有事に古典を活かす

有事の時には、過去の歴史の中で同様に乗り越えてきた方々の格言が参考になるものです。それは子孫へ、自分たちが学んだことを伝承し、似たことがあった時にそれを活用して乗り越えるための気づきを与えてくださっているからです。

有難いことにはじめて起きたことであっても、過去の人たちもみんなはじめてのことに挑み、そこから学び、乗り越えてきたから今の私たちにその教訓が語り継がれています。

その教訓をどう活かすか、そこから何を気づくか、学問が試される瞬間です。

中国の古典は、長い歴史があり参考になるものがたくさんあります。私は論語や易経が好きですが、それ以外にも有事の際の身の処し方や生き方が書かれます。

「臨禍忘憂、憂必及之」(春秋)

(災難に直面していながら、やがてくる憂いを危惧しないでいると、きっとその憂いが現実のものとなる)

現在の災難に直面している時こそ、これからやってくるであろう憂うべき危険な状態をそのままにしているとそれが必ずやってくるということです。いわば、今すぐに愁いを払うために準備せよということです。

また呻吟後には、「天下之禍多隱成而卒至、或偶激而遂成。隱成者貴預防、偶激者貴堅忍」とあります。

(不幸な出来事は、裏で進行していたものが急に表に出てくるか、あるいは、ふとしたキッカケで表に現われてくることが多い。裏で進行しているものに対しては、早めに手立てを講じる必要があるし、ふとしたキッカケで現われてくるものに対しては、辛抱強く対処する以外に道はない。 )

これは今のコロナウイルスの事に似ています。国家や政府が色々と裏で進行していたことには何らかの手立ては考えないといけないけれど、天敵のようなものが出てきたら辛抱強く対処していくことです。

私が今参考にしている呂新吾はこういいます。「雨畢而除道、水涸而成梁。草木節解而備藏、隕霜而冬裘具、清風至而修城郭宮室。」

(雨の時期が終わって道をきれいにし、水が涸れてから橋をつくる。穀物を取り入れてから備蓄し、冬の初めに冬服の用意をし、危険のないときに城の内外を修繕する。
つまり、万事、物事というのは先の準備を怠らぬようにしなければならない)

今しかできないことを、このタイミングで行うにはいい機会です。それは自然農のように、季節は廻りますからちゃんと今後の展開のために準備を怠らないで進めていくということです。これは縮まって困窮するのではなく、今まで通り理念や初心を優先してやるべきことを真摯に取り組むということです。

そして菜根譚です。「 天之機緘不測。抑而伸、伸而抑、皆是播弄英雄、顛倒豪傑処。君子只是逆来順受、居安思危。天亦無所用其伎倆矣。」

(天が人間の運命をあやつるからくりは、人知ではとうてい推し量ることはできない。抑えて苦しめたかと思うと、伸ばして喜ばせ、伸ばしたかと思うと抑えたりして、みな、英雄をほしいままにもてあそび、豪傑を打ち倒したりするものである。
ただし、道に達した人だけは、天が逆境を与えれば順境として受けとめ、平安な時にも緊急の時に対する準備をしている。だから天もこのような人に対しては、どんな手だても施すことができない。)

・・ただし道を達した人だけは、天の逆行を順境と転じて福にし、平安の時にも常に有事に備えて日々の実践を怠らない。まさにこのような人にはどんな手も通用しない。つまり、決して油断せずに天理に沿って原理原則を大切にしながら天命と運命、人事を盡して生きている一期一会の人物こそ有事の際も影響を被らないということでしょう。

私は、ずっと若いころから崔後渠の「六然」という言葉を一期一会と同じくらい座右にしてきました。これを安岡正篤氏が訳したものがありこれを紹介して、終わります。

自処超然(ちょうぜん)自ら処すること超然:自分自身のことにとらわれてはいけません。
処人藹然(あいぜん)人に処すること藹然:人に対する時は、いつもなごやかでいなさい。
有事斬然(ざんぜん)有事には斬然:事が起これば、勇断をもって処理しなさい。
無事澄然(ちょうぜん)無事には澄然:何事もなければ、澄みきった心でいなさい。
得意澹然(たんぜん)得意には淡然:自分の思い通りになったときには、自慢せずにあっさりしていなさい。
失意泰然(たいぜん)失意には泰然:自分の思い通りにならないときにも、取り乱すことなくゆったりとしていなさい。

こうありたいと思います。

 

いのちの存在

現代は、世界のほとんどは西洋化が進み物質文明で覆い隠されていきましたから物はいのちではなく物として扱われるようになりました。それは最初は、無機質な道具類や建物、通常人間のように動いているように見えないものからいのちではなく物として接していくようになりました。

そしてそれがさらに大量生産大量消費の刷り込みの中で、動いているものやいのちがあると信じられたものまで物になっていき次第にいのちそのものが見えなくなっていきました。

いのちが見えなくなってしまえば、最後は自分のいのちすら物になっていくかもしれません。物のように接していくというのは、言い換えればすべて物にしていくということです。これが文明の持つ課題であり、文化はそれを常にバランスを保ってきました。

現代は文化が急速に衰退させられ、一時的に文明ばかりを追い求めていきました。それは物化する過程だったように思います。本来、地球は物か?そして海は物か?さらに宇宙は物なのか?最小単位ではウイルスは物なのか?という問いにたどり着くはずです。

そもそも物ではないと悟るのなら、何を自分たちが改める必要があるかが自明します。そしていのちの存在に気づくのなら、もっと大切にしなければならないことや優先すべきことがわかります。

人類は、今、大きな分岐点に来ています。ここで気づけるか、それともこれでもまた同じことを繰り返して覆い隠し続けるか。大事なことは気づいた人が、まず自分の足元から換えていくことです。そして私と同じように、古い物のいのちの力をお借りしていのちを甦生させ、いのちの存在に気づかせていくことです。

引き続き、子どもたちの未来のためにも徳を磨き挑戦をしていきたいと思います。

衆知を集める~クラシフルソン~

昨年末にハッカソンと聴福庵で行いましたが、次回は暮らしフルネスを取り入れて色々と試行錯誤してみます。もともとの「ハッカソン(Hackathon)」とは、ハック(Hack)とマラソン(Marathon)を掛け合わせた造語のことです。これはエンジニア、デザイナー、プランナー、マーケティターなどがそれぞれでチームを組み、与えられたテーマを設定し技術やアイデアを持ち寄り短期間で集中してサービスやシステム、アプリケーションの開発をして成果を競いあう仕組みです。

この「ハック」「ハッカー」は、本来システムやソフトウェアを解析、改造するなど、「たたき切る」「切り刻む」「耕す」という本来の言葉の意味がありますが、「物事をブラッシュアップしていく」という意味だそうです。

実際には、日本でいう「ハレ」と「ケ」のように日常の同じ作業ばかりで繰り返されるマンネリ化を防ぐ効果もあったり、視点や目線を換えてみることで新たな観点を見立てるという効果もあります。

「場」を換えるだけでも、発想も視点も変わりますから場の道場(BA)を活用することは大変な効果もあります。

そしてもう一つハッカソンとは別に「アイデアソン(Ideathon)」というものがあります。これはアイデア(Idea)とマラソン(Marathon)を掛け合わせた造語である特定のテーマについて多様なメンバーが集まり対話を通じて新たなアイデア創出やビジネスモデルの構築を短期間で行う仕組みがあります。

これはITエンジニアに限らず、多様な人たちがみんなでアイデアを持ち寄って集合知を創造するときに使います。日本では車座になって、長老を中心にみんなで意見を出し合って物事を判断していた歴史がありますが敢えて偶発的な対話の中で思いもがけないようなアイデアに出会うというのはまさに人類発展の仕組みの一つです。

これらを、私の場や和、間の思想と合体させ「クラシフルソン」というものを開発中です。これは「暮らしフルネス」(KURASHI)×「マラソン」(MARATHON)を掛け合わせた造語で、暮らしの中でもっとも和合した衆知を集める仕組みです。

ブロックチェーン神社にお祀りしている八意思兼神というのは、その道の神様です。

この神様が喜ぶような働き方を、BAで創造していきたいと思います。

 

故郷の先生

昨日は自然農の畑で無事に堀池高菜を収穫することができました。昨年は、ほとんど収穫ができず種どりだけをして今年につなぎましたが今年は大収穫の一年になりました。

特に今回は、大勢の方々が植え付けや除草に協力していただき色々と豊かさや温かさを思い出す感謝の収穫を味わいました。本日、天日干しをしそれから洗浄して漬け込み、仮漬けして一週間で水があがったら本漬けという流れです。

思い返せば、東日大震災から自然農の畑を借りて高菜漬けをはじめました。気が付くともう9年も、最初の種を守り続けて育ててきました。そう考えると、種ともに生きて、種と共に様々な体験を乗り越えて今があります。

この種を見守るという行為は、先祖たちが子孫たちを見守り続けることに似ているような実感があります。時には、繁栄し繁茂しますがまた時には滅亡寸前にまで陥り、衰退することもある。

しかしそれでもなお、見守り続けていくなかでまたその種が甦り強く逞しいいのちとして実をつけ花となり子孫を増やしていく。それを先祖がどのような気持ちで見守っているのかを実感したのです。

私たちは自分のことを生きている時は、一代限りの人生を感じているかもしれません。しかし実際に自然農に取り組むと、種を毎年大切に保管しそれをまた蒔き育て新しい種を見守り続ける中では何代も過ぎたこと、何代も先のことを見据えて田畑に出ていきます。

田畑とは、自分たちが暮らしを営む舞台でありその舞台が充実していく中でイキイキといのちは甦りそこで先祖から子孫まで場に存在し続けていきます。私たちの故郷、風土もまた然りであり、風土と一体になって存在し、風土の中で種を見守り続けていきます。

自然本来のいのちの姿を学び直すことは、現在のグローバリゼーションや資本主義の歪みを見つめるいい材料となり、自分の抽象概念を正常に戻すためのいい訓練にもなります。

人間は刷り込み、刷り込まれていきますから、何が本来の自然であるか、何が本来のいのちであるかを知ることは、人間社會を持続可能にするためにも何よりも重要な気づきの源泉です。

私は有難いことに、この郷土の伝統野菜が師匠になって私を導いてくれています。故郷の先生は、自然の風土と共にいつまでも生き続けています。謙虚に自然から学び直し、本来の生を全うしていきたいと思います。

覚悟力

現在、報道では厳しい生活の状況を伝えるものが増えてきています。業種によっては、善い時と悪い時がある仕事があり大変なときに善い時にどのように危機に準備していたかが問われてきます。

私たちは今の安定した生活が当たり前に続く、いや続いてほしいと心で願っているものですが実際には努力の上ではじめて安定はあるのであって何もしないで安定を維持することはできません。

どうしてもマンネリ化してくると、今の環境や状況が当たり前のようになり感謝を忘れたり、謙虚さを見失ってしまうものです。しかし有事の時、改めてそれが当たり前ではなかったことを知り反省して人間は成長していきます。

過去の失敗や過去の怠慢な自分をいつまでも忘れないで自戒している人は、困難に強くまた現状を打破していく底力を持っているものです。そしてその底力の源泉とは何か、それは「覚悟力」なのかもしれません。

松下幸之助氏は、著書「道をひらく」の中でこういいます。

『すべてのことにおいて、いろいろの姿で刻々に「覚悟はよいか」と問われているのである。そのことをみずから察知して、自問自答するかしないかは、その人の心がけ一つであろう。ましてや昨今のわが国の社会情勢、経済情勢は、世界の動きとともに寸刻の油断もならない様相を呈しつつある。つねに「覚悟はよいか」と問われることを、おたがいに覚悟したいものである。』

覚悟力の源泉は、「覚悟はいいか」と自分に尋ね続ける力であろうと私は思います。それは言い換えれば、当たり前になるなよ、マンネリ化するなよと、殷の湯王が「日々新たに、また日々に新たなり」と毎日に自分に問いた実践と同じことです。これはあの土光敏夫さんの座右の銘であったとも言います。

人間の最も怠惰になり堕落なところはこの覚悟をしなくなるということかもしれません。覚悟を忘れれば人生はそこで自分のものではなくなります。また主人公でもなくなります。そうなると、たった一度の自分の人生が誰かのものにすげ変わってしまうのです。

そうならないように歴史の先輩たちは「覚悟力」を日々に磨いたように私は思うのです。私もまた道を志すものとして覚悟力を身に着けたいと思っています。こういう時だからこそ原点に立ち返り、覚悟を磨いていきたいと思います。

道は無限にある

人類はまた歴史に遺るような困難に見舞われています。新型コロナウイルスを発端として、いつ来るかといわれた株の暴落。今回は実体経済の方まで自粛と閉店、活動休止により急激に停止させられています。

過去の歴史を省みると失業者で溢れ、食べ物がなくなり不満がたまりそこから戦争の火種が出てきます。特に現代のように平和ボケしてしまった状態では、何が起きたのかすら気づくのに時間がかかるように思います。

本来、リーダーの役割は危機に対して敏感に迅速に行動をすることです。いつか来るであろう日を周りが楽観視して誰も考えもしなくても、ただ一人でその孤独と向き合い、みんなを守るために粛々と自重しながら対策を練り続けるのです。

戦国時代であれば、いつだれがどのように攻めてくるのかがわからず、どんな時でも生き延びることができるようにと常に八方に注意を払い最善を盡してきました。その歴史を生き延びて今の私たちもいます。

そして世界中で自然災害に巻き込まれたときには、みんなが飢餓を乗り越えるために協力し合って助け合い連携してきたから今の私たちがあります。

困難はある一方から観れば人類が大きく修正し、成長するかけがえのない機会でもあり、それをどのように乗り越えるかで子孫へいのちをどのようにつなぐかの未来が懸かっています。

困窮するとき、困難に陥るとき、先人はどのような智慧をもってそれに正対したか。松下幸之助氏は「道は無限にある」の中でこのように語ります。

「われわれ人間の歴史をみても、おそらく三十年前には想像もできなかったと思われることでも、今日、現実の事実として次つぎとできていることがあります。これはいいかえると、人類の限りない発展の過程の一コマであるというようにも考えられるのです。ですから、決して困難なことはないというようにも考えられます。ただ困難にするかしないかということは、それを困難なこととして認識するか認識しないか、認識してそれを打破する道を見出すか見出さないかということだと思うのです。」

困難だから困窮するのではなく、困窮するから困難が悪いものになっていく。困窮するのではなく、こういう事態だからこそ道を拓こうとする。そうして道を拓く人は、困難を認めたうえで困難を打破することでより発展向上し成長するのであるということでしょう。

今までなんとなくずるずるとやってきたことをここで決別するいい機会であり、方向を完全に転換する最良の好機という見方もあります。大切なのは、ただじっとして困窮するなということです。

困難を前にしてあなたはどうするか、道を拓く人か、それとも道にどうする人か。

道は無限にあるのだから、自分の決めた道を歩むことが困難を乗り越える覚悟でしょう。子どもたちのためにも、道を拓いて新しい時代の幕開けを楽しみたいと思います。

人が集まる場

人が集まる場というものがあります。なぜか、そこには場があり大勢の人たちが往来しているうちにコミュニティが生まれてきます。パリのカフェのように、様々な思想の共有であったり、芸術家たちの学習であったり、新しいことを始めるきっかけや出会いを創造するところであったり人の集まる場には確かな「場」が生まれます。

ではなぜその場が生まれるのかということです。

人は場に引き寄せられ移動していくものです。これはすべての生物が、環境によって拠り所をもっているところに似ています。そしてそれは生きていく目的によってまたその場を選んでいきます。

これは動物だけではなく植物でも同じく、どのような環境に自分が適合しているかを無意識にも理解しているのです。逆を言えば、自分に合わない環境のところには近づくことはありません。

そう考えてみると、「場」というものは目的に合わせて環境を創造することであり、その環境が生きものたちを集める力を持っているということです。

場を研究するにあたり、どのような「場」をここに創造したのかという場を司る人物の目的を確認する必要があります。その場には、その目的にあわせて最適な場を創造した人の思想や生き方が空間や環境に凝縮されて存在しているからです。

人々が集まればそこに自然に不思議なつながりが生まれ、その偶発的な出会いによって運が変わります。運とは、循環であり天機であり、命の変化です。

現在、場の道場を創造していますがこの場がどのような命の変化を創発するか、そしてどのような人々を集めていくかとても楽しみです。子どもたちのいのちが輝く舞台になるように譲り遺してにしていきたいと思います。

食生活の暮らしフルネス

今週のはじめから胃腸の具合がわるく、玄米がゆなどで整えています。今回のように調子のわるいのは久しぶりで、日ごろの食生活を見直す必要を改めて感じています。

日本の諺に、「腹八分で医者いらず」というものがあります。これはお腹いっぱいまで食べるよりも、腹八分目程度に抑えて食べるほうが体には良い、そして暴飲暴食を戒めるためのものです。

他にも似た諺がたくさんあり、小食は長生きのしるし、節制は最良の薬、大食短命、腹八分に病なし、腹八分目卑しからず、また腹の身の内というものです。

分かってはいるものの、会食が続いたり、外食が増えるとすぐに食べすぎる習慣がついてしまいます。かつて一汁一采に取り組んでいた時は、食べてもすぐにお腹が空いて腹八分を実感しましたがその習慣が外食続きで失われるとまた食べ過ぎてしまいます。

脳や口や舌で食べるものよりも、実際にはお腹で食べるものが食事であったはずですが現代のような飽食が当たり前の時代は気をつけなければすぐに刷り込まれてしまいます。

この腹八分は科学的にも様々な実験で検証されており、平均寿命を延ばすだけでなく、健康寿命(病気にならない健康な期間)も延ばすといいます。老化が進むなかで、若い時のように消化吸収してすべてエネルギーに還元できるわけではなく、過剰に摂取すればそれを還元するためにかえってエネルギーを使い過ぎて老化します。

生きていく上で栄養上必要としていた食事が、好きなものばかりを食べるようになっていく中で食生活が変わってきました。むかしは飢餓があり、食べたくても食べれない時代があったなど今の時代では想像もつかないかもしれません。人類はどちらかといえば、飢餓の時代の方が長く、それを何度も乗り越える苦労を積み重ねてきたのです。

一時的に飽食の時代で、ありあまる食料があり日本ではそれを日々に大量に捨てていますがそれが健康を害する原因になっているのだからこの問題は文明病でもあります。

この機会に、腹八分の実践を積み、時代の転換期に新しい食生活の暮らしフルネスを試行錯誤してみたいと思います。

徳の正体

私たちの身体には、長い年月で積み重ねられてきた「徳」があります。この徳は、生まれ変わることによって甦生を続けて今の私たちを支えています。この徳は言い方を換えれば「いのち」ともいい、いのちは何度も甦生することで新しくなっていくのです。

このいのちの本質は、「その徳を磨き続ける」ということを顕します。

私が様々な甦生を手掛けるのは、隠れていく徳を顕現させ、日本古来からの先人の徳や風土の徳を伝承し続けるために必要だと思っているからです。

神道はまさにこれを実践するものですが、私はそれは宗教だとは思っておらず文化であると感じています。そしてこの文化は自然が醸成してきたものですから、私は文化は自然であると考えています。つまり自然とは、風土の姿であり風土がカタチになったものです。そして自然とは徳ですから、その徳をもったものを如何に共生の中で活かしあっていくか。万物の徳を磨き合って調和させていくかが、私たちのいのちの本来の姿であろうと思うのです。

現代は、自然からも離れ風土からも離れ、そして文化からも離れ、日本人が日本人であったことを忘れかけてきています。その中で、かつてから連綿を続いてきた徳を積むという生き方も忘れかけてきています。

今の自分が存在するのは、一体何の御蔭なのか。

それはずっと徳を積み重ねていのちを磨き甦生しここまで紡いできてくださった先祖や風土の御蔭であるのは誰でもわかります。その存在を自覚すれば、自然に恩返しをしたいという気持ちが湧いてきます。

この恩に報いるという心が、徳の基本であり徳を実践するための原動力です。

子どもたちにも先祖がしてきてくださったようなことをそのままに伝道していけるように丁寧に徳を積み重ねていきたいと思います。

本当の復興

昨日は、「大切なことを忘れないDAY」として東日本大震災で犠牲になった方々のことを忘れずにその教訓を活かし続けて子どもたちに祈りを伝承するために毎年カグヤではみんなで黙祷を捧げ振り返りをしています。

あの時、東京で被災した私たちは自然の猛威を感じそして暮らしを見つめ直す切っ掛けをいただきました。それが今では暮らしフルネスという生き方と働き方の一致にまで昇華されました。

また原発で行われた人災を深く見つめ、人災の根本的原因は何かと向き合ったことで今では神家防災5か条や暮らしフルネス10か条などが生まれました。そして数々の実践を積み重ねて、今回の新型コロナウイルスでも迅速に率先垂範した行動がとることができました。

いつの時代も、正確な事実が伝えられず隠蔽や嘘が蔓延れば人災はますます複雑になり不幸が拡がっていきます。また民衆を大切にし人を信じた道徳的な判断ではなく、問題が起きないような自己保身で判断すれば思いやりや真心の社會から遠くなりさらに人々の復興は廃れていきます。

何をもって復興かという定義が、単なる形だけのものであればそれは復興とは呼べるものではありません。本来の復興とは、以前よりも福に転じることができたこと。そしていただいた教訓がのちの世に活きたこと、そして失われたものがさらに発展して甦りみんなが喜んでいることなどは最低限必要なものです。

目先の復興を急げば急ぐほどに、真実は復興とは逆に進んでいきます。これはまちづくりも同じく、目先の政策ばかりでみんなが補助金に群がってしのぎを削っていたら町はどんどん廃れていきます。

歴史や過去に学び、本当の復興とは何か、見つめ直す機会もまたこの「大切なことを忘れないDAY」には入っています。私たちの会社は、どんな時でも目的意識を忘れない会社です。何のためにやるのかにいのちを懸けています。初心を忘れないということは、先人たちへの感謝報恩であり、今を生きる自分の責任を果たすということでもあるのです。

世の中は、機会があって変わる人と、機会があっても一向に変わらない人がいる。それだけです。如何に機会を真摯に捉えて、大切な声に耳を傾けていくか。そこに生き方が出てきて、それを実際の社會に活かすことで働き方が出てきます。

子どもたちのためにも「暮らし」の意味や本質を実際の姿で伝えていきたいと思います。