カグヤの由来

カグヤという会社の名前はかぐや姫から名付けられています。これは1000年前も今と変わらず語り継がれるような物語を子どもたちに譲り遺していこうと名付けたものです。歴史や物語には、普遍的な本質がありそれが子どもたちの心に深く響きます。自然の篩にかけられて遺ってきた物語には時代を超えた生き方があるものです。その生き方を遺し、それをつなぎ、甦生するというのは偉大な経糸や縦軸の伝承になります。

このカグヤの「かぐ」というのは、古語では光を意味したともいわれます。「かげ」という字も光を意味していて、月影や星影といったように影とはその光の余韻や陰影に映る光全体の様子を顕現したものです。そして火の神様をカグツチと呼び、天の香久山もカグヤマというのはこれも光を顕しています。

ちょうど昨日、天の香久山の歌枕を郷里の香春神社で詠みましたが、近くに銅鏡をつくる場所があり山頂で儀式をして古代には白い光を放ったいたことが想像できました。光を集めて、光を放つというのはある意味今もリーダーの役割であり心の明かりを燈す大切な古来からの徳の生き方です。

私は元々この世に存在したものを徳と呼びます。そしてこの光というものもまた徳の側面です。光はいつからあるのか、それは初めからあります。つまり初心です。その初心を思い出し、その光に感謝すること。これを御蔭様ともいい、御光様ともいいます。

この光の生き方とは何か、それは古代の人たちがしてきた生き方を今も自然に行うことです。私にとっては、鞍馬寺での信楽香仁さまがその一つの憧れた生き方であり御光様そのものでした。いつも天にお任せしてお気楽に極楽でいる生き方。暗闇すらもぬくもりにし、日々のお山の空気そのものに喜びと仕合せを感じておられました。

私たちは初心を忘れています。

改めて、カグヤという名前、そしてカゲという在り方。かんながらの道を邁進していきたいと思います。

実験の醍醐味

血の巡りというものがあります。「血が巡っている」と最初に言った医師はウイリアム・ハーベイというイギリス人医師だといいます。今では当たり前ですが、その当時は結歴は抹消に流れるとそこで消えると信じられていました。心臓に戻ってこず、一方通行で送るだけで消費されるという概念でした。それを実験と観察を通して、血が巡っていることを突き止めたのです。他にもこの医師は生理学に貢献します。それまでは血液が固まって胎児ができると信じられていましたが、動物は卵という共通の源基によって形成されることを突き止めました。

この医師が突き止める手法すべては「実験」にとって行われました。この実験というのは古来より最も大切で、それまで固定概念や常識、思い込みを取り払うことではじめて本質的な観察がはじまります。正解を疑うというより、本当のことを知りたいという純粋無垢な心からです。これらの本質的な実験をする人は真摯に真理を探究する人ですから、観察も洞察も磨かれていくのです。少しでも楽をしそういうものだからと決めつけ当たり前や常識を鵜呑みにするというのは、それ自体が本当の間違いに繋がっていきます。刷り込みのない知性は、子どもの好奇心と同じなのです。

世の中を純粋無垢に観ることではじめて私たちはこの自然の摂理や宇宙の真理に触れていくことができるように思います。そのためには自分を信じ、常識を忘れて実験していくしかありません。私が日々に取り組む実践もまた、実験のようなものです。

この血の巡りでいえば、私たちは人間の動力は水と火でいのちを形成しています。水が固まり、熱を与えれば沸騰する。この簡単な原理ですが、私たちはこれを使って循環をして生命を保っています。すべての内臓や機能は、この血の巡りによって活動しそして入りと出を繰り返しながら循環を保ちます。

水を細かく分析すると、結晶化しますがそこに結晶化潜熱が発生することが現代科学で実験されています。水は熱を放ちながら変化するということですが、これは水が火と一体で活動することを意味するように私は思います。

朝起きたら太陽がでて、そして夜になります。その間、空気をはじめ地面、地球、あらゆるものは熱を移動させていきます。その熱の移動と共に水も火も循環しています。巡り続けているのです。この巡りこそ熱の正体であろうと私は思います。私たちは変化するとき、必ず熱を発します。熱を発するということは、それだけ水と火が和合して変化を繰り返すのです。

目には観えませんが、心魂を燃やしたり、感動して震えたりすることで熱量は放たれます。すると、心臓のようにそのものが巡りはじめるのです。私たちの成長というものは、この最初の巡りからはじまります。そして巡りをやめて固まります。

温冷によって自律神経がととのっていくのもこの原理のように思います。この時機は、三寒四温といって春に入り次第に気温が温冷を繰り返してととのっていきます。すべてのいのち、生命たちもまたこの変化の熱によって目覚めていきます。

もっとも原始的な感覚を通してこの世を観察し、実験を繰り返していきたいと思います。

 

いのちを分け合う

自然というのはいのちを分け合いながら存在しています。一つとしてつながりのないものはなく、ありとあらゆるものは結ばれ共に存在しています。畑の野菜も烏骨鶏の卵もつながりのなかで分け合いいのちを結びます。

産まれる前から分け合い育て合うというのは、私たちのいのちの営みでした。この分け合うという安心感は、生き延びてきた知恵を生きる安心感でもあります。

私は伝統固定種の伝統高菜の種をもって野菜を育てその種を自家採取しています。同時に木樽で老舗漬物で養われてきた漬物の菌を育て守り漬け続けています。これはむかしから今も変わらず生き続けているいのちの一部です。そして今の私はむかしの人たちと同じことを続けていのちを分け合い一緒に生きています。

この分け合い生きるつながりというものこそ伝統の正体でもあり、私たちが伝承している証拠でもあります。この分け合うことは助け合うことですが、それによってお互いの寿命を延ばしてきたのです。特に相性の良いものが一緒に生きればそれだけこの世で長く健康に生きられたということです。

この健康な状態というのは、ただ身体が病気ではないという意味ではありません。心身の健康であり、心も体も安らかに穏やかに長生きをするということです。そのためには、何を食べるのか、そしてどういう暮らしをするのかというのはとても大切なことです。

その人がいのちを結ぶ土地には、それぞれの風土の異なりがあり助け合いや分け合いのつながり方も結び方も多様なものがあります。今では職業分類になっていますが、むかしはその風土とどう共生したかということをその土地の文化と共に学んだのでしょう。

現代は、全ての場所を都市化して便利に工業化して集めたものを利用して土地や風土の関係もあまりありませんが本当はその暮らし方や生き方、そして食べ方の中にいのちのつながりを結び合うことで寿命が延びるように思います。

その土地のいのちをいただくというのは本当は非常に有難いことです。ここで暮らしているいのちをみんなで充実させていく。そこに仕合せもあります。この種と菌は、まるで家族のようです。

子どもたちにもこの暮らし方、生き方、いのちの在り方などを伝承していきたいと思います。

 

そのものの味わい

そのものの味わいというものがあります。この味わいというのは感覚ですが、言葉にできるものではありません。一般的には、料理などでも味わっていますが私たちの感じる味わいにはただ舌先だけで感じているものではありません。

ありとあらゆるものを味わうことができるのです。それは複雑な味わいであり、奥深さがあるものです。ではそのものの味わいとは何かということです。

昨日、伝統野菜の堀池高菜を井戸水を汲み上げ炭火で沸騰させずに3時間ほどゆっくりと煮込みました。そのスープの中には、堀池高菜のそのものの味わいがすべてとけだしていました。水や火、そして古い鉄鍋などはそのものの素材の味を引き出していきます。

極力、自然にそのものの味を邪魔しないようにしてくれるのが水で火です。私たちはそのものを感じることで、いのちの中にある何かとつながりその味を引き出してきます。つまり照合するように、同一化するように、一体化するように元々の味にたどり着きます。

私たちはこの味というのをいつ知ったのか、それは産まれる前からもっています。つまり味は徳の正体でもあります。私たちが味わえなくなったらどうなるか、それはこの地上の楽園に来た甲斐を失ってしまうものです。味覚でなくても、私たちは全身全霊で生きていること、魂を磨いていく味を感知します。味わいというのは、人生の醍醐味でもありこの世を感知するための大切な手段です。

そのものの味わいがわかるというのは、それだけシンプルに完成された味を自分も持っているということでもあります。みんながそのものの味わいの中にいることはまさに平和であり調和です。

暮らしフルネスは徳を顕現させ、徳に気づくことで仕合せの道を拓いていく一つの方法です。子どもたちのためにも、その初心を伝承していきたいと思います。

聴福人の境地

私が庵主をする聴福庵の実践は、文字通り聴くことです。この聴くというのは、何を聴くのか。そこに生き方があり、場が醸成されています。来られたことがある人は、その意味を理解して皆さんとても感動されます。また一緒に過ごした人たちは、その生き方や取り組みに感化されて変化していきます。

人は聴くことがあって先に、話す言葉が出てきます。言葉が出たのではなく、いのちが声を聴いたから言葉が顕れたということになります。

日々の天候も気候も変化は已みません。同時に何百年も前、もしくは数千年も生きているような心が入ったものはいのちの声を放ち続けています。そういう声を聴ける他人と、何も聞こえない人がいます。

人間の耳は、雑音を遮断する機能が脳についています。都会にいけば最初うるさいと思っていた音が次第に聞こえなくなります。深山のさらに奥深いところにいけば、雑音などはありません。あるいは、冬の高い場所の雪山であったり、洞窟の中なども同様に雑音などありません。静けさのなかに、聴こえてくる音があるのです。

私たちは心を鎮め、いのちの静けさに気づけば耳が働き声が聴こえてきます。どの境地で物事や出来事、そして今を聴くかはその人の心やいのちの状態が重要になります。

暮らしというものは、日々にどのように心の声を聴いているか、いのちを活かしているか、徳を磨いているかということが試されます。暮らしフルネスというものは、そういう生き方や暮らし方の実践の集大成でありそれが自然体やかんながらの道というものともつながっています。

聞きたくないものは感情の中にもあります、そして心の声も内省をどれだけ謙虚に素直に取り組むかでも変わってきます。西郷隆盛は敬天愛人とも言いましたし、吉田松陰や孟子は、至誠通天ともいいました。

聴福人とは、そういう境地に達した人物ということです。

これからも私の天命を確認しながら、丁寧に誠実に取り組んでいきたいと思います。

懐かしい未来

懐かしい未来という言葉があります。この懐かしいというものは、むかしから今も続いているものです。そして未来とは今のことです。今の連続こそが未来そのものになるからです。

本来、むかしにどのようなことが行われていたのか。時間という概念のなかでは過去のことはほとんど覚えていないということになります。しかし時間という概念がないとするのなら、過去のことは今であり今があるというのは過去はないということになります。そうなると今はむかし、むかしは今となります。

つまりは過去がないのだから、今こそまさにむかしそのものを象っているということになるのです。

そういう意味で、神事というものは過去のものではありません。今のものであり、今もむかしと同じことを続けているだけということになります。

私は時間軸でいえば1000年前も100年前のことも覚えてはいません。しかし、そのころに同じ心で同じように場を設け、みんなで一緒に味わっていたであろうことは思い出します。それは今の心から思い出します。過去への推測ではなく、今感じているものに歴史やその当時の人々の心を直観するのです。

私たちは過ぎ去ったものを歴史と呼びます。しかし本当にそうでしょうか、この大きな勘違いと常識によって今というものがわからなくなります。今を生き切る、今にいるということの大切さは本当の自分たちを知り、本来の未来を実現するということです。

懐かしい未来というものは、そういうものであり私が実践で取り組んでいる暮らしフルネスもまた同様にこの今、此処に真心を籠めて生きることでもあります。それは私のいる「場」に来ればすぐに学べ伝わります。

子どもたちに懐かしい未来のままで喜びや仕合せの初心を伝承できるようにこれからも精進していきます。

永遠の今

本日は、妙見神社(ブロックチェーン神社)の4回目の例大祭です。この日は、この神社創建の日であり一年で最もハレの日として盛大に御祭りをしています。ここの神社にご縁ある方、いつも見守っていただいていると感じる方々と共に神様を喜ばせるような清々しい一日を過ごしています。

よく考えてみると、一人の人から祈りがはじまりそれが長い歳月を経て多くの人々が祈る場所になります。この世のすべての神社や仏閣もまた、同様にはじめは一人からはじまったものです。

今では当たり前にどこの神社でも寺院でも参拝できますが、むかしはそこには何もありませんでした。そこに一人の人物が覚悟を定め祈りはじめそこから祈りは広がり子孫をはじめ今も祈りは続いています。

この祈りこそバトンの正体であり、その祈りを通じて私たちは大切な初心を伝承するのです。この祈りとは、まさに行そのものであり今でも実践を通して太古の人々、親祖と呼ばれるはじまりの先祖の真心に触れることができます。

私はご縁があって神社創建の機会をいただき、むかし人がどのような気持ちで信仰をはじめようとしたかも体験させていただきました。ずっと永遠を願い祈ることは、永遠の平和と仕合せをいのることでもあります。

ここは秩父神社から八意思兼神、妙見神社から闇雄神の御霊に御鎮座いただいています。智慧を司る神様と水を司る神様です。不思議なことですが、同じ想いで繋がっていくからかその祈りと共に歩む方々ばかりがこの場に来ていただき一緒にお祈りや御祭りをするようになりました。

今でも私たちは歴史の中にいて、むかしからずっと今にして祈りを続けています。連綿と永遠に道は続くのです。

その大切な日を忘れないことはハレの日を常に甦生し迎え続ける目出度い真心の養生です。みんなで喜び合い仕合せを感じることこそが、この例大祭の本質ではないかと感じます。

永遠の今を味わい、一期一会の喜びに感謝していきたいと思います。

季節の巡り

明日は、節分でいよいよ2月4日は立春です。二十四節気もここからはじまります。私は自然暦というものを直観して暮らしをするのでこの時機は自分の季節感覚を初心に戻す大切な期間としています。

二十四節気は季節を感じるのにとてもよく、自然が今どうなっているのかを意識的に観察できます。ちょうどこの立春までの間はは最も寒さが厳しい大寒というもの。そして立春の期間を過ぎれば天候は雪から雨へと変わり雪解け水が大地を潤す頃という意味の雨水になります。すでに三寒四温が繰り返され、朝晩の霜も降りず大地は次第に水気を帯びてきています。

春というのは、すべての生き物たちが夏に向けて準備をはじめていきます。5月の節分を迎える初夏のころには新芽が旺盛で一斉にすべての生き物たちが子孫繁栄のための成長を開始します。春は、まさに長く厳しい冬を超えたいのちが福をいただきお目出度い心のままに目覚めるのです。

私の家の近くでも野良猫たちが騒ぎだし、池の畔の鳥たちも賑やかです。

気が付かないだけで周囲はみんなそれぞれの役割や役目に集中しています。本来、人間は他人のことばかりに時間を使わずに自分自身に集中していく必要があるように思います。自然、野性の生き物たちは、自分自身の直観に正直で素直です。

その季節季節の巡りに対しても今、どうあるかを直観で判断して行動しています。そんなに頭でっかちに考えていることなどはありません。頭は悪くても、行動力と直観力があるのが野生です。

今年は野生の勘というもの、自然の直観というものをどれだけ優先できるか。それをさらに磨く一年にしていきます。英彦山とも再会し、歴史とも出会い直し、修験道や自然道も拓きました。

新しい一年を迎えるまで、心を調えてこれから掃除を味わいます。懴悔懴悔六根清浄して、また新たな道を一歩一歩開いていきたいと思います。

天命を楽しむ

天命というものを実感する人は、泰然自若として焦ることもありません。その人たちは天命を楽しみ、今に生きています。言い換えれば、天命を自覚しているということでしょう。天命というものは何か、これは中国古典に色々と記されます。一般的には、天から与えられた寿命、そして天から与えられた命令ともいわれます。

つまり天という、人間ではどうにもできない宇宙や神のような存在がありそこから命令を受け命を授かって今の自分があるという思想です。私たちもどうしようもない事実を受け容れるとき、これが天命だったという言い方もします。時間があるのなら、あるいは偶然の組み合わせでというような人知では及ばないことが発生した時に使います。

そもそも人知で及ぶ範囲というのはどこまででしょうか。目先の手が届く範囲くらいでしょう。実際には、無限の組み合わせと結びつきで今は変わり続けます。人の出会いも、また自分の呼吸も、その決断一つで変化を已みません。呼吸している間中、何か私たちは天命を感じるものです。心臓の鼓動が止まってしまえばそこまでで天命、あるいは自然災害や人災に巻き込まれてしまうのも天命ともいえます。ではどうにもならないことだから、何もしないでいいということかというとそうではありません。

この瞬間も心臓は動き、血液も流れ、生きています。どういう結果になったとしても、そこまで最善を盡すことが与えられた天命を楽しむということでしょう。

中国の易経にこういうものがあります。

「與天地相似。故不違。知周乎萬物而道濟天下。故不過。旁行而不流。樂天知命。故不憂。安土敦乎仁。故能愛。」

意訳ですが、天地はあるがままである。これはすべてにおいて自然であり真理でもある。だからこそ、私たちは天を楽しみ命を知るだから憂えることもない。天に対して地球が安心してすべての生命を真心で包むように、私たちもそうあればいいと。

あれこれ迷い惑わず、じたばたと焦らずただ日々に天地自然の真心と一体になり自分を盡することを楽しむこと。それが天命であると。

天命という言葉は、今を生き切ることにとても楽天的に感じられるものです。

最後の瞬間まで、どれだけ天命を生き切ることができたか、楽しむことができたか。それが本来の人生の妙味であり醍醐味です。

色々と世の中の流行や変化、社会の評価や人の意識や動向に影響を受けますが、実際には天命とは何の関係もありません。天命を生きるのは、豊かに仕合せに楽しく、自然が元氣で快適であるような心と一体でいることかもしれません。

今日も天命を楽しみたいと思います。

暮らしと聴く

私たちは日々の暮らしのなかで様々な季節の変化を味わいます。その味わう中で、それぞれのいのちがどのように反応しているのかを観察しています。私たちは元々、光と同じように反射や反応というものですべてを認識できるようになっています。

つまり直接的ではなく間接的に物事を認識しているということです。そう考えると、私たちが直接見ていると思っているものは直接ではなく、物体から反射しているものを観ているということです。反射は関係性でもあります。そのもの、そのご縁、そのつながりではじめて認識が可能ということです。

だからこそ、その反応したもの反射したものは何かと認識するとき間にあるものを聴く必要があるように私は思います。聴くというもの一つも反射や反応です。音がそうであるように空気やそのものとの触れたもので形成されます。音も耳や体を水や空気が響きあって認識できるのです。

私たちが分解してみているものは、本来は一つではありません。外の雪一つでも、そのほかの多くと結びつき関係をもった雪ですから雪単体などはありません。風景のなかの雪であり、空気や水と一体となった雪ですから雪単体ではないのです。音も同様に、音単体ではなくその部屋や環境によって異なりますから音単体などないのです。

だからこそ暮らしは面白いのです。

ありとあらゆる生活の中で、私たちはその様々なものをつながりの中から感得し感知し感受します。それは非常に豊かなものであり、私たちはその一部としてそこに存在します。季節であれば、美しい山の中にいて自分も山の一部としての認識になります。その山の空気も、風も光もすべては一体として認識するのです。

私が「場」というものを理解するとき、私はこの場にあるすべてのものを聴くのです。聴くからこそ調い、聴くことで私たちはその場を創造します。私が場にこだわりそこで一円対話や聴福人をするのはその理由からです。

まだ科学ではわからないことは、自然そのものの本体です。その本体は、私たちはすべての感覚で直観できるようにできています。なぜ目が見えるのか、なぜ耳が聴こえるのか、心とは何か、そういうものはすべて同様です。

子どもたちから学び、子どもに暮らしと聴くを伝承していきます。