水を守る

梅雨入りをしてずっと激しく長雨が続いています。水という物質はいまだに謎が多いもので科学でも完全に解明することはできません。というより、解明したのはほんの一部でありそのほとんどが謎というのがこの自然界の特徴でもあります。

それなのに人間は知った気になって考えることをやめてしまっていますが、好奇心というのはその謎を畏敬し直感するときに湧いてくるもののようにも思います。

宇宙で様々な科学があるのもまた、その好奇心から宇宙の物質の一つを解明する過程で新しい技術は開発されてきました。それでもなお、宇宙の謎に完全に迫ることはなくそれくらい奇跡の存在がこの私たちであるという事実がわかります。

近年、水が一つの性質のものではなく二つの性質が混ざり合って一つになっていることがわかってきています。液体に氷が浮くというのもその二つの性質が存在するからともいわれています。不思議なことですが、この世の中心は陰陽という二つの性質が混ざり合って構成しています。その構成したものを先祖たちは理解して、その原理を活用して物事の本質を見極めていったのでしょう。

水に話を戻しますが、私たちの地球は水の惑星ともいわれています。水が惑星全体を覆い、その水が循環することで私たちは存在できています。人間の身体の構造もまた、水が全体を覆い、その水を循環させることで生きています。こう考えてみたら、そもそも水がなければ成り立たず、私たちの存在は実は水ではないかとも思えるほどです。

水がいのちであり、いのちが水である、そして人間もまた水ということになります。その水は色々なものを溶かしていきます。そして変化して已みません。その水を私たちの体も通して別の生き物に循環していきます。その循環する過程で、ろ過をして伝達していきます。あらゆる場所、物、空間すべてを水が透過していくのです。温度を持ち、変化し、そしてまた形を変える。そうやって巡り続けていくことで水は存在します。

この水の惑星地球は、水が覆っているから地球でありその水が別の惑星にいけばそこが新たな地球にもなります。火星にも水があるといわれていますが、むかしあった大量の水はいったいどこにいったのか。なぜ流れなくなったのか、循環しなくなっていったのか。そこに水の性質が二つあることを連想させます。

水が永遠の謎ですが、この永遠だからこそ水の本体を顕現させているのです。

子孫のためにも、水に守られていることを忘れず、水を大切に守り続けていきたいと思います。

薬草の知恵

この時期の英彦山にはジキタリスという花を見かけます。一本の茎から下向きにたくさんの花弁をつけます。傍から見ても気になる姿と形でインパクトがあります。山に咲いていると、気になって近づいてまじまじと見てしまいます。

この花は、ヨーロッパ西部・南部原産で和名はキツネノテブクロといいます。この花は、心不全の治療薬として世界で初めて臨床応用された薬剤になったものとして有名なものです。1785年頃に老婆が用いた民間薬をヒントに臨床薬として検証され、その後ずっとこのジギタリスは急性、慢性心不全患者の治療薬として数百年にわたり使用されてきたそうです。さらに調べてみると、古代から切り傷や打ち身に対して薬として使われていたともあります。

英彦山には、数々の薬草が存在しています。気が付かないだけで、よく観察するとむかしから効果のあったものが発見できます。それを知恵として伝承し、あらゆる薬をつくっていたのかもしれません。

今のように化学の力でなんでも薬を調合する時代ではなかったころ、私たちは植物をはじめ自然の中から薬を見出してきました。毒が薬になることを知っていた先人たちは、その用途において使い分けをしていたのがわかります。

例えば、有名な有毒植物にトリカブトがあります。この植物の名前の由来は、その美しい花の形が祭礼に用いる鳥兜という冠に似ていることや、鶏のトサカに似ているからともいわれています。これはキンポウゲ科の多年草で、その根を乾燥させた附子には強い毒性があります。かつてはアイヌの狩猟用の矢毒として使われていたそうです。しかしそのその一方でこの附子は生薬として漢方薬に用いられています。夜間の頻尿対策として高齢者に処方されることが多い八味地黄丸にも含まれているといいます。腎臓機能を回復させるのに使われる薬です。

このように毒は薬にもなり、またその逆もありますが用途と分量次第ではとても役立つものにもなります。

先人たちは、毒をただ悪いものだと思うのではなくなぜ毒があるのか。その毒は薬にならないかと、すべての自然の効果を活用して学び転用してきました。そこには自然への畏敬や、植物への尊敬があったように思います。

薬草の持つ効果や知恵を学ぶことが増えていますが、子どもたちに自然との関りや植物からの恩恵などを伝承しながら未来へ先人の知恵をつないでいきたいと思います。

暮らしの甦生

人は真理というものを外に求めていく人と内なるものに求めていく人がいます。それぞれに外にも内にも見出せるのかもしれませんが、そのアプローチが人によって異なるものです。実際には外側にあるものを信じさせるようなことが多いと、偶像崇拝のようになって形式的なものになっていきます。本来は、形にこだわるよりも中身だということがわかっていても中身がわからないからより外側にまた推し進めていくように思います。

形にこだわりすぎると中身が薄くなっていき、中身にこだわりすぎると形がなくなっていくということは往々にして行われていくことのように思います。それではどうしたらその両輪、総合的にバランスよく行われるかといえばその中庸というか中心の実践によるものだと私は思います。

例えば、自然というものがわかりやすいものです。自然というものは形もありますが中身もあり真理もあります。私たちが自然に沿って自然と一体になって暮らしていると、何が自然で何が不自然かということがわかってきます。旬なものは旬なものしかないし、変化し続けて変わらないものはありません。人工的な生活をしていたら、不便なことばかりですがそれは中身と形が不自然になっていた証拠に気づかせてくれます。

空調がなければ、自分の体の方をコントロールするしかありません。その時、呼吸をはじめ心身を調えることに意識を向ければ真理というものが自己の内面に具わっていることに気づきます。ヨガなどをするとそれを感じられるのも同様のことのように思います。また自然農で畑をすると、自然の植物や生き物たちがどのように生育して活動するのかで外側との共生や調和に真理が顕現します。自分もその生命圏の一部として営みを共にしていくなかで真理と一体化していきます。

この真理という言葉は、宇宙や自然の道理とも言えます。別に教科書や文字で真理を理解しなくても、山にいき一日、山で暮らしてみれば自然にその道理や調和を学べるものです。

私たちは知識によって真理を得る方ばかりを優先してきましたが、そのせいで当たり前の徳の存在や、自分に与えられている様々な知恵を忘れてしまっています。そういうものを思い出すことは、これからの時代を生きていく子孫への偉大な伝承になっていくように思います。

時代が変わっても、普遍的な真理をどうそのままに継承するのか。そこに私は、暮らしフルネスの役割があるように感じています。本来の先人から伝承されてきた本物の暮らしは、実践するほどに自然に内外と結ばれ真理と調和していくからです。

暮らしを甦生して、本物を伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスの体験

楽観的な意識というのは、足るを知る心と通じているものです。私たちはすでにあるものに感謝しているとき、充たされています。一つの型としての暮らしフルネスはその意識の実践ともいえます。

どのような状況であっても、すでにある方に常に感謝を忘れていない。いただいているすべてに感謝できているというのは、常に今を楽しく味わっているということになります。これが楽観的であるということです。

おかしく聞こえるかもしれませんが、不安や迷いや心配、悲しみも苦しみもそして怒りも、本来は味わえるものです。どのような気持ちを今、自分が感じているのかということを味わえるというのはそこに感謝があります。

感謝というのは、何かしてもらったり、得られたりするときにするもののようになっていますが実際にはすでにあるもの、具わっているもの、その徳に対して行うものです。

例えば、味わえるというのは体がなければ体験できません。そして感じられる環境、宇宙や自然がなければその場もありません。さらに物語というのは関係性やご縁が結ばれていなければつながりません。これらは自分で創ったのではなく、最初からあるものをいただいているのです。

こういう初めから存在する徳に感謝している状態こそが、私たちが仕合せを感じている根源ということになります。そしてその徳に報いるというのは何か、それは感謝して前に一歩進めて道を歩んでいくということです。

前向きというのは、楽観と意味が同じようにいわれますがこれもまた感謝の別の顕現したものです。

暮らしというのは、そういう意味ではその徳がすべて具わったものです。この意識や感覚を私と一緒に体験するというのが暮らしフルネスの体験の意味でもあります。それは頭や知識では教えられませんから、体験するしかありません。しかし人生の大切な節目や、本来の自分の魂や天命を見失っているときなどは非常に得難い邂逅になります。

日々の過ごし方のなかで、どのような学びをするのかはその人次第ですが誰と一緒にやるのかというのはまさに徳が結ばれているからでしょう。子どもたちの今と未来のため、子孫の仕合せのためにこれからも味わい深い暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

塩こうじの知恵

昨日は来客があり、塩こうじ鍋を振る舞いました。もともとこの日本人はむかしから麹を食べるという文化の場所です。麹は米・大豆・麦などを蒸して、表面にコウジカビを繁殖させたもののことです。よく日常的に使われる味噌、しょうゆ、日本酒や焼酎、みりんなどを作るのも麹が醸します。この麹は、コウジカビというカビが醸して発酵します。通常は有害な毒を発するのですが、日本の風土で長い時間を経て進化したこのカビは人間と共生して私たちの健康を支えてくれました。

よく感染症が流行る時期などは、甘酒をつくりみんなで飲んで免疫を高めて乗り越えたという文献がたくさん出てきます。塩こうじは、この甘酒の塩版のようなものです。

以前、秋田の三五八漬けにはまったことがあります。これは塩と米麹とお米の割合のことをいい保存食として活用されてきました。塩こうじの起源もこの三五八漬けが起源ではないかといわれています。今のように調味料になったのは最近のことだそうです。ウィキペディアにはこうあります。

「古くは本朝食鑑の鱗部の巻「鰯」の箇所に「或有甘塩者有糟漬者有塩麹漬者号曰黒漬」という下りがあり、「塩麹漬」という文字列が見られる。この後長らく「塩麴」に言及した資料は見当たらないが、2001年になって、料理漫画『おせん』の中で、塩こうじが紹介される。2007年、大分県佐伯市の糀屋本店 浅利妙峰が漬け床ではなく、調味料として使う塩糀料理のレシピをブログや本で広めたのが呼び水となり、2011年後半頃からさまざまな利用法で人気を博すようになった。塩麹を利用したさまざまなレシピが書籍や料理教室で公開されており、最近では乾燥タイプや液体タイプも登場している。」

効果効能はたんぱく質を分解する「プロテアーゼ」、でんぷんを分解する「アミラーゼ」という物質がでて消化を助けます。そして麴菌が生成する必須アミノ酸やビタミンB群には代謝促進作用もあります。

調味料でうまみが出るだけではなく、腸内環境を調え、さらに消化を助け、ダイエットにもなるといわれます。この漬け込むというお漬物の日本人の伝統文化は麹が支えているのです。

御蔭で、次の日はおなかの調子もよく肌もつるつるです。医食同源といいますが、食べ物は本来は薬です。薬と思って食べることによって、私たちは健康への感謝を忘れません。食欲を単に満たすものではなく、有難い健康を保つものだとして食べていくなかに先人たちの願いや祈りもあるのでしょう。

子どもたちにも伝承の食が繋がっていくように、暮らしを調えていきたいと思います。

水の徳

水というのは不思議なものです。現在、英彦山の宿坊の井戸を甦生していますがもう随分長い間使われていなかった井戸で最初は禍々しい感じがしていましたが井戸さらいを終え、綺麗に洗浄し、井戸の中をお手入れしたら出てくる水の気配が変わってきました。

どう変わったかというと、最初は硬い冷たさがあり生き物の気配が感じにくいものでした。それが井戸の甦生後は柔らかい水になり、ぬくもりをも感じる気配になっています。そこには確かに生命や生物の気配があり、水が優しくなっています。

こういうものは単なる感覚だといわれそうですが、水は感覚によって感じ方がまったく異なる性質のものです。同じ水といっても、水道水と山の湧水が異なります。飲んでみればすぐにわかりますし、肌に塗ってみてもすぐに違いが判ります。科学的にはミネラルの成分がとか、アルカリだとか酸性だとか調べられますがそれは感覚で感じる水とは別のものです。

水というのは、もともと流れるものです。流れているときにいのちの感覚が強くなり、止まっていると次第に眠っていきます。水をどのように扱うかは、その人の感性ですが水の不思議はいまだに解明されていないほどです。

私は、火と水をよく使い浄化を遊びます。例えば、火は炭火で弱く長く水に当てます。他には、石を使って蒸気にします。あるいは汲みたてや流れている最中の水を使って味わいます。どれもが澱んでいるものや、曇っているものを澄ませていく仕組みです。

水がよいというのは、それだけで私たちの人生にとても大きな影響を与えます。むかしの人は、水がよいところに好んで住んでいました。今のような景観や便利なところに住むのではなく、水で決めたのです。

私は有難いことにいつも水のよい場所に巡り会います。そういうところばかりに、住ませていただき水を大切に味わう暮らしをしています。この当たり前の水というものにどれくらい本気で気づいているか。ここに私はよりよく生きるためのヒントを感じています。

水が活き活きと流れ出す季節、水の徳に感謝して味わっていきたいと思います。

場を思い出す

昨日は、暮らしフルネスで自然農の体験をしたいという方がきて夏野菜の畑を一緒に取り組みました。はじめてこれから農的な暮らしをはじめるとのことで、何もしたことがなくてもやる気はとてもある方でした。

思い返せば、私も幼いころより祖父の手伝いで畑にはよく連れていかれましたが自分が本格的に野菜やお米をつくるようになったのはまだ十数年くらいなものです。しかも仕事をしながらの隙間時間でだったので、失敗も多く、思ったようにならないことばかりでした。

今では、野菜の性質をしり、土を理解し、風や水の通し、虫や動物への対策なども体験し自然に畑をつくり収穫をしています。しかも、どうやったら美味しく食べられるかも学び、自然農家のような暮らしができるようになりました。合わせて、今では山での暮らしもはじまりもう一歩前に進めて山での暮らしを体験しています。

みんなはじめは初心者です。誰が偉いとか、誰がすごいとかではなく、あのすごい人も偉い人もみんなはじめては初心者です。それを継続していくなかで、様々な失敗や成功を繰り返し実力が磨かれ結果としてできるようになります。

初心者だからダメではなく、いつかはできるようになる人のことを初心者というのです。私も現実的には、不可能と思えるようなことをたくさん体験してきました。特にはじめてやるときは現実に直面してたじろくこともありました。

しかしそれでも周囲に支えてくれる人や、見守ってくださる方が顕れ気が付くとできるようになっていました。こうやって人は、思いがあれば仲間が集まり伝承されることで継承されていくのです。

特に土を触ることや、野菜を育てることはもう何千年も前から私たちの先祖がはじめたことを私たちは今も取り組んでいることになります。できないはずはなく、忘れているだけです。

忘れているものを取り戻すことこそ、私は真にできることであろうと思います。問題は、どのように思い出すかということです。子どもたちのためにも、思い出すことが忘れないように場を調えていきたいと思います。

自生自然

宿坊の庭をお手入れしていますが、水生植物たちを水の流れにあわせて配置しています。また石の配置や土の量も細かく調整しています。今まで単なる岩がゴロゴロと落ちていた場所に、橋を架け、石を配置します。すると、そこが一つの落ち着く場所へと様変わりしていきます。

なぜ然るべきところに配置すると心が落ち着くのか、それはそこに自然の姿を直観することができるからです。自然というものの中に、人間が入っているという安心感が落ち着くという気持ちを創造しているのです。

本来、自然というと野生という見方もあります。そこには人間が入っておらず、自然は野生のままということでここが落ち着くという具合にはすぐにはなりません。その野生の中に、人間がどのように入っていくかで人間も混じり合った野生、つまり自生自然となります。

そこでは、自然のあらゆる生態系と混淆して渾然一体になっていきます。

すると、人間が自然の中に入ることで人間と相性の善い植生や昆虫たち、あるいは菌類までが集まってくるのです。その中で心も調和するような暮らしがはじまれば、長い歳月を経て仙人がいるかのような雰囲気が出てきます。それがわびさびと言う人もいれば、懐かしいという人もいます。

いにしえから今までの間、私たちはどのような暮らしを結んできたのか、そしてどのような生き方を尊んできたのか。その原点に出会えます。それがお山での暮らしの正体です。

自生自然がはじまり、これからが本番です。

引き続き、子どもたちの未来のためにも今どのような調和が必要なのか。この場所で実験していきたいと思います。

今を生きる

今の自分に発生していることを、ちょうどよかったと思えるというのは今を生きているということでもあります。人は今から離れると、よくないと思い込んだり、良すぎるのではないかと思ったりするものです。今がもっとも今の自分に相応しいと思う中にこそ、物事を活かすヒントがあるように私は思います。

では、なぜ思えないのか。それは自己との対話に問題があるように思います。過去のことを引きずって後悔し自分を責めていたり、未来に対する疑心や不安が入ってきたり、感情が心の眼を曇らせていくものです。本来、心の眼というものは素直であり、あるがままのことが観えるものです。そこに感情が入ってくると、見たくないものは避けようとするし、見たいものしか見ないという欲望が邪魔をしたりして真実が観えなくなります。

感情がピークに達すれば、脳が過剰反応してショートしてしまうものです。脳は、心と感情の調整をしていますからバランスを保てずに病んでしまうこともあります。本来、素直さというのは心と感情がどちらも今に集中するときに行われるように思います。

今、感じたことを心もあるがままに観ている。それがいいかわるいかなどではなく、あるがままにそのままに許される。そのようなとき、心も感情も健やかになります。もっとシンプルに言えば、体験することを素直に喜び味わう状態になっているということです。この喜び味わうというのは、感謝できる境地であるということです。

日々に感謝で生きる人は、今ここに素直に人生を味わっている人のように思います。しかしそれも簡単にはできることではないから、魂の修行、内省の実践を続けて、自己との調和を通して自己を磨いて修養していくということでしょう。

感情が嫌だといいながらも、心はやりたがっていたり、心は嫌だと思っても感情が先に動いていたり、好奇心というのはやっかいなものですがその好奇心があるから人は体験を優先していけるように思います。

時代が変わっても、人の本質は何も変わりません。AIが出てきても、人間は変わらないのです。変わらないからこそ、何が変わるのかを善く見つめ、今を大切に過ごしていきたいと思います。

憧れる生き方

子どもの憧れる社会の一つに、仕事観というものがあります。将来、自分は何をして生きていくか、それが自分の仕合せや喜びにどうつながっていくのかということをわくわくと取り組める社会のことです。

日本は、義務感や責任感が仕事をすることの基本として教えていてあまり楽しそうにしていたり、自由に働いていることを良いことのようには教えません。特に学校というところもハードな仕事で残業もなく、精神疾患などが増えているということもよくニュースで流れています。

本来、憧れる職業の上位にあったものが今ではハードワークの代名詞のようになり担い手も減り、子どもたちもその仕事を夢とはしなくなりました。子どもたちにキャリア教育を指導することも大切かもしれませんが、本来は自分たちがどれくらい豊かに幸せに楽しく働いているか、そんな環境を調えているかということに向き合う方が先ではないかと私は感じます。

そういう私も、日本の社会のなかで目立つとすぐに色々と厳しい指摘があります。どれも有難い言葉として受け取ってはいるものの、子どもたちのこの先の行く末のことを思うと本来はもっと寛容な部分があってもいいのではないかと思うのです。

みんな勇気を出して、人と異なることをしてでも世の中のお役に立ちたいと思っているものです。しかし何か新しいこと、理解できないことをやろうとするとすぐに否定されたり、クレームが入ってきたりします。もちろん、新しいことをやるには秩序が乱れることもありますがそれでも何のためにやるのか、その初心が何か、目的がどうなのかを聴いてみるとそれはこの先の未来に必要なことだったりすることがほとんどなのです。

そういう時は、文句を先に言うのではなくどのようなフォローができるだろうか、どのように見守れるだろうかというのが大人の対応ではないかと感じるのです。子どもたちが同じようなことを挑戦し、新しいことをして世の中や社会をよくしたいと夢に挑戦するとき、自分はどちらの大人でありたいか、どうせ無理だと諦めるように促すのか、それともやったことは必ず意味があるから、フォローしたりカバーするから挑戦してみようと励ますのか。私は、これからを生きる子どもちたちが理想の社会を築いていけるように見守りたいと思うのです。

人は自分が仕合せでなければ、人の仕合せを喜べません。まずは自分自身の幸福、仕合せを感謝で磨いて高めていかなければ他人の成功や成長を支援できないように思うのです。

だからこそ、このいま、この瞬間を大切に夢を生き、夢を味わい、苦労ができる有難さや挑戦させていただける喜びに感謝していくことからが子どもの見本になるように思います。

まず正しいことを教えるよりも、喜びを感じてもらうことの方が生き方は換わるものです。引き続き、子どもたちの未来のためにも自分の生き方で力になれるように精進していきたいと思います。