場の伝承

むかしの遺跡に巡り会うとそこには色々な人たちの思いが結ばれている痕跡があります。かつての人がどんな思いを持ってその場に関わったのか、そこには物語があり歴史があります。

静かに思いをその場所に佇み、巡らせているとその場所から聴こえてくる音があります。この音こそ思いの本体であり、その音を聴くことによって人々は心が結ばれ調和していくようにも思います。

この音とは、物語でありその物語をどのような心境で聴いたかという生き方が顕現したものです。私たちは生きていると、手触り感というものを感じます。体がある感覚であり、それを触れるという感触です。いのちはこの感覚を通して生きていることの実感を得られます。物語というのは、まさにその感覚の集合体でありその物語に触れるときに人は感覚が目覚めるともいえます。

遺跡というものは、触れることによって目覚めていきます。教科書や本に書いているものをみても伝わってはきません。その場所にいき、お手入れをしてこそ感じられるものです。

そもそも修養するということや、修行をするというのもその場所によって磨かれるものです。その場所とご縁を結び、その場所から感得したものを共感し伝承していくなかで顕在化していきます。

その感性は、五感や第六感と呼ばれるものによって得られており知識ではなく知恵であることは自明の理です。

本来のあるべき姿、人々が何千年も前からどのように様々な知恵を伝承してきたか。その仕組みは、知恵を知恵のままに感受するものです。

子どもたちの未来のためにも、本来の伝道や伝承が知識にならないように実践を継承していきたいと思います。

いつまでもご縁

人生は出会いと別れの連続で存在しています。生まれる前から出会いが始まり、死んでも別れは終わりません。常にご縁に生き、ご縁に死に、生死をめぐるご縁というものがあるだけです。そのご縁は、いろいろな理由をつけては関係性が結ばれますがある時には親子になり、またある時には夫婦になり、またある時には敵味方に分かれていきます。

その関係の中で、お互いに生き方を重ねながら学びあっていきます。学びあうというのは、成長しあうということでもあり一緒にご縁を磨きあっていのちを分け合っていきます。

このいのちの分け合いというのはご縁の本体でもあります。どのようにお互いのいのちを分けたのか、分け合ってきた歴史こそご縁の軌跡でもあります。その分け合ったいのちが、次の何のいのちに結ばれていくのか。それは出会い別れを繰り返しながらかたちを変えては循環していきます。このいのちの循環こそが、ご縁の素晴らしさであり奇跡です。

この今も、私たちは何かを食べ、そして飲み、空気を吸って吐いてはいのちを保っています。これも何かのご縁でそうなっていて、また私たちはそのいのちを分け合い新たないのちに甦生させています。

そもそも甦生というのは、いのちが循環することをいいます。私はいのちとしてそのものを感受し、そのいのちを新たないのちとして結び直すことを意識して暮らしを紡いでいます。本来、自然がわかるというのはこのいのちの道理や仕組みのままで存在しているということであり人間はそのとき、真の仕合せに気付けるように思います。

そしてそれを私は徳を積むとも定義しています。もともと存在するもの、そのいのちに感謝して新たないのちのご縁でいる。

いつまでもご縁であると思えば、この今のご縁を深く味わうことこそが人生の醍醐味であることに気づきます。子どもたちとのいのちのご縁がどうなっていくのか、とても楽しみです。

形骸化と初心

人は自分で考えなくなると形にこだわっていくものです。形を残していくことばかりに囚われると、本質や根源的なものが形骸化していくものです。この形骸化という意味は、誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして形ばかりのものになってしまうことをいいます。

なぜこうなるのかということです。

人は常に初心という何のためということ、つまり目的や意味、その本質を思い出すことによって原点回帰が必要になります。最初がどうだったかのかを思い出すということです。論語の大学にも、「物に本末あり、事に終始あり。先後する所を知れば、則ち道に近し」とあります。常に物事には本末があり、それが結ばれている、繋がっている、言い換えれば物語があり存在するのです。

その物語を結び繋がっている人は形骸化することはありません。問題は、繋がっていたものを忘れ、結ばれていたものを切ってしまうことで初心が失われてしまうことです。

人間の体や脳みそは同じことを繰り返すことを自動で行うことができます。人間の体の構造のように、自律神経が働き色々と内臓や血液、心臓などそれぞれに指示して活動しています。人は忙しくてもなんとかなるのは、それだけ自動化されたことが勝手にやってくれているからです。これは日常生活の中でも同様です。忙しくてもなんとか生活ができるのは、自動化されているからです。

自動化の御蔭で大量の業務をこなせるので、確かに便利で有難い能力の一つです。しかし忙しいという字を書くように、心があまりにも多忙になると心はその忙しさに対してついていくことができません、すると、大量のことに対して心が処理ができず形だけになっていくのです。本来のカタチというのは、心と頭、感覚がすべて統合したものです。そこには今というものに、心も現実もすべてが繋がり結ばれている状態です。頭で処理してしまえば、それは本当の自然ではありません。自然というのは、一物全体、一心同体の状態でもあります。

便利にしていくというのは、心を使わなくてもいいということになってしまうと本末転倒するのは明らかです。心というのは、繋がりや結びつきのところでありいのちの本体でもあります。そのいのちを使う喜びや仕合せが私たちの生きる意味でもあります。

形骸化しないためにも、私は暮らしを調える必要を感じて暮らしフルネスを実践しています。

子どもたちがずっと数百年先も、幸福や真の豊かさを味わえる場を結べるように初心を忘れない取り組みや内省を磨いていきたいと思います。

龍の徳

今朝がた、龍の夢を観ました。この龍は、想像上の生き物ですから私は実物は見たことがありません。なので夢の中の龍も水だけです。よく水墨画やアニメなどに描かれている蛇やワニのような姿ではなく私が観る龍はいつもその活動の余韻の方です。

例えば、今朝がたであれば龍が深い水の淵に潜んでいて水面に落ちたものを深く静かにゆっくりと吞み込んでいきます。すると、水が動き始め滑らかに緩やかに滑るように大きな揺らぎや流れをつくります。その水の流れ方が、まるで蛇のように蛇行しそしてぞっとするような静けさと佇まいを放ちます。まるで、とても大きなものが動いたような水の動きです。その時、私はそこに龍が潜んでいるのを直観するというものです。これは夢ですが、似たような経験を何度も深い池の淵や山間の溜池、大きな川の深いところで感じたことがあります。

この龍というのは、水の化身のようなものです。この時機は、七十二候では雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)に入ります。これは春雷のことです。この春雷を呼ぶのは何か、それは龍であるといわれます。

秋の終わり頃から冬の間、深い淵に潜んでいた龍が雲の上へとあがっていきます。春霞のうちにきっと天に昇ったのでしょう。そして雲の上で活動をし、雷をつくるのです、この雷は稲を助け、田んぼに豊作の兆しを導きます。そして田んぼを見守り秋になると、雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)となってまた水中に帰ってきます。

この水の運行をむかしの人たちは龍と呼んだようにも思います。水のカタチは一つではありません。雨だけでも千差万別の様相があり、霧や霞、そして川の流れ、滝、海に至るまでその姿は微細なものからダイナミックなものまであらゆる姿に変化していきます。

まさにその姿こそ龍の本体であり、その本体を人が直観するとき龍を観たとなったのではないかと私は思うのです。人間の身体も水が流れていますし、すべてのいのちは水が橋渡しをして結んでいきます。

4月1日ですから、エイプリルフールでもあるので今朝龍を観たといってもみんな笑って聞いてくれると思います。みんなの龍はどのような龍なのか、それぞれの龍をもつ人たちがその水の徳に感謝して偉大な龍の流れを味わっていけたらいいなと思います。

この日本に産まれ育ったこと、そして新たな一日になることに感謝しています。

初心伝承の人生

誕生日を迎え、多くの友人たちからお祝いのメッセージをいただきました。思い返せば、あっという間にこの歳まで過ごしてきました。日にちでいえば、赤ちゃんとして外の世界に出てきてから17194日目になります。また今日もその日に一日を積み重ねていきます。あと何日、この世で体験できるのか。そう思うと、貴重な日々を過ごしていることを思い大切にしたいと願うようになります。

誕生日というのは、そういう日々を過ごす原点を思い出しこれまでの日々に感謝する日かもしれません。どの一日も、よく考えてみたら当たり前の一日ではなく尊い日々です。

その時々の人と出会い、語り、何かを共にする。いのちを使い、いのちを守るために、他のいのちをいただいて暮らしを紡いでいく。どの日々もつながっていないものはなく、どの日々も結ばれていないものはない。

一日一日をリセットしているようで、それはリセットではなく新たな一日をさらに新しく体験させていただいているということになります。そして身体も衰え、次第に死に向かっていきます。死を想う時、この今が如何にかけがえのない一日かは誰でもわかります。

一日を何に使って生きるのか、自分のすべての日にちをどんなことに懸けて生きるのか。

有難い一日にかけがえのない喜びを感じているとき、人は仕合せに回帰します。どのような一日であったとしても、その一日は二度と戻ってこない一日。一期一会だからこそ、生き方を見つめ、生き方からいのちを発して光を放っていきたいと思います。

我が初心伝承の人生。

残りの日数で、できる限り真心で尽力していく覚悟です。

徳の道

天道と人道というものがあります。天の運行に対して、人の定めともいうのかもしれません。その中心にあるものは徳です。そしてその徳の循環を道とも呼びました。この道徳というものは、すべての根源でもあります。そして天と人を結んでいるもの、それを道徳と経済ともいいました。

本来、自然の循環と一緒一体になりながらその中でどのように私たちは暮らしてきたのか。自然の利子をいただいて、その分だけを有難くいただき足るを知り倹約をしてその豊かさの真実を観るというのが徳の道に入る原点かもしれません。

私は幸運なことに、自然のいのちが喜び合う風景を何度も観る機会をいただいています。すべてが喜びあう世界は、とても調和しそこには徳が満ち溢れています。羅網のような結び合いとつながりの世界です。

本来、むかしの人は目の前の小さなご縁が宇宙全体に結ばれているのを直観していたのではないかと思います。夜空の星をみては、その星の結びつきを感じる。そして身近な小さな植物の変化で気候の全体を直観する。それくらい私たちは身近なものの徳を感じ、その徳が循環するなかで如何に日々を暮らしていくかを考えていたのです。

本来、経済という言葉は経世済民であり世の中を自然になるように修養することです。自然であるというは、自然の循環を邪魔せず如何に調えるかということです。山が調和して神聖であるように私たちの先祖は自然の調律を丹誠を籠めて感謝し調和させていた暮らしをしていたように思います。

現代は、なんでも人間の都合を優先し効率第一で画一化、均一化したことでその循環は見事に破壊されていきました。その結果として、徳が失われていきました。この徳というのは、日々の小さな心がけがもっとも効果があります。そしてそれは自分のいのちを調え、健康に仕合せに生きるためにも必要なことです。

未病と言って、病気を未然に防ぐにも日ごろの暮らしをととのえていくのが一番であるように徳もまた得だけを回す車輪にならないように徳と得の両輪を丁寧に回していく必要があります。

その両輪が走るところは道です。その道は、元々あった普遍的な道があります。その道が逸れてしまいそうなら軌道修正してまた元の道に戻る必要があります。そうやって今も私たちは歴史を創っているからです。

先人の人たちの歩んできた道を尊敬し、子孫たちのための道を尊重する。そのために今の私たちはどのような道を歩んでいるのかを反省し改善する。この繰り返しで、徳は醸成されていきました。徳の道を精進していきたいと思います。

人間らしさ

人間らしさとは何か、それは感性を磨くことで顕れるように思います。もともとの姿が最初にあって、それが次第にわからなくなってくる。その分からなくなってきたものを思い出すためにも私たちは原点を学びます。その原点の中に、真の人間らしさがあるように思います。

例えば、私たちの五感や六感という感覚があります。この感覚は、頭ではわからず体験を通して実感するものです。体験というのは、全身全霊で感じるということです。それをしているうちに、自分がどういうものであるのか感じているさなかに驚きと共に実感できるものです。そこには心がありいのちがあり、繋がりなどもあります。

言語化するというのは、ある意味この体験を形式知にして分類分けするものです。そうなると体験そのもののままでないため、人間らしさというものから遠ざかっていきます。

私たちの身体的感覚というのはとても正直で他の動植物や昆虫のように本能のままに存在します。私たちは手を使いますが、この手もまたなぜこのように動くのか、そしてその手をどのようなことに使うのかでその人の人間性をはじめ人間らしさとなるのです。

自分の根源的なもの、その原点のようなものを人間が感じられるときにこそ人間らしさが出てくるということでしょう。

最近は、あまり感覚を使うことがなくなりそれを機械や便利な道具にさせることによって余計に人間らしさが失われてきているように思います。感覚が失われた世界が、新しい世界だとすると人間らしさはますます消失していくように思います。

AIや道具ができないこと、それは人間らしさでしょう。人間も自然の一部ですから、自然から離れずに人間の感覚を大切にして進化発展していきたいと感じます。

子どもたちにもこの体験というものを通して、人間性や人間力、人間らしさが磨けるように場をととのえていきたいと思います。

不思議さ

一昨日から長いお付き合いのあるメンターの方が場の道場に来られています。御年85歳ですが、まったく年齢を感じさせず目もキラキラとまるで10代のようです。一期一会の哲学を教えていただいてからメンターとして尊敬して、何度か生き方をみせていただきました。その御蔭で、私も将来、どのように生きていけばいいかの指針をいただきました。

メンター自身も親の介護があり、またコロナもあったのでほとんど移動もせずに生活していたこともお聴きしました。しかし、相変わらずの好奇心であらゆる体験を大切に学び、体験から得られた驚きをたくさん私にしていただきました。

この体験からの驚き、まさに好奇心ですが英語ではセンスオブワンダーともいわれます。この解釈は色々とありますが、神秘的な体験としてもいいし、五感をフル稼働して直観的に得られる体験でもいいですがそのどれもが不思議だという驚きと共にあるものです。

私たちは生きていく中で、不思議だと思う感覚や驚くことが減ってくるものです。知識が増えれば増えるほどに、経験をすればするほどに驚きは減っていきます。

私もよく文章や言葉で伝えることも多いのですが、不思議さが観えない人たちはよくだいたい分かったという言い方をします。何がだいたい分かったのかもよくわかりませんが、そのだいたい分かったという言葉が不思議な言葉だなと感じることもあります。

そもそも不思議なことを不思議なままに理解するというのは、純粋な心が必要です。まるで子どもが最初にこの世の自然の道理や現象に触れた時のように驚きの連続です。

冷たいものを触って冷たいと感じる、誰かに声をかけられて耳に音が入ってくる、そして目に映像がうつってくる、そんな驚き、不思議さに触れた感動です。

そういう感動をいつまでも忘れないことは、私たちがいつまでも瑞々しい感性で神秘や不思議を追い求める子どものような心を持っているということでもあります。

私は子ども第一義を理念に、子どもに遺したい憧れた生き方や働き方、あるいは子孫への徳を伝承したいと思っていますからこのメンターの実践は尊敬し私もそうありたいと思うものです。

一期一会に生きるというのは、不思議さや神秘性、そしてご縁を結んでいく生き方です。いつも有難い邂逅とご縁に感謝しています。これからも驚きを味わい、豊かで仕合せなご縁を結んでいきたいと思います。

供養の心

昨日は、郷里の落雁を製造する友人のところで落雁づくりをみんなで体験してきました。米粉に砂糖、あとは水を混ぜ合わせ、菓子型にいれて固めてから取り出し乾燥させるというシンプルな手仕事です。

しかしシンプルな手仕事はとても奥が深く、味わいがあるものでした。落雁のことはこのブログでも以前書きましたが、日本古来からある伝統の和菓子です。お寺にはきってもきれない関係があり今も大切にされています。

現代は、見た目が落雁である落雁風のものも増えています。本来は、砂糖がなかった古代において甘いものというのは大変貴重で高価なものです。それをまず仏様にお供えするという心が落雁には宿っています。

このお供えというのは、感謝の気持ちそのものを伝えるものです。今の自分があるのは、その前の有難い何かをいただいたことからはじまっている。そのものに深く感謝をする気持ちがお供えをする心でもあります。

亡くなった人や、もう随分前にお世話になった人にはそこでお会いすることも直接感謝することも物理的にはできません。だからこそ、心を伝え、心で接するようになるのだと思います。

心で接する時、心は体と一体ですから心を籠めて手仕事をすればそのものに心が宿るのです。心は宿ったものをお供えすればその心は、感謝というものに転換され届けることができるのです。

お供えものをお供えする側の心の中に、相手の心もあります。心というのは通じ合うことで伝わりますから、自分の心が通じ合うように調えることはとても大切なことだと私は思います。

宿坊で、供養の心を伝えていこうと考えていましたが落雁はとてもいい体験になるように思います。子どもたちに、先人たちの心、そして今を生きる私たちが大切にしていきたい心を伝えていきたいと思います。

子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。