その人生を省みて、如何に様々なことをちょうどいいと感じるか。自分の主軸を自然の中に置き、自然と共に歩んでいく中ですべては運命に見守られていると実感して生きることで心は安らかになっていくようにも思います。

以前、新潟の五合庵で良寛さんの詩に触れたことがあります。

良寛さんは、すべてを聴き入れじっと受け容れることを重んじ、あらゆるものをちょうどいいとあるがまま自然体で生きられた方のように感じます。それは詩からその生き方や生き様が垣間見れ、宇宙全体と一体になっておられるような雰囲気を醸しています。

その良寛さんの遺したものに「ちょうどいい」という詩があります。なかなかちょうどいいと思えない現実ばかりの人生ですが、最期はやっぱりちょうどよかったと思えるような人生にしたいと祈ります。

「仏様のことば(丁度よい)」

 お前はお前で丁度よい

 顔も身体も名前も姓も

 お前にそれは丁度よい

 貧も富も親も子も

 息子の嫁もその孫も

 それはお前に丁度よい

 幸も不幸も喜びも

 悲しみさえも丁度よい

 歩いたお前の人生は

 悪くもなければ良くもない

 お前にとって丁度よい

 地獄へ行こうと極楽へ行こうと

 行ったところが丁度よい

 うぬぼれる要もなく 卑下する要もない

 上もなければ下もない

 死ぬ月日さえも丁度よい

 仏様と二人連れの人生 丁度よくないはずがない

 丁度よいのだと聞こえた時 憶念の信が生まれます

 南無阿弥陀仏

子どもたちにも、自分自身を全肯定して仕合せを自らが決めていく生き方になるように実践を積み重ねていきたいと思います。

心のこと

私の両親は小さいころから共働きでしたら、祖父や祖母がよく面倒をみてくれていました。弟の世話をする私や親戚の子どもたちも年が近かったらかよく一緒に過ごす機会がありました。

特に病気や怪我、そのほか何かのトラブルの時には祖父母を頼っていました。ただ病気や怪我をすると大袈裟なのであまり頼まなかった記憶があります。祖父は、無口で厳しく怖い存在でしたがその奥にある深い優しさを感じていました。

今でも思い出すのは、私が高熱やぜんそくが酷く苦しんでいると聞いた祖父が民間療法でネギを首に巻かれてそれを耐えさせられたことです。病気よりもその民間療法が辛かったので、治ったふりをしたくらいです。他にも、田圃でお米の収穫時の袋に入ったお米を運んで痒くなったり、山で一緒に遭難したり、思い出せばそれはすべて祖父の人柄との接点でした。

祖母の方は、慈愛に満ちていて私が痛い体験や辛い体験をすると自分がまるで体験したように感情を含め共感してくれて自分の方がそこまで大袈裟ではないと安心させようとして振る舞っていました。私が交通事故で病院に運ばれたときも、すぐに駆けつけては涙を流していました。心配ばかりしていた祖母に、心配かけてはいけないとその時心から反省したことを覚えています。

私は御爺ちゃん御婆ちゃんっ子でしたから、亡くなった時はとても悲しくて悲しくて涙が出ました。御爺ちゃんは病気で最期に言葉を交わしたのは沖縄に出張に行く前で、手を握ってくれて有難うと声をかけてくれました。御婆ちゃんは御爺ちゃんが亡くなってから3回忌をしてすぐに突然亡くなりました。

御爺ちゃんが亡くなってからはほとんど言葉が少なくなって、感情もあまり出さないようになり、身なりもそんなに気にせず、周囲との距離をおいてあまり人間関係が深まらないように離れていました。最期は、ほとんど印象がなく普段通りの挨拶だったように思います。

悲しみというのは、心から出てくるものです。

この心は現実の世界とまた別に存在していて、ゆっくりとじんわりと動いて生きています。脳や肉体などの反応とは別の存在で、心はまるで霧のように空中に浮いてはゆらゆらとまとまっています。

この心のことを人は魂と呼んだのかもしれません。心は霧や霞のように実態がないのですが、この揺られているなかで感受しては様々なことを深く味わっています。

たとえ頭で理解しても、心はそれを感受するのは時間がかかります。準備もいるし、そんなに簡単に味わえるものでもないのが死を受け容れることです。ただ悲しみは、そのまま心をつながります。

心は受け容れることで心を育てます。

いつか誰にも訪れるその日にむかって私たちは生きています。心の弱さを受け容れながら、心のままに心を大切に心にしっかりと明るさと美しさを保ち頂いた宝と記憶を磨いていきたいと思います。

孤立と孤独

先日、一円対話の中で孤立や孤独についての話がありました。コロナで今までなんとなく曖昧にしていた人間関係や社会問題もこういうことがあると露呈してくるものです。改めて、孤立や孤独とは何か、考えてみることにします。

そもそもこの孤立や孤独は、使っている人によってその定義も意味も異なります。また集団の中で使われるときは大勢の方と少数の方でも使い方が異なります。つまり、この言葉は客観的に外側から使われるときと、内面的に主観的に使われるのではその意味が全く異なるということです。

例えば、自ら孤立や孤独といっても志を高くし、目的に向かって我が道を真摯に精進する人には孤立や孤独は自己研鑽のために必要な徳目でありそれは決して悪いことではありません。誰かに甘んじるのではなく、ひたすら道を追求する中で時には甘えず、時には助けてもらい自らの孤独や孤立を高めていくのです。どうしても誰にもわかってもらえないような次元の大きな志に生きるのなら、それはなかなか語り合える朋とも出会えません。しかし、みんなそのようにして偉大なことに挑戦していこうとしますからそれはそれで真摯に初心を省みて実践を積み重ねていくしかありません。孤独も孤立もそれは志を歩んでいる証拠だとも言えます。

しかし、これとは別に人間社會の中で人間関係を大切にしない人や思いやりが欠けている人は別の意味で孤立や孤独になっていきます。人間は一人では存在していませんから周囲への思いやりは常に必要です。困っている人に手を差し伸べたり、みんなが心地よく働けたり、人間関係や信頼関係が損なわれないように常に誠実で正直なかかわりをつくりつづけていく必要があります。それは決して見せかけの関係を創ればいいという意味ではありません。

畢竟、人間関係というのはまずは自分自身との関係性からすべてはじまります。自分への正直さや素直さ、自分をちゃんと大切にできる人、自分自身に対して誠実に生きている人が翻って他人へも同じように正直に素直に誠実にあることができるのです。

自分を粗末にしたり、自分の扱いを乱暴にしたり、自分に嘘をつき続けたり、自分を騙したり、自分との関係がちゃんと維持できなければどうしてもそこに孤立や孤独が発生してきます。まずは、もっとも身近にいる自分自身を大切に思いやる事。これは間違ってはいけないのは、別に自分勝手に自分のことばかりを優先すればいいというわけではありません。

自分を大切にするというのは、相手を大切にするよう自分も大切にし、自分を大切にするように相手も大切にするということです。もしも相手が自分だったらどうしたら喜ぶだろうか、自分がもしも相手だったらどのようなことに感謝するだろうかと、常に自他一体になった境地で人間関係を結んで丁寧にケアしていくのです。

人間は、自分がされなくないことを他人にしないというのがまず思いやりの原点です。そして自分がされて嬉しいことや仕合せなことを相手にも与えていくことで、自他ともに仕合せな心持になっていきます。

つまり「思いやり」とは、そういうことなのです。

「思いやり」がなくなれば、孤立と孤独は身近に常に存在して自分自身の間違いに気づくように語りかけてきます。そして思いやりが足りていけば次第に孤立や孤独は仕合せにつながっていることにも気づいていきます。そう考えてみると孤立感や孤独感は自他への思いやりの欠如への渇望感なのかもしれません。

みんな自分自身の心に素直に正直な人たちが、子どもたちが安心できる社会を創り上げてます。人間はもとは自然物ですから、自然の心は誰にも備わっています。それをある人は良知ともいい、ある人はまたそれを真心と呼びました。

真心の生き方をする人には、孤立や孤独というものがそもそも存在せずただ感謝のみの豊かな世界が広がっているように思います。みんなたった一人ではありますが、独りぼっちでは生きてはいけません。持ちつ持たれつ生きていくのですから、思いやりを持って日々を大切に過ごしていきたいと思います。

子どもたちに思いやりの徳を活かしあえるような社会にしていきたいと思います。

みんなが恩人

「恩」という言葉があります。辞書の大辞林には「他の人から与えられためぐみ。いつくしみ。」と記されています。この恩というのは、人間は誰でも恩をいただいていない人など存在しないことがわかります。

つまり人間は、恩によって成り立っており、その恩をみんなで与え合うことによって生きていくことができるのです。そしてその恩には色々なものがあるように思います。

例えば、親の恩、先人の恩、社會の恩、自然の恩、身近な人の恩等々を数えればいくらでもでてくるのがこの恩です。多くの恩をいただいてばかりですが、その恩を返していくきながらまた新たな恩を循環させていく、それが人生のようにも思います。

恩返しや恩送りという言葉もありますが、実際には偉大な「恩」の中で存在していますからもっとも大切なのは「恩を忘れない」ことだと私は思います。

恩を忘れないで生きていくのなら、いつも自分は恩に恵まれていることも忘れません。その恩はどのようにめぐっているか、そしてその恩は一体どこからやってきたものか、そして自分という存在が如何に恩によって醸成されているか、その徳が備わっていることを自覚することができればみんなが恩人になるのです。

恩人の中で生きている、そして自分も恩人として生きていく。

この恩を忘れない実践が、感謝になり心の平安や豊かな社會を築いていくことができるのです。現代は、恩という言葉もあまり聞こえなくなってきました。利害損得ばかりが語られ、騙されたとか、嘘をつかれたとか、嫉妬されたとか、恩を忘れている時の状態が続いています。

この恩を忘れない仕組みこそ、徳の循環の仕組みです。

徳積の仕組みを、人々に還元するために知恵を絞っていきたいと思います。

コロナシフトの意味

世の中には本当のことだけれど、目を背けて誰も気づかないふりをすることで溢れています。これを常識といい、この常識を変えるというのは不可能だとどこかで諦めているものです。

時に、真実はこれまでの常識に気づかせる機会になります。しかし常識に気づいて、これからどうするかとなったとき、その常識は自分たちにとってとても都合よく再設置されていくのを感じます。

例えば、自然環境でいえば今回のコロナによる自粛で自然環境は驚異的な回復をみせました。CO2の削減にはじまり、あらゆる生態系が増えて同時に汚染が収まっていきました。過剰な経済活動と競争を繰り広げていく中でみんなが利潤を猛烈に追いかければ自然環境は犠牲にしてもいいというのは常識であったことに気づいたのです。

他にも、過剰に都市型社会に固執して密集させて便利にしていった結果、これが今回のコロナの最大のリスクになっていきました。古来から多様性の保持のため分散させてきた各々の地域での文化や価値観を、一つの文化や価値観ばかりを取り上げて一極集中してその強みばかりを追いかけつつそれ以外を弱さだと切り捨ててきたことで人間社会の信頼関係が非常に脆くなってしまいました。弱さを絆にすることが常識であったものを、弱さは悪であるとさえ語りそれを目に見えないところに追いやるのが常識であったことに気づいたのです。

この人間の欲望は、今更、切り離せない、だから前提は変えずになんとかできないかとみんな議論ばかりをしては部分最適ばかりで評価されてそれがさらに現在の常識の厚みを深めていくという悪循環です。

エコやエゴなど、もうすべてどうでもよくなる時が来ます。地球という家でステイすることもできなくなったとき、私たちはどこかの星に移住するのでしょうか。住みやすい世の中というのは、一体誰にとって住みやすく、誰にとって住みにくいのか。

本来、自分の家とは何か、歪んだ個人主義の先にあるいびつな家族像も気になります。生まれてすぐの子どもたちを観ていたら、社會の原型がちゃんと継承されているのを実感します。

むかしは、子どもは国の宝であり地球の宝だと定義されていました。個人的なものではなく、自然的なものとしてみんなで大切に見守り育ててきました。当たり前のことですが、果たしてこれが今はどうなっているのか。

人間は便利で自分たちにとって最高の環境にしてきたかもしれませんが、その人間にとって最高の環境が最悪の環境に突如と切り替わる日が必ず訪れます。その時、人はそれまで前提としていたものが崩れ、常識を無理にでも変える必要に迫られるのです。

環境にとって人が変わるというのは、真実だということも今回の体験で気づいたことです。引き続き、場の力を学び、どのような場によって新たな未来を子どもたちに譲っていくか、気を引き締めてコロナシフトを共に歩んでいきたいと思います。

本物の知性

起きた出来事をあらゆる角度から検証し、内省し、改善する。これはご縁を活かす生き方の一つです。実際に、もしも知識や言葉がなければ人間はどのように学んでいくのでしょうか。

それは先ほどのように、ご縁のみを振り返りそこから発生した出来事を思い出し心の感じたままに修正を続けていくのでしょう。まさに自然であり野生の感性だと感じます。

どちらかといえば、世の中は人工的なエコの世界で理屈を考えて物事を判断するようになっています。次第に飼いならされた動物園のようになり、ワイルドな感性は失われ野生動物が次第にいなくなっていきました。

山林では、いまだに野生のイノシシやシカやサル、クマなどもいますがほとんどが都会の中で現れることはありません。しかし本来、私たちは何処から来たのか、どのような暮らしをしてきたのか、それを思い返せば野生から来たのはわかります。

野生動物は動物園ではありませんから、それぞれが尊重しながら持ちつ持たれつに一緒に自然界で生存しています。動物園のように飼いならされて仕事をさせられていませんから生きるためだけに野生を放ち、イキイキとその野生を謳歌していきます。

実際には野生の生き物の方が、肌ツヤをはじめ眼光や放つ身体からの雰囲気など圧倒的に新鮮です。動物園の方は、残念ながら元気がなく野生が消えてダラシナイ姿になっています。その姿を動物は知性とは呼ばないとは思いますが、人間は知性と呼び、都市化されて飼いならされた世界に憧れるようになっています。

教育の力は絶大で、最初から野生を忘れると野生であることがよくないことのように感じるのかもしれません。しかし人間は必ず、自分の天真天命を求めていくときその根底にある野生に回帰する必要があるように感じます。

それはいのちの根源であり、仕合せの源泉でもあるからです。

日本人の先人たちは野生のままに国を実現していきました。それは家の暮らしの中にも観てとれ、野生の感性を存分に発揮して暮らしを充実させていました。まさに本当の豊かさを持っていました。それを今は、懐かしいと感じる人もいると思いますがこの懐かしさは野生の感性が呼び戻そうとするのではないかと思うのです。

野生の中には知性がないのではなく、野生の中に本物の知性があると考えること。それがこれからの自然との共生に根を下ろすときの重要なカギになると私は思います。

子どもたちが生まれながらの子どものままで暮らしの豊かさが味わえるように、日本の心、その和の持つ伝承を続けていきたいと思います。

リジリエンス~自然の回帰力~

私たちは復興力というものが備わっています。これをリジリエンスと英語ではいいますが、元に戻る力、言い換えれば回帰力のようなものがあるということです。すべてのいのちは、自然から発生して自然に回帰しますからシンプルですが私たちは自然の一部であることからは逃れられないということです。

これを必死で逃れようとするのが人間の科学なのかもしれませんが、逃れられないと思う瞬間が必ず訪れます。それは自然災害や天災、天敵が訪れるときです。今回のコロナは、天敵のウイルスです。この天敵というものは、決して敵味方の時の敵ではなく天とついていますから自然循環の中で調和を司る神様のようなものです。

科学がどれだけ進歩しても、いくら自然から離れて征服した気になったとしてもそんなものはほとんど通用しないことを自然は必ず私たちに伝えてきます。謙虚にバランスを保っていた日本人の先祖たちは、智慧を積み重ねて独特な自然との共生文化を創り上げてきました。

その智慧は世界でも類を見ないほどで、それを先人たちは「和」といい、この和の文化を通して自然と上手く折り合いをつけながら豊かに暮らしていく方法まで辿りきつきました。それを改めて見直す必要があると私は感じています。

そもそも自然の回帰力は、自然の状態に近づける力です。今回、コロナウイルスで人類が自粛しておとなしくしていたらあっという間に空気汚染がなくなり、山林や河川、海にいたるまで生態系が戻ってきたといいます。たかだか数か月、人間が科学をつかった現在の資本主義型の産業構造を停止するだけで自然は随分と回帰したのです。

いくら持続可能だとSDGsとかいって、わけのわからない経済活動ばかりを増やしては自然環境のためにとやっていてもかえってそれで仕事が増えているだけといった矛盾があることに気づくはずです。特に今回のコロナの御蔭で、人間が汚染をするのをやめれば自然は偉大なスピードで恢復するのを実感しましたからもう少し人間はそのことを真摯に受け止めて今の暮らしを換えていく必要があると私は思います。

自然を敵視するのではなく、自然の力をうまくお借りするという発想、自然を征服するのではなく、自然と共生し活かしあう関係を築くということ。これは何億年も前から人類が工夫してきたことの集積が今も伝統に生きているのを感じます。

欧米型の新しい価値ばかりを価値にし、古くからの智慧をなんでもかんでも捨てていきますが捨ててはならないものもたくさんあるのです。捨ててはならないものまで短絡的に捨ててしまうというその価値観が、人類を更に盲目にしていくのです。

だからこそ、そうではない生き方をする人たちによって本来の在り方を見直す必要があります。それは決して原始時代に戻れというのではなく、原始時代にも大切にしてきた智慧を、科学が発展しても守り続けて調和させていく努力をしていこうと言っているのです。

私が最先端技術に取り組みながら、まったく正反対の暮らしを楽しむのもまたこの人類の未来にむけて、子どもたちの将来のために必要だと感じているからです。徳積財団での活動を本格化する前に、仲間を募り同じような生き方をする人たちで新しい経済の思想を築きたいとも思っています。

コロナの御蔭でコロナからはじまる未来を楽しみたいと思います。

スマートという言葉

現在、「スマート」という言葉があちこちで聞かれます。これはIT用語のようになっており、賢い、利口な、頭がいい、気が利く、かっこいい、おしゃれな、粋な、活発な、抜け目の無い、などと訳されています。

実際には、使う人によって言葉の定義も異なりますから何をもってスマートなのかと聞いていると全く別の言葉の意味で使う人もいるので混乱することもあります。

言葉というものは、その言葉を放つ人の生き方や哲学によって全く意味も異なりますからその言葉の定義を確認しなければ鵜呑みにするとお互いの理解の差がますます広がってしまいます。

そもそも何のためにや、その言葉の意味は何かということを質問することはその本質を確かめたいからというものもあります。実際には、言葉には様々な意味が纏わりつきますからシンプルに目に見える実践や具体的な事例がある方が、言葉の持つ定義も説明しやすいように思います。

私は、スマートという言葉は日本語の何を当てるか、それは「智慧」であると定義しています。これは智慧だと思えるものは、スマートだと感じています。

例えば、私は伝統的な日本人の暮らしを活用し、暮らしフルネスを甦生していますがその暮らしは智慧の宝庫です。古民家でいえば、井戸水が湧き、雨水を利用し、通り庭から日陰の風通しをつくります。うだるよう蒸し暑さに対応するために、床下の冷気を抜けるようにしたり、風鈴や水盤、網代敷や葦戸などで工夫します。他には炭を活用して小さく弱い火を活用して様々な料理をつくります。

料理でいえば、味噌をはじめとした保存食にかかわる発酵、また天日干しした乾燥野菜や燻製など色々あります。

そして生き方として、病気にならないような未病の環境を用意しています。自然の四季を先取りして準備することで、無理なく自然のリズムと調和して心身を整えていきます。そこには気枯れを未然に防ぐという仕組みもあり、さらには災害を早めに察知して対策を取るという工夫もあります。私の古民家は河川敷の近くにありますが、歴史をみると何回か氾濫したことがわかっています。神社が高台にあり、何かあればすぐにそこに集まり非難するようになっています。

私が思うスマートとは、この先人の智慧を活かすことをいいます。その智慧は、まさに徳であり、この徳こそがスマートの本体ということです。本来の故郷の在り方、まちづくりの在り方は、先祖の伝統的な智慧にこそ学ぶことです。

温故知新というものは、大切な智慧を守りながら新たな技術を刷新させていくことでしょうからまず前提としての言葉の定義がどうなっているのか正しくしてから取り組むことのように思います。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中にしていくために、スマートに活かしてたいと思います。

真心の暮らし

私の郷里には疫神社というものがあります。父が随分前にその疫神社のお社の修復で奉納したご縁からこの存在を知りました。疫神様というのは不思議に感じるかもしれません、特に欧米ではウイルスを神様にするなどとんでもないと思われるかもしれません。

しかし日本人は、古来からなんでも人間が上でそして自然の中に敵対する関係を築こうとすることはせず、常に自分自身を見つめ平等にお互いを尊敬し、尊重し合い折り合いをつけて共生するという生き方をしてきました。

その証拠に、八百万の神々といってすべてのものを神様として信仰し、お互いに心穏やかに平和に暮らしていこうと取り組んできました。決して善悪に照らして誰かが裁くというのではなく、お天道さまにお任せしながらお互いに「裁かない」という生き方をしてきたのです。

現在は、何かあればすぐに裁く傾向があります。なんでも善悪・理非を捌きますが、その裁いているのは一体誰かということです。みんなが神様だからという尊重し合う関係と、自分がまるで何物かの偉大な神にでもなったような尊大な態度とは同じ神でもまったく意味が異なります。そもそも尊重することと、比較することは同じことではありません。みんな違ってみんないいという発想と、みんな同じだから違いは許さないでは平等や公平の意味もまったく異なってしまいます。徳と法というものもありますが実際には徳の中に法があるのであって徳と法は比較するものでもないのです。
そういう社會になっているのは、社会基盤の前提の枠組みやシステムが裁くシステムになっているからです。

日本人の先人たちは、万物のいのちはすべて等しく自然の一部であるという思想がありました。その証拠に、日々の暮らしはすべて自然との共生で成り立たせ、動物や植物、あらゆる虫まで共に暮らす神様として一緒に生活を営んできました。つまりこの世もあの世もすべて神々(自然)の姿としたのです。

江戸時代なども文献からも家畜といわれる牛や馬やニワトリたちも、人間と寄り添うように生きて一緒に生を全うしていきました。共生する仲間たちを人間の都合だけで捌くということをしない暮らしがありました。

疫病が疫神社になって疫神さまになるのも疫病が流行って大変なときに疫病を恨むのではなく謙虚に同じ神様としてお祀りして御怒りはごもっともとしてご機嫌よくしていただいていつもの自然の調和に還ってもらおう、その荒ぶる魂を鎮めてもらい穏やかな魂になってもらうようにみんなで感謝を捧げるのです。

私たちの郷里の疫神社にはこういう由緒が書かれています。

「明暦二年(一六五九年)多田村及近邑に疾疫流行し、人民なやみ苦しめり其年十月祠官有光時安十七日間身を浄め、神道を以て妙見大明神に其の事を伺い奉るに、祇園三社を勧請し祈祷をなすべしとの霊告によりて那珂郡博多の津祇園の神を祀り、病邪たちどころに退き邑村の悦ぶところとなる。」

現代では祈祷だけでウイルスを除去するなど非科学的だと馬鹿にされそうなものですが、祈りのチカラというものは科学薬ではなく人間たちの心の中の欲望の魔を鎮める効果もあるのです。なぜそもそも疫病が流行ったのか、そこには確かな理由があり人間の傲慢さが密接にかかわっているのです。

その原因を取り除こうともせずに、単にワクチンを開発してさっさと治して消毒薬で撃退してしまえばそれで終了などとして人間のつくった原因はそのまま放置されるならさらなる人災を増やしてしまうのです。

人災に気づくように、神様(ここではウイルス)が「知らせ」を与えてくださっているのにそれにいつまでも気づこうとしないのではますます共生がまた別の捌くことによって競争になりさらに捌き続けることでいのちたちがいない砂漠のような場になっていくことは自明の理です。

人類は、ここで気づく必要があるから疫神さまがやってきてそれを教えてくれているのではないかという少しでも謙虚な気持ちをもって今回のことに正対すれば自分たちの生き方を見直すチャンスになると思います。

世の中、緊急事態宣言の自粛解除でまた元通りの生活をしようとしています。しかし今度やってくる第二波や第三波はこんなものではありません。先人たちの知恵をちゃんと見習い、なぜその時にみんなで疫の神様としてお祀りしたのか、なぜ今でも神社の境内にあって祀られ続けているのか。

子どもたちが未来に安心して健やかに暮らしを営んでいけるように、それぞれが真心の暮らしを取り戻し、本来の姿に近づいてかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

元氣の素

日本には古来より穢れを祓うという思想があります。この穢れは別の言い方では、気枯れともいいますが魂そのものが澱まないように手入れを行い続けて常に新鮮であり続けるための工夫です。

この思想は、世阿弥の初心を忘れるべからずのようにあらゆる先達の方々が実践の中に取り入れてきました。現代では、あまりこの穢れという言葉を見聞きすることもなくなってきましたが私たちは本来、水の性質を生きていますから水が清らかであり続けるように自分たちの根源的な本質を洗い磨き続ける必要があります。

「洗心」という言葉があります。

これも穢れを祓う禊から出てきた言葉です、読んで字の如く心を洗い続けることで魂を磨くということを示します。私たちは、生きていると色々なものがこびりついてきます。油汚れのようなものから、埃のようなものから、また或いはシミのようなものまで生活の中で様々な垢が出てきます。

それをそのままにしていたら、本来あった瑞々しい本体を維持していくことが難しくなり自分が一体何ものであったのかすら思い出すこともなくなっていきます。自然のままであったものを不自然にすればするほどに穢れは増えていきます。

この自然のままというのは、元素、エレメント、つまり原始的な火、水、月、土、風などのシンプルなものであればあるほどに「そのまま」です。それを加工すればするほどに不自然になるということです。

滾々とわき出てくるような元氣の根源は、常にこの原始的なものと触れているときに活性化するものです。私たちは元氣を失えば、気枯れをおこし、病気になります。心身を病んで精神を痛めてしまえば、まともな暮らしを営んでいくことができません。

古来の先人たちは、常にそのことを意識し穢れを日々に祓うことを大切にしてきました。私も日々の暮らしの中で、火や水、風、土、木をはじめ様々なものを活用してその穢れを祓い元氣を甦生させています。

元氣さを保つというのは、大自然の中に一人、一緒になって存在している感覚を保ち続けることです。現代は大きな刷り込みのシステムがあり、そんなことはいちいち考えないとは思いますが私たちは地球と一人であり、宇宙とも一人です。

地球人、宇宙人であるという意識に先人たちは生きたからこそ神話もあり、星々の運行を直観することもあったのです。非科学的なもの非現実的なものは、現在の常識では非常識な意見とも思われます。しかし実際に、内面の深くに入れば入るほど、潜在意識の奥底に沈めば沈むほどその価値が偉大であることに気づくものです。

私たちは暮らしの中に宗教があり、それを道と呼びました。これは暮らしこそ道であるという意味です。暮らしは文化ですから、文化を生きていれば次第に日本人らしくなっていくのです。日本文化の根源にこの「穢れを祓う」という思想があることに仕合せを感じます。

日本人らしい生き方を実践しながら、子どもたちに元氣の智慧を伝承していきたいと思います。