夢の実現

人は道具があるからそれをどう使おうかを考えてばかりいると目的を見失ってしまうものです。本来は、目的が先にありその目的に合わせて具体的な手段が出てくるものです。しかし実際は、手段ばかりを考えるあまり目的まで手段に合わせるようになれば本末転倒するものです。

例えば、まちづくりにしても国造りにしても然りであり本来どうありたいかという目的を先に定めます。そしてその手段として様々なものを活用する中でちょうどいいものがあればそれを用いれたいいのです。

目的よりも人が手段に意識を奪われるのは、時間がかかるものが不安だったり、それが便利で早いからだというものがあります。これは経営の在り方でも、理念から定めて理念を優先して手段を決めていく会社もあれば、手段から考えてあとから理念の方まで変えてしまうところがあるようなものと同じです。

本来は、目的が明確であればあるほどに手段は無限に存在しますからやっぱり大変でも目的にこだわった方が最終的には多くのものを活かすことができるように私は思うのです。

この「何のために」というものがどれくらい明確になっているかどうか、そしてそのために具体的に何を実践するか、その順番で物事を行えば不思議ですが道が拓けていくように思います。

目的に合わせてなんでもちょうどいいと、今を活かしきるという生き方が最終的には周囲を巻き込み夢を実現させるように思います。目的を観続ける力は、初心を忘れない力の事です。

初心を忘れずに、道を拓いていきたいと思います。

伝統を継ぐ

琥珀色というものがあります。これは飴色に輝いている透明感のあるものですが、長い時間の経過が色に入っているものです。私はこの琥珀色のものがとても好きで、飴色のものをみるとすぐにうっとりしてしまいます。

経年変化というものは、長い時間をかけてじっくりとゆっくりと積み重ねられてきたものです。この積み重ねというものが時間をかけて色合いを彩りその歴史を語るからです。

私は歴史を感じるときに心がとけます。

歴史とは、文化でもあり、心の在り処でもあります。私たちは日々に追われるように生きていますが、このいのちもまた先人たちがここまで紡いできたいのちです。いくら新しいように感じていても、魂は古く、琥珀色をしています。

そして初心や目的を忘れずに文化を伝承してきた姿から琥珀色や飴色の透明感を感じます。この琥珀色や飴色は、時には青いものもあれば、白いもの、黒いものあれば、赤いものもあります。しかしその色から放たれるものはすべて琥珀色や飴色を醸しているのです。

時を感じる力というのは、この積み重ねられてきた「徳」を感じる力です。

徳を引き出すということは、積み重ねてきた今を顕現させるということに似ています。それは自分も先人たちと同様に積み重ねる実践を行うときに顕現します。伝統を継ぐということは、徳を引き出すということでしょう。

徳を引き出し、子どもたちに伝承していきたいと思います。

大切な智慧

人は目的に合わせて場を創造していくものです。何のためにという目的があって、その場所にはそこに関わる人たちの「思い」が空間の中に蓄積していくからです。その思いが場となり、その場は力をもって多くの人たちを引き寄せていきます。

場力というのは、目には観えませんが確かに存在していてその場の力が働くことで私たちは様々な助力をいただくことができます。

例えば、私の自然農の畑では自然との共生というテーマがあって高菜を植え育てています。ありとあらゆる動物や虫たちが自由に謳歌し、野生のままですがそこで農作業をしていると不思議とストレスなどが消えていきます。

少し横になり、天を仰いでじっと落ち着いているといのちの存在を身近に感じ、小さな虫たちの活動を眺めては自分もその自然の一部であることを認識し心穏やかです。

日ごとは都会のど真ん中で人工物と人工的な目的の影響を受けて働いていますが、都会ではどうしても経済活動の場として用意されていますから何をやっていてもその力の影響を受けていきます。

このように場というものは、目的に合わせてその環境を構成しますから私たちは目的と場というものをよく考えて創造していく必要があるのです。私は世間でいう、自然と共生しようともしないことを暮らしといっても人間中心の世界で人間相手だけに物販をしている人たちを暮らしているとは思っていません。

暮らしとは、自然の循環の中に入って共に生きていくことが前提ですから先人たちのように自然を相手にしながら自然と共にお互いを活かしあう活動をしていくことをいうのです。

暮らしの定義も、和風と同じように暮らし風になってきていますから本物の暮らしを伝承していくことも智慧が必要です。

暮らしフルネスは、基本は原点や原型を重んじます。原始の魂を真摯に受け継ぎ、温故知新して甦生させ、現代でも自然との調和をはかります。新しいサウナがいよいよ着工しますが私の「水」の智慧の集大成として取り組んでいきたいと思います。

子どもたちに、その大切な智慧を伝承していきたいと思います。

知恵を絞る

物事には損得というものがあります。損というのは、何か自分が不利益を被るもの、そして得というのは利益を得るものとして認識されています。しかしその損得は、大きな視点から観ると一時的であって全体としては循環していることがわかります。

地球に置き換えてみれば、すべて地球で行われている損得はすべて「徳」です。つまり、一時的に損であっても長い目でみれば得であり、一時的に得であってもまた長い目でみれば損であることがあるのです。

また自然界で観ていれば、人間にとっての得はその他の生物にとっては損になります。長い目で人間は損をしても、自然環境の思いやり徳を積むことの方が偉大な得を得ることもあります。

自然界の利子で暮らしてきたアイヌの先人たちや、かつての先祖の循環型の生き方は今の時代からみれば原始人的で非効率的のように思われまずが本来の損得の意味を深く理解した行動であったのはきっと後世の人たちによって証明されるように思います。

現代のように物が溢れる大量消費の価値観と資本主義経済の世の中においては、この「徳」の深遠な智慧を理解することはないかもしれません。

しかし身近な暮らしや人間関係の中、その他のどんなことにも一損一得があり、そのどれもが必要なものでそれをどう活かすかというところに人類の智慧があります。利他で生きようとする人には、大きな余慶が入ってきて家が仕合せになるといいます。また自利貧というか、貧乏の影にはつねに自分さえよければいいという孤立が出てきます。

私たちは自然の法則の影響を受けますから、生き方を転換するような出来事が起きては人類はそこから学び直し、何度も文明をやり直してきました。今は、まさに文明の転換期ですがどのようにこれを立て直すのか。

私もブロックチェーンストリート構想を掲げていますが、新しい道徳経済を甦生するために知恵を絞りだしていきたいと思います。

活かそうとする心掛け~生活習慣~

日々に色々な出来事が起きますが、それをどのように活かすかはその人の力量が試されるように思います。ある人はそれをちょうどいいと丸ごと活かそうとし、またある人は厄介だなと対策ばかりを立てようとします。

事物には、活かすと活かさないという考え方があります。せっかくだからと活かそうとする人たちは新しい偶発的な出会いに導かれ未知の領域を発見し新鮮な感動が起こります。活かさないというのは、活かせないともいい新しい発見が生まれません。

この活かすかどうかは、生き方が大きな影響を与えているように思うのです。

自分の能力や魅力、周りの個性、自分のご縁、人生での機会、あらゆるものはこの活かすか活かさないかで分かれていきます。そこには確かに生き方があり、その生き方の活力次第で人生の質を左右していきます。

生活というのはまさに日々の活かし方の取り組みであり、私たちの言う「暮らしフルネス」はまさにその生き方を磨くための大切な実践徳目とも言えます。

仕事もプライベートも、なんでも活かす人は新しい発見と発明、挑戦やチャンスを発掘していきます。なんでも活かす人は、まず素直であること。そして素直である人は感謝があること、感謝がある人は好奇心があること、好奇心がある人は反省する人、反省する人は気づきがある人、気づきがある人は改善できる人、改善できる人は冒険できる人、冒険できる人は勇気がある人というように次第にすべてが一円につながっていきます。

日々の暮らしが充実している人は、自己全体愛や全体善もまた充たされており足るを知ります。日々の暮らしを楽しむという豊かさが、社会全体を豊かにしていきます。それは物があるかないかではなく、「活かそうとする心掛け」が決めるといっても過言ではありません。

活動というのは、活かそうとして行動するということです。大切なのは活かせるかどうかではなく、活かそうと努力し続けることです。なんでも「ちょうどいい」、「今の自分に相応しい」と集中していくことが生活を豊かにしていくことです。

子どもたちに「暮らしフルネス」の豊かさを伝承できるように取り組みを楽しんでいきたいと思います。

人災

災害には、自然に発生したものと人が発生させたものがあります。自然災害の方は、自然の治癒であり全体最適のための災害ですから自然調和が働いて発生します。それは道理に適っており、自然の摂理に従っていくしかありません。自然はそうやって40億年以上前から、地球という存在を調整してくれて今があります。

宇宙のすべての調和は、私たちの見知らぬところで常に循環維持されておりその中で生きものたちは適応しながら生き続けてきたからです。

それに対し、人災は意味合いが変わってきます。この人生は自然の摂理を無視して、人間の都合で調整してきたものが崩れるときに発生します。場合によっては地球の環境も崩し、世界的に大きな災いとなって降り注いでいきます。

例えば、ある小さな島で儲かるからとすべての木々を伐採して島の外に売ってしまえばその島は人が住めない島になっていき人々はその島で生きていくことができなくなります。それは島にある保水力がなくなり、動植物が育たなくなり、生き物たちが生存する環境が破壊されてしまうからです。飢餓や飢饉が発生するのは、そうなることが分かっているのに抑制して自律する判断ができなかったからです。

これをある人は木々がなくなったことが自然災害といいますが、そうなることが分かっていても木々を伐採することをしなかったのだから人災なのです。

つまり自然災害と人災の大きな違いは、そうなるとわかっているのに止めようとしなかった。そうなることは予想がつくのにいつまでも欲に任せて変えようとしなかったということです。人間の欲望によって発生するもの、それが人災なのです。

人災は現在、世界中のありとあらゆるところで発生しています。その人災を未然に防ぐには、それぞれが自律的に自然に寄り添いながら自然の摂理を学び直し、自己抑制しながらみんなで全体調和していけるように人間力を高めていくしかありません。

道徳ともいいますが、人間の道徳心を高めていくしか人災を未然に防ぐ方法はないように思うのです。しかし現代のように、目先の損得、個人の利益ばかりを優先する社会の中ではそういう行為は滑稽さのようにも映ります。徳を積む行為をしていたら、周囲からそれは何のメリットがあるのかとすぐに聞かれるのもまた道徳が荒廃してきているからです。

二宮尊徳は、飢饉や飢餓があった際、ただの自然災害として受け取っているわけではないように私は思います。それでは心田を耕すとは言わないからです。人々の心の荒蕪こそが、この飢饉と飢餓を発生させたことを誰よりも先に見抜いていました。

自然災害の発生は、その原因をよく見つめてみたらすべて人間が起因になっているものがほとんどなのです。膨大な欲望を貪る前に、その欲望を膨大な道徳心に換えて自然から学び直し、自然の智慧を尊敬し、自然と共生しながら豊かに歩む道を我々人類は求めなければなりません。

私たちは今、試されています。

今回の新型コロナもまた人災ですし、世界中の気候変動もまた人災です。まだ間に合うと信じる人たちがそれぞれの場所でそれぞれの生き方で、人災を未然に防ぐために最大限の努力を一緒に取り組んでいくことを望みます。

私も今、できることで子どもたちのために最善を盡していきたいと思います。

理想と現実

人は生き様を見ることによって、その人が何に信念をもって何を大切にして日々のいのちを使っているかを垣間見ることができます。それを何らかの形になっているものを見て、一つのメソッドやノウハウと感じる人もいますが実際にはそれは方法論ではありません。それは生き様ですから生き方であり哲学なのです。

私が今まで出会ったメンターや師はみんなそれぞれに人生の哲学をもって生き方を磨き偉大な生き様をみせていただきました。私が憧れるのは、その人生の哲学に触れたことでありそれを拝見できる具体的な現場に触れる機会があったからです。

世の中には、ノウハウ本はたくさん出ていますが実際にはそのノウハウ本の通りやれば生き様まで模したことにはなりません。やはりそこには、道に入るというか、同じ道を辿るというか、道を歩むというように一緒に道を究めるような生き様が求められます。

つまり近づくために大切なのは、どのような哲学を持ち、どのような生き方をし、どのような生き様にしていくかという実践からそれぞれに理想を紡ぎだすことです。

理想とは、現実の反対にあるものではありません。現実と理想は常に表裏一体であり、理想が現実であり現実こそが理想なのです。つまり理想にたどり着くために現実を積み重ね、現実を積み重ねることで理想を手繰り寄せるのです。現在の取り組みそのものが何の理想になるか、そして現実の取り組みが何の理想を実現しようとしているのか。

常にそ両方の間には、生き方や生き様が介在し、そこに哲学が存在しているのです。私たちは自分自身を追求していく旅路の中で、哲学に出会い、その哲学がさらに自分自身を導き本当の自分といいう存在に出会います。本当の自分に出会うためにも、人は求めているものに向かって探し続けていくのです。

私は出会いの哲学を持つ一人であり、一期一会を座右にしています。その瞬間に出会うご縁の中に、哲学があると信じるものです。そしてその一期一会には、単なる出会いだけではなく人間愛があり、自然と自分というものが混然としています。混然としたものだからノウハウにはならず、メソッドにもなりません。まるでこのブログの文章のようです。

しかしそこには哲学があり、生き様があり生き方があり、今の暮らしがあります。その暮らしの理想を象ることで哲学を表現することはできます。子どもたちのためにも、自分の生き様や生き方、哲学が未来のいのちに伝承されさらに豪壮になり発展していけるように自らの修養鍛錬と実践を大切にしていきたいと思います。

人類の初心~思いやりの実践~

人生の中で「思いやり」というものが大切なことはそれぞれが分かっているものです。それは人の優しさやあたたかさを実感するときにより深く理解するものです。この思いやりの感覚は、人類は原始時代からありみんなで助け合って暮らしてきましたから太古の昔から思いやりのある民族は永続してきたように思います。

逆に思いやりがなくなれば、殺し合いや奪い合いになりそれらの民族は早く滅びてしまいます。人類が生存可能で持続可能な社會を維持していくには、この思いやりは絶対に不可欠な道徳の要であることはすぐにわかります。

思いやりをどうやって自然に持つのか、思いやりがどのように発揮される社会にするのか、それは幼少期からの愛情豊かなあたたかい社会や見守り合いの体験によって習得していくようにも思います。

生きていく上で必要な能力は、誰が教えなくても最初から私たちは備わっています。しかしそれをどう発揮させていくかの智慧は伝承や環境によって後から身についていきます。だからこそ、保育や教育は大切で人類は如何にその徳性を伸ばしていくかを学び、より善い社会が実現していけるように平和を学び修身修養を積んできたように思います。

しかし思いやりを教えるというのは、学校の教科書のように正しいからと押し付けてもそれは身に着けられるものではありません。思いやりは単なる正解ではなく、テストや偏差値ではないからです。思いやりを教えるのは、思いやりを持った人たちの生き方によってしか教えることができないからです。

優しさ、親切、心の豊かさのようなものは自分の生き方が決めていきます。自分自身がどのような生き方を心がけていくか、その生き方が周囲への模範になり真似したいと思われるような存在になっていくのです。

しかし、現代は無理に正解を押し付けてきたからか自分に厳しく人に優しくという言葉がかえって自分に厳しくし過ぎて自分を思いやることができなくなっているようにも思います。

自分を大切にするということの意味もまた、本来の自分を相手と分けずに思いやるという意味ではなく自分勝手にすることのように使われていたりします。そして相手を思いやるときは、自分は犠牲になって自分は思いやらなくても相手のために自分を使うことのように思い違いをしています。

本当の思いやりは、相手がもし自分だったら、自分がもし相手だったらと分けずに両方を思いやることです。そのためには、自分のことを思いやる気持ちで、相手も思いやるという実践ができなければなりません。自分を大切にするように相手を大切にする。相手を大切にするように自分を大切にするというように、その優しさを分けずに自他両方に接していくのです。

思いやりが大切なのは、一緒に思いやる世の中を目指そうといった平和を実現するための人類の初心が入っているからです。時代が変わっても、人類が目指している理想はまったく変わっていません。

子どもたちに譲り遺したい社會もまた、人類の初心の実現です。引き続き、日々の思いやりの実践を通して平和の実現に貢献していきたいと思います。

場の要諦

私は和を甦生し、復古起新するものですがその要諦としてもっとも大切なことは「積み重ねる」ことであると確信しています。この積み重ねるという言葉は、文化を伝承することにおいてもっとも重要なことです。別の言い方では「研鑽を積む」とも言います。

この「研鑽を積む」とは、物事に対して一生懸命に取り組むということそれを継続して磨き続けるという意味があります。

何よりも大切なことは、文化とは「継続して磨き続ける」という意思をもったものであるのがその言葉の定義なのです。では何を磨くか、それは心や魂を磨きます。そしてその中心には生き方があり、具体的には技術があります。

一つひとつのことを丁寧に和にしていくことは、生き方を和になるように研鑽していくことです。そしてこの積み重ねこそがその「場」に見えかったものが顕現してきてその価値の素晴らしさを人々が実感するのです。

私の取り組む「場」は、積み重ねの場であることは間違いありません。「場」には一体何があるか、それはこの積み重ねがあるということです。そしてこの「場」は、別の言い方では「空」であり、「間」であります。つまり「空間」ということです。そしてその空間に何か大切ないのちの姿が可視化し宿るとき、人はそれを「和」と呼ぶのです。

この「和」が、人間に与える影響は多大なもので子どもたちであれば五感を通してすぐに学ばずに学び、教えずに吸収することができます。私は保育を研究し続け、実生活で自然農や古民家甦生、その他、発酵や伝統技術を学び続けてきましたからこの「和」の保育が持つ偉大な効果を身近でずっと体験してきました。

「場」は、現代のような目に見えるものしか信じない時代に大きな楔を打ち込み人類を持続可能な循環に導く大きな一手になると私は祈っています。この祈りもまた、積み重ねの智慧であり伝統文化です。

引き続き、場の神社と共に暮らしフルネスを通して研鑽を積んでいきたいと思います。

 

 

質の追求

人類はかつて生産性を高めるためにあらゆる工夫をしてきました。生産性を高めていくのは、質と量がありますが量が増えていくことで質は次第に下がっていきました。その下がってきた質をそれ以上下げないようにするためにあらゆる工夫を凝らしてきました。

それが科学や工業の発展につながっているともいえます。しかし、本来、質を高めていけば量は減りますが質はさらに高まっていきます。量が少ないからこそ質は上がります。かつての先人たちは量が少なくなっても、それは永く使えるものになっていきますから敢えて量を少なくする戦略をとってきたのです。

ここ数百年で人口を爆発的に増やし、大量生産を可能にした人類はますます質を下げていきました。そしていくら進歩したと発表しても、質がそれで本当に上がったのかというとかえって下がってしまった質の中での最高を目指しているのであって本来の質には戻ることはできません。

量の拡大というものは、時間を短縮するものです。短期的に効果を発揮することを優先する場合は一時的に量を確保することはいるでしょう。しかし長期的に効果を発揮するには必ず質を選ぶ必要があります。

長い年月生き残るための智慧は質を守っていくことです。それは量を優先しないということです。現代は資本主義で大量消費による利益の無限の拡大を競争の中で目指していますから、その中での質はあくまで短期的な効果のみで優劣を決められてしまいます。

歴史や伝統文化に取り組めば組むほどに、手間暇や準備をかけて人の手で丹誠を籠めて限りなく質の高いモノづくりを観ていたら人類の永続してきた理由に気づきます。私たちの先祖は、自然と同じリズムとサイクルでどれだけ安心して暮らしを営むことができるかを第一に考えてきたように思います。

そこには人生の質をはじめ、ありとあらゆる質を追求して今でいう非効率的なことに人生を費やしていきました。しかしそれが何百年と続く中で、如何にそれが大切であったかに気づき先人たちに向けて頭が下がる思いを持ったに違いありません。

何世代も先のことを真摯に考え、質の高い生き方を選んでいくということが結局は洗練された人類を産み出したということでしょう。縄文時代のような人たちは決して古代の何もできない原始人だったわけではなく、もっとも質を追求した先人の姿だったのかもしれません。

だからといって今更原始人に戻れというのは乱暴な話ですから今と向き合って今なら何が質を高めたことになるのかということを暮らしを通して提案していかなければなりません。

私が考える「暮らしフルネス」とは、人類の原点回帰でもあり子孫へ向けた智慧の伝承でもあり、また人類の質の追求でもあります。あらゆるものを混然一体にしつつも原点だけは見逃すことがないように丁寧に初心を忘れずに取り組んでいきたいと思います。